ルカによる福音書 第7章36-50節
「帳消し」

 

ルカによる福音書 第7章24-35節
「自分に対する神の御心」

 
 「まだ若いのに」と言われるかもしれませんが、最近私は、家の鍵をよくなくします。自分で置いたのにはずなのに、どこにあるか分からない。にもかかわらず、そんな時は決まって、まず妻を疑います。「きっと余計な気をきかせて、どこかに片づけたんだろう」と。そして強めに聞くわけです。「俺の鍵どこや」。しかし妻からしたら「なんで私のせいにするの。あなたのポケットか、カバンに入っているんじゃないの」と言い返してくる。当然です。身に覚えがない、まったくのとばっちりですから。しかし、こっちは妻が犯人だと思い込んでいますから、腹を立てながら探すわけです。
 
 ところがその鍵が、自分のカバンの中から出てくる。もうその時の恥ずかしさときたら…。妻には強く言った手前、もう今更引けないのです。素直に謝ればいいのですけどね、こういう時は。しかし悪あがきをして「わざと隠したんやろ」「いけず(意地悪)しやがったな」と言ってしまう。自分が間違っていたと分かっていても、それを認められない。目の前に、自分のカバンの中に鍵が入っていたという事実を見ても、自分じゃないと言い張る往生際の悪さ。皆さんにも、そういう所ないでしょうか。
 
 そういうのを揶揄する諺に「這っても黒豆」という諺があります。何やら黒い物体が落ちている。それを見て「あれは黒豆だ」と断定する人がいる。ところがその「黒豆だ」と思っていた物が、這うように動き出す。すると誰の目にも、それは黒豆ではなく、何かの虫だということが分かるわけです。しかしそれでも、最初に「黒豆だ」と言った手前、たとえ虫だと分かっていても「黒豆だ」言い張る。自分の間違いを認めない。そんな頑固者のことを「這っても黒豆」というのです
 
 自分がどれだけ「正しい」と思っていても、事実はそれとは違う、ということがあります。事実を前にした時、事実を突きつけられる時、私たちは、どれだけ納得がいかなくても、自分が思っていたのとは違っていても、その事実を認めざるを得ません。色んな理屈並べても、言い訳重ねても、事実には勝てない。イエス様は、神様が正しいということ、多くの預言者たちの口を通して言われてきたこと、メシアを遣わし、あなたがたを救うという約束。それを、数々の事実をもって示されました。ベラベラと理屈を捏ねて、論証したのではない。
 
 ある時、牢屋に閉じ込められていたヨハネという人が、イエス様のもとに、自分の二人の弟子を遣わして聞きました。「来るべき方はあなたなのでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と。「そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられ」(21節)ました。
 
 それでイエス様は、この二人に、こうお答えになります。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は福音を告げ知らされている」(22節)。「この事実を知らせよ」と。イエス様は「そうだ、わたしこそ、お前が待っていたメシアなのだ」とか、「自分はこういう生まれで、これをしてあれをして、だからメシアなんだ」とか、そんなことは一切おっしゃられません。ただ今起こっていること。事実を伝えるようにとだけ言づける。
 
 牢の中のヨハネがそうであったように、私たちもまた、神様を信じていても、神様がイエス様を送り、私たちを捉え、救い、生かしてくださっている、そう信じていても、「他に救いがあるんじゃないか」「自分は間違っていたんじゃないか」と、ごちゃごちゃと考えては悩み、迷うことがあります。「何が正しいのか」「どこに真実があるのか」分からなくなることがある。ところが、そんな人たちに向かって、イエス様は言うのです。35節「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」と「事実を見よ」と。
 
 「知恵の正しさ」というのは、29節の「神の正しさ」それを言い換えた表現です。すなわち、神様がこれまで、多くの預言者たちの口を通して散々言って来たこと、あなたをそのままにはしておかない。必ず救う。それが実際に起こっている。事実として現れている。それは「〔わたしに〕従うすべての人」を見れば分かる、そうイエス様はおっしゃるのです。
 
 「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」この部分、同じ福音書のマタイの方では「知恵の正しさは、その働きによって証明される」(11:19)と微妙に表現が違っています。「働き」というのは、事実のことです。イエス様は「神の正しさ」「神様があなたのことを、どこまでも愛している」それは、私の働きが証明する、いや証明していると言いました。事実が証明すると。
 
 何が正しいか、何が間違いか。それはその働きが証明するのです。理屈とか、それが正統かどうかとか、そんなもん持ち出すまでもない。働きが証明する。そして、その働きの結果が、「従うすべての人」なのです。ですからマタイの方で「働き」となっているのと、ルカの方で「従うすべての人」となっているのは、言っていることは同じなんです。神の正しさ、神の知恵は、イエス・キリストの働き、すなわちそれに従う人によって証明される。
 
 では、ここで言われている「従うすべての人」とは誰のことか。それはイエス様のもとにやって来た人たち、やって来ざるを得なかった人たちのことです。そういった人たちのことを、イエス様はまた別の表現で「神の国で最も小さな者」と言っておられます。イエス様のもとには、目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病を患っている人、耳の聞こえない人が集まって来ました。また悪霊に取りつかれた人に、ならず者、人々から嫌われ、避けられるような面倒くさい人。生きづらさを抱えながら死んだような毎日を送っている者には、イエス様自らが赴いていかれた。
 
 色んな問題を抱えた、欠点だらけの人たちが、イエス様の周りにはいたのです。それは私たちも同じでしょう。イエス・キリストの体と言われる教会に、こうして集まっている。「神の国で最も小さな者」とは、他でもない私たち自身のことなのです。ところが、そのような者が、イエス様と出会い、その出会いの中で変えられていく。その限りにおいて、あのヨハネより、イエス様が「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大なものはいない」とまで賞賛なさったヨハネより偉大とされるのです。
 
 イエス様の周りにいた「神の国で最も小さな者」たちは、ただ癒されたのではありません。イエス・キリストの証人となるために癒されました。私たちもそうです。ただ生かされているのではない。イエス・キリストの証人として立てられている。「私など…」。そんな今更、謙遜ぶらなくても、そんなことは分かっています。しかし、そのどうしようもない私に、イエス様が声をかけ、共に歩み、今もその支えによって生かされている。それがイエス・キリストの「働き」なのです。
 
 つまり私たち自身が、キリストの証明書なのです。現にこうして教会につながり、生きている。その事実でもって、神の正しさを、イエス様こそ救い主であることを、私たちは証明している。目が見えるようになり、歩けるようになり、病は回復し、耳が聞こえるようになり…、自分の思うような形、完全ではないかもしれない。しかしここにいる人たちは、多かれ少なかれ、その当事者のはずです。神様の働きによっていびつではあっても生かされている。この事実こそが重要です。
 
 そしてその事実に、今一度目を向けるようにと、イエス様は語るのです。ヨハネによる福音書9章に、イエス様によって目が見えるようにされた人の話が出てきます。イエス様が唾で泥をこねて、それを盲人の目に塗り、池に行って洗うように指示なさる。その通りにすると、この盲人は見えるようになった、そんな話です。
 
 この時、見えるようになった人は大いに喜びました。ところがファリサイ派の人たちはそれを見て、「そんなわけあるか」と否定した。見えるようになった人は言います「イエスという人がそうしてくれた」と。しかしファリサイ派の人たちは言うのです。「嘘をつくな、あいつは罪人なんだ。そんなわけあるはずがない」と。
 
 目が見えるようになったという事実がありながら、それを必死になって否定する。その時、目が見えるようになった人が言うのです。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(9:25)。これほど説得力のある言葉はないでしょう。これにはさすがのファリサイ派の人たちも、何も言い返せない。だから怒るのです。目が見えるようになったという事実の前には、どんな理屈も、立派な伝統も、権威も無力なのです。
 
 今、私たちに必要なことは何でしょうか。イエス・キリストによって罪赦され、こんな私であっても生かされているという事実に立つことだと思います。どういうわけか教会に集められた私たち。欠陥だらけです。しかしその欠陥だらけの私たちを、神様が神の民として迎え、そして祝福してくださる。そのことにおいて私たちは、この世の誰よりも清らかな者として清められ、癒されている。そのことを感謝しつつ、神様が私を、このように立たせてくださっている事実に基づいて、イエス・キリストの証人として生きて行きたいと思います。
 
 

ルカによる福音書 第7章18-23節
「来るべき方」

 

 牢屋の中からイエス様のもとに、ある質問が届きます。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。これは洗礼者ヨハネと呼ばれる人から発せられた言葉です。この時ヨハネは、捕らえられ、牢に入れられていました。なぜ彼が牢に入れられていたか。その理由が、この福音書の最初の方、3章19節に記されています。「領主ヘロデは、自分の兄弟の妻へロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた」そのようにあります。「領主ヘロデ」というのは、ガリラヤ一帯を治めていた王です。その王に向かって、ヨハネは「間違っている」と指摘したのです。
 
 どうもこのヘロデという王様、自分の兄弟の奥さんを自分のものにしようと違法な結婚を、それに伴い、色んな悪いことをしていたようです。しかし王様ですから、誰も何も言えない。やりたい放題だった。歯向かえばどうなるか、皆知っていたからです。しかしヨハネは臆することなく、面と向かって言うのです。「王様、あなたは間違っている」と。それによって彼は、王の怒りを買い、投獄されることになる。
 
 ヨハネが収監されていたのは、当時、鉄壁を誇っていた「マケルスの要塞」であろうと言われています。入ったら最後、生きては絶対に出られない。出るとしたら、それは死ぬ時です。この「マケルスの要塞」の中でヨハネは、いつ首をはねられるか分からない。そんな緊張を強いられる日々でしたが、外の人との面会は許されていたようです。
 
 今日読んだ箇所、7章18節を読むと「ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた」そうあります。「これらすべて」というのは、先週読んだ所、やもめの息子が息を吹き返した出来事のことです。もっと言えば、その前の百人隊長の僕のいやし。平地での説教。イエス様のこれまでの数々の動き「すべて」であります。それをヨハネの弟子たちが、牢にいるヨハネに伝えるのです。
 
 自分の弟子たちを通して、イエス様にまつわる「すべてのことについて」聞かされたヨハネは考え込む。そして「ヨハネは弟子たちの中から二人を呼んで、主のもとに送り、こう言わせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』」。
 
 「来るべき方」というのは、救い主メシア、キリストのことです。「やがて、聖書が約束している救い主が来られる。そしたら、今のこの苦しい生活、他の国による支配圧迫から自由になれる」。それがユダヤの人たちの希望でありました。ヨハネはこれまで散々語ってきたのです。「あのナザレのイエスこそ、私たちが待望している、その『来るべき方』、救い主、メシアなのだ」と。周りから変人扱いされようとも、権力者に睨まれようとも、ヨハネは臆することなく、真っ直ぐに語ったのです。「イエスこそ、メシア、キリスト」と。
 
 しかし、今日読んだ箇所に、その力強いヨハネの姿はありません。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。彼はこれまで一貫して、「来るべき方は、あのナザレのイエスだ」そう語ってきたのです。ところが、ここではそうじゃない。疑いとも取れる問いを発するのです。
 
 「それとも、ほかの方」「自分は見当違いをしていたんじゃないか」。ヨハネの心はこの時、揺れていた。ある人は言います。「ヨハネは揺れてなんかいない。揺れたのは彼の弟子たちだ」と。ヨハネが牢にいる間に、ヨハネの弟子たちの中で、「本当にあのイエスが、ヨハネ先生が語っていたメシアなのか」そういう議論が起こった。だからヨハネはあえて、二人の弟子を教育の意味で、「本当にそうなのだ」と分からせるために、イエス様のもとに送ったのではないか。代わりに質問させたのではないか。
 
 なるほど、ヨハネほどの信仰者が、疑ったり、迷ったり、つまずくはずがない。イエス様も、この後、28節で「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」そこまで言われている人物なのです。権力にだって屈しない。強い信仰の持ち主の彼が、そんな牢に入れられたくらいで、命を脅かされたくらいで揺れることはない。そのようにヨハネを、理想化したい気持ちも分かります。例えば、私たちだって自分が尊敬している人、自分の師匠が「こんなだった」なんて、誰も思いたくないですよね。いつまでも理想の姿のままでいてほしい。それが人間というものです。
 
 しかし残念ながら、人の心は、いつになっても揺れる。揺れないというのであればそれはそれで問題です。ヨハネほどの信仰者でも揺れるのです。この時ヨハネは、牢の中にいました。いつ死ぬかも分からない。そんな中で、余裕しゃくしゃくで、弟子たちの教育のためになんて、悠長なこと言ってられるでしょうか。恐らく彼は、自分の今までのことを、牢の中で、何度も何度も振り返ったに違いありません。「本当によかったのだろうか」「自分がこれまで言ってきたことは、あってたんだろうか」。
 
 イエス様のことを信じていないから迷うのではありません。むしろイエス様のことをメシアだと信じているから、迷うのです。迷わない信仰、揺らがない信仰なんて、そんなものは信仰じゃない。それはただの狂信、妄信です。真の信仰は、揺らぐのです。本当に信じようとする時、私たちは、迷うし「これでいいのだろうか」と疑う。
 
 特にヨハネの場合、彼は信仰者の家庭で育ちました。父親はザカリアという祭司です。今で言えば「牧師家庭」ということでしょうか。当時は、祭司職というのは、代々引き継がれていくものでした。だからヨハネも生まれながらに、将来は祭司になる。そう決まっていたのです。
 
 ところが彼は、それとは別の道に進みます。祭司職の道を捨て、荒れ野に出て、エッセネ派と呼ばれるグループに属すことになる。「エッセネ派」というのは、世俗との関りを一切絶って、ひたすら信仰に生きる。そういう妥協を許さない、徹底した信仰者の集まりだった。そこで鍛えられたヨハネは、筋金入りの信仰者です。だから相手が王様だろうと恐れることなく、罪の悔い改めを迫るのです。
 
 それもこれも、やがて来る救い主、メシアに備えるためです。そのために道を整える。人々の心を、真っ直ぐにする。それが自分に与えられている役割だ。そう信じ、人生をかけて生きてきたのです。そして実際に、神様によって示されて、「イエスこそメシア、救い主である」そう宣言してきた。むしろ、それで死ぬなら本望なのです。
 
 ところが、牢にいて聞こえて来るのは、今まで自分が語ってきた救い主、メシア像とは随分違う、イエス様の姿なのです。救い主は、強い御方。今のさばっている、すべての不正を正し、自分たちに自由と繁栄をもたらしてくださる御方。ところがどうでしょう。依然として、不正がまかり通っている。明らかに間違っているヘロデが、自分を牢に入れて、平々凡々と生きている。自分たちの信仰が、生活が、権力者たちによって踏みにじられる。そら、多少は、イエス様によって病気を癒されたとか、そういうのはありかもしれないけど、大きな目で見れば、ちっとも変っていないのです。
 
 だからヨハネは、揺れるのです。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。この時、ヨハネは躓きそうになっていた。「つまずく」というのは、自分が「こうだ」と思っているイメージ、それが壊される。裏切られる時に起きます。ギリシア語で「スカンダロー」と言いますが、ここから「スキャンダル」という言葉が生まれました。思い描いていた姿とは違う。期待を裏切られる。要はガッカリしたのです。
 
 その時、自分がこれまで人生をかけて言ってきたこと、信じてきたこと、それは間違いだったんじゃないか。そんなふうに思えてくる。皆さんも、ふと、そういった思いに囚われることはないでしょうか。こちら側の望みや期待を勝手に押し付けては、それに合わないと言って、勝手につまずき、「裏切られた」と文句を言う。期待に応えてくれない相手に苛立ち、挙句の果てには責めるということをし出す。まるで自分が被害者のようにです。そうしながら分からなくなる。自分の信仰は、本当なのだろうか。
 
 私は今でも、そう思うことがあります。ここから偉そうに信仰を語りながら、ふと一人になる時、自分は本当に信じているんだろうか。嘘言っているんじゃないか。分からなくなることがある。しかし、それが信仰なのだと思います。私たちは真剣に信じようとするから疑うのです。信じるから迷うのです。現実との狭間で揺れる。
 
 それはある面で、健全なことです。おかしなことじゃないし、不信仰なことでもない。そんなものを一切排除してですね、迷うことなく「100%、一点の曇りもなく信じてます」って方が、よっぽど不健全です。信仰の中には、疑い、迷いは含まれているということを忘れてはいけません。
 
 私たちは、血の通った生活をする限りにおいて、リアルを生きる中で、神様に問わざるを得ないことが、どれだけ沢山あることか。病気になる時、家族に不幸が襲う時私たちは問うでしょう。「神がおられるのに、どうして」と。この時のヨハネが、正にそうです。今の状況を、どう理解したらいいのか。ここから、どう神様を仰ぎ、信じたらいいのか。
 
 そこでヨハネは、他の誰でもない、もうイエス様に直接聞くしかなかった。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。この問いは、自分のこれまでを確認する問いです。もう一度、信仰に立つための問いと言ってもいい。ヨハネは、自分の人生をかけて信じたイエス様にこそ、言ってもらいたかった。「それでいい。その道で間違いない」と。「そうだ、わたしがメシアだ」と。
 
 私たちも、迷う時、他の誰でもない。イエス様に言っていただかないと、やってはいけない。そんな戦いの中を生きています。ちょっとしたことで、私たちは揺らぎます。「こうすべきだ」「こうあるべきだ」「ましてや信仰者ならば」。色んな声が、揺さぶりをかけてくる。そうしながら他のものに、他の誰かに、目移りしてしまうのです。イエス様より、神の言葉よりも、確かなものがあるかのように思えてくる。
 
 私たちはどこかで、魂このことはイエス様。しかし現実のことは、イエス様だけでは足りない。他の誰かの方がよい。そう割り切っている所はないでしょうか。もちろん、何でもかんでもイエス様持ち出して、「イエス様、イエス様」と言うべきだとは言いません。しかし私たちが「他の何かを待つべきか」と思ってしまう。その心の問題を、イエス様はここで問うているのです。
 
 「本当にあなたが見るべきもの、聞くべきこと、信じるべきことよりも、他の何かに心を奪われてはいないか」と。そこでイエス様は、再度見せるのです。21節、ヨハネの弟子たちが訪ねて来た時、「イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた」。今自分が何をしているのかを見せ、そして言う。22節「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」。
 
 二人の弟子たちが見聞きしたこと。それらは、すべてヨハネ自身が語ってきたことです。ヨハネは、聖書にあるイザヤの預言、それがイエス様によって成っていることを散々語ってきたのです。しかしそれでもなお迷う。イエス様は、おっしゃられます。「あなたが言ってきたように、生きてきたように、今あなたの目の前にある光景が、広がっている」。そうしながら言う。23節「わたしにつまずかない人は幸いである」。
 
 ヨハネからの問いかけに対して、イエス様は「イエス」とも「ノー」ともお答えになられませんでした。代わりに、今起こっていることを見せ、そして一言「わたしにつまずかない人は幸いである」とだけおっしゃった。ヨハネには、これで十分だったと思う。「わたしにつまずかない人は幸いである」この言葉は、裏を返せば「ここでつまずくことなく、そのまま信じてよい」ということです。「わたしに、つまずこうとしているあなた。しかしそんな所で、つまずく必要はない。信じ続けてもよい」。この言葉は、確信が揺らいでいたヨハネに対する最大の励ましになったと思います。
 
 私たちはどこかで、信仰に手ごたえを求めている所があります。だからこそ目に見える変化がない時、私たちは戸惑う。ヨハネが牢の厚い壁に阻まれ、イエス様を見られなかったように、私たちも時代という厚い壁に阻まれ、イエス様を直接見ることができません。そんな中で、どうしたって揺らいでしまうのです。
 
 けれども、それに対してイエス様はおっしゃられる。「わたしにつまずかない人は幸いである」。信仰が揺さぶられる時、躓きそうになる時、実は、私たちの信仰は、それらの「試練によって本物と証明」(Ⅰペトロ1:7)されているのです。練り清め、より強くされている。だから「つまずくことなく、そのまま信じてよい。あなたが信じた道、それは間違いなんかではない」「わたしにつまずかない人は幸いである」。
 

ルカによる福音書 第7章11-17節
「若者よ、起きなさい」

 
 「もう泣かなくともよい」(13節)。愛する息子を失った婦人に向かって、イエス様は語りかけます。「もう泣かなくともよい」。
 
 私たちが、心の奥底から、本当に求めているのは、真実に力ある言葉です。綺麗な言葉なんかではありません。また感動するような言葉でも、道理にかなった言葉でもない。真実に力ある言葉です。慰めの言葉とは、要するに、この一言を真実に語ることです。「もう泣かなくともよい」。
 
 これは、イエス様が、ナインという町に行かれた時の話です。11節を見ると、その移動の際「弟子たちや大勢の群衆も一緒であった」とありますから、きっと賑やかな一団だったのでしょう。歩きながら、色々な話で盛り上がっていたのだと思います。
 
 けれども12節「イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった」とあります。当時の町というのは、外敵から身を守るために、その周囲を高い壁で囲っていました。ですから人々は、町を出入りする際、必ず門を通らなければなりませんでした。
 
 その門の所で、イエス様たちは、この悲しみの行列と向かい合うことになる。一行はすぐに、それが誰かの葬儀であるということに気づきます。そして、それまでしていた話を止め、口を閉じ、黙るのです。「死」という現実を前にした時、私たちは、このように、ただ黙って立ちつくすしかありません。私たちは、死に対して、何の言葉も持ち合わせてはいないからです。
 
 黙り込む弟子たち。道端に立ち、その悲しみの列が通り過ぎるのを、静かに待ちます。けれども、それを黙って見過ごすことのできない御方が、ここにおられる。13節「主はこの母親を見て、憐れに思い」。イエス様は、この悲しみの中心にいる婦人を見て、彼女のすべてを理解されるのです。そして、それがまるで自分の悲しみであるかのように、心を痛められる。
 
 「やもめ」とあります。「未亡人」のことです。愛する夫に先立たれ、今度は、自分の命以上に大切な、唯一の生き甲斐であった一人息子が、死によって奪われる。このことは単に、心の支えを無くしたというだけの話ではありません。それは彼女が、明日から、経済的に無一文になることを意味します。
 
 13節「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」。
 
 私たちの、この地上における歩みには、涙が止まらない時があります。堪えても、堪えても、涙が溢れ出てしまうことがある。大切な家族を失う。そんな時に、一体誰が「泣くな」などと言えるでしょうか。心ある人なら、きっとこう言うでしょう。「泣きなさい。泣きたいだけ泣きなさい」と。それが人の情けというものです。
 
 けれども、イエス様は違うのです。イエス様は、母親が泣いたままでいることを、よしとはなさらないのです。死の力が今、一人の女性を打ちのめそうとしている。悲しみの中へと引きずり込もうとしている。それに対してイエス様は、黙っておられない。14節「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった」。
 
 死の力を前にした時、誰もそれを止めることはできません。どれだけ優秀な医者であっても無理なのです。死への道は、一方通行で、その先はどん詰まりの暗闇。だとしたらどうでしょう。私たちは黙って、それを受け入れるしかないのでしょうか。「仕方がない」そう言って諦めるしかないのでしょうか。この死の行列に、私たちも黙ってついて行くしかないのでしょうか。
 
 しかしここに、死の行列を止めてしまわれた御方がおられる。イエス様は、この悲しみの行列の前に立ちはだかり、それを完全に止めてしまわれるのです。この行列が、門を通って、町の外へと、墓場へ行くことを、お許しにならない。14節。イエス様が「近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった」。
 
 そこでイエス様は言われる。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」(14節)。これは命令です。イエス様から、死んだ者に向けて語られた命令です。しかし、私たちは知っています。「死んだ者が、その命令を聞けるはずがない」と。どれだけ大声で呼びかけたとしても、人の言葉は、死んだ者には届かない。
 
 けれども、イエス・キリストの言葉は届くのです。15節「すると、死人は起き上がってものを言い始めた」。このことについて、昔から色々な説明がなされてまいりました。ある人はこう言います。「この若者は仮死状態だったのだ」と。またある学者はこう言います。「これはメタファーだ」と。なるほど、色んな説明ができるでしょう。しかし、この福音書を書き記したルカは医者なのです。そんな彼が、仮死状態の人間と、完全に死んだ人間との区別を曖昧することなどありえません。また厳密な歴史家でもあるルカが、抽象的な創作に終始したなどとも考えにくい。
 
 私たちは、聖書を読む時に、どうしても自分の枠の中だけで、考え、理解してしまう傾向があります。そうやって、神様を小さく見積もるのです。しかし、私たちは毎回、礼拝の中で告白しているはずです。「我は天地の造り主を信じる」と。この天地万物をお造りになった御方に、不可能なことがありましょうか。
 
 またこうも告白している。「その独り子イエス・キリストは、陰府に降り、三日目に死人の内よりよみがえった」と。陰府、死者の世界をも、その救いの射程に置かれている御方の言葉が、死者に届かないなどということがありえましょうか。
 
 イエス様の言葉は、この死んだ若者にまで届くのです。これは実際に起こった出来事です。15節「すると、死人は起き上がってものを言い始めた」。わたし、これいいなぁと思う。ただ「起き上がった」というのではないのです。彼は、ものを言い始めるのです。死によって、一度閉ざされてしまった口。周りにいる人たちだってそうです。彼の死を前にして、誰もが黙り込んでしまう。けれども、イエス様の命令を受けた時、人はその沈黙を破り、ものを言い始める。
 
 これにつられて、そこにいた人たちも口を開きだす。16節「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った」。そしてこの事は、たちまち17節「ユダヤ全土と周りの地方一帯に広まった」とあります。
 
 しかし、よくよく考えてみると、この驚くべき出来事は、根本的な問題の解決にはなっていません。なぜなら、この若者と母親は、またいつの日か、間違いなく死によって引き離されるからです。また同じ悲しみを味わうことになる。私たちにとっての根本的な問題は、愛する者と、いつかは別れなければならない。死によって、その関係が引き裂かれるということです。私たちは、その死を前にして泣きながら死に道を譲り、顔を伏せ、口を閉ざすしかないのでしょうか。
 
 断じてそんなことはない。イエス様は、その死の行列を止められるのです。それ以上の力でもってして。神様の独り子であられるイエス・キリストが、人となって地上に来られ、十字架にかかられたのは、このためだったのです。イエス様が、ひとたび死の手に渡され、死人たちの中から甦らされたのは、神様の力によって、死の主権と死の力を打ち砕くためでした。イエス様が地上に肉を取られたのは、愛する者を奪い去る死の悲しみを自身の内に一手に引き受け、その死の悲しみを打ち砕くためでした。
 
 「もう泣かなくともよい」。これは、死人の中から甦られた御方の真実な言葉です。私たちはここで、死をも従えてしまう御方の言葉を聞いているのです。死の沈黙を打ち破る力ある言葉が、若者を起き上がらせたあの言葉が、私たちにまで届いている。先に死んだ、私たちの愛すべき人たちにも、その言葉は届いている。そして私たちもいずれ聞くことになるでしょう。「あなたに言う。起きなさい」。
 
 神様は、どこまでも、私たちのことを心にかけてくださる御方です。信仰深いから言うこと聞くから、心にかけるんじゃありません。このやもめのように、もはや神様を求める気力もない。「助けて」の声も出ない。すがりつく力も残っていない。陰府というのは、死んでから行く場所なんかではない。生きながらに、私たちは陰府にいることがある。しかし、そのような者のために、神様はイエス・キリストを送ってくださいました。その主の言葉が、私にも届いている。「あなたに言う。起きなさい」。
 

ルカによる福音書 第7章1-10節
「ひと言でいい」

 
 今から5年前になります。私の父が胆管癌を患いまして、大阪の病院で手術を受けた時のことです。手術自体は何とか無事に終わったのですが、しかし大きな手術でしたので、しばらく呼吸器を付けながら、しんどい日々を送らなければなりませんでした。ある日、父が「聖書を読んで、祈ってくれ」と言いましたので、私は聖書を読んで、そしてその聖書の御言葉について、少し話して祈ろうとしたのです。短いメッセージじゃないですけど、聖書読んだ後、ちょっと話したんです。すると父から、ない体力を振り絞るようにして、こう言われました。「御言葉だけでいい。余計なものはいらん」。
 
 「御言葉だけでいい」。それを聞かされた時、私は「何て自分は愚かなんだ」と恥ずかしくなりました。普段、偉そうに「御言葉、御言葉」と言っておきながら、自分がどれだけ、その御言葉に信頼をしているか。神の言葉が持つ力を信じているか。正に余計なもの、人間の言葉、知恵、経験、そんな貧相なものに頼ろうとしていた自分が明らかにされた瞬間でした。「御言葉だけでいい」。それに何か足すことも引くことも必要ない。他でもない、神様がおっしゃるんだから、神様の言葉なんだから、そのままでいいし、それだけでいい。
 
 私たちは毎週、この所に集まって、神の言葉に耳を澄まします。「神様、あなたが今何を望まれているのか、その思い、お考えを、御言葉によって示してください」。そのようにして私たちは、自分の具体的な問題、直面している課題への答えを、神の言葉の中に求めます。御言葉にこそ、私たちの生きる根拠がある。御言葉に照らされるならば、その時、私たちを悩ませ、苦しめている問題はもう問題ではなくなる。そう信じているからです。だから私たちは、この場で神の言葉を求めますし、それが記された聖書を重んじるわけです。
 
 しかし、その神の言葉に、私たち、どれだけ信頼しているか。繰り返し、問わねばならないことだと思います。本当に、神様がおっしゃったことは、必ず成るということを信じながら求めているか。それだけで十二分の力を持っていると信じているか。括弧付きで、条件付きで、余計なものありきで信じてはいないか。
 
 聖書は一人の男を通して、その問いを、私たちに突き付けます。今日読んだ所に「百人隊長」と呼ばれる人が出てきました。これは、イエス様が活動しておられたガリラヤの領主であったヘロデの軍隊、その士官のことです。この人は、ユダヤ人ではありません。ユダヤ人から見れば、所謂「異邦人」と呼ばれる人です。
 
 当時からユダヤの人たちは、自分たちの民族以外と関わることを、極端に嫌い、避けていました。「選民意識」というやつでしょうか。「自分たちは、神様に選ばれた特別な民なんだ。それに比べて他の奴らは…。信仰からは、ほど遠い生活を送っていて汚れている」。実際に、交際を「禁じ」(使10:28)る律法もあったようです。で、異邦人は異邦人で、そんなユダヤの人たちを嫌っておりました。ユダヤ人と異邦人とは、そういう仲の悪い関係だった。
 
 しかし、その異邦人の、しかも軍人である百人隊長が、自分たちが普段、その武力でもって治めているユダヤ人のイエス様に助けを求めたというのです。2節「ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ」。
 
 民族も、社会的な立場も、宗教観もまったく違う百人隊長が、イエス様に助けを求める。それ自体、驚くべきことです。私たちで言う所の、グループや派閥が違うどころの話じゃありません。言ってしまえば敵対関係にある、その敵に助けを求めるのです。しかもその際に百人隊長は、自ら赴くわけでも、自分の部下を送ったのではなくユダヤ人の長老たちに、取り次ぎお願いした、とあります。これまた驚くべきことです。ユダヤ人と異邦人の関係を考えれば、長老たちも、よく引き受けたなと思います。
 
 しかしその関係を踏まえてなお、4節「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です」長老たちにそう言わしめた、百人隊長。彼が、なぜそこまで言われるに至ったか。長老たちは続けます。5節「わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」と。「自ら会堂を建ててくれたのです」とありますが、これは単に会堂建築の費用を出してくれたという話ではありません。ただお金を出してくれたぐらいで、ユダヤ人が異邦人について「そうしていただくのにふさわしい人」などと言うことはまずありません。
 
 しかし、それにもかかわらず、この百人隊長は「そうしていただくのにふさわしい人」と言われている。ただ会堂建ててくれただけでなく、その人となり、その人の生活、すべてが認められていたということなのでしょう。もしかしたら、異邦人でありながらも、会堂に出入りし、律法を学び、主なる神を信じる、敬虔な信仰者だったのかもしれません。
 
 長老たちは、熱心に願いました。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です」と。ここで「ふさわしい人」というのは、「神様に、願いを聞き入れられるのにふさわしい人」ということです。さらに言えばそれは「資格がある」ということです。この百人隊長は、神の恩恵にあずかる「資格がある」と言われている。
 
 なるほど、彼の人となりを考えるならば、長老たちの言葉にもうなずけます。実際私たちがその場にいても同じことを言ったかもしれません。それは通常、私たちが考えていることでもあるのでしょう。私に、神様に何かを願う資格があるか。資格がないか。神様に、何かをしていただく資格があるか。資格がないか。
 
 ところが、この話では、百人隊長がそのように人間性においても、生き方においても「そうしていただくのにふさわしい人」であるから、神様は願いを聞き入れて僕を癒してくださった、という話になっていないのです。話はこう続きます。6-7節「そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。『主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください』」。
 
 ユダヤ人の長老たちは、百人隊長について「ふさわしい人、資格のある人」と言いましたが、この百人隊長は「わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました」と言っています。百人隊長は、自らを「ふさわしくない、資格がない」と言うのです。屋根の下に迎えられない。お伺いするのもふさわしくない。そう彼は言っている。それは彼が異邦人であり、イエス様がユダヤ人であるということもあるのでしょう。ユダヤ人が汚れていると見なす異邦人の家に、ユダヤ人であるイエス様をお迎えするわけにはいかない。それが、この言葉の意味することの一つではあるでしょう。
 
 しかし、恐らくそれだけではなかったと思う。ただ有能な医者を迎えるという話なら、彼はそう言わなかったはずです。「ふさわしくない、資格がない」と彼が言ったのは、この御方において、神の権威と力が現れていることを、知っていたからに違いありません。だからこそ、他の誰かではなく、イエス様を求めたのです。
 
 もとより、人間のできることなど求めていないのです。必要なのは人間がすることではなくて、神様の成し得ること。だからイエス様を求めたのです。しかし、だからこそ当然のように迎えることはできない。そこに現れているのは、神様の御業だからです。神様の御前では、一人の罪人として遜らざるを得ないからです。人の前では、いくらでも誇れるかも知れませんが、神様の御前においては、「わたしはふさわしくありません。資格がありません」としか言いようがないのです。
 
 そのような者として、彼はどうしたのか。御言葉を求めたのです。「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」。イエス様が語られるならば、その言葉は必ず事を成すと信じているのです。なぜでしょうか。彼がそう言った理由は次のように説明されています。8節「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」。
 
 百人隊長が語っているのは、「言葉」の背後にある「権威」についてです。権威を持つ言葉には、力がある。事を成す力がある。イエス様が語られる御言葉は、正にそのような権威と力を持った、神の言葉であることを、彼は信じているのです。だから、全幅の信頼をもって、ただイエス様の語られる神の言葉を求めたのです。9節「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。『言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない』。使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた」。
 
 この物語は、百人隊長が「そうしていただくのにふさわしい人」であるから、神様は願いを聞き入れてくださり、部下が元気になった、という話ではありません。イエス様がここで賞賛しているのは、彼の人となりでも、行動でもないのです。もっと言えば「ふさわしくない」という遜った姿ですらないのです。そうではなくて、イエス様が目を留められたのは、彼の「信仰」でした。イエス様が語られる御言葉は、神の権威と力を持った「神の言葉」であることを信じ、そして求めた、その信仰でした。
 
 ある人は言います。長老たちは、彼の「よい行いを見た」それに対してイエス様は彼の「信仰を見た」と。私たちが、神様に目をかけていただくのは、私たちのよい行いとか、正しさとか、それだからじゃありません。「ふさわしくない」としか言えない「打ち砕かれた霊」(詩51:19)。ただもう神の言葉に、権威にすがるしかない。これをはたして「信仰」と呼んでいいものなのか。しかしそれをイエス様は「信仰」と呼んでくださり、認め、受け入れてくださるのです。
 
 もとより、神様の前にあって、ふさわしい人など一人もいません。しかし、そのふさわしくない者のために、イエス・キリストは十字架にかかり、復活されたのです。ここに、神様が、ふさわしくない者をも御自分のものとしてくださる。その命を、最後まで責任をもって祝福へと導いてくださる。その旗印がある。神様は口だけじゃない。実際に、キリストを通して、ふさわしくない者を招き、癒し、慰め、励まし、救いの道を開いてくださった。
 
 神の言葉は、必ず成る。これ程、分かり易いことはありません。「神は愛なり」という言葉と実際とが、イコールなのです。乖離が全くない。どれだけ素晴らしい言葉でも、立派なこと言っていても、そこに内実が伴わないと、権威というものはついてきません。その点、なぜイエス様の言葉には、権威と力があった。内実が伴っていたからです。イエス様は、自らの命を差し出すまでに、徹底して、私たちに対する愛に生きてくださった。この御方を通して、私たちは「神が愛」であることを知るのです。神の言葉は、御言葉は、必ず成ることを見る。
 
 すぐに人の言葉を、世の言葉を、「絶対」のこととして、信じてしまう私たちです。そこに権威を置き、遜り、従ってしまう。けれども、私たちが真に跪き、信じるべきは、神の言葉です。神の言葉が、この世界を造り、今も支配しているのです。神様がひと言おっしゃれば、それだけで事は動くし、何事も成って行く。その圧倒的な力を信じて生きることの、何と幸いなことか。その力ある神の言葉、その権威のもとに私たちは置かれているのです。