ルカによる福音書 第8章40-56節
「十二年」

 
 今日読んだ箇所は、危篤の12歳の娘と12年間出血の止まらない女、二つの切実な物語が、重なり合うように進みます。話は死にかけの娘を持つヤイロという人が、イエス様のもとに来て願う所から始まります。41節。「会堂長」というのは、当時のユダヤ教のシナゴーグ、私たちで言う所の「礼拝堂」ですね。それを管理する立場の人のことです。誰でもなれるものではありません。信仰の家、神聖な場所ですから、ヤイロは人々からの信頼の厚い人だったのでしょう。
 
 そんな彼の娘が、死にそうになっている。急を要する出来事です。そこでヤイロは近頃、噂になっているイエスという男「彼ならきっと何とかしてくれるだろう」と思ってやって来るのです。とにかくヤイロは、必死にすがりついたことでしょう。「早く来てほしい」。そんな彼の願いを、イエス様は受け止め、ヤイロの家に向かわれます。
 
 ところが、その途中で、それを邪魔するような出来事が起こる。そこに12年出血の止まらない女が、群衆の中に紛れていたとあります。彼女もまた、イエス様の助けを必要としていました。けれども、明らかに急いでいるイエス様の足を止めるなどということまでは、できませんでした。しかし何とかして近づきたい。そこで彼女は「後ろからイエスの服の房に触れた」(44節)とあります。目の前に、立ちはだかったわけではありません。控えめに、後ろから、急ぐイエス様の迷惑にならないよう、身体に触れるのではなく、その服に触れたというのです。
 
 この女は「十二年このかた出血が止まら」(43節)ない病を抱えていました。「十二年」。「完全に」ということです。「ずっと」とか「長い期間」という意味です。「十二年間も出血」が止まらない。当時の律法の理解、レビ記15章に記されているものですが、それによると女性が出血をする。それは汚れたものだ、と考えられていました。
 
 人に近づけない。また人も彼女を避ける。更に「医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえなかった」(43節)とある。お金ももう底をついた。何にもないのです。自分の居場所も、生き甲斐も、仕事も、もしかしたら家もなかったのかもしれません。あるのは「苦しみ」だけです。それが彼女の現実でした。
 
 彼女だって、分かっているのです。あの評判のイエスに触れる。触れたからといって、どうこうなる、そんな迷信じみたこと、それが馬鹿げていることを。けれども、触れずにはいられなかった。それしかなかったのです。
 
 この行為、一見、矛盾していることのように思われるかもしれません。一方では、冷めているのです。諦めている。「どうせ触った所で、何も変わらない」と。これまで散々な12年だったのです。どの医者にかかっても駄目。しかしその一方で、もう触らずにはいられない。触るしかない。ここで駄目なら、本当に自分はもうお終いだ。そんな必死な願いがある。これが彼女にとって、最後の望みなのです。
 
 そうやって、後ろからイエス様の服に触れる。すると驚くべきことに「直ちに出血が止まった」(44節)とあります。何がどうなったのか。これはもう、神様の力が働いた、としか言いようのない、不思議な出来事です。癒された本人が、一番驚いたことでしょう。余りの事に、恐ろしくなる。
 
 その時、イエス様は「わたしに触れたのはだれか」(45節)と辺りを見渡します。「人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、『先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです』と言った」。しかしイエス様は、いいや「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」(46節)と言って立ち止まられる。
 
 これ、急いでいるヤイロからしたら、たまったもんじゃなかったと思います。早く娘の所に行ってもらいたい。「そんなことは後でもいいじゃないか」。けれどもイエス様は、足を止められるのです。私たちの救い主は、そういう御方なのです。徹底して一人と向き合われる。「こっちの方が効率的だから」とか「より多くの人の益になる」とか、そういった損得でもって、合理的に割り切る御方なんかではないのです。いちいち足を止めてくださる。そこで苦しんでいる人を、悲しんでいる人を、ほうっておけないのです。
 
 足を止め、触れた者を探すイエス様を前に「女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した」(47節)。それに対してイエス様は言われます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(48節)。
 
 「あなたの信仰があなたを救った」。考えてみれば、これ不思議な言葉です。女性は、ただ触れただけです。明らかに、イエス様の力なのです、病気が治ったのは。けれども、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と、イエス様は言われる。
 
 一体、彼女のどこを見て、そうおっしゃられたのか。「あなたの信仰」とは何か。そして「その信仰がその人を救った」とは、どういうことか。私たち、こういう言葉を聞くと、果たして自分にはそんな信仰があるか。イエス様に認めていただけるような信仰が、病が治るような信仰があるのかと思います。そしてすぐに卑下するでしょう。自分の信仰は、立派じゃない、熱心さも欠けている。そんな認めてもらえるような信仰は、自分は持ち合わせていない。
 
 けれども、そもそもイエス様は、そんなこと問題にされているのでしょうか。イエス様がお認めになった女性の信仰。彼女が特別だったのか。いいえ、そんなことはありません。もちろん、十二年間苦しんだ。その点においては、彼女が抱えていた重荷それは、私たちの想像を絶するものであったかもしれません。
 
 しかし、こと信仰の話になりますと、彼女は、ただ触れただけなのです。「この方の服にさえ触れれば何かが変わるかもしれない」その思いを持って、触れた。そこには十分な確信があったわけではありません。当然疑いもあったでしょうし、「今まで駄目だったのだから、今回もまた駄目かもしれない」という諦めもあったと思う。
 
 しかし、そういう「信仰」とは呼べないような、ただ触れるという、精一杯の求めを、イエス様は受け止め、「信仰」と呼んでくださる。そして宣言してくださるのです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(48節)。病気が治っても、彼女に対する風当たりは強かったと思います。依然として、偏見や差別があったでしょう。けれども彼女は、イエス様からの力強い御墨付、宣言をいただいてこれまでとは違った歩みを、安心の中を生き始めたに違いありません。
 
 しかしその一方で、残念な知らせが、ここで届きます。49節「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました』」。喜びの出来事の裏には、悲しみの出来事があることを私たちは忘れてはいけません。この時のヤイロの気持ちは、どんなだっただろうかと思います。
 
 結局、私たちは、どれだけイエス様が素晴らしい力をお持ちだと言っても、神様が事を成して下さると言っても、それが自分の身に起きなければ、意味がないのです。私たちは色んな証しを聞くでしょう。「神様がこんなことを私にしてくださった」とか「助けられた」「癒された」「祈りは聞かれた」といった。しかし、周りでどれだけ驚くべき出来事が起きたとしても、神様の働きが明らかになっても、自分自身がそれを体験したり、実感しないと、何にもならないのです。
 
 イエス様の力は本物だ。ヤイロだって目の前で見たのです。12年も、病に苦しんでいた女性が癒される瞬間を。確かに素晴らしい。疑いようのない事実です。けれどもそれはこの女性の話であって、ヤイロの話ではないのです。これによってヤイロの問題が解決されたわけではない。むしろ逆です。その女性の出来事があったがために、ヤイロの娘が手遅れになる。喜びの出来事の裏では、悲しみの出来事があるのです。
 
 「あの人はこうだったのに、良くなったのに、癒されたのに、どうして自分だけ…。いつも駄目な側なんだ」と、ヤイロは、まるで自分だけ外れくじを引かされた、そういう思いでいっぱいだったと思う。そして彼は、自分を責め悔やんだと思う。「無理にでも、イエス様を連れていくべきだった。なぜそれを自分はしなかったのか。そうしたら間に合っていたかもしれないのに」と。
 
 「お嬢さんは亡くなりました」。決定的な言葉です。覆しようがない。もう終わったのです。家に向かう理由がない。ところが「イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。『恐れることはない。ただ信じさない。そうすれば、娘は救われる。』」と。
 
 ちゃんと報告を聞いていたのかと思います。「死んだ」とはっきり言われているのです。それなのにイエス様はというと、「恐れることはない。ただ信じさない」とおっしゃられる。確かにイエス様は聞きました。死の報告を。誰もが、そこで立ち尽くし諦めてしまう報告を。ところがイエス様は、そこで足を止められない。「それがどうした」と言わんばかりに、ヤイロの家に向かわれるのです。
 
 家に着くと、そこから泣き声が聞こえてきます。家族や親しい人たちが集まっていたのでしょう。皆が少女の死を悲しんでいる。そこにイエス様は入っていかれ、おっしゃられる。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」(52節)。それに対してそこにいた人たちは「あざ笑った」とあります。誰もまともに取り合おうとはしない。
 
 しかし、そんな中で「イエスは娘の手を取り、『娘よ、起きなさい』と呼びかけられた。すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった」(5455節)とあります。驚くべきことが起こる。誰もが「もう駄目だ」と決めつけていたのです。人が「死ぬ」ということは、そういうことでしょう。もうどうしようもないのです。ところが、イエス様は、そこから手を取って「起きなさい」とおっしゃられる。
 
 イエス様は、生きている者だけを導く御方ではありません。生きている間だけ、私たちの主でいてくださるという御方ではない。たとえ、私たちが息を引き取ろうとも死のうとも、その手を握り続けてくださる。私たちの主で在り続けてくださる。これ何と有り難い事かと思う。そしてそこから「起きなさい」と言われるのです。人は、イエス様と出会って、イエス様に手を取ってもらって、「起きなさい」と声をかけられてようやく、本来のあるべき自分の姿を生き始めます。死んだような状態から、生きた自分の姿を取り戻すのです。
 
 私たち、病の床に伏しているような現実があります。もう起き上がることなどできないような、もう手遅れであるかのような、瀕死な状態に置かれることがある。しかし、そんな私たちの所に、私の所に、イエス・キリストはやって来るのです。そして手を取り命令なさる。「起きなさい」と。イエス様は、私たちが、倒れ込んだままでいることをお許しになりません。神様との関わりの中で、再び起き上がるように。そして「歩きだす」ように、手を取り続けてくださる。
 
 出血が12年間止まらなかった女。12歳ぐらいまでしか生きられなかった娘。それぞれの12年がありました。12年という、自分ではどうしようもない期間、動かせない現実があります。けれどもイエス様は、いずれにも13年目を用意してくださいました。主と共に生きる13年目、「安心して行きなさい」「起きなさい」その宣言のもとに生きる13年目です。私たちの力だけでは、12年がやっとでしょう。そこで終わりです。しかし、イエス・キリストに繋がる者には、13年目がある。その13年目の歩みの中に、もう私たちは置かれている。安心して行きましょう。
 
 

ルカによる福音書 第8章26-39節
「かまわずにはいられない」

 
 イエス様の一行が、ガリラヤの向こう岸にある、ゲラサ人が住む地方に行かれた時のことです。その途中で、湖が荒れるというハプニングがありました。ガリラヤとゲラサは、湖を挟んで対岸に位置しています。直線距離で50-60km。そんな遠い場所ではありません。しかし、すんなりとは行けなかった。このことはガリラヤとゲラサが、物理的な距離以上に、文化的にも精神的にも、遠かったということでしょう。交流がほとんどありませんでした。
 
 ユダヤ人というのは、今もそうですけれども、難しい所があります。「神様に選ばれた民」ということもあって、自分たちとそれ以外を分ける生活、線を引く生活を長くしてきました。ある面でそれは、自分たちの信仰を守るという意味においては、大切なことだったのかもしれません。しかし別の面では、それが仇となって、周囲との付き合い、交流を遠ざけ、そうしながら神様の救いというものを、その範囲を小さくしてしまっている所がある。
 
 しかしユダヤ人が引いたその見えない線を越えるように、イエス様は弟子たちを連れて向こう岸へ、ユダヤ人からしたら異邦の地へと赴くのです。この時、荒れたのは湖だけではありません。きっと弟子たちの心の中も、波立っていたと思う。このゲラサに行くということを通して、イエス様は弟子たちにはっきり示すのです。神様の救いは、ユダヤ人に限定したものではない。自分たちユダヤ人が、その外にいると思っている人にまで及ぶ、ということを。
 
 このことは私たちにも言えるでしょう。教会にいると、どうしてもクリスチャンとノンクリスチャンに分けてしまいます。さらに言えば教会の中でも、やれカトリックだ、プロテスタントだ。プロテスタントでもルター派だ、カルバン派だ。私たちは、色んな所に線を引くことが好きです。こっち側とあっち側。そして私たちは傲慢にも、時として思うわけです。「こっちが正しくて、あっちは間違っている」「救いはここまで」と。しかし聖書が示す神様は、そんな小さな御方ではない。神様にそんな線引きはないのです。イエス様がゲラサに行かれた。神様の救いの手、憐れみは、立場や文化、宗教まで越えて、どこまでも伸びているということです。
 
 そうやって訪れたゲラサ地方。着くなり「この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た」とあります。「この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとして」(27節)いました。ここで想像してもらいたいのですが、服を着ずに、わめき散らしている。で、こういう人、私たちならどう接するでしょうか。きっと誰だって、近くに来てほしくないと思うはずです。関わりたくない。それはイエス様の時代の人たちも同じです。病院に隔離するように、彼を墓場に追いやっていた。「もう町の中に入って来るな」「その外にいろ」。そうやって彼は鎖で繋がれ、人々から要注意人物として監視されていたのです。
 
 そんな男がイエス様のもとに近づいて来て言うのです。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ」(28節)。自分から近づいて来て「かまわないでくれ」とは、どういうことか。「それだったら来なきゃいいの」にと思います。これは悪霊の叫びです。この男の人の思い、本心は、これとは違っていたと思います。だからイエス様の所に近づいて来た。この状況を何とかして変えたい。変わりたい。あの方であれば、自分を救うことがおできになるかもしれない。必死な思いで、この人はイエス様に近づいて行ったのです。
 
 ところが、いざ対面すると、それとは違うことを、悪霊が男に言わせるのです。「かまわないでくれ」。本当は、この男自身は、かまってほしいのです。イエス様に何とかしてもらいたい。しかし悪霊が、素直にそれを言うことを許さない。「神の子イエス。こちらに来ないでくれ。あなたはあなた、わたしはわたし。別々に生きようじゃないか」。そう言って突き返そうとする。その時、イエス様はこの悪霊に「名は何というか」(30節)と聞かれます。悪霊は「レギオン」と名乗る。「レギオン」とは「大勢」を意味する言葉です。厳密に言うと、当時、6,000人で構成されていたローマ軍の一個師団の名前のことです。
 
 「レギオン」。一人の男の中に、6,000もの人が入り込んでいる。これは一体どういうことなのか。「レギオン」。それだけ大勢の人の声が、彼の中にあったのです。この男は、たくさんの声に、たえず引き回されながら生きていた。多くの声が、彼を支配していたのです。ある声が、右に行けと言えば右に、左に行けと言われれば左に行くのです。また別の声が「あーだ」「こーだ」と指図してくる。それらに引っ張りまわされながら生きなければいけない。そのことを聖書は「悪霊に取りつかれている」状態だ、と言うのです。
 
 そのような意味で、私たちもまた悪霊に取りつかれていると言えるでしょう。レギオンが住み着いている。今、自分の中に、どれだけ多くの声があるでしょうか。きっとそれらは黙っていないでしょう。「あれをしろ」「これをしろ」「こうしなきゃ駄目だ」自分に向かって、色々と指図してくる。
 
 それだけではありません。「だからお前は駄目なんだ」「祈ったって無駄だ」「神様を信じて何になる」。悪霊は、あの声、この声を使って、私たちを追い詰めにかかります。まるで、それが最もであるかのように、それが全てであるかのように語りかけてくる。それがもたらす結果は、分裂です。結局、自分で自分を裁いて、傷つけ、否定し、滅ぼすしかない。
 
 しかしイエス様は、その悪霊から、多くの声から、この男を救い出してくださるのです。そのために、わざわざやって来た。神の国とは、まったく関係のないような場所、信仰からは程遠いと思われていた異邦の地ゲラサにまで。この男を悪霊の支配から、神様の支配のもとへと取り戻すために、です。
 
 この時、悪霊どもはイエス様に敵わないと分かるや、豚の中に入る許しを願ったとあります。イエス様がお許しになると、「悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ」(33節)とあります。凄まじい光景です。マルコの方では、その豚が2000匹ほどだったとあります。それが一斉に湖になだれ込む。それだけの力を持ったものが、一人の男の中にいたのです。
 
 私たち改めて、悪霊の力を侮らない方がいい。そんな恐ろしい声が、内側にうごめいている。けれども、神の子イエス・キリストには、それをも従えてしまう力があるのです。主の一言で、それが豚へと移る。すると、さっきまで叫びまわっていた男が「服を着、正気になってイエスの足元に座って」(35節)いたとあります。
 
 イエス様の足元に座る。聞くべき方の言葉を聞く。その時、私たちはようやく自分を取り戻すんだ、正気になるんだ、と聖書は伝えています。さまざまな声に振り回される時、私たちは正気を、平静を失います。この男の人は、それまで「何回も…悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた」(29節)とありました。荒れ野を「不安」に置き換えたら、これ正に私たちの姿じゃないですか。
 
 何度も、周囲の声、自分の中にある声によって、不安へと駆り立てられる。あるいはこの所、「怒り」でも、「嫉み」でも何だっていいと思う。私たちは簡単に、神様以外の言葉に支配されては、そっちに駆り立てられる。それを中心とした生き方をし、結果、自分を駄目にしてしまっている。
 
 イエス様の足元に座る。まずは聞くべき方の言葉を聞く。正気になってイエス様のもとに座っている男の姿を見て、町の人々は「恐ろしくなった」(35節)とあります。それは当然だと思う。そこで37節「自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った」。イエス様は黙って舟に乗って、出て行こうとされます。すると38節「悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願った」。ところがイエス様は、それを許さないで、こうおっしゃられるのです。39節「自分の家に帰りなさい」。
 
 イエス様は、この男を、もといた場所へと、家族のもとへ、町の中、交わりの中へと返されるのです。「自分の家に帰りなさい」。イエス様は、「墓場」から、本来あるべき場所へと、私たちを連れ戻して下さるのです。色んな言葉に惑わされは、正気を失い、すっかり墓場を住みかとしてしまっている者を、そこから取り返して下さる。「そこがあなたの住みかじゃない」「自分の家に帰りなさい」。
 
 この御方が、私たちの為に、悪霊との戦いを、今もしてくださっている。そして勝利を収め続けてくださっている。私たちはもう「レギオン」の言いなりではありません。服を着、正気になってイエス様の足元に座る者、聞くべき方の声を聞きながら生きる者へと変えられたのです。周りの声、自分の内なる声に、耳を傾けることも大切でしょう。しかしそれは時として、私たちを破滅へと追いやります。私たちを真に生かし得る、力ある言葉、声、それはいつだって神の言葉、イエス・キリスト、ただ一つです。
 

ルカによる福音書 第2章41-52節
「少年イエス」

 
 聖書は、イエス・キリストを中心に、そのイエス様を指し示すものとして書かれました。ところが肝心の、イエス様の生涯ついての記述は、聖書全体からしますと、ごくごく限られており、そう多くはないのです。それらは4つの福音書に収められています。しかもそれらの福音書では、主に公生涯と呼ばれている部分、30歳頃から神の国を宣べ伝える働きを開始なさいますけど、そこから十字架にかかるまでの約3年の間のことが、集中的に語られています。
 
 それ以外については、例えば誕生物語は、マタイとルカだけで、マルコとヨハネは省いていますし、今日読んだ所、イエス様の少年時代に関しては、ルカの、この部分だけなのです。公生涯以外は、ほぼほぼ皆無と言っていい。ですから、イエス様がどういうふうに育たれたのかは、聖書からは分からないのです。
 
 なぜイエス様の幼少期、青年期の記述がほとんどないのか。それは聖書が、ただの伝記ではないからです。聖書は、イエス・キリストが私たちにとって、どういう存在なのか、その死と復活を中心に語ります。聖書の目的は、どこまで行ってもイエスがキリスト(メシア)である、それを証しすることであって、それ以外の部分、私たちの信仰に関係のない部分は、大胆に省くのです。
 
 けれども、今日読んだ所は、こうして唯一と言っていい、わざわざ少年時代のことが書かれている。記事として残されている。どうしてか。ここに、私たちが聴くべきことがあるからです。福音の本質を示す内容が含まれている。ここでの話自体は、難しいものではありません。イエス様が、両親に連れられてエルサレム神殿へ上った時のことです。そこで両親が、思わぬトラブルに見舞われることになる。
 
 「さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った」(4142節)と物語は始まります。過越祭にエルサレム詣でをすることは、イスラエルの人たちの一大イベントでした。ヨセフの一家も、その例外ではありません。その時期になると、ナザレの村中、親戚やらご近所さんやらと一緒に、ゾロゾロとエルサレムに上って行ったようです。
 
 毎年のことですから、子供たちからすると、遠足のような感覚だったと思います。いくつもの家族が集まって移動する。子供たちも、いつも遊んでいるメンバーと一緒ですから退屈しなかったでしょうし、親は親で、ある程度ほったらかしていても、誰かが見てくれているので安心だったと思います。
 
 そうして行ったエルサレム。今回は、イエス様が12歳になったということもあり家族にとっては特別な過越祭でした。12歳というのは、日本では元服、今で言う成人です。その歳になると、エルサレムで成人式のような儀式をし、社会人として、大人としての自覚を持たせるのです。周りもそのように扱う。正に、独り立ちする、そのような区切りの年齢です。
 
 その儀式も済み、祭りも終わって、「じゃあ帰ろう」となった時です。来たメンバーで集まり、また帰って行く。ヨハネとマリアは、当然その中にイエスもいるものだと思って歩き出します。ところが「少年イエスはエルサレムに残って」いて「両親はそれに気づかなかった」(43節)とあります。「イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のり」(44節)を行った時に、ようやくイエスがいないことに気づく。
 
 最初は両親も、簡単に考えていたかもしれません。少し捜せば見つかるだろう。別グループに紛れ込んでいるだろう。ところが見つからない。捜している内にだんだん不安になります。「大変だ、本当にいない」。両親はあちこち尋ねまわります。そうしながらエルサレムまで引き返す。
 
 この時のマリアの表情は、混乱の中で見失った子を捜す世の母親と、何も変わるところはなかったと思います。どんなに不安だったことか。で、こういう時は、良いことは想像しませんね。「何か事故に巻き込まれたのではないか」「さらわれたんじゃないか」。悪い事ばかり考えてしまう。両親は生きた心地がしなかったと思います。
 
 3日後、ふと見ると街角に人が集まっている。よくよく見ると、イエスが学者の真ん中に立って、話をしているのです。それを見た母マリアは、これまでの色んな感情が、一気に爆発して言います。「なぜこんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」(48節)。当然と言えば当然です。「どうしてこんなことをしたのか」。

 それに対して少年イエスは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(49節)と答えます。この会話、おかしいことに気づきますでしょうか。「なぜ」と母親から怒られているのに、「どうして」とイエス様は返しています。問いを問いで返している。会話になっていません。普通なら「ごめんなさい」とか「どうしてもと引き止められたんだ」とか、理由を言うでしょう。12歳にもなっているわけですから、そこに残っていた説明ができるはずです。
 
 ところが質問に対して、質問で答えている。どういうことか。ここに大事なポイントがあるように思います。私たち、マリアのように混乱する時、大切なものを見失う時、問題は相手側にある、この場合だとイエスにあると思い込みます。しかし聖書はこの出来事を通して語るのです。この問題はイエス様の側にあるんじゃなくて、その両親にあるのだと。両親の姿勢にあると。それを示そうとしている。
 
 私たちは、この時のマリアのように「どうして」と言いたくなるようなことに出会います。「なぜこんなことを言われなきゃいけないのか」「あの人に頼っていたら大丈夫だと思っていた」「わたしには家族がいる、支えてくれる人がいるから大丈夫」そう思って生きているじゃないですか。なのに裏切られる。その時「どうして」と聞きたくなります。また「あの人が」と人のせいにしたくなる。そうしながらうまくいかなかったこと、思い通りにならなかったことの原因探し、それを見つけては責め立てる。
 
 私が計画したものが、スムーズに行くはずのものが、行かないの。そういう出来事に出会う。その時、私たちは感情に任せて、怒りを爆発させます。「余計なことしやがって」「お前のせいで」と。しかし「そうじゃないだろう」と聖書は、イエス様の少年時代の物語を通して語るのです。
 
 この時イエス様は「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前」(49節)と言いました。すなわち「神様の所へ行きなさい。今迷って、今不安の中に陥れられているあなた。神様の所へ行きなさい」それを示している。子育てにしろ、仕事にせよ、周りとの付き合いにせよ、私たちは色んな所でつまずきます。思わぬことに出会う。でもその時に、私たちは、基本中の基本、神様の所へ帰るのです。あの人の責任を問うことよりも、この原因を探ることよりも、まず神様の御心を訪ねよう。神様の所へ逃げ込もう。そこにいるのがキリストなんだ。そう聖書は語ります。
 
 私たちは人生で迷い、傷つき、失い、取り乱すような出来事に出会います。そういう時に、イエス様が言われたように「父の家にいるのは当たり前」(49節)神のもとに立ち帰る。ヨセフとマリアは、必死になって人の中に、イエスを捜しました。しかしいくら人の中を捜しても見つからない。
 
 私たちも、そうしてはいないでしょうか。大切なこと、答えを人の中に捜します。私を助けてくれるのは誰、私の恨みを晴らしてくれるのはどこ。それを人の中に探している。しかしそうじゃない。神様の所へ行きなさい。どうして、そこへ行かないで、違う所を捜すのか。どれだけ人の中を捜しても、見つからないのです。私たちの答えは、そこにあるんじゃない。神の下にある。
 
 これからも日々の生活の中で、自分の至らなさを痛感したり、気が動転してしまうことがあるでしょう。安心が脅かされる。信頼が裏切られる。祈っても聞かれない。その時、私たちは、どこへ行くのでしょうか。何を捜すのでしょうか。その時に、主は言われるのです。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前」(49節)ではないか。
 
 当たり前の所に、当たり前に帰る。まずは父のもとへ、神様の所に帰ろう。そこにこそ、私たちの足場が、基盤があるのです。そうしないで人の中に、自分の安心を据える時、私たちはそれを見失います。しかしそれは人の中ではなく、神のもとに、父の家にある。ここに少年イエスの物語の中心があります。
 
 

ルカによる福音書 第2章22-40節
「それでも神殿を離れず」

 
 暦の上では、クリスマスは終わり、2020年も間もなく暮れようとしています。この時期というのは、いつも変な感じがします。クリスマスの飾りつけが素早く片づけられて、一気にお正月モードへと切り替わる。一応、私たちの教会では、飾りつけは1月まで残しますけど、心はもう年末年始に向いているのではないでしょうか。
 
 しかし聖書を読むと、クリスマスの出来事、物語には、後日談があるのです。今日読んだ箇所がそれです。ここに、ヨセフとマリアがユダヤの伝統に従い、幼子であるイエス様を連れて、エルサレムの神殿に行った時のことが記されています。そこでシメオンとアンナという二人の老人と出会うことになる。
 
 クリスマスの恵みに与かり、その喜びに生きたのは、羊飼いたちや、占星術の学者たちだけではありません。どちらかと言えば、この人たちは、特殊な環境にいた人たちです。羊飼いたちは、社会的な意味で、蔑まれ、軽んじられ、弱い立場、底辺に位置する存在であり、占星術の学者たちは、地域的な意味で、救いの外、部外者を表しています。そんな者たちにも、神様は目をかけ、御自身のもとへと招いてくださっている。そういう強烈なメッセージが、クリスマスの出来事にはあります。
 
 しかしその一方で、クリスマスは、何も特殊な環境にいる人たちだけに訪れたものではないのです。普通に生活をしている人たち、地味であっても、神殿で礼拝をささげている、そんな人たちにもクリスマスの出来事、恵みが用意されている。しかもそれが高齢になった二人、もう新しいことなど何も望めないような二人に訪れる。それが今日の物語です。
 
 ヨセフとマリアは、幼子イエスを連れて「主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるため」(24節)神殿に行った、と書かれています。これはレビ記12章に記されていることでして、日本でも「お宮参り」というものがありますが、生まれたばかりの子と共に、両親が神殿に行き、感謝の祈りをささげるということが、ユダヤでは一般的なことでした。
 
 その際、本来ならば、羊を献げる、そういうふうに決まっていたみたいですが、ヨハネとマリアは、この時、鳩を献げたようです。というのも、羊というのは、結構お金がかかるみたいで、それを買うお金がヨハネとマリアにはなかったのでしょう。そういう貧しい人たちは、代わりに鳩でもよかったそうです。その鳩を持って神殿に登る。イエス様の生まれた家が、貧乏であったことが、この事からも分かります。
 
 「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた」(25節)と聖書にあります。「この人は正しい人で信仰にあつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み」(25節)ながら、神殿で礼拝を続けている、そんな人でした。彼は祭司ではありません。一般の、どこにでもいる平信徒です。ただ「主が遣わすメシアに遭うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」(26節)。「遭うまで…死なない」とわざわざ言われているくらいですから、もうこの時、かなりの年齢だったと思われます。
 
 アンナに関しては、84歳とありますが、シメオンに関しては何も言われていません。ただ言い伝えによると、この時、シメオンは100歳を超えていたのではないか。そういうふうに言われています。いずれにせよ、高齢であったことには変わりない。
 
 彼はずっと待っていました。そんな時、見つけるのです。長い間待っていた方を。どうしてそれがシメオンには分かったのか。恐らくこの時だって、大勢の親子が神殿に来ていたと思います。鳩を献げる人たち、見るからに貧しい格好をした人たちも、たくさんいたことでしょう。その中に、イエス様も紛れていたと思う。けれどもシメオンには分かったのです。その理由を聖書は「霊に導かれて」とだけ伝えます。
 
 祈りの中で示されることがあります。祈りによらなければ分からないことがある。シメオンは祈りを通して、神様から力を得、これまで生かされてきました。もう自分からは、あちこち出向いて行くことはできない。ただ神殿だけは、礼拝からは離れないでいよう。そういう思いでいたのかもしれません。そんな彼のもとに、ヨセフとマリアに連れられてイエス様が近づいて来られる。
 
 羊飼いと占星術の学者たちは、自分たちの足で、イエス様のもとへまで行くことができました。けれども、シメオンとアンナは、高齢の故に、それが叶わなかったのでしょう。しかしそのような高齢の二人の所に、イエス様の方から出向かれる。彼らにとっていつもの場所であり、唯一の場所、神殿に入って来られるのです。
 
 私たちも、今日ここに、神様を礼拝する会堂にやって来ました。2020年前のエルサレムに、私たちは、自分の足で行くことはできません。しかし、ここにも主が訪ねて来てくださる。ここで私たちは、主とお会いできる。だから「神殿を離れないように」と聖書は語ります。天使のお告げを聞くとか、星に導かれるとか、そういう特殊な経験をすることだけが信仰じゃない。そうじゃなきゃイエス様と出会えないというのではないのです。
 
 シメオンは神殿で、幼子を腕に抱いた、とあります。神様を信じて生きるというのは、神様が送られた独り子、神様の言葉そのものであるイエス・キリストを抱くことだと聖書は伝えています。私たちにだって、それが許されている。ここで神様の言葉を受けて、それを携え、抱きながら歩むことができるのです。
 
 シメオンは幼子を抱いた時、言いました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」(29節)。不思議な言葉です。この「今こそあなたは去らせてくださいます」「去らせたまえ」。「去る」というのは、「死ぬ」ということでしょう。ザカリアは死を望んでいます。しかしこれは何も、投げやりになって、悲観的にそう言っているのではありません。むしろ逆です。「もう死んでいい」「これで、いつでも死ねる」「安心して死ねる」と歌っているのです。
 
 ここでは、クリスマスの出来事が、人生の最後、地上の命を終えることと結びつけられて語られています。クリスマスは、瑞々しい、可能性に満ちた所に訪れたものではない。もう終わりしかない。先がない。その所にやって来たのです。
 
 ですから教会では、伝統的に、この箇所を年の瀬に、その年がもう終わるという時に読むということをしてきました。終わりの時に、主を腕に抱いて、御言葉を抱えて「今こそあなたの救いを見た」と言い、「安らかに去らせてくださる」と、私たちは言うことができる。それは、この人生の最後にも、クリスマスがあるということです。
 
 シメオンとアンナのもとにも、主が来てくださいました。もう自分からは出向けない、そのような者の所へ、その腕の中に来てくださったのです。たとえ終わりの時であっても、御子を抱きかかることができる。御子を、神の言葉を抱く時、私たちは本当の意味で安らぎを得、「今こそ」と言って死ぬことができる。
 
 この福音書を書いたルカは、クリスマスの出来事を取り囲むように、三つの賛歌を配置します。マリアの賛歌(マグニフィカート)、ザカリアの賛歌(ベネディクトゥス)、そしてこのシメオンの賛歌(ヌンク・ディミティス)。イエス様が生まれる前に歌われたザカリアの賛歌は、別名「朝の祈り」と言われています。そこには「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ」と歌われています。またマリアの賛歌は「夕べの祈り」と言われています。
 
 対して、シメオンの賛歌は「夜の祈り」と言われています。キリスト者は、朝と夕べの祈りを持つだけではありません。日が暮れてなす、夜の祈りも持っている。若い人たちだけの、あるいは中高年の祈りだけではないのです。老人の祈りがある。人生の様々な労苦に対する慰めを、ようやく受け、平安を受け、主の救いを見て、安らかに祈る、夜の祈りがあるのです。
 
 シメオンの賛歌は、キリスト者にとっての夜の祈りです。たとえ最後であっても、もう終わりしかなくとも、平安の内に、安らかに祈ることができる。今こそといって死ねる。それが歌い上げられています。なぜ、そう歌えるか。御子が訪ねてきてくださったからです。この腕の中にいるからです。
 
 神殿を離れないでいましょう。礼拝にとどまり続けましょう。もう最後に思えても、先がなくとも、そして自分から出向けなくとも、ここに主なる神様が来てくださるのです。ここで私たちと出会ってくださる。夜でも、老人でも、関係ありません。主が共におられる。それがクリスマスの出来事、事実だからです。