ルカによる福音書 第5章17-26節
「希望の穴」

 
 愛和病院の向かいにある、この信州教会にいると、救急車のサイレンの音をよく耳にします。救急車は、御存じの通り、サイレンを鳴らすと、邪魔をしてはいけない。他の一般車両は脇に止まって、道を開けるよう「道路交通法」で決められています。一秒でも早く、負傷した人、病気の人を病院まで運ぶために。サイレンの音を聞くたびに、そこにどれだけの人の思いがあるのかと思います。運んでいる人たちの思い、運ばれている人の願い、それを取り巻く人たちの心配や不安。それら乗せて救急車は運ぶのです。
 
 「ある日のこと」(17節)です。「男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした」(18節)そういう風に、今日の聖書箇所は始まっています。「中風」これは、脳卒中か何か、そういう病気にかかりまして、その後遺症で身体が不自由になった状態のことです。手足が震えたり、言葉がうまく出てこなかったりする。この人の場合は、それが重かったのでしょう。寝たきりだった。そんな「中風の人」が、複数の男たちによって担がれ、やって来る。
 
 しかし19節「群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかった」とあります。遅かったのです。もう既に、イエス様の周りは、人で埋め尽くされていました。隙間もない程、びっちり詰まっていたのです。男たちは、連れて行ったまではよかったのですが、家の中に入ることができません。しかし、待ってなんかいられない。すぐにでも診てもらいたい。そこで男たちは強硬手段に出ます。「屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした」とあります。
 
 この地方の家というのは、私たちが思い描くような家とは、だいぶ違っています。イスラエルは、雨の少ない乾燥した地域ですので、屋根といっても、それは平坦なもので、ちょうど四角いボックスのような形です。そこに、外から家の上にあがるための階段がついている。それが当時の一般的な家でした。そして、ここに「瓦」とありますが、日本の屋根瓦のようなものではなく、土をこねて素焼きにしたレンガのようなもので、まず木で骨組みをして、その上に藁を敷いて、そこに乗っけていた。ですから簡単に取ることができたようです。
 
 男たちは外階段を使って屋根に上り、「この辺だろう」と目星をつけて、瓦を剥がしていく。この「中風の人」を運んで来た、男たち。マルコの方ではそれが4人だったと記されていますが、彼らが、一体どういう関係の人たちであったのか。家族なのか友達なのか、それとも頼まれてそうしたのか、それは分かりません。しかしどういう関係にせよ、人様の家の瓦を剥がして穴をあける。とんでもない迷惑行為です。
 
 家の中では、イエス様がいつものように、病気の人を癒していました。するとパラパラと天上を覆っている土壁や藁が落ちてくる。皆、「何事か」と上を見ます。けれども、かまわずに男たちは瓦を剥がし、そうやって開けた穴から中風の人を床ごとつり降ろす。この穴を通って、穴に落とされる形で「中風の人」はイエス様のもとへとやって来るのです。
 
 私たちは、誰も、自ら進んで穴に落ちる人などいないでしょう。人生における穴、できれば避けたいものです。しかし予期せぬ形で、私たちも、穴に落ちるということが、落とされるということがある。中風の人がそうであったように、彼がどのような経緯で中風になったか、それは分かりませんが、病にかかり、身体が思うように動かなくなる。
 
 彼にとって、落ちた穴、それは中風という名の穴でした。これは私たち、決して他人事などではない。私たちにだって起こりうることです。何かに挫折した時、生きる目的を、気力を失った時、私たちは思います。「落ちる所まで落ちた」と。そう、私たちは、どこかで「落ちたら終わりだ」「あぁなったらお終いだ」、そう思っている。けれども、その落ちた穴の底で待ち構えている御方がおられる、と聖書は語るのです。
 
 イエス様は、中風の人が穴から吊り降ろされる、その穴の中で、じっと待っておられました。そのように考えますと「教会」っていうのは、その「穴」なんだと思います。私たちは、ある意味で、言い方が悪いですけど、落ちて、落ちぶれて、多くの事に挫け、敗れて、ここにやって来る。しかしそこで、私たちは、救い主と出会うのです。イエス・キリストと出会う。正に穴場です。この穴の中で、イエス様の言葉を聞くのです。こんな私でも救われている。神様は見捨てておられない。その事実を知らされる。
 
 私たち、自ら進んで穴に落ちる人はいません。しかし何らかの形で、穴に落ちた、教会に導かれた。けれども、残念がる必要はない。落ちた穴の中でしか、聞けない言葉というものがあります。穴に落ちた者でなければ、仰ぎ見ることができない景色があります。中風の人は、穴の底でイエス様と出会いました。穴の底でイエス様の言葉を聞いたのです。「人よ、あなたの罪は赦された」(20節)という言葉を。私たちも今、教会という穴の中で、同じ言葉を聞いています。「人よ、あなたの罪は赦された」。
 
 具体的な身体の癒しを、病からの回復を、ひたすら願い続けて来た中風の人にとって、この言葉は驚くべき言葉であったに違いありません。「あなたの罪は赦された」。この言葉を聞いた時に、初めて中風の人は、自分が神様から赦されなければならない罪人であることを、神様から自分が離れて生きていたことを知ったと思う。
 
 ここで興味深いことは、イエス様が、運んできた男たちの「信仰を見て」中風の人に「人よ、あなたの罪は赦された」と言われたことです。中風の人の信仰を見て「あなたの罪は赦された」と言われたのではないのです。「その人たちの」つまり運んできた男たちの「信仰を見て」言われるのです。
 
 私たちは普通、「自分が救われるのは、自分の信仰によってである」そう考えます。この私が教会に行き、私がそこでイエス様に出会い、私がイエス様の言葉を聞き、私が悔い改め、私が決心をし、私が信じ、私が従っていく。すべてが私次第です。しかし違うのです。私たちの救いは、自分の熱心さや、頑張り、忍耐によってもたらされるものではない。そうではなく、私たちの救いは、この私を担ぎ、私のために穴をあけて、吊り降ろしてくれる人によってもたらされる、と聖書は語るのです。
 
 今、それぞれが座っている席の、前に、後ろに、右に、左に信仰の友がいるでしょう。その人たちの信仰によって、私たちは救われるのです。それだけではない。代々の聖徒たち、もう今は地上にはいない、自分を信仰に導いてくれた人たち、2000年に及ぶ先達たちの信仰を見て、イエス様は、罪の赦しの宣言をなさるのです。
 
 私たちの群れの中にも、聖書に出てくる中風の人のように、病のためにもう身体が弱ってしまって、ただただ病の床に伏しかないという兄弟姉妹がいます。しかし、その兄弟姉妹を、教会の信仰によって、私たちの信仰によって、イエス様の下へと、この場所から吊り降ろす。それを教会は、ずっと続けてきたのです。そこであの言葉を聞く。「あなたの罪は赦された」。
 
 教会の中でしか、聞けない言葉というものがあります。教会という穴の中から、響く言葉があります。私たちも、いずれは病の床に伏す時が来るでしょう。しかし、ここにいる限り、大丈夫です。もう、あなたと神様との間にある罪の隔たりは、イエス・キリストの十字架の贖いによって、完全に取り去られたのです。その十字架におかかりになって死んでくださった御方が、今私たちに、はっきりとした言葉で約束してくださいます。「あなたの罪は赦された」。だから「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(24節)。
 
 その一言を言う為に、イエス・キリストは地上に来られました。天から、ある意味で落ちて下さった。それだけではありません。地上においても、更に下へと落ちて行かれた。墓穴へと降って行かれたのです。十字架での死により、最大にして、最も深い穴の中へと、すべての望みが断たれた暗い墓穴へと落ちて下さった。けれども、その墓穴から、イエス様は出てこられたのです。この御方が、一番深い穴から出てこられたのですから、それに続く私たちは、どれだけ落ちようとも、もう心配する必要はありません。
 
 確かに、一時、床に横たわることがあるかもしれません。身体が弱り果て、まったく動かなくなることがあるかもしれない。しかし、墓穴から出てこられたイエス様の命令によって、私たちの命は再び起き上がるのです。「あなたの罪は赦された」だから「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」。私たちの人生は、穴に落ちて終わりじゃありません。穴から始まる命がある。私たちは、この穴から、教会から、今日も復活の命に押し出されて出て行くのです。
 

 

ルカによる福音書 第5章12-16節
「差し伸べられた手」

 
 先日、あるコインパーキングで「私は長野県在住です」というステッカーが貼られた他県ナンバーの車を見かけました。今までならば、決して目にすることのなかった光景です。しかし今となっては、そういう車、たまに見かけるようになりました。このコロナの不安がある中にあって、「私は長野県在住です。だから安心しほしい。変な目で見ないでくれ」ということでしょう。それを見る度に、何とも言えない気持ちになります。そうやって、自分で自分のことを、周りに明かさなければならない。
 
 これ別に、決まりがあるわけではありません。法律で定められているわけでもない。しかし県内在住か、それとも県外か。そのことを明らかにしなければ、とても居づらい。責められるような、そういう空気が漂っている。それが、今の私たちの社会なのではないでしょうか。この点、聖書の舞台となっているユダヤの社会は、もっとあからさまです。社会全体の空気とか、雰囲気とか、そういった曖昧なものではなく、自分たちのコミュニティ、その内側と外側に、明確な線が引かれていた。
 
 例えば、それが分かり易いのが、今日読んだ箇所です。ここに「全身重い皮膚病」の人が出て来ました。当時、皮膚病の人は、ユダヤの規定によると、独りで町の外に住まなければなりませんでした。そして、どうしても町に近づかないといけない場合は、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」(レビ13:45)、そのように叫びながら歩かなければならなかった。自分で自分のことを、周りに明かさなければならない。「わたしは汚れた者です」「だから離れてくれ」と。車のステッカーとは逆ですね。
 
 どうして、そのようなことをしなければならなかったのか。理由は単純です。町の中の人と接触して、間違って病気を移さないようにするためです。もし仮に、接触があったならば、その人は、皮膚病の人と同じように「汚れた者」と見なされる。それがユダヤ社会で決められていたことでした。触れてはいけない。近づくことも許されない。日本においても、ハンセン病を巡って、隔離政策が取られ、これと似たようなことが行われていました。内側と外側、その線がはっきりと引かれる。それを越えないように、法律で定められていたのです。
 
 病気じゃない人を、病気から守るために。そう言ってしまえば、聞こえはいいのですが、事実上、皮膚病の人は、ユダヤの社会からは見捨てられていたのです。死んだも同然の扱いを受けていた。保障なんかありません。そもそも誰も近づけないのですから。当然、仕事なんかもありません。物乞いです。「その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ13:46)。これがユダヤの律法で定められていたことでした。この人が生まれる前から、病気になる前から、そう決められていたのです。
 
 何が辛いかって、病気であることはもちろんですが、それ以上に、この人は、誰とも関わってはいけない。独りだったということです。自分の辛さ、それを誰かに吐き出すことすら叶わない。そして周囲が自分を見る目。物乞いのために町に近づこうものなら、「汚らわしい」そういう目で見られる。「ああなるんだから、きっと何か悪いことをしたに違いない。神様から罰を受けているのだ」そんな声が聞こえてくる。
 
 そんな中で、とどめを刺すように「わたしは汚れた者です。汚れた者です」。自分で自分を否定しながら、生きなければならない。これ、どれだけ惨めなことかと思う。しかし時に私たちは、これと似たようなことをしてしまっている。私たち、皮膚病じゃないかもしれない。ユダヤ社会のルールには縛られていないかもしれない。けれども、自分で自分を否定しながら生きる。独りで、そこから抜け出せずにいる。「もう自分の人生は詰んでいる」「どうしようもない」その思いに押しつぶされながら生きている人が、どれだけ多いことか。
 
 ところが、そんな人の近くに、イエス様がやって来られる。12節「イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と願った」。ここだけ読むと、近づいて行ったのは皮膚病の人です。イエス様から近づかれたわけではない。しかしよくよく読むと、その皮膚病の人が近づける町まで、イエス様が来てくださっている。
 
 そう、私たちは、どこかで、自分で礼拝に来た気でいます。しかしそうじゃない。その前に、神様の方から近づいて来てくださっている。私たちが出向ける所にまで。そして、その神様が「わたしのもとに来なさい」そう招いてくださっているから、その許しがあるから、私たちはここにいるわけです。その意味で、もう私たちは、ここに来る前から、すでに神様に捉えられている。
 
 この皮膚病にかかった人は、イエス様を見て「ひれ伏し、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と願った」(12節)そのようにあります。何か、変な言い回しように思います。「主よ、御心でしたら、わたしをお癒しください」そういうのなら分かるのですが、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言っています。
 
 けれどもこの言葉、「おできになります」ここに彼のイエス様に対する信頼が、よく現れていると思う。「私の決断や頑張り、強い思い、求め、願い。そういうものを越えて、神様の御心ならば、私は清くなるんだ。イエス様が本当にそのように願ってくださるならば、私はそういうふうになる」という確信のある表現なのです。「できるかできないか、その可能性は、私の側にあるのではない。イエス様の側にある」と言っているのです。
 
 神様を信じて生きるというのは、このように、一切の判断を、神様の側に投げるということでしょう。自分の側に決定権を置かない。徹底して神様の独り子、イエス様の側に置く。任せる。自分はただ、それに従うという姿勢。もちろん、その中で文句言ったり、要望述べたりするわけですよ。私たちは。本音をぶつける。それしちゃいけないと言っているのではない。しかしその上で、最後の判断は、イエス様に任せるのです。最終的な決定権はイエス様にある。それが信仰なのだと思います。そういう意味で、クリスチャンは他人任せ、イエス様任せなのです。
 
 判断をイエス様に任せた結果、治らない、癒されないケースだってあるのです。しかし、それすらも「御心である」そう彼は任せるのです。特別に信仰深かったからそうしたのではありません。彼には、もうそうするしか、イエス様にすがるしか、任せるしかなかった。しかしその時に、13節「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去った」とあります。
 
 この人の信仰が立派だったからとか、熱心だったからとかは、一切書かれていません。ただ、イエス様が、この人を憐れまれた。その際、言葉よりも先に、手が差し伸べられる。もしかしたら、この皮膚病の人にとって、これ、最も求めていたことだったのではないかと思う。触れられるということ。これまで、声はいくらでもかけてもらってきたのです。遠く離れた所から、食べ物を投げるように施しを受けることだってあった。でも、いつもそこには距離があった。
 
 当然です。律法で定められているのですから。触れちゃいけないって。違反なんです、触れることは、お互いに。しかしイエス様は、その律法に違反する形で、手を差し伸べ触れられる。「すると、たちまち重い皮膚病は去った」とあります。この驚くべき出来事の背後に、二つの違反があります。二つの違反が重なり合っている。一つは重い皮膚病の人が町に入ったということ。そしてもう一つは、その皮膚病の人にイエス様が触れられたということ。これらは、明らかに律法違反です。社会的に認められない行為。しかしそういう仕方で、この人はイエス様と出会い、そこで癒された、と聖書は語るのです。
 
 この人は、律法を破らなければ、イエス様に一生近づくことはなかったでしょう。そしてイエス様も律法を破って手を差し伸べなければ、この人は一生癒されることはなかったと思います。片方だけが破っても駄目なのです。両方が破って、この出来事は成り立っている。考えて見れば、私たちの礼拝も、これと同じだと思う。私たちも違反しているのです。こうして神様の前にいる。礼拝の場に集う。もちろん、それが駄目だなんて法律はありませんよ。しかし、神様が定めた律法、具体的に旧約聖書に記されている事柄、それら一つ一つに、私たちことごとく違反し続けている。基本的な10の戒め(十戒)でさえ、どれも守れていません。私たちは、本来、ふさわしくないのです。ここに来る資格なんてない。違反なんです。
 
 その違反者たちに、礼拝を通して触れようとされる神様もまた、どうかしてる。御自分が定められた律法を、御自分で破ってるんですから。ここで、はっきりさせておかなければいけないのは、違反は、どこまで行っても違反だということです。覆ることなんてない。そう考えると、イエス様のこの皮膚病の人に触れる行為は、完全にアウトなのです。律法違反、裁かれて然るべきなのです。しかし違反を超えるものがある。それを聖書は「愛」と呼びます。その愛にイエス様は突き動かされて、この一人の皮膚病の人に触れられる。
 
 注意していただきたいのは、「だから違反しなさい」ということじゃありません。「律法なんか意味ないんだ」じゃない。あくまで律法は律法です。イエス様もそれを最大限に重んじておられる。イエス様ははっきりおっしゃいます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。…これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる」(マタイ5:17)と。
 
 しかしこの一人の人を癒すために、イエス様は、あえて律法を破られた。その責めを覚悟の上で、違反者になられたのです。明らかに、どうかしてる。しかしそれが、私たちが信じている神様の御姿なのです。この皮膚病の人は、イエス様に触れてもらい「よろしい。清くなれ」と言われて、初めて自分を自分として受け入れることができました。それまでは、否定するしかなかったのです。自分でも自分のことを差別しどこかで捨てていた。
 
しかし「よろしい。清くなれ」。この祝福の言葉によって、彼は自分を取り戻すのです。これまでは、否定するしかなかった自分の人生。呪いでしかなかった。けれどもそんな自分に、イエス様は「よろしい」と声をかけてくださる。掟を破ってまでして手を伸ばしてくださる。「よろしい」っていうのは、直訳すると「私は望む」そういう言葉です。この人の望み、願い、思い。それをイエス様は、十二分に汲み取って下さり、御自身の望みとしてくださったのです。その時「重い皮膚病は去った」。彼をこれまで支配し、苦しめていたものが取り去られた。
 
 町の外から中へ。神の国の交わりから外れ出た者を、再び交わりの中へ。そのためにイエス・キリストは来られました。違反を犯してまでして。律法を破ってまでして手を伸ばしてくださった。その責めの一切を、十字架という仕方で身に負って。どうかしてます。しかし、どうかしてるほどの神の愛が、この皮膚病の人に、そして私たちに注がれているのです。「よろしい。清くなれ」。「私は願う、あなたが神の子として愛の交わりの中を自由に生きることを」。
 
 

ルカによる福音書 第5章1-11節
「俺、漁師を辞めて漁師になる」

 

 先程、読んだ聖書の中に、肩を落としながら、網を洗う漁師たちの姿が描かれています。一生懸命、頑張ったけれども、駄目だった。彼らは夜通し働いたのです。しかしその日は、何も取れなかった。そんな時って、疲労も人一倍でしょう。少しでも魚が取れたというのであれば、話は別なのです。成果がある、何かしらの報いがあるというのは、私たちにとって励みになります。しかしそれがまったくない。夜勤明けでクタクタの中、藻とかゴミとかが絡まり、汚れてしまった網を洗う姿。これ、私たちの人生と重なる所があるのではないでしょうか。頑張ったのに、何の結果もない。
 
 私たちが人生で落ち込むのは、落胆するのは、裏を返せば、それだけ頑張ったからでしょう。やれるだけのことをやった。力を注いだ。だから私たちは落胆するのです。むなしく網を洗う姿。ここに人間の業の限界があるように思います。けれどもそのような時に、漁師たちはイエス様と出会ったと、聖書は告げています。
 
 この時、イエス様は、何人かいたであろう漁師の中の一人、シモンに何と声をかけられたか。「ご苦労様。もう休みなさい」そう労ったか。そうじゃありません。「ちょっと悪いんだけど、舟を出してくれ」と頼んだというのです。「舟の上から皆に向かって話したいから、協力してくれ」そうイエス様はおっしゃられたのです。
 
 シモンは内心「勘弁してくれ」と思ったことでしょう。「今はもうヘトヘトなんだ」と。百歩譲って、魚が釣れていたら、機嫌もよかったかもしれません。しかしそうじゃない。何もかもがうまくいっていない。そんなシモンに、イエス様は無理を言って頼まれるのです。3節。
 
 シモンからしたら、むしろこっちが頼みたいような状況です。労いの声をかけてほしい。慰めてほしい。そして何か足しになるものが欲しい。そういう時に頼まれる。しかし聖書は語るのです。神様が与える祝福とは、そういうものなのだ、と。私たちが大変な時に、「何で」「無理だ」と思うタイミングで、神様は頼まれるのです。役員さんたちなんかが、正にそうでありましょう。
 
 イエス様は、疲れ果てて、もう何もできない。したくないというシモンに、あろうことか「舟出してくれ」と頼まれる。この出来事の前に、シモンの義理の母親の話、イエス様が熱で苦しむ母親を癒してくださった話が出て来ます。シモンはその恩もあったので、断るわけにもいかず、渋々引き受けたんだと思う。
 
 そして自分の舟の上から、イエス様が人々に向かって話される。この時シモンは、うつらうつらしていたことでしょう。ようやく話が終わる。「ようやく解放される。休める。あぁでも網を洗う続きが残っている。それからあれをやって、これをやって」重たい気持ちで、舟を陸に戻そうとした時、イエス様がおっしゃられる。4節。
 
 これは、励ましや同情の言葉ではありません。お願い、命令です。一生懸命、自分の力で頑張ったけど、駄目だったという現実への御言葉の挑戦です。信仰は、人間の知識や体験の延長線上にあるものじゃありません。私たちが、行き詰まり、失望している所にイエス様が来られたのです。そしてそこでとんでもないことを提案なさる。そこから「沖へ漕ぎ出して、網を下ろして、漁をしろ」と。
 
 漁師たちは知っていました。昼間に網なんか打っても、魚が取れるわけがないのを。漁は夜に行うが常識でした。明るくなると魚たちが岩場に隠れてしまうからです。昼間に漁をするなんて、専門家からしたら論外です。シモンは自分の経験から、これまで蓄積した知識から知っていたのです。「今日はもう駄目だ」ということを。そんな時は、諦めるしかないということを。
 
 とてもじゃないけど、受け入れられない提案です。しかし神様は、そういうとんでもないことを提案してくるのです。御言葉は、私たちの生き方に、いちいちぶつかって来きます。「あそこに行ったら大漁だから行きなさい」と言ったら誰でも行くんです。「絶対に損しない。取れる」ならば皆行くでしょう。
 
 しかし神様の提案は、それとは逆で、一見愚かなのです。「あそこ行ったら損する。何の成果もない」そういう提案なのです。しかしその御言葉に、御言葉であるが故に賭けて生きることを、神様は私たちに求めておられる。これ、よく言われることですが、信仰は知識ではありません。どんなに勉強しても、すごい経験しても、それが御言葉よりも上なんてことはない。御言葉に従わないならば何にもならない、無意味です。
 
 シモンは5節。このイエス様の提案、現実に抗うかのような言葉に応えて、それに賭けました。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。どれだけ内心「違うな」と思っても、「んなわけあるかい」と疑っても、「はいはい、やればいいんでしょう」という投げやりでも、彼は網を降ろしたのです。これ、とっても大切なことです。神様を信じて生きるというのは、何も難しいことではない。
 
 言われた通りにやるのです。やってみる。イエス様の提案、御言葉が私たちに語りかけてくることは、安全で、確かなものかというと、そうじゃない。時に御言葉は、とんでもないことを、私たちに提案してきます。しかし私たち、忘れてはならないのは、それが主の御言葉、命令である、ということです。
 
 私たちに、他でもない主なる神様が頼んでおられるのです。命じておられる。現実の厳しさに埋没し、岸にじっととどまるのではなく、御言葉に従って沖に漕ぎ出す、網を下ろす決断をするように、と。信仰は、書斎の中で静かに瞑想してることじゃありません。知識をひけらかすことでも、評論することでもない。御言葉に従って網を降ろす。それ以上でも以下でもない。
 
 その意味で信仰は、人からもらうことはできません。また聞いたり、見たりすることだけでは、力になりません。具体的に、自分が、御言葉に従って生きて行く中でこそ、力を発揮するものです。その時、私たちが嘆いている現実が動き出す。何も起こらないような、一晩中働いても、何も取れないような、無意味としか思えなかった現実が、意味ある現実へと変えられて行くのです。
 
 その祝福の道を、イエス様は私たちに提案されるのです。6節。で、この時、興味深いのは、シモンは魚が取れて、得意になったというのではない。このことを自慢したのでもない。罪の告白へと導かれたということです。8節。ここでイエス様に対する呼び方が変わっていることに気づかされます。
 
 これまでは、ただの「先生」(5節)だったのです。病気を治したり、良いお話をしてくれる先生。ところが、その語られた言葉が、実際に成る。自分の想定をはるかに超える、圧倒的な形で起こる。大量の魚を目の前に、彼は恐ろしくなり、ひれ伏し言います。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」。
 
 人は、神様の大きな恵みに触れる時、ようやく己を知ることになる。自分がいかにちっぽけな者か、浅はかで、傲慢で、罪深い存在か。それでもなお、そんな私を承知の上で近づき、声をかけ、必要としてくださっている。漁が上手だったから、立派だったから、イエス様、声かけたのではないのです。そのことに気づいた時、シモンは「ふさわしくない」と思った。もう自分なんかじゃもったいない。とんでもない。恐れ多い。
 
 私たちは暗い中で光を求めますけれども、いざ光に照らされますと、固まってしまうでしょう。シモンもそうです。イエス様という圧倒的な光を前に、自分の暗さが、それに釣り合わない罪深さが際立ってしまって、すっかり腰が引けてしまう。しかしそんなシモンにイエス様はおっしゃられるのです。10節「恐れることはない」。
 
 この言葉の中に飛び込みましょう。主なる神様が、他でもないイエス・キリストが私たちのことを必要としてくださっているのです。主の言葉に従って生きることの、何と素晴らしいことか。豊かなことか。徒労の現実の中にあっても、己の罪深さが際立ち、自分なんかふさわしくないと思えても、なおもこの主の御言葉に委ねる。その時に、これまでは見えてこなかった祝福の道が見えて行きます。だから捨てるのです。捨てられる。
 
 11節。シモンはすべてを捨てました。すべてを捨てると聞くと、何か痛ましい、犠牲的で辛い、そんな印象さえ持ちます。しかし、忘れてはいけないのは、このすべてを捨てるという事の前に、「恐れることはない」イエス・キリストの圧倒的な祝福があるということです。やせ我慢じゃないのです。結果として、色んなものを私たち捨てざるを得ない状況があるでしょう。しかし手元に何も残らなくとも、主の祝福、あなたを何が何でも祝福するという約束は、いつまでも残り続けるのです。
 
 

 

ルカによる福音書 第4章42-44節
「前髪を引かれる思い」

 
 「牧師って、普段は何をしているんですか」。たまに、そう聞かれることがあります。きっと皆さんの中にも、疑問に思っておられる方がいることでしょう。「牧師は、平日、何をしているか」。この問というのは、言い換えれば「牧師の仕事とは何か」ということになるかと思います。牧師の仕事、働き。その中心がはっきりしていれば、普段何をしているかも、何となく見えてくる。
 
 一口に「牧師」と言えど、色んな牧師がいます。社会で困っている人たちを助ける様々な活動に励んでいる牧師もいれば、教育に携わっている牧師、刑務所の教誨師をしている牧師もいますし、何かよく分かんない会議に忙しい牧師もいます。あるいは平日はアルバイトをしているという牧師もいます。見え方はそれぞれですが、共通していることがある。それは日曜日の礼拝で、聖書に記されている福音の中心、イエス・キリストを宣べ伝えている、という点です。イエス・キリストが、私たちのために何をしてくださったのか。イエス・キリストを通して示された神様の愛。それを宣べ伝える働きを、牧師はしているのです。
 
 言わば、それが牧師の仕事、「本業(メイン)」です。それ以外は、言ってしまえば「副業」のようなもので、本業を支える為の、本業から派生した働きに過ぎません。ですから普段は、福音を語るという本業、そのための準備をしている、そう言うことができるでしょう。イエス様にも、本業と副業がありました。本業は、今日読んだ所43節でイエス様本人の口から語られています。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」。イエス様の本業。それは「神の国の福音を告げ知らせる」こと。
 
 「神の国」この「国」(バシレイア)いうのは、日本とか、中国とか、アメリカとかそういった国の話じゃなくて、むしろそれらすべてを包み込む「神様の支配」のことを指します。神様の力の及ぶ所。「あなたの人生、あなたの命は、病や、悪霊、その支配のもとにあるのではない。神様の愛の支配の中に置かれているんだ」。そのことをイエス様は、「神の国」という言葉でもって宣言なさった。「あなたもその中に入れられている、その一員なんだ」と。
 
 ところが、人々はというと、イエス様の副業にばかり目が行くのです。イエス様の副業。それは何かというと、多くの奇跡や癒しの業です。先々週、読んだ箇所では、カファルナウムという町で、悪霊に取りつかれた男から、イエス様の一喝によって、悪霊が追い出されたという話が出て来ました。また先週は、ある女性の慢性的な熱病が癒された話でした。どちらも驚くべき出来事です。だからこそ、カファルナウムの人々は「自分たちから離れないようにと、しきりに引き止め」(42節)たのです。
 
 これ、イエス様からしてみても、決して悪い話ではありません。人々が自分のことを慕い、尊敬し、熱烈に求めてくれているのですから。自分を必要としている。そのことに悪い気はしなかったでしょう。むしろ喜ばしことです。しかしそれが、病を癒すこと、悪霊を追い出すことが、イエス様の働き、本業(メイン)ではないのです。そのためにイエス様が来られたのではない。イエス様はおっしゃられる。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない」。
 
 ある人は言います。「もしこの時、イエスが人間的同情にだけ動かされ、カファルナウムの一病院長の如くになって、そのご生涯を終えられたとしたら、どうであろう。人類にとって、また神にとって、これにまさる損失はなかったであろう。しかし、感謝すべきかな。この朝未明、イエスは単身人なき地に脱出され、祈りのうちに『福音こそわが使命』と確認なさったのである。イエスは決心して立ち、人気のカファルナウムを離れ、宣教の旅に出られた」。
 
 「カファルナウムの一病院長」おもしろい表現です。そうなのです。イエス様は、このカファルナウムの地で、御自身が望みさえすれば、一国一城の主になることができたのです。成功者として、カリスマとして君臨することができた。しかしイエス様は、そうはなさいませんでした。そのチャンスを、みすみす捨てて行かれる。
 
 私たちならば、そうはいかないでしょう。私だったら、その状況、もう勢いよく飛びつくと思う。この世の成功が、安泰が、約束されているんですから。たとえそれを断ち切ることができたとしても、いつまでも後ろ髪引かれる思いで、未練たらしく、「あぁ、あの時、あっちを選んでおけばよかった。惜しいことをした…」そう呟くことだと思います。けれども、イエス様は言われるのです。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」。副業に注目が集まる中で、本業に徹するのです。
 
 本日の説教題「前髪を引かれる思い」と掲げました。そんなことわざありません。私が勝手に作った言葉です。しかしこれピッタリだと思う。私たちは、どれだけ普段後ろ髪を引かれる人生を送っていることか。心残りがあります。未練があります。それをいつまでも引きずりながら生きている。しかしイエス様は違うのです。後ろではない。前に、神の国に引っ張られるように、それに向かって進んで行かれる。ただ神の国、神様の御支配されている世界を見ておられる。
 
私たちは毎週、この場で「主の祈り」を祈ります。「御国を来たらせたまえ」。「神の国」神様の御支配が、天で成っているように、この地でも成るように。そう祈る。私たちは、普段、どれだけ、それとは逆のことを追い求めながら生きていることでしょうか。私たちは、神の国ではなく、自分の国を求めています。御国ではなく、自分が中心の国、世界を築こうとします。ひたすらに自分の思いが、願いが成るようにと祈ります。
 
 だからなのかもしれません。私たちの人生、後ろ髪を引かれる思いが多いのは。自分の国を求める時、私たちの人生は、心残りや未練、後悔でいっぱいになる。「あれもできなかった」「これも実現しなかった」そのことばかりに目が行くでしょう。それは決して、自由な人生とは言えないはずです。だからイエス様は、「主の祈り」を私たちに教えてくださったのです。神の国を求めて生きるように。小さな小さな自分の国を求めるのではない。
 
 それを断ち切るように、心を高く、神様の方に向けるために「御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」そう私たちは祈るのです。そしてそのことを、イエス様ご自身、正に地で行っておられた。それは、今日読んだ箇所を見れば明らかです。
 
 自分の国を求める時、自分の支配、自分の計画が成ることばかりに心奪われている時、私たちは、神様が与えようとしている「救い」を小さく、限定的にしてしまっている。悪いものを追い出してもらう。病気を癒してもらう。もちろん、それも大切なことでしょう。当人にとっては「救い」であることに違いない。しかしそれが、イエス様が伝えようとした「神の国の福音」そのものなんかではありません。それは、あくまでも結果としてもたらされた付属のようなものです。メインではない。
 
 悪霊が一時、出て行ったとしても、また心の隙をつくように悪霊が入り込み、それに支配されるのです。病気が癒されたとしても、また別の病気になってしまう。奇跡を見ても、すぐにそれが当たり前になって、忘れてしまうのが私たちです。じゃあ、その度に、癒されなければ、奇跡が起きなければ、問題が解決されなければ救われないのか。
 
 イエス様は、そんな一時的な、即席的な救いをもたらすために来られたのではありません。私たちの目先の要求、願いを、遥かに超えた救いを、「神の国の福音」を宣言されたのです。それは、たとえ病気であっても生きて行くことができる力ある言葉。いつ、いかなる時、状態であっても、どれだけ自分が罪深く、神様から離れているように思えても、神様の御支配、その中にあなたが置かれているということに変わりはないという約束。それをイエス様は「神の国の福音」として告げ知らせてくださった。
 
 私たちは、後ろ髪を引かれる思いに捕らわれ生きるのではない。「神の国の福音」に神様が用意してくださっている救いの約束に引かれて生き、そして死んで行くことができる。神様は、あなたの弱さ。痛み。過去。何よりも罪。それら一切を、イエス・キリストの十字架上によって受け入れ、赦してくださったのです。そうであるならばもうあなたを神の国から遠ざけ得るものは、何もない。神の国は、後ろにあるんじゃありません。もうすでに目の前から、ここから始まっています。
 
 

ルカによる福音書 第4章38-41節
「ここが痛いんです」

 
 先週、祈祷会に来ている人たちには、お知らせし、お祈りいただきましたが、妻がギックリ腰になってしまいました。暁人も体重が10キロ近くになりましたので、知らず知らずのうちに腰に負担がかかっていたのでしょう。火曜の朝、牧師室にいると電話がありまして、「来てくれ」と言うので、急いで二階に上がると、そこには固まって動けなくなっている妻の姿がありました。どの体勢になっても痛い。とりあえずゆっくり、ベッドのある部屋まで行きまして、そこで横になってもらったのです。しかし暁人は、そんなことお構いなしです。覚えたてのずり這で、縦横無尽に動き回っている。私一人ではどうしようもありませんでしたので、おばあちゃんたちに、かなり助けてもらった一週間でした。
 
 今日読みました所に、ちょうど「癒し」に関することが書かれていました。イエス様が、病気の人を、痛む部分を、その御力でもって癒される。聖書には、そういった事が、ここ以外にも、たくさん出て来ます。医者もびっくりするような、奇跡としか言いようのないことが起こる。で、私たちは、こういう箇所を読む時に、これ現代でも、こういうことが起きてくれたら、どれだけ助かるかと思う。体に不自由を抱えている人が、病気で苦しんでいる人が、私たちの周りにも、たくさんいるからです。
 
 健康な時は、私たち、健康について考えることなんて、まずありません。それが当たり前だと思っているからです。しかしいざ、体が言うことをきかなくなる、病気にかかってしまいますと、たちまち、色んなことを考えざるを得なくなる。これまでの食事、習慣、行い、何がいけなかったのだろうか。もっとこうしておけばよかったんじゃないか。しかし、そんなこと言い出しても仕方ありません。すぐに不自由が、痛みが解決されるわけではない。ひどい場合には、一生付き合っていかなければならないことだってある。
 
 改めて、私たちにとっての「健康」とは何か。聖書がそれをどう語っているのか。誰しもが直面する「病」ということを通して見て行きたいと思う。先ほど読んだ箇所の冒頭、このように記されていました。38節「イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ」。シモンというのは、後にペトロと呼ばれ、イエス様の弟子となる人物です。
 
 ある「安息日」のことでした。「安息日」とは、ユダヤ教で定められた「聖なる日」でありまして、今で言う「土曜日」のことです。その日は礼拝以外、基本何もしてはいけない。これまでも何度かお話したかと思いますが、安息日は、何が何でも働いてはいけないのです。歩ける距離まで決められている。当然、お料理なんかもできません。前日に作り置きして、それを安息日に食べるのです。お医者さんなんかは、更に大変です。治療したら、それは労働になりますから、救急で運ばれてきても、積極的な治療はできないのです。おかしな話ですけれども、回復しない程度に、現状維持程度の処置しかしてはいけない。皆、大真面目に「神様が休めって言っているんだから絶対に休まないといけない」そう考えていた。
 
 そんな安息日のことです。イエス様は礼拝を終え、会堂を出て、シモンの家に行ったと、聖書にはあります。この会堂とシモンの家は、安息日に歩いて移動が許される距離にありました。実際に、私はカファルナウムに行った時、その位置関係を見て来ましたが、カファルナウムの会堂があった遺跡と、ペトロの家があったと言われている場所、そこまでは目と鼻の先なのです。
 
 そんなシモンの家に入ると「しゅうとが高い熱に苦しんでいた」。これただの風邪じゃありません。「高い熱」。これは当時の医学用語です。他の並行箇所、マタイとマルコでは、ただ「熱」とだけしか説明されていませんが、流石はこれを書いたルカは医者なだけあって、当時の医療関係者ならば、それが何を指していたのかが分かったであろう「高い熱」という言葉を用いるのです。今で言う所の、慢性的な熱病、マラリヤのようなものじゃなかったかと言われています。それで苦しんでいた。そこで「人々は彼女のことをイエスに頼んだ」とあります。
 
 この時、イエス様は「高い熱」に対して、何をなさったのか。悪霊の時と同じで、「熱を叱りつけた」(39節)とあります。そうすると、たちまちシモンのしゅうとめから、熱が出て行くことになる。不思議な出来事です。病気の状態から、一気に健康な状態へと変えられる。回復する。とても象徴的な出来事だと思う。この出来事を通して、聖書は問うのです。あなたにとって「健康」とは何か。「病気」とは何か。
 
 健康。広辞苑だと「身体に悪いところがなく健やかなこと」との説明がされています。身体に悪い所がない、病気ではない状態。しかし果たして、それだけで健康と言えるのでしょうか。この点、WHO(世界保健機関)の定義は、もう少し踏み込んでいます。それによると「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること」。
 
 これ、とても大切なことを言っていると思う。私たちは、身体に何も問題がなければ、健康かと言えば、そうじゃない。生きる目的を失っている人が、どれだけいるでしょう。精神的に参ってしまって、何も感じない、心が動かない、死にたいと思っている人が、実際に沢山います。その状態で、はたして「健康」と言えるでしょうか。逆の場合もあります。病気であっても、その病を意味あることとして受け入れ、今を感謝しつつ、希望を持って生きている人がいます。身体は悪いかもしれませんが、人としての心持、それは健やかであると言えましょう。
 
 そう考えますと、本当の健康とは何か。そもそも病気とは何かを、考え直さなくてはならないように思います。それを聖書は、何と言っているか。それに関して、今日の聖書は、興味深い言葉を中心に語ります。それは39節に出て来る「もてなす」という言葉です。ここに、その人が健康か、それとも病気かの線がある。そう聖書は見るのです。
 
 シモンのしゅうとは最初、「高い熱」のせいで、イエス様が家に来ても、もてなすことができませんでした。もてなすどころじゃなかった。ところが病気が癒され、彼女が何をしたかと言うと、すぐに一同をもてなした、とある。これ明らかに、ただ「病気が癒されて良かった」という話ではありません。この時、彼女は、本来あるべき姿それを取り戻すことができたのです。ここで言われている「もてなす」(ディアコニア)という言葉には「仕える」という意味があります。「仕える」。主人の下で、近くで、与えられた働きをすることです。
 
 病気から健康を取り戻した、この出来事。それは、これまで神様に仕えることができなかった者が、神様に仕えることができるようになった出来事なのです。主人である神様の下にいない。遠く離れてしまっている。それ故、関係も思わしくない。そこから、神様との関係が再び近くなった。元通りに回復した話なのです。
 
 つまり聖書が言う「病気」とは、単に、身体のどこかが悪いという話ではなく、神様との関係が、思わしくない状態になっていることを指している。逆に健康とは、神様との関係が良好であるということです。「もてなす」「仕える」という言葉から、神様との関係が見えてくる。それがちゃんとある人生か、あるいは全くない人生か。そこが、その人が健康か、病気かの境目である。そう聖書は言うのです。
 
 注目すべきは、その関係を、ここではイエス様の方から、持とうとされておられるということです。39節に「イエスが枕もとに立って」とあります。「枕もとに立って」だと、何かよそよそしい感じがしますが、原文を見ると、「近づいて」「傍によって」という言葉が使われています。ある英語の訳(NIV)だと「So he bent over her」となっている。つまりイエス様は「身をかがめ」たのです。彼女の病気、辛い部分、それを覆うように近寄られた。何もできないでいる人に対して、まるで神様の側から、関係を持つかのように。
 
 その意味でイエス様は、私たちを健康にするために来られたのです。神様との関係すっかり拗れてしまった関係、それによって病んでしまっている私たちを、再び神様との関係の中へと導くために、健全な人生へと回復させるためにやって来られた。そう考えますとこの話が、前回読んだ「悪霊を追い出す話」の続きにあるということ、そして再び41節から「悪霊を追い出す話」になっているということ。これ決して無関係なんかではない。
 
 「病気」=「悪霊の仕業」ということを言いたいのではありません。そうじゃなくて、病気と悪霊に共通していることは、何かって話です。その点に、この福音書を書いた医者ルカは、注目するのです。病気と悪霊、いずれも、神様との関係を壊す力を持っている。私たちを、神様から引き離そうとする力がある。
 
 私たち病気の時、何が苦しいかって、肉体の痛み、辛さ以上に、それによって自分は神様から見捨てられた、と思い込んでしまうことでありましょう。もうこの先、何も望めない。生きている意味だって分からない。この人生、どうしようもない。そうしながら、私たち、聖書が言う「病」に、本当にかかってしまう。そこから抜け出せなく、立ち上がれなくなってしまう。そういう人が、神様との関わりを失い、人生そのものが病んでしまっている人が、どれだけ多いことか。
 
 40節に「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者」たちが、イエス様のもとに連れて来られた、とありました。「日が暮れると」ユダヤでは日没から、次の日が始まるとされていました。安息日が終わる時間帯、自由に動ける日没まで、皆待っていたのでしょう。暗い中、病人を連れて、方々からやって来る。
 
 しかし「日が暮れると」それは、ただ次の日になった、というだけじゃなく、そのままに病気の人たちの、それを支える家族たちの心の内を表していたのかもしれません。病を抱え、見通しがつかない暗い世界の中を生きていたのです。しかし、そんな彼らに対して、イエス様は「一人一人に手を置いていやされた」(40節)とある。手を置くわけですから、離れてはできません。しかも一人一人ですから、時間もかかったでしょう。どうして「遠くから」「まとめて」ではないのか。神様の御力をもってすれば、造作もないことでしょう。しかしそうはなさらない。
 
 一人一人持っている課題が違います。痛み方も、痛む部分も違う。イエス様は、それに寄り添うのです。関係を持つ、というのは、そういうことでしょう。すると「悪霊もわめき立て、『お前は神の子だ』と言いながら、多くの人々から出て行った」(41節)とあります。イエス様の下に連れて来られた人たちは、病気で苦しんでいた人たちです。その病気を癒されたのです。しかし悪霊が「出て行った」とある。このことからもイエス・キリストの癒しの業。救い。それは肉体的な治癒に留まらないということが分かる。
 
 私たちを、本当に病ませているものがある。命の源である神様から、私たちを引き離そうとする力。「病気」や「悪霊」は、そのきっかけに過ぎません。本当に厄介なのは、私たちの根底に潜む「弱さ」「自己中心」「罪」でありましょう。それがある限り私たちは神様から離れた歩みをせざるを得ない。けれども、その罪を、イエス・キリストは、十字架もろとも葬り去ってくださったのです。もう、私たちを神様から、完全に遠ざけ得るものはない。
 
 依然として、肉体的な病があるかもしれない。悪霊の囁きが聞こえるかもしれない。しかしそれらに、私たちは負けることはない。どうしてか。悪霊はイエス様を前に、わめき立てながら出て行くしかなかったからです。イエス・キリストが、その力に屈することはなかった。その御方が、私たちを神様から引き離そうとする力を一喝し、そればかりか弱い私たちを覆うように立ち、痛む部分に手を置いてくださっている。
 
 

  

ルカによる福音書 第4章31-37節
「イエスって凄いらしい」

 

 先ほど読みました聖書の中に「霊」という言葉が、しかもただの「霊」ではなく、「汚れた悪霊」と呼ばれるものが登場します。「霊」という言葉を聞いて、皆さんは、どういったものをイメージされるでしょうか。これに関しては、教会以外でも、実に多くの所で、様々な形で、色んなことを、私たち耳にします。「霊感があるんです」「私、見えるんです」という人が周りにいるかもしれません。またそれを面白がるようなテレビ番組があったり、あるいは、人を脅すように「お祓いをしなければいけない」「じゃないと悪いことが起きる」「これを買って身に着ければ大丈夫」それを商売にしている宗教もあります。本屋に行けば「スピリチャル」のコーナーにずらりと、その関連の本が並んでいる。
 
 しかしどれも、どこか眉唾で、いかがわしいように感じてしまうのは、何も私だけではないと思います。「霊」が見えないのをいいことに、どれだけ歪んだ「霊」に対する理解が横行していることか。で、こういう時に、私たちは闇雲に、この社会が造り上げた「霊」のイメージでもって、聖書が語る「霊」というものを考えない方がいい。なぜなら聖書が語る「霊」は、決して怪しいものでもなければ、つかみどころのないものでもないからです。実体があるのです。私たちの日常生活に深く関わっている。
 
 今日読んだ箇所に、一人の「汚れた悪霊にとりつかれた男」が出て来ます。その男は「会堂に」いた、とあります。「会堂」。私たちで言う所の礼拝堂です。神様を褒め称え、礼拝する場所です。そこにいた。神に由来する、いい「霊」ではありません。悪魔に由来する「汚れた悪霊」です。それが聖なる場所に、神を礼拝する場所にいたというのです。これだけでも、私たちドキッとしないでしょうか。私たちが、神様の方を向いて賛美する場所、命が新たにされるその場所に、「汚れた悪霊」が共にいる。
 
 今ここに、「自分は一点の汚れもない」「まったくもってクリーンだ」などという人はいないでしょう。誰もが汚れを持っている。その意味で、これ決して、この男だけの話ではない。私たち自身の話です。この汚れた悪霊に取りつかれた男は、大声で叫びます。33節「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。
 
 静かな会堂の中に、叫び声がこだまする。この時「汚れた悪霊に取りつかれた男」が、どういう顔をしていたのか。また、どんな姿だったのか。詳しいことは分かりません。しかし、この男の心の内側は、その発言から、伺い知ることはできます。「男」は言います。「我々を滅ぼしに来たのか」と。
 
 これを聞いて、不思議に思わないでしょうか。ここに出てくる男は「一人」です。ところが、この人は、何と言っているか。「我々を」と言って叫んでいる。「私を滅ぼしに来たのか」ではないのです。たった一人の男が、「我々」と自分のことを呼んでいる。とても奇妙な光景です。
 
 これ、現代の医学で言えば、何かしらの病名がつくのではないかと思います。ですから割り切って「当時は、そういった知識がなかったからすべて悪霊の、汚れた霊の仕業ということにしていた。表現の問題だ」中には、そう言って、済ませてしまう人もいます。しかし、この男のことを、単なる病人として、精神疾患を持った人として、片づけることはできないと、私は思うのです。
 
 「汚れた悪霊」は、この男に「我々を」と叫ばせています。「我々を」。沢山の自分が、心の中に住んでいるのです。それ故に、自分で自分の、まとまりがつかないでいる。まるで多重人格であるかのように、ある時は、明るい自分だったかもしれない。しかしかと思うと、今度は、本当に暗い思いに取りつかれてしまう。またある時は、優しく人に接することができたかもしれない。しかし別の場面になると、自分でも驚くくらいに、残酷な自分になっている。
 
 そういった経験を、少なからず、私たちはしているはずです。自分の中に、色んな自分がいる。確かに、「汚れた悪霊」という言葉は現代では、そのままには通用しない言葉なのかもしれません。しかし、この男が置かれた状況、「汚れた悪霊」によって「我々を」と叫んでいる様子、そう叫ばざるを得ない状況、これは正に、私たちの姿そのものだと思うのです。
 
 誰もが自分の中に、矛盾を抱えながら生きています。時に、その矛盾にかき乱され本当の自分のことが分からなくなります。そこで様々な生き方を試みてみる。しかしどうも落ち着かない。感情は、コロコロ変わります。気づけば、自分で自分をコントロールできなくなっている。そうしながら叫ぶのです。「かまわないでくれ」と。
 
 「かまわないでくれ」。以前の訳では、この部分「あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです」(口語訳)となっていました。大胆に訳し変えるならばこうです。「あなたはあなた。わたしはわたし」。そう、私たち、いよいよとなりますと、「もう一切かまってくれるな」となることがある。「あなたはあなた、わたしはわたし」。そうしながら、自分の世界に、罪の世界に引きこもるのです。
 
 「汚れた悪霊」は叫びます。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。「イエスよ、私の側に来るな」と、この男は叫んだ。悪霊が叫ばせたのです。「もう自分でも、収集のつかない自分をこれ以上混乱させないでくれ。どうか、近寄らないでくれ。ほっといてくれ」。
 
 私たちも、この男のように、救いの手を自ら拒むことがある。そうしながら、自分で自分を痛めつけ、自分を保とうとするのです。苦しんでいる自分、痛んでいる自分不幸な自分、引き裂かれた自分、閉ざされた自分、そんな自分に酔いしれる。そうやって絶望に浸るのです。「あぁ自分は駄目だ」「どうせ新しいことは、何も起きやしない」「救われることなどない」と言ってです。
 
 「汚れた悪霊」とは、そういった神様から離れようとする力のことでありましょう。私たち、どうも、いじけてしまっているところがある。頑なに「救われてなるものか」と言い張ってしまうところがあるのです。そんな時、気づいていないかもしれませんが、私たちもまた「汚れた悪霊」に取りつかれているのです。その虜になっている。
 
 しかし、それに、黙っておられない御方がいる。イエス様は、この「汚れた悪霊」を叱りつけて言うのです。「黙れ、この人から出て行け」と。「お叱りになると」とありますから、これは激しいものだったに違いありません。この「汚れた霊」の叫びよりも、はるかに大きな、それを上回る声であったことでしょう。「黙れ。この人から出て行け」。
 
 私たちの中には、今も、神様から遠ざかろうとする力が働いていることでしょう。「あなたはあなた。わたしはわたし」そういって、神様との係わりを断とうとする声が聞こえてきます。けれども忘れてはなりません。そういった声よりも大きなイエス様の声が、私たちに向けて響いているのです。「黙れ。この人から出て行け」。
 
 「悪霊」は、私たちの耳元で囁き、そして勧めます。神様との関係抜きで、「わたしはわたし」で行こうじゃないか、と。そっちの方が、どれだけ魅力的な人生か。自由か。幸せか。しかしそれはまやかしです。神様との関係がない所に、私たちの真の平安などありません。神様によって形作られた存在である私たちが、神様から離れていいはずがない。だからこそ、イエス様はおっしゃるのです。「黙れ。・・・出て行け」。その言葉の中を、私たちは生きている。その言葉に守られて、私たちは今生かされている。
 
 色んな声が、自分の中から聞こえてくることがあるでしょう。サタンは「汚れた悪霊」を巧みに用いて、私たちを惑わします。しかし、それらを一喝する声を、私たちは知っている。「黙れ。この人から出て行け。悪霊の言いなりになってはいけない。目を覚ませ。神の国は、神の支配は、もう始まっている。あなたもそこに招かれているのだから、惑わされてはいけない。私との関係の中に帰ってこい」。
 
 汚れた悪霊を、さらに上回る大きなイエス様の声が、今日もこの場に響いている。私たちを救うのは、私たちを導くのは、私たちを生かすのは、私たちの中にある自分の声などではありません。サタンの策略をも打ち砕くイエス・キリストの声です。
 
 

ルカによる福音書 第4章14-30節
「おじちゃんは知っている」

 
 誰にでも、自分が生まれ育った故郷というものがあります。そこに帰れば、昔の自分のことを知っている人たちがいる。それが懐かしくて、事あるごとに帰省する人もいれば、それが嫌でまったく帰らないという人もいるかと思います。以前まで私は、どちらかと言えば、後者の方でした。私が生まれ育った所は田舎でしたので、田舎ならではの閉塞感と言いますか、そんな狭い世界、関係性がずっと続くのが嫌で飛び出した所もありましたので、帰ったとしても、正直あまり人とは会いたくない。色々と自分の記憶にないことを言われたり、昔の話をされた所で、今はもうその時とは違うわけですから、一体どんな顔をしたらいいのか困ってしまう。
 
 イエス様にも、当然、故郷がありました。それはガリラヤ地方にあるナザレという村です。今日読んだ聖書箇所に、イエス様がその故郷であるガリラヤのナザレに帰られた時のことが記されています。イエス様は、神様の愛を宣べ伝える働きを開始なさるにあたり、まず選ばれた場所が、慣れ親しんだガリラヤだった。14-15節にこうある。「イエスは霊の力に満ちてガリラヤ地方に帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」。
 
 ここに、イエス様の評判がガリラヤ一帯に広まった、とあります。ガリラヤから、その村ナザレから偉人が誕生した。地元の人たちは、さぞ誇らしかったと思う。ナザレは、小さな村でしたから、村の人が全員、顔見知りというような世界です。「あぁイエス君ね。小さい頃から、よく知っているよ」。そんなおじさんや、おばさんがいたことでしょう。「一緒に遊んだ」という人だって沢山いたと思います。で、錦を飾るじゃないですけれども、そんなナザレに、すっかり有名になったイエス様が帰る。16節「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」。どんなに立派になったことか、皆、息をのんで、聞いていたと思う。
 
 そんな中でイエス様が聖書を読み終わり、席に座った時のことです。20節に「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」とあります。「この後、一体何を語るのだろうか」皆の注目が集まる。21節「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」。

 彼らは、イエス様の口から出る「恵み深い言葉」に驚いた、とあります。そして皆口々に言う「この人はヨセフの子ではないか」と。そうヨセフの子、ただのその辺の普通の家庭の子なのです。何なら普通よりも貧しいくらい。良い所の家で育ったわけでも、特別な教育を受けたわけでもない。あの自分たちがよく知っているイエス君なのです。それが「恵み深い言葉」を今、自分たちの前で語っている。その「恵み深い言葉」とは何か。
 
 この時、イエス様は「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21節)そう言って話し始めました。「この聖書の言葉」とは、直前で朗読されたイザヤ書の言葉のことを言っています。そこには、こう書かれていました。「貧しい人に福音を…、捕らわれている人に解放を、目の見えない人には視力の回復を…、圧迫されている人を自由に」。神様の約束が記されていた。貧しい人に良い知らせが届けられる、捕らわれからの解放が起き、力が回復し、そして自由が与えられる、そんな時が来る、という約束です。
 
 私たち、色んなものに捕らわれながら生きてはいないでしょうか。周りからの目やしがらみ、習慣や常識、そして過去に、自分自身に捕らわれながら生きている。それだけではありません。物事、見えているつもりでいますけれども、実際は色んなものが見えていない。神様の栄光を、備えられている恵みを、私たちは、どれだけ見逃していることか。更には、病気による身体的な圧迫があります。また人との関係、仕事のこと、将来の不安、精神的な圧迫を常に受けています。決して、自由なんかではない。それら一切が、取り払われれば、どんなに嬉しい事かと思う。それこそ福音、良い知らせでしょう。それが早く訪れんことを、私たちは願う。
 
 しかしそれが「今日、…実現した」と、イエス様は宣言なさるのです。21節「この聖書の言葉〔神の約束〕は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。「主の恵みの年」が到来したのだ、もうあなたたちは自由なんだ、と。この19節で言われている「主の恵みの年」とは、旧約聖書のレビ記25章に出て来る「ヨベルの年」のことを言っています。「ヨベルの年」というのは50年に一度やって来る特別な年のことでして、一言で言うならば、一切のものがチャラになる。あらゆるものからの「解放の年」のことです。「ヨベル」というのは「雄羊の角」を意味する言葉で、その角で作ったラッパを、その年に吹き鳴らすことから、そのように呼ばれるようになりました。
 
 例えば、貧しさのゆえに、自分自身を奴隷として身売りしてしまった人がいたとします。当時は、そういうことは珍しいことではありませんでした。しかしヨベルの年になると、その人は無条件に解放され、借金もゼロになる。あるいは、貧しさのゆえに土地を売らなければならなかった人がいたとします。しかしヨベルの年になると、一度手放した土地が、無償で返ってくる。このように貧しい人が、自分が何かをしたからではなく、その資格や権利があるからではなく、まったくの恵みとして、解放され、回復される年、それがヨベルの年、19節で言われている「主の恵みの年」です。

 そんな「主の恵みの年」が到来した、とイエス様は告げるのです。これちょうど、イエス様がこの話をされた年が「ヨベルの年」だったから、そういう話をなさったのではありません。ここで言われているのは、50年ごとに訪れるユダヤ社会の内々の決まり事、制度の話なんかではない。それらはあくまでも、人と人との間の話です。自分たちの社会における不平等や不満を大きくしないための、一種の救済策、知恵のようなものです。イエス様がここで告げている「解放」や「自由」は、そういう内々の一時の話じゃない。
 
 イエス様は、ここで、神と人とのことを言っているのです。長きにわたって、積もりに積もった、神様に対する私たちの負い目。罪の歴史。50年どころではない。人が形作られ、その歩みを開始した時点から、ずっと続いて来たのです。ある面で、今なお進行中とも言えましょう。私たち、それを引き継いでいる。私たちの神様に対する負債、借り、過ち、罪、それらは到底、返し得るものじゃない。どんなに善行を積んでも、正しく生きても、それ以上に、私たちは罪を犯すのです。
 
 ところが、それが、今や帳消しになった、というのです。神様は、あなたの罪を一切不問とし、赦す。だから、もう神の怒り、裁きを恐れなくてもいい。呪われることもなければ、滅びることもない。そういった悪しきものからの解放、罪からの自由。神の子としての歩みの回復。神のもとにある祝福された人生。それが今日、訪れた。イエス様は、そのような「主の恵みの年」の到来を告げているのです。
 
 そう、あの「ヨベルの年」と同じように、ただ一方的な恵みとして。その資格があるからではなく、その権利があるからではなく、私たちの行いに対する報いとしてでもなく、あの「ヨベルの年」のように、一方的な恵みとして、神様による赦しと救いが与えられる。そのような「主の恵みの年」が、私と共に到来した、とイエス様は宣言される。
 
 それを聞いた人々は、イエス様のことを褒め称え、語られる福音を喜びました。しかしイエス様はここで、旧約聖書を引用しながら、エリヤの時代の話、エリシャの時代の話をなさるのです。すると一変、雲行きが怪しくなる。そのことが23-27節に記されている。かつて神様から遣わされた預言者エリヤ。その時代、飢饉が起こり、イスラエルには多くのやもめ、夫を失い、生活に困窮した女性がいました。ところがエリヤが助けたのは、シドン地方のサレプタのやもめだけだった。また預言者エリシャの時代。イスラエルには、皮膚病を患う人が沢山いた。しかし癒されたのはシリア人ナアマンだけだった。
 
 「シドン地方のサレプタ」に「シリア人」。要は、イスラエル以外の人たち。異邦人と呼ばれ、イスラエルの人たちが忌み嫌っていた人たちです。「あいつらは汚れている。自分たち神の民で、あいつらとは違うんだ」そう軽蔑し、馬鹿にしていた人たち。しかし、実際「神様の恵みを受けたのは、その救いに与かったのは、神の民を自負するイスラエルの民ではなくて、異邦人だった」という話をするのです。
 
 これを聞いた人々は憤慨し「総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が立っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」(29節)とあります。一体、何をそこまで怒ったのか。理由はただ一つ。自尊心を傷つけられたのです。皆「自分たちが、イスラエルの民こそが全てだ」と思っていた。当然、神の民である自分たちが神様の祝福を一手に受けるべきだ。独占しているんだ。そう思い込んでいた。
 
 「自分たちが偉い、自分たちが全て」と思う、その気持ち。「私のいる国」「私たちの民族」「私が属するコミュニティ」「私の宗教」。そして「私の教会」。人は何だってそういった狭い、特殊な、自分が所属する組織に捕らわれるのです。それが「全て」になってしまう。不安なんです。不安だから「私の国」「私の宗教」「私の属する組織」それらを持ち出し、そこに自分を置くのです。しかし、それによって起こるのは、排除です。分裂です。この時だってそうです。人々はイエス様を崖から突き落とそうとした。受け入れ難いことを言ったからです。
 
 しかし、イエス様は何も、イスラエルの人たちを否定するために、そのことを言ったのではない。神様の救いの広さを、それが異邦人にまで及ぶということを語ったのです。「主の恵みの年」それはイスラエルの人たちだけに限った話ではない。すべての人に及ぶんだ。「私の国」「私の民族」「私のコミュニティ」「私の教会」そんな狭い話をしているんじゃない。
 
 キリスト教界にも、色んな教団・教派があります。日本基督教団の中にも、伝統の違う教会がいくつかある。そこでしばしば、私たちは、変な誇りに生きてしまうことがある。「私たちの教会こそ、聖書に忠実だ」とか「正しい」とか「純粋だ」とか。それだけならまだしも、時に周りを否定し始める。「あの教会は駄目だ」と言って。けれども、本当にそれって健全なことなのでしょかね。周りを否定し、攻撃しなければ、自分が成り立たないって、おかしくないでしょうか。
 
 それって、今日の所で、イスラエルの人たちがやっていることと、まったく同じです。彼らは異邦人と自分たちを区別することで、自分を保っていた。似たようなことを私たち、どれだけしていることか。神様の救いを、憐れみを、恵みを、自分たちだけの中に留めようとする。福音を独占しようとする。しかし、神様の救いは、主の恵みの年は、そんな枠には納まらない。30節に「イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」とあります。イエス様は、イスラエルの人たちだけに遣わされたのではないのです。神の救いは、憐れみは、恵みはすべての人に及ぶ。
 
 事実、私たちは聞いているのです。「この聖書の言葉〔神の約束〕は、今日、あなたが耳にしたとき、実現した」。「今日」です。「明日」でもなければ、「これから先、いつか」でもない。「今日…耳にしたとき、実現した」。イエス・キリストは来られました。私のために。私だけではありません、隣の人のためにも来られた。「主の恵みの年」が到来したのです。神様による救いは、無償の恵みとして与えられます。私たちは罪赦された者として、救いを約束された者として、「主の恵みの年」を生き始めることができる。神の国を目指して生きる道が、開かれている。
 
 ポイントは、それが「貧しい人」にとっての福音(良い知らせ)だ、ということです。考えてみてほしいのです。負債がチャラになって嬉しいのは、誰か。言うまでもありません、それは借金を負っている人でしょう。貸している側からしたら、たまったもんじゃない。踏み倒されるわけですから。
 
 「ヨベルの年」が来て嬉しいのは「貧しい人」だけです。同じように、神様の赦しが嬉しいのは、本当に自分の罪を悔いている人、もう自分ではどうすることもできない、神様の憐れみがなければ生きていけない人、聖書ではそれを「貧しい人」と呼びますけど、その「貧しい人」だけなのです。
 だからイエス様は別の所でおっしゃるのです。「貧しい人々は、幸いである」(マタイ5:3)と。「天の国〔神の国〕はその人たちのもの」なのです。お金の話ではありません。神様の前での心の話です。「貧しい人」は、その貧しさ故に、自分ではどうしようもない。ただ恵みを受け取るしかできない。お返しなんかできるはずもない。しかしそれでいい、とイエス様はおっしゃられる。
 
 私たち、神様の前で「貧しい人」になっているでしょうか。変な意地張ってないでしょうか。小さな誇りに生きてはいないでしょうか。そうであるならば、今日聴きましょう。「主の恵みの年」の宣言を。そのためにイエス・キリストが来て、私たちの罪の一切を負ってくださったのです。「この聖書の言葉〔神の約束〕は、今日、あなたが耳にしたとき、実現した」。あなたたちの癒しは、回復は、自由は、救いは、もう始まっている。あなたの人生は、もうすでに神様の恵みの中に置かれている。
 
 

ルカによる福音書 第4章1-13節
「悪魔の倒し方」

 
 先ほど読んだ聖書の中に、イエス様が悪魔から誘惑を受けられた時のことが記されていました。いよいよ神の国を宣べ伝える、神様の愛を人々に伝える働きを開始する、その時のことです。しょっぱなから、それを挫いてやろうと、悪魔が近づいて来て、イエス様を誘惑した、というのです。
 
 イエス様は、神の子なんだから、全く持って清く、正しい御方なんだから、そんな誘惑なんかとは、一切無関係か、そんなもの感じすらしないかというと、そうではないのです。以前も言いましたが、イエス様は、完全な神であり、完全な人なのです。完全な人ですから、私たち同様、食事しなければ当然お腹が減りますし、殴られれば痛いですし、夜には疲れて眠くもなる。私たちと変わらない姿にまで、同じ目線にまで、神様がへりくだってくださった。それがイエス・キリストなのです。
 
 そのイエス様が、今日の所で、誘惑に遭う。「誘惑」というのは、「あそこに綺麗な女の人がいるよ」とか、「ズルしてお金儲けしよう」とか、「どうせバレないよ」とか、そういうことを心の中で思うことです。そういう囁き、声を聞くことです。私たちは普段、いかに誘惑に囲まれながら生活していることか。
 
 そしてそれに、私たちは、しばしば負けてしまうのです。その時、私たちは思う。「自分は何て汚い人間なんだ」「嫌らしいんだ」と。とてもとても、神様に顔向けできない。神様は、そんな誘惑なんかとは、まったく無縁な御方だから、そういうのをお嫌いになる方だから、誘惑に負けてしまう、こんな自分のことなんか分かってもらえるはずがない。しかしその誘惑に、イエス様も遭われたんだ、と聖書は言います。
 
 私たちが遭遇する誘惑、イエス様だけ特別に、そういうのは全然ない、思いもしないじゃなくて、イエス様も、そういった誘惑に遭っているのです。誘惑を受ける。その囁きが聞こえる。これある面、人間である限り、どうすることもできないことです。イエス様だって、誘惑する声を聞いたわけですから。問題は、それにどう立ち向かうかです。私たちが目を向けるべきは、イエス様が誘惑に、どう勝利されたか、です。それを今日は、見て行きたいと思う。
 
 「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を霊によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」(12節)。ここに「聖霊に満ちて」とあります。この直前、イエス様は洗礼を受けて、聖霊に満たされる。神様の力で、神様の思いで自分が一杯になる。素晴らしいことです。私たちだって洗礼を受けた時、またこの会堂に集って礼拝する時、霊に満たされる。力を頂くことでしょう。
 
 この時ばかりは、誘惑なんかとは関係ないと思う。何か勝てそうな気さえする。ところがその時に、イエス様は荒れ野に引き回され、誘惑に遭ったというのです。これとっても興味深い。私たちが誘惑に遭うのは、霊に満たされている時なのです。信仰的に高ぶっている時、充実している時、うまくいっている時なのです。「よーし、神様に従って生きて行くぞ」気持ちを新たにした時と言ってもいい。そんな時に、誘惑に遭う。私たちで言えば、礼拝直後かもしれません。
 
 「悪魔」っていうのは、私たちが何もせず、寝転がっている時は、何もして来ないんです。悪魔も一緒になって寝転がっている。しかし私たちが、神様の御言葉に従おうとする時、聖霊に満たされて、神様の方に向かって歩こうとする時、新しく出発しようと起き上がる時、悪魔も同じように起き上がってくるのです。
 
 イエス様は「聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」(1節)「よし、これから神の愛を宣べ伝えるんだ」そう立ち上がった時「四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」(2節)とあります。この「四十」という数は、聖書の中で特別な数字でしてその信仰が試され、鍛えられる期間という意味で、一つの区切りを表す数字です。ある人は、ここでのイエス様の「四十日」の誘惑を、旧約聖書に出て来るイスラエルの民のエジプト脱出劇、荒れ野をさ迷った、あの「四十年」と重ね合わせます。
 
 イスラエルの人たちも、霊に満たされて、神様の力を目の当たりにして、意気揚々とエジプトを飛び出したんです。「もうエジプトの言いなりなんかではない。新しい生活が始まる」「これからは神様に従って生きるんだ」そう決心して出発したのです。しかし、荒れ野の中を四十年もの間、さ迷うことになる。その間、イスラエルの民は何度、神様に対して不平不満を口にしたことか。神様を裏切るような行為を繰り返したか。数々の失敗を、罪を重ねたのです。
 
 しかし神様は、そんなイスラエルの人たちに寄り添いながら、その時々に、必要なものを与え、戒め、そして導いてくださった。そんなこんなで四十年の時が経つ。ようやく約束の地カナンに辿り着きます。そこでイスラエルの人たちは、痛感させられたのです。「結局は、神様に委ねることが大切だ」ということを。この四十年の間、荒れ野で色々なことを経験した。空腹と、病と、孤独と不安、外から迫る脅威。中から起こる混乱。色んなものと闘った。でも結局、最後に言えるのは「神様に委ねるしかない」ということでありました。
 
 荒れ野での生活。空腹と、病と、孤独、そして不安と隣り合わせの生活。何もそれはイスラエルの人たちだけに限った話ではないでしょう。私たちもまた、ある意味で荒れ野の中を生きている。私たちの内には孤独があります。恐れと恥があります。肉体的な、精神的な限界がある。そんな荒れ野のような生活環境の中で、私たちは悪魔の囁きを聞くのです。
 
 イエス様は荒れ野で、悪魔から「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(3節)と誘われます。石をパンに。これは象徴的な言葉です。ここでの「パン」は「お金」と置き換えてもいいでしょう。飢えている時パンは、貧乏な時お金はまるで神様のように魅力的なのです。時にパンは、私たちの全てになります。それが全てを解決する神のように見えてきます。だから悪魔は囁く「石をパンに変えよ」。
 
 イスラエルの民が、エジプト脱出に成功した時、すぐに起きた問題、それはこのパンを巡る問題でした。脱出したはいいが、荒れ野のど真ん中でパンが底をつく。その時、人々は神様への信頼なんか吹き飛んでしまっている。目の前のパンのことしか頭がないのです。そしてモーセに迫ります。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(出エジ16:3)。
 
 悪魔は、私たちの肉体の弱さ、空腹を利用して、信仰とはまったく別の道に、私たちを誘おうとするのです。神様への信頼から、私たちを遠ざけようとする。この時、モーセだけが、神様が与えてくださるという信仰に立っていました。その通り、神様は、天から「マナ」と呼ばれる食物(パン)を降らせ、与えられる。
 
 空腹の時に、パンの誘惑があるように、私たちもまた、貧しさの中で、お金の誘惑に遭う。そんな誘惑に対して、イエス様は「人はパンだけで生きるものではない」(4節)という申命記8章3節の言葉でもって退けられます。マタイの方では、もっと丁寧に引用していまして、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4:4)となっている。すなわち、悪魔が与えてくれるんじゃなくて、神様が、神の言葉が、私たちに必要なものをすべて与えてくださるんだ、という信仰に立ったということです。
 
 そこで悪魔は、今度はイエス様を高く引き上げて、世界中を見せて「もしわたしを拝むなら、『この国々の一切の権力と繁栄を与えよう』」と誘います。「権力」と「繁栄」をちらつかせる。これもまた、大きな誘惑でしょう。「そのために、わたしに跪け」と悪魔は言うのです。この世界を支配する権威、それがあればイエス様の宣教だって、順調に、うまく行ったと思う。
 
 これらの誘惑が厄介なのは、「悪いことしなさい」というものではない、ということです。「良いことができるよ」「神様の栄光が顕れるよ」そういうふうに言って誘ってくるのです。悪魔は巧みに「こうすれば神様のためになる」「人のためになる」と、もっともらしい理由を並べ、立派な言葉で飾り立てて、私たちを誘導します。私たちもついつい「それならば」と流れてしまいそうになる。悪魔は言うのです。「変な拘りなんか持たずに、世の中と歩調を合わせてうまくやろう」と。「あの人の側につけば、あの人に従えば成功するぞ」と。そして、そういう手法ばかりが、この世の中では横行しています。
 
 ある時、出エジプトの更に前、イスラエルの先祖アブラハムは、神様から呼び出されて、故郷ウルを離れ、カナンという地に向かいました。神様が約束された場所だから、素晴らしい所だろうと思いきや、そこは荒れ果てた大地だった。その時、アブラハムは何を考えたか。「神様の約束、計画では、ここに住むようにということだけど、それは一旦脇へ置いておいて、とりあえずはエジプトに行こう」そう考えたのです。
 
 当時からエジプトは、大変栄えていた。エジプトに行ったら、ファラオのもとで豊かな生活が保障されている。安泰だ。案の定、エジプトに行くと、豊かな生活が待っていました。住む家も、お金もたくさん用意されている。ただ一つだけ問題があった。それはアブラハムの妻サラが美人だった、ということです。当時奥さんが美人だと、亭主は権力者に殺されて、奪われるということが、珍しくはなかったようです。
 
 あろうことか、サラはエジプト王(ファラオ)に目を付けられる。そんなエジプトでうまくやっていくには、嘘をつくしかないと思ったのでしょう。「これも生きて行くためだ」と自分に言い聞かせ、またサラを説得し、アブラハムは彼女を自分の妻とは言わないで、妹と言います。夫婦であることを否定します。そうすると今度は、美人のお兄さんということで、アブラハムに対する待遇が、更に良くなる。
 
 一見、それは祝福された人生です。パンの心配、お金の心配なんかしなくていいですし、住む所だって、地位だってある。そういうのを私たちは「世渡り上手」と言います。知恵があると言って賞賛します。そして、生きて行くためには、そういうことも必要だと考えます。「仕方のないことなんだ」「それしかないんだ」と。
 
 この時、アブラハムは、神様が与えようとしている祝福を脇へ置いて、ファラオが与えてくれる祝福を選んだのです。神様よりも、ファラオのほうが確かに思えた。そういった誘惑って、私たちの周りに、どれだけたくさんあることか。偉いもの、強いもの、大きいもの。「長い物には巻かれよ」などと言いますが、それに乗っかれば豊かになるんです。うまく行くんです。でも、家庭はバラバラ。夫婦関係は壊れる。
 
 それでも「やっぱりお金だ、成功だ、名声だ、繁栄だ」と私たちはなるんです。それが誘惑です。神様に「それは違うだろ」と諭されたアブラハムは、この後悔い改めて、もう一度、神様の御言葉にとどまり、約束の地カナンに戻って、一からやり直します。そこに本当の祝福が与えられる。
 
 イエス様はこれらの魅力的な誘惑に、どう立ち向かわれたのか。イエス様がおしゃっている言葉、そのどれにも二重鍵括弧がついています。そして最後に「と書いてある」と言われています。これは旧約聖書の引用です。つまりイエス様は、神の言葉でもって、それらを退ける。
 
 悪魔も負けてはいません。今度は、イエス様をエルサレムに連れて行って、神殿の屋根の端に立たせて言います。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」(9節)。そして悪魔も聖書を引用する。10節「神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる」「あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」と(詩編91:11-12)。一見、信仰を、神様への信頼を語っているかのようです。
 
 しかしこれは「人が驚くような奇跡をしたらいい。そうしたら宣教の働きもうまく行く。人々が求めるようなこと、喜ぶようなことをすれば、あなたは栄えるよ」そういう囁きです。悪魔は、いつも調子の良いことばっかりいうのです。そのために聖書だって持ち出す。しかしイエス様は、この時、悪魔が言う通りにはしなかった。「奇跡」というのは、その時は感動するんです。でも人は、すぐそれに慣れる。もっとすごい奇跡を、それを見なければ信じない、となる。それで人が、神様を信じるようになるのではない。
 
 私たちは、こういった問いを、いかに普段してしまっていることか。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」。「あなたが神なら、これができるはずだ」「こうしてみろ」。そうやって神様を試みる、テストするのです。けれども、そんなものは信仰ではないでしょう。私たちは神様をテストして、計りにかけて、こっちの方が得だから、こっちの方が正しいから、こっちの方が大きいから信じるのではない。テストをして、私たちが採点する側に立って、合格点に達したから信じる。そんな神様なんて、嘘もいい所です。
 
 だからイエス様は、「あなたの神である主を試してはならない」とおっしゃられるのです(申6:16)。あくまでも神様の言葉にとどまる。その言葉の奥にある祝福に、約束に信頼することを止めなかった。イエス様は、徹底して、御言葉に従って生きる道を選ばれました。そのいかに確かなことか。この世でうまくやるといった派手さはないかもしれない。ファラオが与えるパンのように、すぐに分かり易い形で、自分の望む形では得られないかもしれない。
 
 けれども神の言葉は、確実に、私たちを支え、養い、祝福へと導くのです。どこまでも神の言葉に立つ。その約束に、御支配に身を委ねる。これが、私たちが悪魔に勝つことができる、唯一の方法です。私たちの祝福は、そこから生まれてくるのです。
 
 

使徒言行録 第2章1-4節
「語らずにはいられない」

 
 先日、買い物がてら、散歩をしていた時のことです。小さな道を歩いていますと、突然、アパートの駐車場から、自転車に乗った小学生の男の子が、猛スピードで突っ込んできたのです。幸い、ぶつかることはありませんでしたが、悪びれることなく、しれっと立ち去って行く男の子の背中を見ながら、「あぶねぇな!クソガキが!」と怒鳴りそうになった。そう、一瞬にして「怒り」が沸きあがったのです。それが自分の中でいっぱいになった。あまり良い例じゃないかもしれませんが、こういうことってあるでしょう。私たちは普段、どれだけ色んなもので自分をいっぱいにしていることか。満たしているか。心配性の人は、心配事で自分をいっぱいにしています。自分に自信のない人は、卑屈な思いで、コンプレックスで自分をいっぱいにしています。他にも、欲望でいっぱいな人もいれば、悲しみで、後悔で、死にたい思いでいっぱいな人もいる。何だっていっぱいになるのです。私たちを満たし得る。聖書は、そのような私たち人間のことを「器」(使9:15、ロマ9:21、Ⅱコリ4:7)と表現します。器ですから、中に何が入るわけです。しかし問題は、何を入れるか、何で満たすかです。ともすると私たちは、満たすべきでないもので、自分を満たしてしまっている。先ほどの、私の小学生に対する「怒り」のように。それらでいっぱいになる、満たされるということは、それしか考えられない。それに支配されるということです。自分でコントロールが効かなくなる。そこに自由はありません。
 
 「五旬祭」のあの日、イエス様の弟子たちの心の中も、いっぱいだった。不安と恐れで。というのも、この時、彼らの頼みの綱であるイエス様はいないのです。イエス様は復活の後、弟子たちを残して、天にお帰りになる。「約束されたものを待ちなさい」(使徒1:4)とだけ告げられて。この時、おっしゃられた「約束されたもの」とは、「聖霊」のことです。「聖霊」というのは、「神様の見えない力」のことを指しますけれども、もっと砕いて言うならば「人を生かす力」のことです。それが「あなたがたの上に降る」(1:8)。ただ、それがいつ与えられるのか。そこまでは言われなかった。そんな中で、弟子たちは待たされるのです。一日、また一日と、日を重ねるごとに、不安が大きくなって行ったと思う。イエス様が墓から甦られたと言っても、イエス様を信じ、それに従う者たち、後に「キリスト者」と呼ばれる者たちに対する風当たりは、依然として厳しいままなのです。自分たちも、いつ殺されるか分からない。「イエス様は待てとおっしゃられたけど、どれくらい待てばいいのだろうか…」「聖霊が降ると言うが、そんなことは起こるのだろうか…」「はたしてこの先、自分たちが立ち上がる日は来るのだろうか…」。彼らにできることと言えば、一つの所に集まり、心を合わせて祈ることだけでした。ここに、すべての教会の原型があります。ここから教会は始まった。そう、私たちもここで一つになって集まり、祈りながら待つのです。新たに生きる力が与えられるのを。聖霊が注がれるのを。
 
 イエス様が天に上げられて、10日が経った「五旬祭」の日のことです。「五旬祭」というのは、ユダヤ教の伝統的な祭りの一つでありますけれども、当然、弟子たちは祭りを祝うどころじゃない。その日も、彼らは一つになって集まっていた。すると2節「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。ここで「突然」と言われているのは、この出来事が、まったくもって人間の側から起きたことではない、ということです。弟子たちが準備をして、計画して、それでもって教会ができたのではないのです。それを裏付けるように「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」(2節)た、とあります。自分の内側から生きる力が湧き上がって来たのではない。それが天から、神様の側からやって来たのです。これ、とても大切なことです。私たちは、ついつい自分の中を覗き込んでしまう癖がある。まるで自分の中に、何か希望が、救いが、生きる意味があるかのように。それを、必死で探そうとする。けれども見つからないのです、そんなものは。
そうしながら、私たちは行き着く。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(Ⅰコリ15:32)という結論に。この世のことで、目先のことで自分をいっぱいにしてしまう。しかし、それらを吹き飛ばすように、聖霊が降るのです。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」。
 
 ここで注目すべきは、聖霊が3節「一人一人の上にとどまった」ということです。あの人だけとか、この人だけが特別に、というのではないのです。そこにいた一同、全員の上に、聖霊がとどまったのです。「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(4節)。「ほかの国々の言葉で話しだした」。驚くべき出来事です。今まで学んだことのない言葉が、急に使えるようになったというのでしょうか。実際に、そんなことが起こり得るのか。私たちも不思議に思う。そこに居合わせた多くのユダヤ人たちは、「自分の故郷の言葉が話されているのを」(6節)耳にして、「驚き怪んだ」(7節)とあります。そして口々に言う。「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」(8節)。
 
 けれども、ここで大切なことは、弟子たちが聖霊に満たされて「話しだした」ということです。それが何語だったかとか、どうやってとか、そういったことに、私たち気を取られてしまいがちですが、それよりも座っていた人間が、立ち上がって話しだした。これが聖霊の、神様の力です。2節を御覧ください。「彼らが座っていた」とあります。そうなのです。座っていた。ある人は言います。弟子たちは、臆病の霊に取り憑かれていたのではないか、それで満ちていたのではないか、と。なるほど、私たちも似たような所がある。私たちも、自分の内側を覗くと、色んなものが渦巻いています。私たちの中は、いとも簡単に、自分の感情や、人の目、世の価値観に占拠されてしまうのです。そうしながら、私たちはそこから動けなくなる。それに支配されるのです。けれども、神様は、そこから事を起こされる。世にある様々なもので満たされてしまった、弟子たちを、そのままにはしておかないのです。聖霊を注ぎ、それでもって満たし、座り込んでいた弟子たちを、新たに立ち上がらせるのです。そうしながら御自分のもとへと、神の国へと導かれる。
 
 ここに今も、あの時と同じ霊が注がれ続けている。その証拠に、私たちは、少なくとも、この瞬間は、他のもので心がいっぱい、ということにはなってないでしょう。礼拝中に「あのクソガキ」とはならないはずです。祈りながら、讃美歌を歌いながら、別のものに心奪われる、支配されるということはないはずです。一つになって集まる時、神様を礼拝する時、私たちは一切のものから自由になることができる。神様の思い、神様の力、霊によって満たしていただきましょう。それをいっぱいにして、ここから出て行きましょう。出て行った先々で、また色んなものが、私たちの心を占拠しようと、仕掛けてくるかもしれません。しかし、心配はいらない。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない」(哀3:22)。神様は約束してくださったのです。「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」(ヨエル3:1)と。それがペンテコステのあの日以来、実現し続けている。この私にも、注がれている。
 
 

ルカによる福音書 第3章23-38節
「そして神に至る」

 

 先程、読んだ聖書の箇所に、イエス様からアダムまで、ずらっと77代に及ぶ系図が記されていました。これ、目で追うだけでも、耳で聞くだけでも、大変なことです。途中で諦めて、この部分は飛ばして、次に行きたいと思った方も、おられるのではないでしょうか。私なんかはこういう所を読みますと、学生時代を思い出すのです。テストのために必死で、こういった人名や単語を暗記していたなぁ、と。大体こういうのって、覚えようと思っても一気には覚えられない。そこでどうするかというと、自分なりにリズムをつけて区切り、一つのまとまりを作ります。そのまとまりが覚えられたら、今度は次のまとまりへと移る。そして最終的に、それらを繋ぎ合わせて一つにするのです。で、この方法というのは、世界中どこに行っても、そう変わらないと思います。よほどの天才でない限り、そんな一回で覚えられる人なんていません。どこの国でも、リズムに乗せて、区切っては覚え、繋げる、それの繰り返しです。暗記に近道はない。ひたすら唱え続けるしかありません。
 
 以前、イスラエルに旅行した時に、有名なエルサレム神殿の外壁、「嘆きの壁」の前に行きました。そこはイスラエルの人たちの祈りの場でもあるのですが、私が行った時も、多くの人たちが壁に向かって祈りをささげていました。それを傍から見ているとですね、あることに気づく。祈っている人の身体が、前後に揺れているのです。何しているかって言うと、リズムを刻んでいるのです。リズムに乗せながら、聖書の言葉で祈っている。イスラエルの人たちの暗記の分量は、私たちの比ではありません。中でもユダヤ教の「正統派」と呼ばれる人たち、彼らは、聖書の創世記から申命記まで、トーラー(律法)と呼ばれる部分、それを全部覚えるわけです。まだ少年のような子でも、大人と一緒になって、身体揺らして祈っているんですね。それは彼らが、聖書の言葉、そこに自分たちの命の根拠がある、ルーツがある、そのことを大切にしているからでありましょう。暗記と共に、自分たちは「神の民」であるということを、体に刻むのです。
 
 私たちには、そうやって聖書を全部覚えるという習慣はありません。覚えたとしてもせいぜい一部分です。それは覚えたに越したことはないのかもしれませんが、私なんかは、もう最初から白旗上げてしまいます。「無理だ」と言って。ただ、なぜイスラエルの人たちが、今でもトーラーを全部覚えるのか。その心、その精神から、私たちも大いに学ぶべきだと思います。私たちの命を支え、生かす根拠が、聖書にはある。ですから、私たち、このルカによる福音書に記されている系図ごときで、一々たじろいでいる場合じゃない。ここにも、これを通して、神様が私たちに語らんとしていることがある。そのことに目を向けたいと思うのです。
 
 今日の箇所、系図に先立ち、ルカはこのように告げます。23節「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった」。ここに、イエス様のおおよその年齢が記されています。この記述から、他の福音書(ヨハネ)と照らし合わせて(年に一度のイスラエルの伝統行事(過越祭)が、3回は記されていることから)大体、イエス様の公生涯、神の国を宣べ伝える働きは、約3年ほどであったのではないかと言われています。で、この「三十歳」という年齢、現代の私たちの感覚で言えば、特に教会の中ではまだまだ「若い」部類になるでしょう。しかし聖書の世界において「三十」というのは、必ずしも若さを意味する数字ではありません。例えば、創世記に出て来るヨセフが異国の地エジプトで、奴隷から成り上がり、実質、国のトップに立ったのは「三十歳であった」(創41:46)とあります。また羊飼いであったダビデが、イスラエルの王様になったのも「三十歳」(サム下5:4)ですし、エゼキエルが預言者として立ったのも三十歳です(エゼ1:1)。他にも、祭司の務めにつくのは「三十歳以上」(民4:3)などという規定もある。
 
 王・祭司・預言者。この三つの役職に就く人というのは、昔から、人々を導くために、重要な働きを担ってきた人たちです。それがいずれも、「三十」という節目で表舞台に登場する。つまりこれ、何が言いたいかというと、「三十歳」というのは、決して「若い」ということではなくて、むしろ「機が熟した」という意味でありましょう。準備が整い、いよいよその働きを開始する、というタイミングです。その王・祭司・預言者が表舞台に立つ年齢と、イエス様が宣教を開始する年齢とが、ここでピタリと重なるのです。わざわざルカが、ここで「およそ三十歳であった」と告げているのは、イエス様こそが、人々を神の国へと導く、真の王であり、真の祭司であり、真の預言者である。そのことを伝えたかったのだと思います。聖書自身がそれを証している。その前提のもとで、系図がスタートしていくのです。
 
 イエス様から始まり、アダムまで総勢77名。そのままに読むと、これただズラッと並んでいるだけですので、分かりにくいかもしれませんが、聖書を研究する学者なんかは、次のように指摘します。「この系図は7人一組でまとめられている」と。つまり7名ごとで区切られ、それが11組あるというのです。なるほど、この7という数字は、聖書の世界では「完全数」とされる特別な数字でありまして、聖書の至る所に出て来ます。ここでもそうです。まるで後に続く人たちが、リズムを刻み、覚えやすいように、そんな配慮があるかのようです。このイエス様の系図に関しては、マタイによる福音書の方でも記されています。ただそれは、読み比べてもらえれば分かることですけれども、順序が逆になっている。マタイの方では、アブラハムからスタートして、イエス様に至る。過去から現在へ、そのような流れで系図が書かれています。方や、ルカの方では、イエス様からスタートして、アブラハム、そして更にはアダムまで系図が進むのです。現在から過去へ。で、このマタイとルカ、二つの系図に関しては、ただ出発点が違っているというのであれば、何ら問題はないのですが、詳しくこの二つを並べて見ますと、どうもそう単純でないようなのです。単刀直入に言いますと、この二つの系図、一致していないのです。特に、ダビデからイエス様に至る部分。ほぼ違っているのです(名前が合致しているのは3名だけ)。しかも名前だけではありません。そもそも人数が合っていない。更には旧約聖書のどこ読んでも、この系図に記されている人の名前が出て来なかったりと、「これ、一体どういうことか」と不思議に思えることばかりなのです。マタイとルカどっちの系図が正しいのか。それとも、どっちも間違っているのか。
 
 結論から言います。どちらも合っています。もっと正確に言えば、どちらも、ある意図をもって書かれているという点で、合っている。そもそも、ルカの系図が、7名一組で、それが11組続いている(計77名)。マタイの系図が、14名一組で、それが3つの区分で出来上がっている(ダビデが重複しているので計51名)。あまりにも、出来過ぎではないでしょうか。そんな綺麗に、計ったように、数字が揃いますでしょうかね。もちろん、神様の御計画に基づけば、造作もないことだ、と言ってしまえばそれまでなのですが、じゃあマタイとルカ、突き合わせた時に、人数も名前も合っていないのは、どう説明するんだ、という話になります。これまた結論を先に言えば、両方とも削っているのです。「要約」をしていると言ってもいい。ここに全部の人の名前が、事細かに載せられているわけではないのです。私たちだって、徳川の将軍、全員覚えるわけではないでしょう。家康(初代)と家光(三代)と綱吉(五代)と、といった感じに、目だった働きをした人を、テストに出そうな人をピックアップして覚えたことでしょう。ここでもそうです。全部を載せるわけではなく、ポイントとなる人を選んで、それぞれ系図を形作っている。
 
 じゃあ、マタイとルカ、ことごとく名前が合致しないのはどういうことか。これに関しては、昔から色んな説明がなされてきました。どれも聖書に、はっきりしたことが記されていませんので、推測の域を出ませんが、有力なのはマタイの方は、父方ヨセフの系図で、ルカは母方マリアの系図じゃないか、という説です。その理解でいきますと、23節の「ヨセフはエリの子」この「エリ」というのは、ヨセフからしたら義理の父親、妻であるマリアの父親ということになります。なるほどそうやって考えますと、マタイとルカ、系図に出て来る人の名前が違っているのもうなずけます。それらを踏まえた上で、ここで更に興味深いのは、それら別々の系図が、そこから約1000年さかのぼって、ダビデ王で繋がっている、ということです。それを裏付ける記述が、この系図の直前、第2章に出て来る。あの有名なクリスマスの出来事です。そこで、その時代、住民登録が行われたこと、人々が本籍地まで帰らなければならなかったことをルカは伝えています。注目すべきは、ヨセフもマリアも、同じダビデの町「ベツレヘム」へ登録のために帰ったということです。つまり二人は同郷、ダビデにルーツを持つ者ということになります。もしもヨセフだけが、ダビデの家系というのであれば、わざわざ妊娠しているマリアまで、ベツレヘムへ連れて行くなんてことはしないでしょう。自分だけで行って、登録を済ませてくるはずです。しかしマリアも同行した。
 
 マタイとルカ、ダビデから、別々に分かれた二つの系図。ダビデ以降、かつて一つだった神の民が、バラバラに散らされたのです。けれども、それから約1000年の時を経て、イエス・キリストの誕生でもって、それが繋がるのです。再び一つとされる。ヨセフとマリアの系図が、ダビデから分かれ、イエス様で繋がっているのは、決して偶然なんかではない。ここに神様の思いが現わされている。神様の御計画が実現しているのです。これまで約1000年の間、色々あったかもしれない。国が滅ぼされる。奴隷生活を強いられる。自分たちの拠り所である神様を、礼拝することさえ禁じられる。苦渋をなめ続けてきたのです。その中でイスラエルの人たちは何度「自分たちは神に見捨てられた」と思ったことでしょう。望みを抱くことを諦めたことか。しかし、それでも神様は見捨ててはおられなかった。その答えがイエス・キリストなのです。「この者を見よ。ここに私の思いが現れている」。
 
 聖書の系図を見る時に、私たちは、ただ「誰々がいた」という名前を見るのではない。血のつながりを、その順番の正確さを、歴史的な信憑性を吟味するのでもない。もちろん、系図ですから、それも大切なことですけれども、それよりも、その系図に込められた意図、神様の思いを、私たちはしっかりと見つめるべきです。それらが何気ない言葉の中に散りばめられている。例えば、ルカは、イエス様から系図を始めましたが、最初こう記しています。23節「イエスはヨセフの子と思われていた」。いきなり曖昧な表現から、この系図は始まるのです。「思われていた」ということは、「実際は違っている」ということです。私たちの感覚からすると、それじゃあ、この後に続く系図の意味がないじゃないか、と思うかもしれません。「実際は違っているんだから」と。しかし、正にそのことをルカは、はっきりさせておきたかった。と言うのもルカは、第1章から2章にかけて、イエス様の誕生の出来事を記した際、マリアが「聖霊によって身ごもった」ということを強調しているのです。つまりマリアが、ヨセフと肉体関係を持って、それで生まれたのではない。聖霊、神の見えない力による出来事なのだ、ということです。それを大前提に、系図をスタートさせるのです。だから「思われていた」なんて表現になる。
 
 系図を見る時、もっと言うならば、私たちが過去を眺める時、どうしたって肉の思いでもって、それを見てしまいます。人が何を考え、どう行動してきたか。私たちの側の理解ですね。しかし、それだけでは見えてこないものがある。人の営みの背後に秘められた神様の思い、御計画です。ルカの系図が、なぜアダムまでさかのぼり「そして神に至る」この言葉で結ばれているのか。アダムというのは、全人類共通の祖であります。ルカはこの系図を通して語るのです。「イエス・キリストという御方、この御方は、イスラエルの人たちだけの救い主なんかではない。全人類の救い主なのだ」ということを。「この御方がもたらしてくださった救いの御業、罪の赦しは、すべての人に及ぶ。そう、あなたとキリストは無関係なんかではない。あなたのために、キリストは来てくださった。あなたを神の国へと招くために」。
 
 系図の最後、「そして神に至る」そうあります。キリストから始まり、神に至る。これは、単なるルーツの話では、過去の話ではない。私たちが向かうべき、これからのことです。なぜルカが、イエス・キリストからアダムへ。その流れでもって系図を記したのか。それは、イエス・キリストを通して、私たちは「神に至る」。神の国へと帰って行く。その筋道を、はっきりさせたかったからです。私たちの人生は、無意味にさ迷っているのではない。ましてや、滅びへと向かっているのでもない。「神に至る」。神様に根拠を持ち、その神様に向かって、神の国に、私たちの命は向かっている。かつてイエス様は、おっしゃられました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)。「私を通って父のもとに帰ろう」「私と共に生き、そして死のう」「神の国に行こう」。この系図に記された流れの中に、あなたの命もある。そう聖書は語りかけるのです。
 
 
 
 
 

ルカによる福音書 第3章21-22節
「天から響く声」

 今のような非常時になると、決まって出てくる「問い」があります。それは「神がおられるならば、なぜこのようなことが起こるのか」という問いです。戦争を経験する。自然災害に見舞われる。あるいは、不慮の事故に巻き込まれたり、病気にかかったり。また離婚を経験したり、仕事を失ったり。その生活が、日常が、根底から覆される時、立ち行かなくなる時、私たちは問わざるを得なくなる。「なぜ神は…」と。これは、興味本位で問うような問いではないと思います。ましてや冷やかし半分で問う問いでもない。たまに、神様のことを否定するために、「なぜ神は…」この問いを持ち出す人がいますけれども、そもそも神様を信じていない人が「なぜ神は」などとは問えないはずです。問うこと自体がおかしい。明らかな矛盾です。この問いは、神様の存在を、信仰を前提としている。
 
 私たちは、いい加減、気づくべきです。「自分には信仰がない」とか、その「信仰が弱い」とか「小さい」とか、呟いてばかりですけれども、イエス様はおっしゃったじゃありませんか。「からし種一粒ほどの信仰があれば」(マタイ17:20)それで十分だ、と。どれだけ自分で悲観しようとも、私たちには、神様を想う心が、信じる思いが与えられている。だからこそ、真剣に問うのです。「なぜ神は…」と。そうしながら、私たちは神様を探すのです。「神様、あなたは一体どこにおられるのか」「何をお考えなのか」「その姿を見せてほしい」と言って。「なぜ神は…」から「神はどこに…」これ、必然の流れだと思う。と言うのも私たちは、空想に生きているわけではありません。具体的な生活の場があります。そこから問うのです。「神様はどこにおられるのか」。信仰は、決して抽象的な話なんかではない。
 
 それに対して神様は、イエス・キリストという存在でもってお答えになる。ここにすべてがある。イエス・キリストを見よ。事実、イエス様ご自身も、こうおっしゃられました。「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14:9)。ここにすべてが現れている。イエス・キリストを見れば、神様がどのような御方か、その思いが、お考えが、余すことなく分かる。だから聖書には、そのイエス様の生涯を記した福音書が、4つもあるのです。4つそれぞれ別の角度から、丁寧に、その姿を描き出している。特に、今私たちが読んでいるルカによる福音書は、「神はどこにおられるのか」、そのことを詳しく、より鮮明に表します。
 
 今日読みました聖書箇所に、イエス様が洗礼を受けた時の様子が記されていますが21節「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」とある。何気ない表現です。しかし、この所に「神はどこにおられるのか」その答えが、はっきりと示されている。今一度、ルカの記述から、想像してみてもらいたいのです。この時の様子を。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」。この直前、先週読んだ箇所で、洗礼者ヨハネのもとに、大勢の人たちが集まって来たことを見ました。それぞれに、悔い改めの洗礼、清めの儀式をヨハネから受けるために、ゾロゾロと集まって来たのです。そして今日読んだ箇所に入る。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて」。この部分、私なりに訳し変えるとこうです。「人々が皆、洗礼を受けている時、イエスも洗礼を受けて」。
 
 お気づきでしょうか。イエス様、人々が洗礼を受けるその列に、加わっているのです。混じって並んでいる。人々が洗礼を受ける前に、一足先に、イエス様だけが特別に洗礼を受けた、ではないのです。あるいは、人々が一通りはけて、その後に、ヨハネに特別な時間を取ってもらって、洗礼を受けた、でもない。人々が洗礼を受けている、正にその時に、イエス様も洗礼を受けた。そういう記述になっています。何ならこの時、洗礼者ヨハネは、イエス様の存在に、救い主に気づいていないのです。マタイによる福音書の方を見ますと、洗礼を受ける前の、ヨハネとイエス様とのやり取りなんかが記されていますけれども、ルカでは、その部分は割愛されている。ルカが注目したのは、そこではなく、イエス様が一般の人々に混じって、その中に入って洗礼を受けられた、ということです。特別な存在として、目立つ形で登場し、洗礼を受けられたのではない。
 
 そう考えますと、それだけで嬉しくなってきませんか。この時、イエス様は「おおよそ三十歳であった」(23節)と言われていますから、その辺にいる青年です。そんなイエス様が、誰に気づかれるでもなく、洗礼を受ける大勢の中の一人として、列に並んでいる。このことを通してルカは伝えるのです。神様は、どこか遠くにおられるのではない。ましてや、あなたがたの上に、特別な存在として、偉そうに君臨しているのでもない。人々の中に、あなたたちの中に、人知れず、紛れ込むようにして、共におられる。聖書の有名な一節に、次のような言葉があります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を低くして、僕の身分になり、人間と同じ者となられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6-8)。
 
 イエス様は、まことの神でありながら、まことの人として、この世に来られました。それは神様が、形だけ、格好だけ、ポーズを取るように人となった、というのではありません。完全な人となられた。完全な人であるということは、弱さを持っている、ということです。私たちが抱く、悲しみや恐怖、疑い。あるいは、私たちが感じる誘惑や不安。そういったものを、イエス様も持っておられた。それはすなわち、私たちと同じ姿で、罪人の姿で、この世を歩まれた、ということです。そのイエス様が、今日の箇所を見ると、人々が洗礼を受ける列に並び、その人々と一緒に洗礼をお受けになった。よくよく考えてみますと、これ大変、不思議なことです。この時、洗礼者ヨハネが、ヨルダン川で人々に授けていたのは、悔い改めのしるしとしての洗礼です。これまでの罪を水で洗い清め、神様の方に立ち帰って生きるように。そう人々に勧め、洗礼を授けていたのです。
 
 その洗礼を、罪のないイエス様がお受けになる。「何のために?」と思います。まるで必要がない。確かに、人であるということ、人は、誰しもが、例外なく、罪の中にある。そう聖書は告げています。それを「原罪」などと言ったりしますが、どんなに正しい人でも、神様の前では、罪ある存在なのです。そのままではいけない。神様によしとされることは、神の国に迎え入れられることはない。だから、その罪を清めるために洗礼がある。しかしそれは、ことイエス・キリストには当てはまらないのです。この御方は、まことの人でありますけれども、同時に、まことの神でもあられる。神様ですから、罪を犯しようがない。ですから、この一点において、罪がないという点において、私たちとは違うのです。悔い改める必要がない。そのイエス様が、なぜ悔い改めの洗礼をお受けになるのか。それは、そこまでイエス様が自分を低くされた、ということでしょう。本来の栄光の姿を捨てて、僕の身分になった、ということでしょう。この時、イエス様は、完璧な人として、罪のない存在として、胸を張って洗礼の列に並び、ヨハネの前に立ったのではない。悔い改めを必要とする一人の罪人として、ヨハネの前に出られたのです。
 
 よく教会で、洗礼をお勧めした時に、それを断る理由として、二つのことが言われます。一つは、「わたしは悔い改めなければならないような、重大な罪は犯していない。だから洗礼は必要ない」という立派な人。もう一つは、それとは逆に、「わたしなど洗礼を受ける資格はありません。罪深くて、恐れ多い。まだまだそこまで行っていません」という謙遜な人。しかし、ここで私たちは、イエス様が洗礼を受けたということを、忘れてはいけません。イエス・キリストが洗礼を受けたという、その事実に目を向けるべきです。イエス様は「わたしは悔い改める必要はないから、罪がないから」と言って洗礼を受けなかったか。あるいは「わたしには資格がないから」と言ったか。そうじゃないでしょう。確かにイエス様には罪はない。けれども、世界中には、私たちの中には、罪が満ち満ちているのです。その罪を、イエス様は他人事としてではなく、それは「あの人の罪だから、この人の罪だから、わたしには関係ない」とせずに、自分の罪として、自分のこととして、悔い改めてくださった。
 
 それが形だけじゃない、パフォーマンスじゃないということは、イエス・キリストの十字架での死が物語っています。文字通り命がけで、悔い改めてくださった。私たちが悔い改めても、悔い改めても、なお悔い改めようがない部分、拭えない罪、その責任の一切を、イエス様は、御自身のこととして引き受け、贖ってくださった。イエス・キリストは、自分は神だから、自分には罪がなく正しいから、その立場から、「お前たちも正しくなれよ」「頑張ってここまで来いよ」と言われたのではありません。もしそうであるならば、わたしたちは、もうどうしようもなくなってしまう。そうじゃなくて一緒に、この罪深い私たちの所にまで降りて来て、私たちの側に立ち悔い改めてくださったのです。私たちと同じ罪人として、洗礼を受けてくださった。
 
 ある牧師が、この人は、一人の高校生を救うために逮捕されてしまった牧師ですけれども、こんなことを言っています。「誰かを救おうとするなら、その人の共犯者になること」と。上から言い聞かせる、模範を示す、ということも大切でしょう。しかし、その人を根本的に立ち直らせるには、その人と同じ側に立ち、一緒に生きることです。それを神様が、イエス・キリストを通して、私たちにしてくださった。罪を素直に認めることのできない私たち。謝るのを渋っている私たちに代わって、イエス様が一緒に頭を下げてくれたのです。悔い改めの洗礼を受けてくださった。
 
 その時、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」(2122節)と聖書は告げます。「天が開け」ということは、それまでは、天が閉じていたということでしょう。「天」というのは、神様がおられる場所です。そこが閉じていた。つまり神様との交わりが、それまで絶たれていたのです。それが、キリストによる、まことの悔い改めによって、開かれた。そして天から声が聞こえてくる。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(22節)。私たちが悔い改めて、心を入れ替えて、清く正しくなったから、それでもって神様の「心に適う者」となるのではない。罪のない御方、イエス・キリストの悔い改めの故に、イエス・キリストの顔に免じて、わたしたちは清い者とされる。キリストと同等と見なされる。まるで罪がないかのように扱われる。
 
 「神はどこに…」。今もわたしたちの側に立ち続けてくださっている。罪のないイエス・キリストが、罪人であるわたしたちと同じ場所まで降りて来てくださり、そこから洗礼を受けてくださった。天へと通ずる道を切り開いてくださった。それに続くように、と。「洗礼を受けるのに、何か妨げるものがあるでしょうか」(使徒8:37)。わたしたちの側に、この恵みの出来事を拒む理由などはないはずです。
 
 
 
 
 

ルカによる福音書 第3章7-20節
「聞け、蝮の子らよ」

 

 「蝮の子らよ」(7節)「悔い改めにふさわしい実を結べ」。かつて洗礼者ヨハネが、イスラエルの人々に向かって言い放った言葉です。「蝮の子らよ」。これ、決して、褒め言葉なんかではないでしょう。「蝮」っていうのは、毒蛇のことです。この「蛇」というのは、聖書では、あまりいい生き物としては出てきません。「狡猾」で、人を惑わす存在として、人を神様から引き離す存在として出てきます。創世記のアダムとエバが、神様から食べてはいけないと言われていた木の実、それを食べるように勧めたのも蛇でした。
 
 「あなたたちは、そのような蛇、『蝮の子』になっている」とヨハネは、厳しい口調で語りかけます。明らかに悪い意味での表現です。しかし言われてみれば、私たち「その通りだなぁ」と思います。私たちは本来、神様の子として、真っ直ぐな存在としてこの世に生を受けたはずなのです。それなのに、いつの間にか「蝮の子」になってしまっている。蝮、蛇というのは、真っ直ぐではありません。クネクネと曲がりながら生きている。そして手あたり次第に噛み付き、毒を撒き散らす。その様は、私たちの姿、そのものではないでしょうか。ヨハネも「蝮の子らよ」とよく言ったものです。
 
 そう呼びかけ、ヨハネは続けます。「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧(おの)は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。一見、脅しとも取れるような恐ろしい言葉が続きますけれども、その裏には、そうまでして人々を救いたい!形だけじゃない、本当の悔い改めに導き、神様と共に生きる歩みの中に連れ戻したい!そのような熱意があります。真剣であるが故の厳しさですね。
 
 というのも、当時のイスラエルの人たちは、どこかで勘違いしていたのです。「自分たちは、神様によって選ばれた民、アブラハムの子孫なんだから、それだけでもう救いは保証されている。悔い改めなんかしなくったって、今のままで、ありのままでいい」と、都合よくアブラハムの子孫であることを持ち出していたのです。それに対してヨハネは言うのです。8節「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」。「あなたたちが価値を置いている、アブラハムの子孫であるということ。そんなものは大したことではないし、ましてや救いを保証するものでもない。神の手にかかれば、その辺にある価値のない石ころからでも、それを生み出すことだってできるのだから」。そして9節「そのままでいい。そうやって、いつまでも実を結ばない木でいるならば、お前たちはやがて切り倒され、火に投げ込まれるだろう」と。
 
 「今のままでは駄目だ」。それは、もしかしたら、イスラエルの人たちが、誰よりもよく分かっていたことなのではないでしょうか。だからわざわざ荒れ野まで、ヨハネの所にまでやって来たのです。「悔い改めよ」「神様の方に向き直れ」「その道筋をまっすぐにせよ」。私たちは普段、それとは反対のことばかりを聞きます。「そのままでいい」「ありのままのあなたが大切」そういう言葉を、あちこちで耳にする。私たちは言ってもらいたいのです。「そのままでいい」と。そうやって、これまで自分で自分を説得し、安心させてきたのです。現状を肯定し続けてきた。しかしヨハネは、はっきり言うのです。「そのままじゃ駄目だ」「向きを変えろ」と。本当は、私たちも、気づいているのではないでしょうか。「今のままではいけない」ということを。「そのままの自分」「ありのままの自分」。聞こえはいいですけれども、その何と荒んでいることか。歪みきっていることか。そのままでいいはずがない。だから私たちは、それが分かっているから私たちは、必死でもがき、苦しみ、変わろうとします。しかし、どうしたらいいかが分からない。
 
 ヨハネの周りに集まってきた人たちも、そうでした。これまで騙し騙し生きてきた。何かあれば「自分はアブラハムの子孫だから」そう自身に言い聞かせ、安心させてきた。しかし本当は「このままではいけない」分かっているのです。分かっているけれども、どうしたらいいかが分からない。だから言うのです。10節「そこで群衆は、『では、わたしたちはどうすればよいのですか』」。今のままじゃいけない。だからヨハネのもとに来たのです。それに対して、ヨハネは答えます。11節「下着を二枚持っている者は、一枚も持っていない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」。続けて、徴税人がヨハネに聞きます。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」。ヨハネは答える。13節「規定以上のものは取り立てるな」。更に兵士も尋ねます。「このわたしたちはどうすればよいのですか」。ヨハネは答える。14節「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」。
 
 どれも、当たり前と言えば、当たり前のことです。「わたしたちはどうすればよいのですか」。それに対してヨハネは、特別なことは言いません。無理難題を、私たちに要求しているわけではない。困っている人がいれば、悔い改めて、今日からその人に愛を注げ、と言うのです。徴税人の仕事は、あまりいい仕事、褒められた仕事じゃないから辞めろ、などとは言わない。「規定以上のものを取り立てずに、それを続けなさい」と言うのです。兵士も同じです。「ゆすり取ったり、騙し取ったりせずに、その務めを全うせよ」と。ヨハネは、何か、「劇的に、生活を一新させよ」そう言っているのではありません。今ある生活、置かれている状況、悔い改めとは、日々、その場で起きるのです。私たちは、悔い改めるために、仕事を辞めたり、環境を変えたり、大きな変化、何か特別なことをするんじゃない。あなたの身の回りにこそ、悔い改めの機会が、たくさん転がっている。それこそ、今日から、すぐにでもできるのです。その場所から悔い改めることが。神様の方に向き直って生きることが。
 
 これまでがどうだったか。今の状況がどうか。悔い改めは、そんな過去をほじくり出して、どうこう、そんな話ではない。これからの話です。これから神様に信頼をして生きて行くための方向転換です。その勧めを、ヨハネはしたのです。「あなたはそのままじゃいけない」と言って。しかしヨハネの場合、それで終わらない。人に対して「駄目だ」ということは、罪を指摘することは、誰だってできます。むしろ私たちは、得意なのではないでしょうか。けれども大切なのは、その先です。どれだけ上手に罪を語っても、暴いても、それでもって人は救われるのではない。そのことをヨハネは、よく分かっていました。だから言うのです。「わたしよりも優れた方が来られる」「イエス・キリストを見よ」と。この御方は「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。「消えることのない愛の火でもって、あなたの罪を洗い清めてくださる」と。
 
 ヨハネが人々に授けていた洗礼というのは、水によるものです。悔い改めのしるしとして、これを行っていた。しかし、水による洗い、洗礼を受けた後も、私たちは罪を重ねるのです。ちょうど、一日の最後に風呂に入るように、その時は綺麗になるかもしれない。けれども、次の日には、また汚れるのです。しかしイエス・キリストが授ける洗礼は違います。その洗浄力は、永遠に続く。ヨハネは言います。この御方は「聖霊と火で…洗礼をお授けになる」と。「聖霊と火」、これ、まるで別々のものかのように聞こえますけれども、本質は同じです。キリストから送られるもの。キリストが送る聖霊、見えない力によって、私たちは常に洗われ続けている。キリストが送る「火」によって、私たちが持っている不要なもの、神の国に入るのに余計なものが、焼き尽くされている。
 
 教会でも洗礼式を行います。しかし注意していただきたいのは、私たちは、洗礼を受けたから、それでもって綺麗になる、神の国に入るのに相応しくなるのじゃありません。もしも、洗礼を受けて、綺麗になってからでないと神の国に入れないというのであれば、それが神の国に入る条件というのであれば、私たち、死ぬまで洗礼を受け続けなければならないでしょう。しかしそうじゃない。そこに「聖霊と火で…洗礼をお授けになる」キリストの業を見るのです。表向きは、ビジュアルとしては、洗礼式の際、ただ水をかけているだけに見えるかもしれない。しかしその背後に、キリストから送られた聖霊の働きを私たちは見る。私たちは、洗礼を受けたから救われるんじゃない。この罪深い私の罪が、洗っても洗っても落ちない私の罪が、キリストの十字架によって、そこで流された血によって、洗い流された。キリストの命の火でもって、その罪が焼き尽くされた。
 
 もう、神の国に入るのに、余計なものは、妨げとなるものは何もない。私たちはキリストによって、キリストのおかげで、神の国に入ることができる。そう信じるから私たちは洗礼を受けるのです。自分の意志で、決断で「清くなるぞ」って洗礼を受けるんじゃない。もうそれは、キリストがしてくださっている。済ませてくださっている。それを、ただ感謝をもって受け止める。そのしるしが、洗礼です。ですから、教会で、もう洗礼を受けた方は、安心したらいい。自分はまだまだ聖書のことが分からない。あの時の決断、思い返すと曖昧で、恥ずかしい。自分はクリスチャンとして半人前なんじゃないか。自分の信仰は中途半端じゃないか。等々、あるでしょう。けれども、洗礼を受けたのでしょう。聖霊が働いたのです。神様がそう望まれたのです。
 
 マルティン・ルターという人が、こんなことを言いました。「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ、しかしてより大胆に悔い改め、大胆に祈れ」。面白い言葉です。別に罪を犯すことを勧めているのではありません。ただ、罪を犯すこと、罪を重ねてしまう自分、「洗礼を受けたのに…」その狭間で、私たちは苦しむことがある。しかし、そんなことでキリストによる洗い、洗礼が無効になるなんてことはない。キリストの血で洗えないものはない。清められぬものなどない。だから大胆であれ。余計な心配するな。
 
 洗礼を、まだ受けておられない方は、是非、この安心の中に加わってほしい。もう神様が、その招きをしてくださっていることに気づいてほしい。自分が決断して洗礼を受けるのではない。自分の力で、努力で、意志で、神の国に入るのではない。もうその道はキリストによって用意されている。感謝を持って受けましょう。私たちは「蝮の子」のままでいて、いいはずがない。神の子として、神の国に帰って行きましょう。「そのままじゃ駄目だ」「悔い改めよ」「神の方に向き直れ」。その方向が、キリストによって、はっきりと示されています。
 
 
 
 

ルカによる福音書 第3章1-6節
「その道をまっすぐに」

 

 新しい年度になって、一ヶ月が経ちました。けれども、あまり新しい年度が始まった、スタートした、その実感が湧かない。そういう方も多いのではないでしょうか。新型コロナウイルスの影響で、色んなものが軒並み、中止になったり、延期になったりしています。私たちの教会でも、共に会堂に集まっての礼拝は、先週から休止となり、年に一度の教会総会も、書面での開催となりました。あらかじめ立てていた教会の年間計画も、しょっぱなから、頓挫してしまったわけです。
 
 この夏には、新たな試みとして、将来牧師になるために神学校で学んでいる学生を教会に迎えて、実習していただく予定になっていますけれども、それも果たしてどうなることか。また子どもたちの夏期学校だって、どうなるか。まだまだ先行きが見えてこない所があります。夏期学校で、毎年恒例になっている「流しそうめん」するの楽しみなんですけどね。できることならば、今年もしたい。と言うのも昨年、流しそうめん専用の筒を献品してくださった方がいまして、そのおかげで、そうめんがスムーズに流れようになったのです。「流しそうめん」ですから、流れて当たり前と思われるかもしれませんが、それまでは、2リットルのペットボトルありますでしょう。それを半分に切って、つなぎ合わせたものでやっていましたので、そうめんがうまく流れないのです。ペットボトル特有の凸凹に引っかかって途中で止まってしまう。後ろで待機している人の所まで届かない。その点、新たに導入された筒は見事です。まぁそれ専用ですから、当然と言えば当然なのですが、左右の歪みもなく、真っ直ぐなのです。凸凹もない。なのでそうめんが綺麗に、スーッと最後まで流れて行く。あの凸凹のペットボトルでやっていた時とは大違いです。それはそれで楽しかったのですが、思い返してみますと、そうめんが凸凹に引っかかり、流れずに詰まってしまう様は、私たちの姿と一緒だなと思います。
 
 私たちは、どれだけ、神様から注がれている恵みを、ちゃんと受け取れていることでしょうか。私たち、素直じゃない所があります。ひん曲がって、歪みに歪んでいる所がある。凸凹なのです。だからでしょうか。せっかく神様が恵みを、愛を根気強く注ぎ続けてくださっていても、それが色んな所で突っかかってしまって、感謝を持って受け取れなくなっている。不安や心配事が尽きません。感情の起伏があります。変な拘りを持っています。それらが邪魔をして、障害となって、神様から注がれた恵みを遮るのです。分からなくする。挙句の果てに、私たちは言うわけです。「自分の所には届いていない」「そんなもの貰った覚えはない」と。だから聖書は言うのです。「その道筋をまっすぐにせよ」(4節)と。「あなたたちの中にある凸凹、まずそれを取り除け。曲がった部分、それを真っ直ぐにせよ」。この言葉は、かつて預言者イザヤによって、イスラエルの人々に向かって語られた言葉です。それから時を経て、イエス様が地上で、その働きを開始なさる前に、改めて、洗礼者ヨハネの口を通して語られることになる。今度は「悔い改めよ」(マタ3:2)という言葉でもって。
 
 「まっすぐにせよ」と「悔い改めよ」。これ、言わんとしていることは同じです。つまり「神様の方に向き帰れ」ということです。神様の方を向く、神様を信じて生きるその時、私たちは自然と真っ直ぐになる。悔い改めというのは、そのための方向転換のことです。そこで私たちは、初めて「神の救いを仰ぎ見る」(6節)ことになる。神様が、自分にどれだけ愛を注いでくださっているかが、分かるようになる。元々は私たち、真っ直ぐな存在として、神様に創られたのです。それは教会に来ている子どもたち見れば分かるでしょう。中には生意気なのもいますけれども、基本的に、聖書に書かれていることを、神様のことを、真っ直ぐに信じています。しかし私たちは、歳を重ねる中で、次第に、神様以外の方に顔を向けて生きるようになる。その生活が当たり前になり、結果、どれだけ歪んでしまっていることか。
 
 そもそも人は、そのはじめから、歪みやすい性質を持っていました。創世記に出てくるアダムとエバからしてそうです。彼らは「主なる神の顔を避けて…隠れ」(創3:8)たとある。聖書はその根本に、私たちの罪を見ます。「罪」というのは、これまで何度もお話してきたことですが、ギリシア語で「ハマルティア」と言って、「的を外す」という意味がある。つまり神様の方を向いていない、神様から顔を背けて、顔をずらして自分勝手に生きる、そのことを罪と呼ぶわけです。もちろん子どもにも罪はありますよ。けれどもそれが日に日に顕わになって行くのです。罪の中にある時、神様の方を向いて生きられない時、人は何かに、怯えながら生きるようになる。アダムとエバがそうでした。また、その息子カインがそうでした。いや、それ以降の聖書に出てくるイスラエルの人々、多くの王様や、預言者が出てきますけれども、彼らもまたそうです。ある面で聖書は、神様から顔を背けて生きてきた人たちの記録でもあるのです。
 
 的を外しながら生きる時、罪の中を生きる時、私たちは神様がいかに恵み深い御方かが分からなくなる。そしてますます離れて生きるようになる。そうしますと、一見自由なようで、自由じゃないのです。結局は、神様以外の何かに縛られながら、支配されながら生きることになる。だから安心がないのです。そらそうです。命の源である神様から離れているのですから。当たり前のことです。このことは聖書の舞台、そのほとんどが「荒れ野」だったということと、無関係ではありません。今でも、イスラエルに行けば、ちょっと街の外、郊外に出れば、辺り一面、ごつごつとした岩が転がり、緑の少ない、乾燥した茶色い大地が広がっています。そこは、人が生きて行くには、決して容易ではない、過酷な場所です。何かしらの助けなくしては生きてはいけない。そこでは水がいかに重要であったかは、言うまでもありません。聖書にも井戸を巡って、争いが絶えなかったことが記されています。
 
 イスラエルの人々の「荒れ野」での生活。それは、そのままに、私たち人間の内面を表しているように思います。私たち、贅沢を言わなければ、生活に必要なものは一通り揃っています。周りにも、いざとなったら助けてくれる人がいます。物理的な面で言えば、満たされています。しかし、どこかで渇いている自分がいる。中を覗き込むと、荒れ野が広がっている。イスラエルの人たちが、水を求めたことと、神様を求めたこと。これが決して別の事柄ではなかったということを、私たちは見逃してはいけません。そう、私たちは、神様との関係を抜きに、生きることは、満たされることはないのです。今日、読んだ聖書の中に「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」とあります。「神の言葉が荒れ野…に降った」。とても象徴的な出来事だと思う。水や食料が荒れ野に供えられた、ではないのです。「神の言葉が荒れ野…に降った」。それだけ人が、それに飢えていたということでしょう。それなしには生きていけないということでしょう。
 
 その直前に、この出来事がいつの時代だったかが記されています。その際、当時の支配者たちの名前が、ずらりと出てきます。1節「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファが大祭司であったとき」とある。これはもちろん、年代をはっきりさせるという意味での記述でしょう。ここに出てくる人たちは、聖書以外の、当時の文献(記録)にも出てくる人たちですから、その客観性を持たせるために、わざわざ名前を持ち出した考えることもできるでしょう。しかしそれならば最初の「皇帝ティベリウスの治世の第十五年」で事足りるのです。これだけで大体、紀元28年前後というのが分かる。それなのに、この福音書を記したルカは、続けるのです。「ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデが…」と。くどいように思います。そうまでして、これが史実であることを言いたかったのか。
 
 しかしそれだけの理由ではないでしょう。ここでわざわざ「ピラト」「ヘロデ」「フィリポ」「リサニア」4人の統治者(領主)の名前を出したということ、そして「アンナスとカイアファ」2人の大祭司の名前を出したということ。それはイスラエルの人々が当時、4分割されていたということです。政治的な面でバラバラになっていた。それだけではありません。2人の大祭司がいる。普通、大祭司というのは1人です。それが2人いるというのは、一体どういうことか。その4分割された地域の大元締めであるローマ帝国(皇帝ティベリウス)の息のかかった大祭司(カイアファ)と、イスラエルの人々が支持する大祭司(アンナス)とが混在していたということです。つまり本来信仰において一致しているはずの神の民が、その信仰面においてもバラバラになっていた。その時に3節「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」と聖書は告げます。このことからも「荒れ野」というのは、単なる物理的・空間的なことにとどまりません。当時のイスラエルの人々の内面、人と人とが分断され、信仰的にも混乱し、神様が分からなくなっていた。その状態をも表していた。その荒れ野に、神の言葉が降ったのです。「その道筋をまっすぐにせよ」「悔い改めよ」と。
 
 このことはイスラエルの人たちだけに限った話ではない。私たちもまた、荒れ野の中にいると言えましょう。私たちは今、先行きが見えない中にいます。辺り一面、見渡す限り、どこに望みを置いたらいいのか分からない。まるで色を失ったかのような無機質な世界が広がっています。そのような中にあって、望みを持ち続けることが、如何に難しい事であるか。神様の方を向かない時、私たちは呟くわけです。「もう新しい事などない」「もう子どもの様に、希望に目を輝かせることもない」。希望を捨て、喜びを捨ててしまう。しかしたとえ、どれだけ私たちが諦めようとも、神様の方は諦めてはおられないのです。私たちが、希望を抱くことに疲れてしまおうとも、神様は希望をお与えになることに疲れないのです。私たちの方が、神様から隠れようとも、神様の方が私たちからお隠れにならない。いつの間にか、荒れ野の中で、行く先を見失ってしまう、私たちであります。しかしそのような私たちに向かって、神様は預言者の口を通して呼びかける。「その道筋をまっすぐにせよ」。「もう終わりだ」という場所から、新しい歴史は始まります。イエス・キリストが、荒れ野から脱出する道を切り開いてくださいました。もうこれ以上はない、という地点から、新しい事柄が生じたのであります。
 
 ある人が言いました。「荒れ野というのは、人に捨てられた場所だ」と。「しかし、その荒れ野に、神の声が響く。荒れ野とは何よりも、神と出会う場所だ」と。イスラエルの人々が、荒れ野で神様の声を聞いたように、今私たちも、その荒れ野から響き始める声に耳を澄ませることができる。「その道筋をまっすぐにせよ」「悔い改めよ」「荒れ野でたたずむあなた。そこがあなたの居場所じゃない。望みを失い、いつの間にか、それに慣れてしまったあなた。それが本当のあなたなんかじゃない。本当のあなたは、私のもとにある。帰って来い。私のもとに帰って来い」。その旗印として、イエス・キリストが、私たちの所に来てくださったのです。
 
 
 
 
 
 
 

コリントの信徒への手紙一 第16章13-24節
「信仰に基づいて立とう」

 

 いつもは「どなたでも教会に来てください」「どうぞ皆さん、礼拝に出席してください」そう言っている教会が、今は「外出を控えるように」「礼拝はご自宅でおささげください」と勧めています。信州教会でも、今日から、共に会堂に集まっての礼拝は休止せざるを得なくなりました。今こうして説教原稿で、あるいは説教動画で、皆さんに聖書に記された神様からのメッセージを届けていることに、私自身も、とても複雑な思いがします。普段、あれだけ「教会第一」「礼拝中心」と言いながら、どんな理由があるにせよ、共に集まっての礼拝を休止するわけですから、違和感を持って当たり前です。特に、これまで教会での礼拝厳守で来られた方は、「これは信仰的な敗北だ」「生ぬるい」「その程度の信仰か」そうお思いになっても、仕方のないことだと思います。ただ、私たちは、礼拝それ自体を止めたわけではありません。神様を仰ぎ、神様を信じて生きる、その歩みを止めたわけではない。どこであっても、どんな状況であっても、礼拝はささげられます。そのための助けは、手段は、いくらでもある。こういう形も、その一つでしょう。
 
 新型コロナウイルスの感染が拡大する中で、「Stay Home」そのことがしきりに言われていますが、しかしこの時、私は言いたい。「Stay God」「Stay Faith」。使徒パウロは、その手紙を締め括るにあたり、次のように語りました。「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい」(13-14節)。今まさに、私たちが聞くべき言葉だと思う。「信仰に基づいてしっかり立ちなさい」。この言葉は訳し変えるならばこうです。「自分を置こう、信仰の中に」「自分を据えよう、信仰の中に」。正に「Stay God」「Stay Faith」。
 
 ともすると私たちは、信仰とは別のものを、その中心に据えて生きてしまいます。信仰以外のものに基づき、立ってしまう。なぜわざわざ、パウロが手紙の最後に「信仰に基づいてしっかり立ちなさい」そんなことを言ったのか。それはコリントの教会の中にしっかり立っていない人が、信仰に留まっていない人が、たくさんいたからです。好き勝手に信仰から離れ、礼拝から遠ざかり、教会の外に出てしまっていた。こういうことは、パウロの時代に限った話ではありません。いつだって、私たちを信仰から、礼拝から遠ざけようとする力は働いているのです。弱い私たちは、ついついそれに屈してしまいそうになる。私たちは言い訳上手な所がありますから、屈する理由なんか、いくらでも探し出せるわけです。忙しさを理由に、家族の問題を理由に、年齢的な衰えを理由に、そして今で言えば「緊急事態宣言」「外出の制限」を理由に。それらの理由というのは、大抵、聞けば、誰も、何も言えなくなります。認めざるを得ない。しかし問題は、それかこつけて、私たちが礼拝をしなくなることです。信仰を手離すことです。どれだけ周りを説得できる最もな理由があろうとも、牧師を言いくるめることに成功しても、それで神様が納得するかって話です。神様から離れていい理由、礼拝をしなくていい正当な理由なんて、本当はどこにもないはずです。
 
 その昔、「キプリアヌス」という教会の指導者が、このようなことを言いました。「教会の外に救いなし」。実に激しい言葉です。「教会の外に救いなし」。これだけを聞きますと、何て上から目線で、排他的な言葉なのだと思います。じゃあ、教会に来ていない人は救われないのか。滅びるしかないのか。地獄行きか。いくらなんでも、それは言い過ぎなのではないか。しかし注意しなければならないのは、このキプリアヌスの言葉は、教会に対する厳しい迫害の最中、語られたということです。しかも教会の中にいる、クリスチャンに向けて。いきなり町に出て行って、教会に来ていない人たちに向かって「教会の外に救いなし」そんなことを言ったんじゃない。厳しい迫害によって、教会から、信仰から離れて行く者たちがいたのです。そんな者たちを引き留めるために、信仰に、礼拝に留めるために、あえて「教会の外に救いなし」激しい言葉を使った。これは他を排除したり、周りを否定する言葉なんかではない。外に目移りしてしまう私たちを、教会から出て行き、自ら信仰を捨てようとする私たちを、再び信仰にしっかり立たせるための言葉なのです。
 
 パウロも、手紙の中で、それと似たようなことを言います。22節「主を愛さない者は、神から見捨てられよ」。これまた、実に激しい言葉です。「見捨てられよ」。別の訳だと「呪われよ」となっています。こういう言葉が聖書の中にあること自体、驚かれる方もおられるかもしれません。聖書に呪いの言葉が記されている。けれどもパウロは、本当に呪おうと思って、「主を愛さない者」、神様に敵対する者、もっと言えば信仰のない者、それらは皆、滅びてしまえ、くたばってしまえ、どうにでもなれ、そう思って語ったわけではないでしょう。この言葉の背後にあるパウロの思いを、ちゃんと汲み取らなければなりません。「主を愛さない者」というのは、言い換えれば、キリストによって示された主なる神様の愛から離れて行く者のことです。せっかく神様が「お前のことを愛している」「お前は大切な存在だ」そうおっしゃってくださっているのに、救いの手を差し伸べてくださっているのに、それを振り払う、拒む、無視する。具体的に、一度、神様の愛を知り、受け入れ、クリスチャンになった者が、その信仰を捨てて、教会から離れて行くことを指しています。
 
 私たちの教会でも、これは本当に残念なことですけれども、洗礼を受けてしばらくすると、教会に来なくなる人たちがいます。自分が思っていたのと違ったのか、あるいは、最初の感動、熱量が冷めてしまったのか、色んな理由をつけて、礼拝に来なくなる。正確な統計ではないと思いますけれども、一部では、信仰の寿命は3年未満、なんて言われたりもします。しかしパウロには、それが分からないのです。なぜ、こんなにも、神様から愛されているのに、そのことに気づかないのか。罪深いあなたの罪が、キリストの十字架によって赦され、今があるのに、感謝しないのか。そればかりか早々に、信仰を捨ててしまうのか。一体、あなたは何を信じていたのか。あなたのキリストに対する思い、信頼は、その程度のものだったのか。分からない。そんな思いが「神から見捨てられるがいい」という過激な言葉になって現れるのです。そしてどうか再び、信仰の交わりに、主なる神様を中心とした人生、すなわち礼拝を軸とした歩みの中に戻ってきてほしい。主を愛さない者ではなく、主を愛する者として、神様と共に生きてほしい。あなたが見捨てられていいはずがない。どんな理由があろうとも、私たちの命を養う礼拝から離れてはいけない。教会の外に出て行っては駄目だ。「Stay God」「Stay Faith」。
 
 そのような思いからパウロは「マラナ・タ(主よ、来てください)」と語るのです。これは、当時のクリスチャンたちの間で、盛んに口にされていた、合言葉のようなものです。礼拝の中で、祈りの中で、特に主の食卓を祝う、聖餐の中で、よく口にされていた言葉だった。「マラナ・タ(主よ、来てください)」。パウロは、これまで、クリスチャンにとっての希望、やがて私たちも、イエス・キリストが復活させられたように、復活する日が来る。そして完全な形で、神様と共にある命を、神の国で生きるようになる。そのことを語ってきました。色々と教会の中であるかもしれない。問題が尽きないかもしれない。「何で自分はこんななんだ」自分を責めることがある。また周りを裁くことがある。うまくいかない人生に、老いていく身体に、どこに望みを置いたらいいのか。そんな時、自分を満足させてくれそうなものに目が行きます。教会の外に救いがあるかのように思えてきます。礼拝をしても、祈っても仕方がない、信仰なんか何の役にも立たない、との思いに捕らわれる。しかしそのような時に聞こえて来るのです。「マラナ・タ(主よ、来てください)」あの合言葉が。これを聞いたコリントの教会の人たちは思い出したはずです。主が中心にいる食卓を、聖餐を。そう、私たちの望みは、その主なる神様にある。「マラナ・タ(主よ、来てください)」この惨めなわたしを憐れみ、そのままにお救いください。「マラナ・タ(主よ、来てください)」わたしを新たに造り変えてください。「マラナ・タ(主よ、来てください)」そしてこの世界を完成させてください。
 
 ここでパウロが、なぜ、わざわざ色んな人の名前を持ち出しているのか。今日読んだ箇所だけでも、ステファナ、フォルトナト、アカイコ、アキラとプリスカの名前が出てきます。さらに先週読んだ箇所には、テモテとアポロの名前が出てきました。これらの人々の名前を挙げながら、パウロは最後、「マラナ・タ(主よ、来てください)」と語るのです。いずれも、主の食卓を、共に囲んだ仲間たちです。中には、この時、別の場所にいるという人たちもいます。そう、今の私たちと同じように。物理的に、お互い離れていた。しかし「マラナ・タ(主よ、来てください)」。主に望みを置くということに変わりはないのです。その者たちが、たとえ遠くからであっても「よろしく」と言っている。あなたのことを気にかけ、今も祈ってくれている。だから「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい」。「Stay God」「Stay Faith」。神様から離れるための、最もらしい理由を探すのは止めましょう。礼拝をしない言い訳を口にするのも止めましょう。主イエス・キリストが、再び来てくださるのです。このままで終わるはずがない。私たちは、この世界は、変えられる。「マラナ・タ(主よ、来てください)」。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザ40:31)。私たちの望みは、私自身の中にあるのではない。また別のどこかにあるのでもない。自分を置きましょう、信仰の中に。自分を据えましょう、礼拝の中に。「信仰に基づいてしっかり立ちなさい」。
 
 
 
 
 
 

コリントの信徒への手紙一 第16章1-12節
「主が許してくだされば」

 

 「サンデークリスチャン」という言葉を、皆さんは聞いたことがあるでしょうか。これは教会用語の一つでありますけれども、良い意味での言葉ではありません。「サンデークリスチャン」。日曜だけの信仰。日曜限定のクリスチャン。それ以外は、まるで信仰を忘れたかのような、信仰とは切り離された生活をしている。そのことを揶揄した言葉です。私たちにとって、何が悲しいかって、すぐに肉の人になってしまうことです。この礼拝堂から一歩出た瞬間、世の価値観、世の常識、世の考えに、切り替わる。日曜日と、それ以外の日の生活が、繋がっていないのです。信仰と日々の生活が分かれてしまっている。正にサンデークリスチャン。あるいは「サムタイムクリスチャン」という人もいるかもしれません。時々クリスチャン。自分が困った時、助けが必要な時、気が向いた時、ふと教会に行く。神様に祈る。それ以外は好き勝手やるのです。都合のいい信仰。都合のいいクリスチャン。私自身、偉そうなことは言えません。気づけば私もサンデー牧師、サムタイム牧師になっている。日曜日、こうして前に立つ姿と、それ以外の日の姿と全然違うのです。
 
 これまで、使徒パウロがコリントの教会に宛てた手紙を、順に読んで来ました。その中で、コリント教会のクリスチャンたちが、いかにこの世的であったか。めちゃくちゃで乱れていたか。信仰と実生活がバラバラだったか。そのことを見てきました。ここに書かれている姿は、まさに私たちの姿そのものなのです。コリントの人たちもまた、サンデークリスチャンだった。そんなコリントの教会の人たちに対して、パウロは、彼らが抱える問題の一つ一つを丁寧に取り上げながら、時に熱っぽく、時に理詰めで諭すように語ってきました。特に一つ前の第15章では、時間をかけ、多くの紙面を割き、私たちにとっての希望、神様がその独り子イエス・キリストを、私たちの初穂として復活させられたということ。そのキリストに続いて、それに連なる私たちも、やがて復活させられるということ。これらを「最も大切なこととして」(15:3)語り伝えてきました。私たちが、それまで「絶対だ」と思っていた死の問題。しかしその死の力を、もう恐れる必要はない。それらはキリストの復活によって、打ち破られた。朽ちるべきものが朽ちないものに、死ぬべきものが死なないものに、私たちは復活の体をまとい、新たに造り変えられることになる。「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」そうパウロは、高らかに勝利宣言をしてみせたのです。ところが、そこで終わっていれば、聞かされる方も、信仰が大いに励まされ、強められ、よかったのかもしれませんが、そこから急に、最後、お金の話になるのです。まことにこの世的と言いますか、復活について、神の国に生きる望みについて高らかに語られ、私たちの顔が天に向いたと思った瞬間、突然、自分たちの足元を見るように、実に現実的で、具体的な話に引き戻される。
 
 なぜ、そのような話をしたのでしょうか。それは、パウロにとって、信仰というものが、日々の生活とは切り離せないものだったからです。お金の問題も、当然、信仰の事柄として関わってくる。私たちの教会でも、礼拝の後に「報告」の時間があります。そこで色々と、実務的なことをお話します。会計のことだって、献金のお願いだってします。中には、それを嫌う人もいるかもしれません。「せっかく礼拝で恵みを受けたのに、急にそんな話をされるとげんなりする。そういうのは脇へ置いておいて、せめて教会では、そんな話は聞きたくない」。以前は私も、そう考えていました。しかし、それは大きな間違いです。私たちは頭だけで、心だけで信じているのではない。しばしば信仰を、私たちは、そのような内面の事柄として、気持ちの問題として理解しがちですけれども、とんでもない。私たちが信仰の営みを続ける限り、教会がこの世に存在し、そこを拠点に神様の御業が進められる限り、それを維持し、支えていく必要があるのです。その意味で、信仰はタダではない。そこには実際的な、献金が、労力が、奉仕があることを忘れてはいけません。ですから中には、この報告を礼拝プログラムの中に組み込んでいる教会だってあります。私たちの信仰の歩み。それは、この世からかけ離れたものなんかではありません。日々の生活から切り離したものではない。だからパウロは言うのです。15章58節「〔世にあって〕しっかり立ち、主の業に励みなさい」と。「どうせ復活するんだから、どうせ神の国に入るのだから、あとは好き勝手やったらいい」そんなことは言わない。むしろ逆です。「主の業に励みなさい」。そうしながら献金の話に入る。主の業に励むということ。神様を信じて生きるということ。それは具体的なことです。その見える形の一つが「献金」です。新共同訳では、ここ「募金」と訳されています。なぜこんな訳にしたのか。募金と聞きますと、私たち、何か慈善活動のようなものをイメージしてしまいますので、ここは「献金」と訳した方がいい。読んで字のごとく、献げるのです。お金を。神様に。
 
 で、こういう献金の話、お金の話というのは、どうも教会ではしにくい所があります。と言いますのも、これ本当にデリケートな問題だからです。教会には色々な人が集まります。経済な面で裕福な人もいれば、お金に困っている人、カツカツの生活をしている人もいます。それはコリントの教会でも、同じだったと思います。けれども、だからと言ってパウロは、この問題を避けたり、有耶無耶にはしないのです。はっきりさせる。「聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい」。ここに「週の初めの日」とあります。これは今で言う「日曜日」のことで、つまりクリスチャンにとっては、礼拝をする日です。一週間を始めるにあたり、まず神様を礼拝し、その神様に自分が持っているお金を、宝を献げる。パウロにとって礼拝と献金はセットなのです。神様を仰ぎながら、献げないなどということはないのです。あるいは反対に、献金はするけど、神様は信じないということもない。その際「各自収入に応じて」とあります。無理をして、見栄を張って、借金までして献げなさい、などとは言われていません。「収入に応じて」です。私たちは普通、収入というものを、自分の労働の対価として考えます。けれども、それらは、元を辿れば、すべて神様が与えてくださったものです。仕事も、時間も、能力も。その与えられたものを用いて、収入を得ているに過ぎない。ですから、これは言い換えると「神様から与えられた恵みに応じて」ということでしょう。あるいは「信仰に応じて」と言ってもいい。額がどうこう、パーセンテージがどうこうの話ではないのです。
 
 教会には、収入が少なくても、多くを献げる人がいます。あるいは反対に、収入が多いのに、少ししか献げない人もいます。「献金は信仰のバロメーター」そう言った牧師がいますけれども、ある面で、的を得ています。かつてイエス様の頭に、高価な香油を注いだ女性がいました。弟子たちはそれを見て憤慨した。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」(マタイ26:8-)。しかし、イエス様はそれをお喜びになったのです。私たち、どうしても世の経済感覚を身に着けてしまっている所があります。無駄なく、合理的に。そうやって生きることが、賢いとされます。そして賢い人が、世の中では、多くのお金を持っています。ともすると、献金をささげる際にも、その理屈が賢さが入り込んでくる。神様にお献げするのに、損か得か、そういった考えがチラつくのです。そんなこと言い出すと、信仰は損です。教会に行くのは、お金もかかります。時間もとられます。人間関係の面倒に巻き込まれることだってある。損なのです。だから賢い人は来ません。来ても損だと思うと、自分に得がないと思うと、サーっと引いて行きます。いなくなる。
 
 しかし、私たち、それでもなぜ、教会に来るか。神様を信じるか。ここには損得を超えたものがあることを知っているからでしょう。まずもって神様が私たちに、すべてを献げ尽くしてくださったのです。神様が、私たちのために、御子イエス・キリストをお送りくださり、その御子が命まで、惜しむことなく、私たちのために献げてくださった。十字架による罪の赦しと、復活による完全な救いを、私たちの前に差し出してくださった。見方によっては、これ以上の無駄はありません。イエス様が、好き勝手に生きる私たちのために、命まで差し出す。滅んでも仕方ない罪人の罪を、一手に引き受けられ代わりに十字架にかかる。イエス様に、何のメリットもなければ、損でしかない。しかし、それをするのです。聖書は、そのイエス様がしてくださったこと、私たちが無駄と呼んでいるものを「愛」と言います。私たちのためなら、無駄を惜しまない。どこまでも損をする。神様とは、そういう御方なのです。
 
 私たちは、それに感謝をもって答える、そのしるしが献金です。ですから、感謝がない人は、献げません。そもそも献げる理由がありません。だから「献金は信仰のバロメーター」なのです。そこに神様への感謝があるか。救われた喜びがあるか。それが献金によって明らかになる。それは、お金に限った話ではありません。生き方そのものによって、感謝を表すという道だってあります。そのことを教会では「献身」と言います。今日はもう触れる時間がなくなってしまいましたが、16章5節以下で、パウロの旅行計画が語られています。一見すると、これまでの話と、何の関係があるのか、と思われるような話です。それこそ、言い方は悪いですが、あってもなくてもいいような話。信仰の本質からは、かけ離れた事務的な話。けれども、これは単なる旅行の話なんかではない。献金に続く、献身の話なのです。お金だけじゃなく、自分のこの身、人生をささげて生きる、その道筋をここで語り伝えるのです。献金をする時、私たちの懐事情は痛みます。また献身をする時、私たちの予定は狂います。誰だって、お金は自分のためだけに使いたい。時間も労力も自分のために用いたい。事実、パウロは献身をしたが故に、神様を信じて、その神様を伝える働きをしたために、様々なトラブルに巻き込まれるのです。反対者も大勢いた。命だって狙われた。損なのです。無駄なのです。しかし、それにも勝る恵みが、私たちには用意されている。パウロの人生を見ていますと、そうとしか説明しようがありません。パウロ自身こう言いました。「いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか」(Ⅰコリ9:7)。それでも彼はそうしたのです。
 
 それはパウロが、主なる神様を、常に礼拝しながら生きていたからでしょう。その中で「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを」(15:58)何度も知らされたのです。神様に宝をささげて生きる、人生をささげて生きる、その何と確かなことか。豊かなことか。私たち、不安だから献げないのではありません。献げないから不安なのです。神様からいただいたものを、神様に感謝し、それに応じて、お返しながら生きる。それを「礼拝」と呼びます。どこにいようとも、礼拝を続けましょう。どこからでも、そしていつでも、礼拝はできます。不安が心を覆いそうになる時、スーッと天を仰いでみてください。周りがどれだけ閉じられようとも、行動に制限がかかっても、天は常に開いています。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない」(哀3:22)。
 
 
 
 
 
 
 
 

コリントの信徒への手紙一 第15章50-58節
「死よりも確かなもの」

 
 今、私たちは、教会に来るのも難しい、ためらってしまう、外出してもいいのだろうか。本当に大きな決断をしないと来れない、戦いの中にあります。命がけで来ている。今となっては、決して大袈裟な表現ではないと思います。家族の目、社会の目、どれだけ気をつけて、対策をしても、完全などありませんから、色々と言う人がいます。私たちも言いたくなります。責任論を振りかざして。あるいは反対に、この時「教会には行かない」という決断をしている人もいます。ここにも、大きな信仰的な葛藤があることだと思う。決して、礼拝を軽んじているわけではない。しかしそれでも隣人のために、この社会のために、今は行かない。これも苦しい決断だと思います。どちらの判断が正しいか。そんなことは分かりません。どうとでも言えます。ただこの時、私たちが集中すべきは、どちらが正しい、間違っている、その議論ではありません。そんなことに時間を費やしてはいけない。今こそ、会堂に来ようが、家で待機してようが、ますます神を礼拝する時です。ますます「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈ることです。礼拝を止めてはいけない。祈りの手を下げてはいけない。
 
 先ほど読んだ聖書の中に「動かされないようにしっかり立ち」(58節)なさい、とありました。それだけ心動かされる人が、信仰にしっかり立っていない人が、コリントの教会には沢山いたのでしょう。私たちもそうです。それが、人の生き死にの話になりますと、尚更のことです。死を前に、私たちは、どうしたって心動いてしまう。しっかりしては、いられなくなる。それは、私たちが「死」というものを、人生のゴールに置いているからでしょう。それですべてが終わると、どこかで思っているからでしょう。だから、その力がいざ迫って来る。脅かしを受ける。その時、私たちは動揺し、しっかり立てなくなるのです。
 
 けれども、使徒パウロは言います「動かされないようにしっかり立ちなさい」。パウロは、これまで再三、そう言い切る根拠を語って来ました。「あなたのためにキリストは死者の中から復活させられた」「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた」(20節)「その後に、あなたも続くのだ」と。「私たちも、やがて復活する。死ですべてが終わるのではない」と。そのために色んな譬えを持ち出したりもしました。しかし言葉を重ねれば重ねる程はたしてちゃんと伝わっているだろうか、心配になったのだと思います。そこでパウロは、まとめに入る。それが50節「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです」。結局の所、自分が言わんとしていることはこうだ、と語り出す。「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」。「肉と血」「朽ちるもの」というのは、今の、私たちのこの体のことです。つまり今のままで、この人生において、すべてが完結するのではない、ということです。このことは逆を言えば、たとえ今、どれだけ苦労が多くとも、この人生がどれだけ敗れに満ちていても、やがてすべてが一新される。克服され、勝利を賜るようになる、ということでしょう。
 
 そう語りながら、51節「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今と異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」。言っていることの意味は、何となく分かるでしょう。私たちのこの体は、病気になります。歳を重ねるごとに、だんだん弱っていきます。死へと向かい、やがて朽ち果てるのです。けれども、朽ちないものを着る日が来る、というのです。そのことをパウロは、別の手紙の中で、次のように語ります。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(フィリピ3:21)。私たちの、痛む体が、病に屈し、すぐに弱り、情欲に振り回される、そんな惨めで卑しい体が、キリストの栄光の体と同じ形に変えられる、というのです。更にパウロは、こうも語るのです。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」(ロマ8:29)。体の甦り、死者の復活。私たちに与えられる霊の体。それはどういうものかというと、復活したキリストの体と似たもの、それと遜色ないもの、と言うことができるでしょう。
 
 長く、死者の復活について語ってきたパウロは、最終的に説明することを止めてしまいます。復活について、どれだけ言葉を重ねても、あまり意味がないと思ったのでしょう。そこで彼は、最後に歌を歌い始めるのです。54節「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか』」(5455節)。この括弧内の言葉は、イザヤ書25章8節および、ホセア書13章14節の引用だと言われていますけれども、それをパウロなりにアレンジして歌ってみせる。注目すべきは、ここでパウロは、聖書を引用するにあたって「次のように書かれている言葉が実現するのです」と言っている点です。
 
 「書かれている言葉が実現する」。「書かれている言葉」というのは、かつて神様が預言者に託した約束の言葉、それを書き記した旧約聖書のことです。それが「実現する」。つまり、神様がおっしゃったこと、交わした約束、それは必ず成るということです。旧約聖書に精通していたパウロは、よく知っていました。これまで書かれていたこと、それがイエス・キリストにおいて、ことごとく実現してきたことを。新約聖書はその答え合わせの記録と言っていい。神様は、嘘つきじゃなかった。聖書に書いてある通り、預言者が言っていた通り、神様は、救い主イエス・キリストを、この世に遣わしてくださった。そのキリストが、聖書に書いてある通り、私たちの罪のために十字架上で死んでくださった。しかし、これまた聖書に書いてある通り、三日目に復活させられた。イエス様の生涯は、正に神様が約束されたこと、その一つ一つの答え合わせなのです。この御方の生涯において、神様の約束は、確かに実現した。
 
 そのことを根拠に、パウロは断言するのです。神様は、御自分がおっしゃったことを、反故になさるような御方ではない。これまでもそうであったように、これからも書かれている言葉は実現する。神様は約束通り、キリストを復活させられたのです。私たちのために、私たちに先立ち、私たちの初穂として。そうであるならば、私たちが復活しないわけがない。52節~「私たちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」。これがパウロの確信です。そうしながら、パウロは歌わずにいられなくなる。あれだけ怯えていた死に向かって勝利宣言をするのです。「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(5455節)。そして締めくくる。57節~「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。
 
 体の甦りを知っている人。死者の復活を信じている人。それは、苦労の多い生活、肉体を痛めながら過ごす生活の中にあっても、その日々が、「決して無駄にはならない」ということを知っている人のことでしょう。なぜ、クリスチャンが、惨めな思いをしながらも、尚、望みを失わないのか。嘆きながらも、讃美することを止めないのか。苦しみながらも、祈り続けるのか。病の中にあっても、命を委ねながら生きることができるのか。それは、私たちのこの朽ちる体、卑しい体、弱い体をも、神様が愛し、責任を持って引き受けてくださる、そのことを信じているからであります。その神様が、私たちを、朽ちたままにしておかない。卑しいままにしておかない。弱いままにしておかない。地の底に、伏したままにしておかないのです。
 
 私たちの救い。それは霊魂だけが救われるなどといった、そんな上辺だけの、みみっちいものではありません。神様は、私たちのこの体ごと、すべてを、余すところなく救われるのです。だからその為に「〔神の〕言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)のです。その肉となったイエス・キリストが、私たちの「初穂」(20節)として復活させられたのです。2000年前に、事実として、確かに、そのことが起こった。朽ちるものから朽ちないものに。卑しいものから輝かしいものに。弱いものから強いものに。私たちに先んじて復活して下さった御方に続いて、私たちも変えられる。今とは異なる状態に、朽ちない体をまとって復活する日が来る。私たちの望みは、ここにあります。
 
 
 
 
 
 

コリントの信徒への手紙一 第15章35-49節
「天に属する者として」

 
 今共に、唱和しました日本基督教団信仰告白。これは、私たちが一体何を信じているのか。その信仰の内容を、一つ一つ確認するように言い表したものですけれども、その最後は、このような言葉で締め括られています。「身体のよみがえり、永遠の命を信ず。アーメン」。私たち、クリスチャンにとっての希望。それは、身体のよみがえり、永遠の命が約束されている、ということです。たとえ死んでも、この体が朽ち果てても、やがて神様によって起こされる日が来る。そして、その神様のまったき支配のもとで、「もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙21:4)神の国で、新たに生きるようになる。それを私たちは信じている。このことは改めて、凄いことだと思います。いいでしょうか。「身体のよみがえり」です。これ、クリスチャンでも勘違いしている人が多い。まるで私たち、魂だけが生き返る、人格だけが永遠に残るかのように考えている場合があります。体というのは頼りない。歳を取れば不自由になるし、やがて動かなくなる。体の喜びを享受できるのは、謳歌できるのは、せいぜい若いうちだけで、その後は、もはや重荷でしかない。だからでしょうか。「よみがえる」と言った時も、体に対しては、それほど執着をしないのです。大して期待をしていないというか、軽んじる傾向がある。大切なのは中身だ、と言わんばかりに。しかし聖書は、私たちの体というものを、とても重要視しています。むしろ「体あってのあなただ」ということを強調します。「体なしのあなたなどあり得ない」と。
 
 私たちは、中身だけが、魂だけが救われるのではないのです。神様によって受け入れられるのではない。この体ごとです。体も含む、すべてを神様は受け入れ、新たに造り変え、生かそうと考えておられるのです。これ、とても大切なことだと思う。私たちの体の問題。どれだけの人が、体のことで悩み、苦しんでいることでしょう。ちょっとした体のコンプレックスに始まり、手術後の痛みと闘っている人、体の機能にハンディキャップを抱えている人、体が深刻な病に侵されている人がいます。私たちは思うわけです。「なぜ、自分の体は、こんななのだ」と。「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれる」(ロマ7:24)のか、と。私たちにとっての救い。本当の平安。それは体抜きには考えられないことです。体の問題を無視して、魂だけが救われるなんてことはない。
 
 信仰は、しばしば内面の事柄、心の問題だ、と言われることがありますけれども、とんでもないことです。神様を信じるということ、信仰を持って生きるというのは、決して抽象的なことなんかではありません。非常に具体的であり、そこに体を伴うものであります。事実、私たちは、自分の足で教会に来ています。ここで賛美をし、御言葉を聞き、献金を、奉仕をする。どれも身体的な事柄です。それと切り離した信仰などあり得ない。神様が、私たちに用意してくださっている救い。それは体を伴った復活です。正に私たちが毎週告白しているように、ただのよみがえりなのではない、「身体のよみがえり」なのです。じゃあ、その際の体とは何か。一体どんなものか。どんな姿かたちで復活するのか。新たな疑問が湧いてきます。病気の人からすると、病気の状態で復活しても、困るわけです。その場合、復活はその人にとって希望ではなく、苦痛です。それだったら御免こうむりたい。他にも、正直、もう会いたくない人だっているでしょう。復活などしようものなら、また会わなければいけない。また結婚した人に先立たれて、再婚した場合、その人が復活したら、パートナーはどっちになるのでしょうか。最初の結婚相手か、それとも再婚相手か。あるいは復活する時、何歳ぐらいの体で復活するのか。赤ちゃんが死んだ場合はどうなるのか。
 
 そうやって考えて行きますと、色々とおかしな話になっていきます。どうも辻褄が合わない。矛盾が生じてくる。それはそうです。私たちは、復活を、今のこの体を基準に考えてはいけない。今のこの体、この生活が、そのまま復活して、再開するのではないのです。「どんなふうに」。私たちは、そう問う時、何が前提にあるかと言いますと、今ある自分のこの体であります。今、目の前にある確かなこと、この自分の体から出発して、死後の体ことを、復活の体のことを考えるのです。だから手がどうとか、姿形がどうか、年齢はいくつかということが気になり、おかしなことになる。しかしパウロにとって、そんなことはどうでもいいのです。それが重要なのではない。だから、そのような問いをする人たちに向かって言います。「愚かな人だ」(35節)と。それよりも、彼が伝えたいこと、それは、たとえ肉の体が朽ち果てても、それで私たちは終わりではない。その後に、復活の体が、霊の体が用意されている、ということです。その体は、これまでの体とは違うものです。何が違うか。朽ちないのです。パウロはそのことを伝えるために、ここから色々な話をするのです。
 
 最初に「種の話」が出てきます。種を蒔く時のことを考えてみなさい。蒔かれた種が、地中でどうなるか。もみ殻は朽ちていく。しかし、そこから、種が朽ち果てたその場から、新しい命が出てくるではないか。種という体からは、想像できない新しい体が生まれてくるではないか。「死者の復活もこれと同じ」(42節)だ、と。今のこの体と、これから与えられる復活の体。それを種と、そこから生じる実に譬えて語るのです。種と実は、ある面で、まったくの別物です。姿かたちを異にする。つまり、今のこの体が、そのまま持ち越されるわけではない、ということです。復活の体は、この体の延長ではない。この体による苦しみやハンディキャップ、不幸な関係が、復活において、そのまま再開されることはありません。神様の新しい創造の力によって、それらのことから解放された、新しい命と体が与えられるのです。それゆえに復活は、私たちが今抱えている全ての問題が解決し、悩みや苦しみや悲しみの全てが、取り去られるという希望であり、喜びをもって待ち望むべきことなのです。
 
 だからと言って、これまでの体と、まったく関係がないかというと、そういうわけでもない。考えてみてください。大根の種を蒔いたのに、人参ができることはないでしょう。大根の種は大根になる。私たちの今の体と、復活の体とは、まったくの別物です。しかしだからと言って、私たちは復活において、別の人になってしまうわけではない。私が私でなくなってしまうのではありません。その意味では、今の私たちと、復活する私たちとは連続しているのです。パウロはこの種と実の譬えで、そのことも意識しています。神様は御心のままに、種に体をお与えになるわけですが、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになる。それは、ある種にはある体を、という対応があるということです。つまり、大根の種を蒔けば、大根ができるということです。種はそのように、全く別のものになってしまうのではない。本質的には同じなのです。復活においても、私たちは、全く新しい命と体を与えられる、しかし私は私であり続けるのです。
 
 そうしながらパウロは、39節以下、また別の譬えをし始めます。肉の話から、天体の話へ。話があっちに行ったり、こっちに行ったり、何だか余計に分かりにくくなっているような気もしますが、ここで大切なのは、神様がお与えになる体は、どれも輝きに満ちている、ということです。私たちのこの体、色々な不自由があります。弱くて脆い、それでいて汚い部分を沢山持ち合わせています。とても輝いているなどとは言えない。そんな体が、そのまま再開されるなら、私たちは、遠慮したくなります。それならば結構だ、と。しかし、復活の体は、これまでとは違う、はるかに輝きに満ちたものだと言うのです。42節「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」。これらをまとめて、パウロはこう語ります。44節「つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです」。
 
 今の私たちのこの体のことを、パウロは「自然の命の体」と表現します。しかしこの訳だと、パウロが本来、言わんとしていたことが、どうも伝わりにくい。直訳すればここはこうです。「息をしている体」。これは続く45節に関わる表現です。45節に「最初の人アダムは命のある生き物になった」と言われています。この背後には、創世記2章7節の言葉があります。「主なる神は、土(アダマ)で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。そう、神様の命の息です。この息を吹き入れられて、人は初めて生きるようになったというのです。まさしく息をするようになった。これは、ただ生物学的に生きるようになったという説明ではありません。神様との関係において、人は人として生きるようになった。ここに、聖書の人間理解があります。私たちの命は、神様によって生かされている。しかし、その「息をしている体」は同時に、朽ちるものであり、卑しいものであり、弱いものであると言われています。
 
 そのことを、私たちは、事あるごとに、嫌と言う程に知らされる。体を持つが故の限界、苦しみですね。その根底には、いつも罪が横たわっている。それが解決しない限り、到底、救われたなどとは言えないのです。「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれる」のかとの叫びを、呻きを、誰もが持っていることだと思う。しかし、その嘆きの只中に、神様は愛する御子をお送りくださいました。イエス様ご自身、そのような朽ちるべき「自然の命の体」をまとってくださったのです。49節に「わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです」とある通りです。この御方は、神の御子だからといって、特別な体を与えられたわけではありません。空腹を覚えることもあれば、傷つく言葉を言われて、寝られない時だってあったでしょう。ウイルスに侵されて熱だって出たことでしょう。恐怖に震えることだってあった。十字架につけられた時、痛みのあまりに叫んだのです。この御方は、死に至るまで「土からできた」私たちの似姿になってくださいました。
 
 その御方が「最後のアダム」(48節)として「命を与える霊となったのです」。父なる神様は「最後のアダム」であるイエス・キリストを、死者の中から復活させられました。私たちの復活に先立ち、その「初穂」(20節)として。その際、体を持って復活させられた。復活の出来事は、弟子たちの心の中の出来事でも、内面の事柄でもないのです。非常に具体的です。それを見せつけるように、イエス様は、弟子たちの前で魚を食べ、傷を触るようにと言われました。私たちは、その御方に似るのです。48節「土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです」。ここに、私たちの望みがあります。
 
 
 
 
 
 

コリントの信徒への手紙一 第15章20-34節
「最後の敵」

 
 つい最近、「100日後に死ぬワニ」という4コマ漫画が、インターネット(Twitter)上で話題になりました。これは擬人化されたワニの日常を描いたものなのですが1日4コマ、それを100日続けて、100日後に死ぬという設定で、昨年の12月12日から始まったものです。先日の3月20日に最終回100日目を迎えました。主人公のワニ君は、親友のネズミ君と一緒にゲームをしたり、ラーメン食べたり、映画を観たり、漫画読んだり、バイトをしたり、恋をしたり。普通のどこにでもいる若者の毎日を送るわけですが、一日が終わる度に、4コマ目の下に「死まであと〇〇日」と書かれているのです。カウントダウンが進む。しかし100日後に死ぬと言っても、当のワニは死ぬなんて思っていませんし、読者もそう宣言されていなければ分からない、普通ののどかな、悲壮感などまったくない、ちょっと笑える漫画なのです。100日目に近づくにつれ、どういう終わり方になるのか、ネット上で話題になりました。この漫画の作者は、インタビューで「ワニは強い。そんなワニでもいつか必ず死ぬ。少しでも人生の終わりを意識してもらえればと思って描いた。その意味で話題になった時点で成功だ。終わり方は、それほど重要じゃない」そのようなことを語っていました。
 
 終わりを意識する。自分の死と向き合って生きる。それが大切であることが分かっていても、私たち、なかなかできないものです。できれば先送りにしたい。キリスト教会でも修道院などで、「メメント・モリ」という言葉が、盛んに言われた時期があります。ラテン語で「自分が死ぬことを忘れるな」「死を覚えよ」という意味です。中世の時代、修道士同士の挨拶の際に、この言葉が使われていたようです。「自分が死ぬ」ということ。そこから今ある命を見つめる。それによって生き方が変わる。一日一日を大切に、有意義に生きられるようになる。そのような話は、色んな所で耳にします。「100日後に死ぬワニ」も、そんな意図で描かれました。しかし、本当にそうなのでしょうか。自分の死を見つめれば、意識すれば、今をもっと積極的に、今ある命を十分に、感謝を持って生きられるようになるのでしょうか。もちろん、そういった面もなくはないと思いますが、私はむしろ、その逆だと思います。死を見つめる時、私たちは、どうしたって恐怖に足がすくんでしまう。余命宣告を受けるなど、そのことがリアルであればあるほど、どうすることもできなくなる。それが私たちの死に対する、正直な姿でしょう。
 
 死という絶対に避けられない圧倒的な力を前に、怒り、嘆き、もう諦めるしかない。投げやりにならざるを得ない。私たちに出来ることとすれば、せいぜい悔いがないようにすることです。やりたいことをやるだけです。そのような抵抗しか、私たちには残されていない。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(32節)これはかつて、イスラエルの人々が口にしていた言葉(イザヤ22:13)です。パウロが手紙を記した、コリントの教会の中にも、それと似たようなことを口にする人たちがいたようです。「食べたり飲んだりしようではないか。どうで明日は死ぬ身ではないか」。死と向き合えば、向き合う程、私たちは、その死の力に打ちのめされ、そして飲み込まれる。絶望という二文字に。そして行き着くのです。「食べたり飲んだりしようではないか。どうで明日は死ぬ身ではないか」という虚無主義(ニヒリズム)に。これは他人事ではないでしょう。「食べたり飲んだりしようではないか。どうで明日は死ぬ身ではないか」。これ程、私たちの本心を言い当てている言葉はないでしょう。死を見つめて出て来る結論は、せいぜい、その程度のものです。そもそも、どれだけ死を意識しても、死と向き合っても、死がなくなるわけではないのです。死に対する恐れ、死に対する不安、問題は、依然として残ったままです。これを、どう受け止め、乗り越えるか。
 
 パウロは語ります。信仰者は、死を見つめるのではない。死を意識して生きるのではない。キリストを見つめて生きるのだ。これ、とても大切なことだと思う。そう、私たちは、ことさらに「死」という言葉を、時に強調し過ぎてしまう所がある。教会でもそうです。「メメント・モリ」がいい例でしょう。それは、どこかで死をゴールに見立てているからかもしれません。そこですべてが終わる。ならば死を見つめる時、そこには、何の望みもないでしょう。私たちは、信仰者は、死を見つめて生きるのではありません。イエス様が復活した時のことを思い出してもらいたいのです。イエス様が葬られた墓の前で、マリアは泣いていました。彼女は死を見つめていたのです。その象徴である墓の方を向いてへたり込んでいた。そこには絶望しか、涙しかありません。そんなマリアに対して、復活したイエス様は、彼女の後ろに立ち、何とおっしゃったか。「婦人よ、なぜ泣いているのか」(ヨハネ20:13)。その時、マリアは「後ろを振り向いた」とあります。そう、私たちが見つめるべきは、墓ではない。死ではない。その後ろに、その対極に立つ復活のイエス・キリストです。「そっちではない。こちらを見るように」イエス様はそう語りかける。
 
 使徒パウロも、そのことを手紙の中で語ります。20節「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」。「初穂」とは、字の通り、その年の最初に実った稲の穂のことです。他に先立って、いち早く、実る稲がある。それを見て、稲を管理する人は思うわけです。「いよいよこれから収穫の時期が始まる」と。つまり「初穂」とは、これから収穫が続くことの知らせ、合図なのです。「キリストの復活は、正にそれだ」とパウロは言います。初穂に続いて、次々と他の稲も穂を実らせて行くように、キリストの復活、それが合図となり、目印となり、それに連なる者たちも、やがて次々と復活するようになる。キリストを死から起き上がらせ、墓の外へと導き出した命を、キリスト者たちもまた生きるようになる。
 もしそれが「嘘だ」と言うのであれば、「そんなのは作り話だ」と言うのであれば、キリストを信じて死ぬ、これ程惨めなことはない。無駄なことはない。パウロは言います。さらに30節「また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか」。そんなことに命をかけている自分は、大バカ者ではないか、と。32節に「エフェソで野獣と闘った」とあります。実際にコロッセオのような闘技場で、パウロが見せ物として野獣と闘わされた、そういう記録(使徒言行録などに)はありません。ですから、これは比喩的な意味で、でありましょう。野獣のような、敵意剥き出しの人たちが、常にパウロの行く先々にはいたのです。迫害を受け、命を狙われることだってあった。それでも彼は、語り続けたのです。キリストの死と復活を。だから「誰が嘘のために、作り話のために、迷信のために、そこまでするか」とパウロは言うのです。20節「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」。
 
 そう語りながらパウロは、この復活の出来事が、私たちのための出来事なのだ、と語ります。そもそも、私たちは、ただただ死に向かうだけの存在だったではないか。私たちが、どうして死ぬことになったか、その経緯を思い出してほしい。それが21節「死が一人の人によって来た」、続く22節「つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになった」という言葉です。これだけで、手紙を受け取ったコリントの教会の人たちは、パウロが何を言いたいのかが、分かったと思います。そう、創世記に出て来る、あのアダムの話です。神様から「決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創2:17)と言われていた木の実を、アダムは取って食べてしまった。神様のお考えよりも、自分の思いを優先したのです。命の源である神様に背き、その神様から離れて生きる時に、人は命から離れ、死ぬことになる。「アダム」とは「人間」を意味する言葉です。つまりアダムは、私たち人間すべての代表と言ってもいい。そのアダムが神様から離れ、死の道を切り開き、突き進んで行ったように、私たちも、その道に続いていたのです。キリストが来られるまでは。死が、滅びが、私たちの行き着く先だった。
 
 ところが22節「キリストによってすべての人が生かされることになる」とパウロは語ります。キリストの復活が、私たちの命の行き先を、ゴールを変えた、というのです。キリストが、私たちの初穂として復活させられた。23節以降は、その復活の具体的な順序についてです。「最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりがきます。…」云々。色んなことが言われていますけれども、大切なことは26節「最後の敵として、死が滅ぼされ」るということです。アダム以来、どうすることもできずに、屈し続けた死という最大にして「最後の敵」。しかし、今やその死が滅ぼされる、というのです。その力が無効となる。そう宣言してパウロは、詩編(8:7)の言葉を引用します。27節「神は、すべてをその足の下に服従させた」。
 
 「すべて」です。その中には「死」も含まれています。神様はご自身の力が、支配が、すべてに及ぶことを、キリストの復活によってお示しになられました。けれどもどうでしょう。私たちは、その御力を、その御支配の範囲を、どれだけ小さくしていることか。まるで、死に対しては、神様でもどうすることもできないかのように、考えます。だからでしょうか、実際に、それが自分のこととして迫って来ると、動揺します。正気を失ってしまうのです。死は事あるごとに、私たちに、その力をチラつかせ、脅し、囁くのです。「死ですべてが終わりだ。それだったら食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」と。今を生きる私たちを、諦めへと誘い、骨抜きにしようとしてきます。
 
 それに対してパウロは言います。34節「正気になって身を正しなさい」。「正気になる」というのは、「酔いから目を覚ます」という意味の言葉です。いつまでも死に酔っていてはいけない。死にばかりに目を向けていてはいけない。あなたが目を向けるべきは、向かい合うべきは、そっちじゃない。私たちの初穂、キリストの復活だ。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」。人を死んだままにはしておかない、何が何でも起き上がらせようとする、神様の強い思いがキリストの復活に現れている。私たちの希望、その根拠はここにあります。
 
 
 
 
 
 
 
 

コリントの信徒への手紙一 第15章1-19節
「信仰はむなしくない」

 
 「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます」(12節)。今まさに、私たちが聞くべき言葉が、ここにあります。「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます」。この手紙を受け取った、コリントの教会の人たちは、忘れかけていたのです。最も大切なことを。自分たちの生活のよりどころを。私たちは、どうでしょうか。私たちも、忘れてしまってはいないでしょうか。周りを見渡せば、不安なことばかりが目につきます。安らぎをかき乱す声が、絶え間なく聞こえてきます。目の前のことで精一杯になっている自分がいる。そんな中で、忘れてしまうのです。最も大切なことを。自分たちの生活のよりどころを。
 
 そこで使徒パウロは「ここでもう一度知らせます」と言って、改めて「福音」を、神によってもたらされた良い知らせを、確認するように語り出します。それが3節からの言葉です。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。ここに「キリストが、…わたしたちの罪のために死んだこと」そして「三日目に復活したこと」とあります。要するに、この二つ。キリストの死と復活。これが私たちにとって「最も大切なこと」、忘れてはならない「福音」だ、とパウロは言うのです。しかし、これのどこが「福音(良い知らせ)」なのだ、と思う方がおられるかもしれません。キリストの死と復活が、一体自分にどう関係しているのか。それが、なぜ喜ばしいことなのか。
 
パウロの言葉を注意深く読みますと、キリストが、ただ死んだのではない、ということが分かってきます。もう一度3節をご覧ください。「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだ」と言われています。「自分が犯した罪のせいで死んだ」「十字架にかけられた」ではないのです。「わたしたちの罪のために死んだ」。キリストの死には、私たちの罪が、大きく関わっている。パウロは、別の手紙の中で「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。…『正しい者はいない。一人もいない』」(ロマ3:9-10)そう述べながら、私たちの「罪が支払う報酬は死」(同6:23)である、と語ります。私たちにとって避けられない死の問題。その根本には、元を辿れば、そこに罪がある、とパウロは言うのです。
 
 では「わたしたちの罪」とは、一体何でしょうか。聖書は繰り返し、私たちに罪があることを指摘します。しかし、当の私たちはというと、その実感がまるでない。そそれもそのはず、私たちは「罪」というと、まず第一に法に触れること。「犯罪」を思い浮かべます。自分は、そこまで悪くはない。しかし聖書が言う罪は、そのような目に見える事柄だけに留まりません。私たちがどう考え、どう思い、何を企んでいるか、その内面をも問題にします。神様は、心根にまで踏み込んで来られる。そのことは「罪」という字を見れば明らかです。聖書が言う「罪」は、ギリシア語で「ハマルティア」と言いますが、これは「的外れ」を意味する言葉なのです。神様が「こうだ」と定められた道がある。しかしそこから外れて行く。神様の考えや思い、それらを無視して、ただ自分の思いに生きること。それがハマルティア、罪なのです。聖書は、そんな神様の言葉に聞き従わない人間の姿の、罪の歴史の記録と言ってもいい。命の源である神様から離れる時、罪の中に生きる時、私たちは、命そのものが分からなくなる。その証拠に、私たちは、自分の価値を見失っています。「この人生に意味などなく、ただただ死んでお終いだ」と思い込んでいます。どこにも望みを見出せないでいる。それはもう、死んでいるのと同じでしょう。けれども、その罪の只中に、神様は御子イエス・キリストをお送りくださったのです。私たちの「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断」(ロマ8:3)してくださった。その現場が、十字架です。
 
 パウロは言います。このことは3節「聖書に書いてあるとおり」の出来事なのだ、と。「聖書に書いてあるとおり」。続く4節にも出て来る言葉です。これは具体的に、聖書のどこどこの箇所(イザヤ53:5-12、ホセア6:2)というよりも、聖書全体がそのことを証している。神様が予め語られていたとおり、神様の御計画に従って、この出来事は起きた、ということでしょう。すべては私たちを罪から救うために。それによってもたらされる、死と滅びの恐怖から解放するために。神様がそう望まれたのです。その際、イエス・キリストは、聖人として死んだのではありません。罪人として死んだのです。それは、イエス様が罪人の私たちと、一つになってくださったということです。イエス様は、私たちの罪を「これこそ私の罪だ」と言って、御自分のものとしてくださったのです。その罪の代償である呪われた死を、代わりに死んでくださった。
 
 その御方が、4節「聖書に書いてあるとおり三日目に復活した」のだ、とパウロは語ります。ここに、私たちの望みがある。喜びが、救いがある。私たちと同じ罪人として死なれた御方を、神は、私たちに先んじて復活させたのです。その命が死の中に滅びの中にあり続けることを、よしとはなさらなかった。この部分「復活した」とありますが、正確には「復活させられた(起こされた)」です。誰によってか。神様によってです。しかも、他が「死んだ」「葬られた」と過去形なっているのに対し、ここだけが完了形なのです。つまり、今なお継続している、今も起こされている。これは現在のことなのです。イエス・キリストは罪人として十字架で死に、葬られた。しかし、神によって起こされた。今も起こされたままでいる。そのことを裏付けるように、5節以下でパウロは数々の証人たちを挙げて行きます。「ケファに現れ、その後十二人に現れた…。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れ…次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」。
 
 ここでパウロは、自分のことを「月足らずで生まれたようなわたし」と言います。「月足らず」というのは、「早産」を意味する言葉です。つまりは未熟児、本当は死んでいてもおかしくない存在ということです。これは何もパウロの実際の生まれが、そうだったという話ではありません。続く9節でパウロは、自分は使徒として「いちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」と言っています。「私は他の使徒たちと違って、イエス様と共に生活をしたわけでも、そこで特別な準備や訓練を受けたわけでもない。むしろ教会を迫害する側にいた人間。散々、神を裏切り、否定し、自分の思いに生きてきた、信仰的にも未熟児のような存在。そんな私が『神の恵みによって今日…ある』(10節)。このような者でさえも、神様は目をかけ、生かしてくださっている」。そのことを言いたかったのだと思います。その意味で、パウロにとって復活は、過去の出来事でも、これから先の出来事でもないのです。今まさに、自分の身に起きている。もうすでに復活の力は、自分にも及んでいる。本来ならば、滅ぼされてもおかしくない存在。実際にパウロは、一度は死んだのです。地に打倒された(使9:4)。しかしそこから彼は起こされたのです。罪人をそのままにはしておかない。何としても救い出す。新しい命に生かす。神の執念が「神の恵み」が、ここにはある。
 
 神様は、イエス・キリストを復活させられました。ただ復活させたのでありません。罪人として十字架につけられ死に、墓に葬られたキリストを、復活させたのです。それはすなわち、罪人である私たちの罪を赦すことに他ならない。キリストの復活は、そのことを神様がお認めになった、承認されたことの証なのです。そうであるならば、私たちはもう「罪が支払う報酬は死」そのことを恐れる必要はない。その清算を、イエス様がご自分の命で済ませてくださったのです。これは「神の恵み」によることです。「神の恵み」とは、私たちの業績には一切依存しない、神の業のことです。私たちが何を行ったから、その見返りとして与えられるものではない。一方的に差し出されたもの。だから福音(良い知らせ)なのです。私たちが頼みもしない内に、私たちが求めてすらいない段階で、神様は私たちに必要な罪の赦し、死と滅びからの解放を与えてくださった。キリストの死と復活の出来事を通して、それが確かであることをお示しくださった。私たちはその福音を、ただただ感謝をもって受けるのみです。パウロは言います。3節「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたものは、わたしも受けたものです」。信仰は、修行して得るものでも、勉強して学ぶものでも、自分の中を覗き込み発見するものありません。既に差し出されているものを、受けるのです。
 
 この神の恵み、それを告げ知らせる福音に立ち、それを足場として生きる。生活のよりどころとする。その時、私たちは救われるのです。その歩みが、命が、ようやく確かなものとされると言ってもいい。それなのに私たちは、すぐに忘れてしまいます。キリストが一体誰のために死んだのかを。そのキリストが一体誰のために復活させられたかを。そうしながら、心騒がせる。あるいは反対に、まるで死んだかのように、暗闇の中に伏す。この世が、目の前の状況が、すべてだと思い込むのです。事実、コリントの教会では「死者の復活などない」(12節)という人たちがいたようです。彼らは、ただこの世での生活にのみ、望みを見出そうとしていた。注目すべきは、この発言は、教会の外から、神様を信じていない人たちの間から聞こえて来た言葉ではないのです。パウロは言います。「あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」。
 
 神様を信じている人が、一度、福音を受け入れた者が、「死者の復活などない」その言葉を口にする。それに対してパウロは、死者の復活があるかないかの議論をいたしません。そんなことをしても無駄だからです。結局は堂々巡りになる。不信仰しか出てこない。そこでパウロは、ただ事実を述べるのです。その事実とは、イエス・キリストが私たちの罪のために死んだこと。復活したことです。そうしながら16節「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストも復活しなかったのなら、あなたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」。百歩譲って、仮にあなたたちが言うように、死者の復活がなかったとしよう。そうであれば、あなたが抱えている未解決の罪の問題はどうするのか。そう問いかけるのです。しっかり覚えていましょう。キリストが私たちの罪のために死んで下さったことを。復活なさったことを。私たちの命はもう、罪による死と滅びの支配下にはない。むなしいものなんかでもない。私たちも、やがて復活するのです。起き上がる。いや、もうそれが始まっています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

コリントの信徒への手紙一 第14章26-40節
「まずは黙ること」 

 
 「え…わたしが祈るんですか?」。先月の23日に、長野県町教会で行われた分区の修養会で掲げられた講演のタイトルです。「え…わたしが祈るんですか?」。この修養会を分区の委員会で企画した時に、「祈り」ということをテーマにしようと話し合ったのですが、最初は「礼拝における祈り」とか「信仰共同体の祈り」などといった、もっとお堅いタイトルが挙げられていました。しかしそれじゃあ「あまり来たいと思わないだろう」「関心を引かないだろう」ということで、話し合いの末「え…わたしが祈るんですか?」になったのです。私たちが普段の教会生活で、直面する問題ですね。教会でお祈りを頼まれた時に、ついつい言ってしまう、あるいは思ってしまうことです。なぜ、そういう祈りに対して逃げ腰な姿勢に、私たち、なってしまうのか。そこから「そもそも祈りとは何か」をテーマに講演をしていただきたいと思い、このタイトルにしたのです。
 
 お祈りをするということ。これは信仰者にとって、呼吸をするくらいに大切なことです。呼吸しないと私たちは死んでしまいます。信仰も同じです。祈らない時、あるいは祈れない時、私たちの信仰生活は、活力を失い、息苦しさを覚え、やがて死んだようになってしまう。命の源である神様との関係を断たれてしまうからです。それなのにどうでしょう。いざ祈ろうとなると、祈ることが難しく思えてしまう。特に人前だと、いくら「神様に向かって祈っているのだ」「周りの目なんか気にする必要はない」と思っても、緊張してしまう。言葉が出て来ない。スラスラと祈れる人が隣にいると、尚の事、「自分にはそんなふうにはできない」と委縮してしまうのです。そのような経験を、誰もがお持ちのことだと思います。
 
 その分区の修養会には、信州教会からも何人か出ておられました。講演の後に分団での話し合いの時間があったのですが、ある分団で、こんな発言が出たそうです。私は、その分団にいませんでしたので、正確な引用ではないかもしれませんが、趣旨はこうです。「お祈りは、あらかじめ準備したもの、書いたものを読むのは、いかがなものか。それだと心がこもっていないような気がする」。要するに「クリスチャンならその場で、即興で祈れ」「普段、日常的に祈っていれば、その訓練ができていれば、そんなことはできるはずだ」そうことを言いたかったのだと思います。なるほど、その人の言い分も分からないでもない。私たち、色んなことを言い訳に、どれだけ祈りから逃げていることか。それは神様との交わりを避けていることに他ならない。
 
 しかし、祈りを用意することが、直ちに、訓練が足りないとか、心がこもっていないとか、不信仰だとか、そういうふうにはならないと思います。用意するにも、祈って、時間をかけて言葉を選び、教会の人たちのことを思い浮かべ、配慮しながら用意しているわけですから。それは尊く、大切な業でしょう。それを否定するということは、もしかしたら何か、自由に、その場で祈れることにこそ価値があって、そうできないのは駄目だ、という変な考えがあるのかもしれません。「祈りを準備するのは駄目だ」「人の真似をしてはいけない」「読み上げるなんて以ての外」「その場で、自分の言葉で、自分のオリジナルで祈らなければいけない」という主張は、裏を返せば自分は準備せずとも祈れる、それができるということでしょう。そのような祈りに対する思い上がりは、時に、周りを裁いてしまうことがある。そうできない人は駄目なんだ、ということになりかねない。
 
 それぞれ自由に、促されるままに祈る。それが信仰者の本来のあるべき姿だ。確かに、それができたに越したことはないのかもしれません。使徒パウロも前々回読んだ箇所で「あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思います」(14:5)と語っています。異言というのは、神様に向けられて語られた言葉のことです。それは言い換えれば、自由な祈りの言葉のことでありましょう。スラスラと、思いのままに、導かれるままに言葉を口にする。コリントの教会には、そのような賜物を与えられている人が多くおりました。自由に、用意せずとも、その場で祈りの言葉が出て来る。そうあることが「よし」とされていた。いや、そうあることを皆が目指していたのです。自由に祈る。促されるままに言葉を口にする。それこそが、信仰者にとって求めるべき最高の道だ、と。正に、修養会での発言、「祈りは書いたものではなく、その場でなされるべきだ」「信仰者はそうあるべきだ」という人たちの主張と同じです。しかし、はたしてそうなのでしょうか。皆が、そうあるべきなのでしょうか。そうじゃなきゃいけないのか。
 
 私が、以前にいた教会では、早天礼拝が毎週水曜日に、朝6時半から持たれていました。30分の礼拝で、まず牧師から御言葉の解き明かしを聞いて、それから祈るのですけれども、その祈りの時間は、まったくの自由なのです。誰が祈るという決まりがあるわけでも、順番があるわけでもない。ですから、長く沈黙が続く時もあれば、立て続けに祈られる時もありました。このような礼拝の持ち方は、祈ることに慣れている人にはいいでしょうが、初めて来た人には、ハードルが高いように思います。これと似た礼拝のスタイルをとる教会が世界にはあります。「クエーカー(別名:フレンド派)」と呼ばれる教派があります。そのクエーカーの礼拝が、正にそうなのです。クエーカーの礼拝には、司式者などいません。牧師もいません。その特徴としましては、形式的なものを嫌い、個人の霊的な体験を重んじますので、導かれるままに促されるままに誰かが語り、祈るのです。礼拝に集った人たちが、霊的な体験にあって身を震わせる(quake)から「クエーカー」と呼ばれるようになったと言われています。
 
 恐らく、コリントにある教会の礼拝も、今日読んだ26-31節を見る限り、そのようなスタイルだったのではないかと考えられます。色んな人が礼拝の中で語り出す。しかしその際、秩序が問題になったのです。27節で「異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り」。「二人か三人」といわれています。恐らく、それ以上の人が異言を語っていたのでしょう。しかも「順番に」とあります。順番関係なしに、それこそ導かれるままに、好き勝手に、それぞれが異言を口にしていた。29節の預言に関しても同じです。今の、私たちの教会のように、司式者がいて、説教者がいて、奏楽がいてと、整えられた礼拝式順、プログラムがあるわけではありません。特に、決まりといった決まりがない。自由に、促されるままに人々が祈り、語り出し、歌い出す。中でも、コリントの教会では、婦人たちのパワーが凄かったようです。34節に「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません」とある。ここだけを切り取って読むと、大変な問題発言です。で、こういう所から「パウロは男尊女卑だ」とか、「聖書は女性の権利を認めていない」とか、そういったことが言われることがあります。また、ある教派ではここを根拠に、女性の牧師を認めない。そればかりか女性の役員も認めない。そんな教派もあります。
 
 けれども、これに関して言えば、私たち、コリントの信徒への手紙を順に読み進めていますから、パウロがそういうことを言いたいのではない。ということが、その前の部分を読めば分かるでしょう。例えば、11章5節で「女はだれでも祈ったり、預言したりする際に」と出て来ます。女性が礼拝の中で祈ること、預言することを前提に語られているのです。何もパウロは、女性を認めていないわけではない。むしろ女性の活躍を積極的に認め、推奨している。別の箇所で、パウロはこう言っています「もはや…(信仰において)男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(カ3:28)。女性全般に、どうこう言っているのではない。その意味で34節は、聖書の言葉を、前後関係抜きに、一部分だけを取り上げるとおかしなことになる、その良い例です。じゃあパウロは、なぜ「婦人たちは、教会では黙っていなさい」と、まるで前言を撤回するようなことを言ったのか。これは後に続く35節と合わせて考えなければいけません。「何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです」。
 
 ここに「何か知りたいことがあったら」とあります。恐らく、礼拝中、質問のような形で、口を開く婦人たちがいたのでしょう。私たち今だと考えにくいですが、それが許されていた。しかしその中身はというと、質問という形を取りながらの独演会になっていたのです。自分の主張・知識・思い・考え、それをつらつらと述べ続ける。続く36節に「それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか」とあります。この婦人たちは、信仰のことについて「自分たちこそがよく知っている」と思っていたに違いありません。そういう変な自信を持っていた婦人たち。しかしはっきり言って、その中身は、信仰に何の関係もないことを、得意になって語っているだけなのです。「自分はこれを知っている」「こう考える」。それに対してパウロは言うのです。「そういうのは、家でやってくれ」「満たされない承認欲求、あるいは自己顕示を、教会でしてくれるな」と。
 
 誤解して頂きたくないのは、何も「教会で質問してはいけない」と言っているのではありません。私も、色んな方の質問によって気づかされることがありますし、学ばされることがたくさんあります。質問、それ自体は大歓迎です。神様を信じて生きる時、必ず、その神様に対する問いが出てくるものです。問題は、それが信仰にまったく関係のない場合です。「ただの自己主張、自己満足に教会を巻き込むな。ましてや礼拝を乱すな」というのです。質問と銘打ちながら、いかに自分が正しいか、優れているか、自分のことばかり話している事がある。そういう人に「教会では黙っていなさい」とパウロは語るのです。「もう自己主張はいいから、そのおしゃべりな口を閉じて、神様の前に、一人の罪人として、そのあなた自身の罪と向き合え。そして預言の言葉に、その罪からいかにして解放されたか。その救いの宣言に耳を傾けよ」と。だから「黙りなさい」と繰り返し語るのです。
 
 私たちは、不信仰に陥る時、神様のことが信じられない時、その不安からでしょうか、黙っていられなくなる。自分の知恵や力で、何とか物事を動かそうとします。そうしながら、どんどんと自分の声を、自分の思いを、考えを大きくするのです。おしゃべりになる。しかし礼拝は、その逆です。自分を大きくするのではありません。神様を大きくする場所です。神様ご自身は、大きな御方ですよ。それに変わりはない。しかし、それを私たちは日々の生活の中で、どれだけ小さくしてしまっていることか。「さすがに神様も、このことはおできにならないだろう」「これに関しては、どうしようもないだろう」。神様の御支配を、御力を小さく見積もるのです。それを本来の姿に、私たちの理解の及ばぬ、遥かに大きな御方として仰ぐ、それが礼拝です。そのためには、まず「黙りなさい」というのです。詩編に「力を捨てよ、知れ、わたしは神」(46:11)という言葉が出て来ます。以前の訳だと「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(口語)となっていました。あるいは、もっと荒々しく「黙れ」そう訳す人だっている。
 
 礼拝は、自分の主義主張を、神様に認めてもらう場所ではありません。自分の思いや考え、それを正当化する場所でもない。それらを越えて、神様がお語りになる場所です。そしてそれを聞く場所です。当然のことですけれども、自分がしゃべっていては聞けません。だから礼拝は「前奏」から始まるのです。そこで、この一週間、開きっぱなしだった口を閉じるのです。黙る時、私たち、否が応でも、自分というものの虚しさ、嫌らしさ、醜さ、そして罪深さに気づかされます。ある面、それを誤魔化すために、私たちは口を開き続けているのかもしれません。黙る時、そこに、どうしようもない自分の姿がある。しかし、そこで聞く言葉があるのです。黙る中で、ようやく聞こえて来る言葉がある。イエス・キリストが、私たちの、そのどうしようもない姿を、罪にまみれた人生の責任の一切を、負ってくださったという事実を伝える言葉です。キリストがこんな私のために、十字架にかかり、命を投げ出してくださった。それだけの価値を、神様は私に見出してくださった。そればかりか、私たちのこれからをも、キリストの復活によって保証してくださっている。
 
 この神様から、教会に預けられた言葉。預言を聞く時、そこから私たちは整えられ造り上げられて行く。私たちの生活に秩序が生まれるのです。これは神による秩序です。神による平和と言ってもいい。無秩序で、不確かだった歩みが、確かなものにされて行く。神様によって預けられた言葉。預言は変わりません。そこに込められた、私たちへの思いは変わらない。「兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい」(39節)。
 
 
 
 
 
 
 
 

コリントの信徒への手紙一 第14章20-25節
「大人の教会」

 

 私たちが今、手にしている聖書。これは、元々は、ヘブライ語とギリシア語で書かれたものです。旧約聖書がヘブライ語(一部:アラム語)で、新約聖書がギリシア語ですね。それを日本語に翻訳をする際、あえてそのまま訳さずに、カタカナで表記している言葉というものが、聖書の中にはいくつかあります。その代表格が「アーメン」という言葉です。「アーメン」。これは、ヘブライ語の「エメツ(真実)」という言葉から派生してきた言葉でありまして、同意を表す言葉です。日本語に訳すならば「その通り」「わたしもそう思う」「本当だ」ということでしょうか。旧約聖書に記されているイスラエルの民の礼拝の様子(歴上16:36、ネヘ5:13、8:6)なんかを見ましても、比較的古い時代から、礼拝の中でこの「アーメン」という言葉が使われていたようであります。それを新約時代の教会もまた、そのままに引き継ぎましたので、新約聖書を記す際ギリシア語に訳し直すことはせず、そのまま「アーメン」と記したのです。そしてそれが世界中に広まって行った。ですから、どの言語に訳された聖書であっても「アーメン」なのです。「アーメン」の部分だけは、元のヘブライ語の音を残したままに記されている。その意味で、クリスチャンは、世界共通語を持っているのです。世界中、どこの教会に行っても「アーメン」だけは通じる。この「アーメン」は、いわば教会が教会であることのしるし、その信仰が一致していることのしるしなのです。
 
 聖書は、私たちに問いかけます。あなたがいるその所に、はたして「アーメン」はあるのか、と。ドキッとする問いかけです。私たちは普段、どれだけ「アーメン」ではない世界を足場として生きていることでしょう。心の底から「その通り」「本当だ」「真実だ」と言えることが、どれだけあるか。家庭でも、学校でも、会社でも、周りを見渡せば、同意しかねることばかりです。それは信仰生活においてもそうです。私たちは、聖書を読んでも、説教を聞いても素直に「アーメン」と思えない時があります。また祈りの言葉に「アーメン」と言えない時があります。教会の在り方に、方針に「アーメン」ではない場合だってある。あなたがいるその所に、はたして「アーメン」はあるのか。「アーメン」のない教会。「アーメン」と言えない自分が、そこにはないでしょうか。2000年前のコリントの教会が、正にそうでした。とてもじゃないけれども「アーメン」と言えない状況がそこにはあった。一体何が「アーメン」と言うことを妨げていたのか。人々に「アーメン」と言えなくさせていたのか。
 
 その大きな原因の一つに、言葉の混乱がありました。教会の中で皆が皆、「異言」を好き勝手にしゃべっていたのです。「異言」というのは「神に向かって」語られるもので、そのほとんどは誰にも分からない。意味不明な言葉というか、音の羅列です。外から見れば、奇妙な光景だったと思います。しかしそれだけに、コリントの教会の人たちには、その姿が神秘的に、また魅力的に見えたのでしょう。異言を「天使たちの」(13:1)言葉として、もてはやしていた。それだけに多くの人が異言を求め、またそれを礼拝の中で、我先に口にする、ということが起こっていたようです。あちこちで異言が語られる、語っている本人はというと、その悦に浸っている。しかし、それがどれだけ素晴らしいものであったとしても、どれだけ熱心に、神様に向いていようとも、周りにいる人たちには分からないのです。分かりませんから「アーメン」と言いようがない。結局は、異言を語っている本人の満足でしかないのです。
 
 私たちも、そういう言葉を口にしてはいないでしょうか。自分だけの言葉。自分中心の言葉。それが周りの人を励ましたり、慰めたり、立ち上がらせたりするようなことはないのです。だからパウロは言う。20節「兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください」。何もパウロは「異言」が悪いと言っているのではありません。禁じてもいない。ただ「弁えよ」と言うのです。そのために「子供となってはいけません」と。私たち、歳を重ねても、相変わらず子供っぽい所を持っています。いや、ますます子供になっている部分がある。子供っぽい誇りに、拘りに生きてしまいます。この場合の子供というのは、イエス様がおっしゃられた「神の前では幼子のようであれ」というのとは違います。むしろ子供の悪い側面ですね。子供は、周りのことなんか考えません。自分が気に入ったことを、好きなだけやります。自分中心の世界にだけ生きているからです。ともすると信仰も、そんな独り善がりな状態になりかねない。皆がいる中で、自分だけの言葉、誰にも分からない異言を語るというのは、そういうことです。自分のことしか考えないのです。しかしそれは子供のすることだ、とパウロは語ります。「あなたがたはそうであってはならない」「物の判断については大人になってください」と。
 
 そうしながら21節「律法にはこう書いてあります」そう言って、パウロは、旧約聖書のイザヤ書28章11-12節に記されている言葉を引用します。「『異国の言葉を語る人々によって、異国の人々の唇で、わたしはこの民に語るが、それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』と主は言われる」。かつて神様は、預言者イザヤを通して、イスラエルの人々に分かる言葉で語りかけました。「このままでは、あなたがたは隣国のアッシリアに滅ぼされてしまう」そう警告をし、「これまでの生き方を悔い改め、主なる神に立ち返るように」と迫ったのです。ところがイスラエルの人々は、その預言を聞こうとはしませんでした。そして、イザヤの語る言葉を、神様からの預言を、意味のないおしゃべり、たわ言として退けたのです。そのようなイスラエルの人々の思い上がり、預言をないがしろにする姿勢に対して、神様はアッシリアによる征服、国の滅亡という裁きを下されます。
 
 アッシリアによって征服されるということは、つまり彼らが「異国の言葉」、外国語によって支配されるということです。分かる言葉、預言に耳を傾けなかったがために、聞いても分からない、異国の言葉に支配されるようになってしまう。そこに異言がある。異言しか、聞いても分からない言葉しかない。「アーメン」がない。このことは、裏を返せば、神様の裁きのしるしでもあるのです。そうかつてのイスラエルの民がそうだったように。だからパウロは22節「このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるし」と語るのです。異言は、私たちの不信仰を明らかにする。対して預言はというと「預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです」。そこに聞いて分かる言葉がある。「アーメン」がある。預言は、信仰を明らかにします。そしてその預言によって、人は造り上げられ、励まされ、慰められていく。
 
 そこに「アーメン」があるのか、それともないのか。このことは言い換えれば、そこで異言が語られているのか、それとも預言が語られているのか、ということです。もっと言えば、まことに「アーメンである方」(黙3:14)そう呼ばれているイエス・キリストのことが語られているのか、いないのか、です。そう問いかけながらパウロは続けます。23節「教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか」。「反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら」25節「まことに、神はあなたがたの内におられます」と言い表すことになるだろう、と言うのです。
 
 このことは単純に、訳の分からない言葉を語っている教会と、分かる言葉が語られている教会との違いと言っているのではありません。話し方の問題ではない。平易な言葉で、説教が語られてさえいれば、必ず信者でない人が「まことに、神はあなたがたの内にいます」と告白するようになる、というわけではないのです。問題は、そこで何が語られているかです。「まことに、神はあなたがたの内におられます」という告白が生まれるのは、その人が24節「皆から非を悟らされ、罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され」ることによってです。それは教会の人たちが、新しく来た人を取り囲んで「お前は罪人だ」と言って責め立てるということではありません。ここで言われている「皆」とは、教会のことです。
 
 その教会で、預言によって語られるのは、イエス・キリストのことです。神様が、イエス・キリストを通して何をしてくださったかを、預言によって知る。その時、人は「非を悟らされ、罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され」ることになるのです。神様の独り子であられるイエス様が、私のために人となって世に来て下さり、私の罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった。それによって私の罪が赦され、イエス様の復活により、私にも神の国に生きる望みが与えられた。そのことが明らかになる。これに、私たちは「アーメン」と応えるのです。この「アーメン」を基に、私たちは生きてい行くことができる。どんなことがあっても、神は私のことを見捨てない。「アーメン」「その通りだ」「間違いではない」。教会は、そのことを繰り返し、唱和し続けてきました。これからも繰り返して行きます。その中に、身を置き続けましょう。
 
 
 
 
 
 

コリントの信徒への手紙一 第14章1-19節
「人を造り上げる言葉」

 

 異言と預言。先ほど読んだ聖書の中に、普段、私たちには、あまり馴染みのない、二つの言葉が出て来ました。異言と預言。恐らく、教会に来なければ、聞くことも、使うこともない言葉かと思います。異なる言葉と書いて「異言」。預かる言葉と書いて「預言」。注意すべきは、未来の出来事を言い当てるという意味での「予言」ではありません。聖書が語る「預言」は、「予定」や「予告」に使われる「予(あらかじめ)」という字ではなく、預かるという字で預言です。いずれにしましても、異言と預言。その両方に、「言(げん)」「言葉」という字が使われています。すなわち言葉を巡って、コリントの教会内で問題が起きていた、というのです。言葉にまつわるトラブル。そう聞くと、一気に私たちの身近なことになるでしょう。私たちが抱える人間関係のトラブル。そのほとんどが、言葉を巡って起きていると言ってもいい。言った言わないに始まり、発した言葉が意図した形で伝わらなかったり、また誤解して受け取ったり、悪意をもって一部分だけ切り取られたり。「口は災いの元」などと言ったりしますが、聖書でも、ヤコブの手紙などを読みますと、私たちの口が、そこから発せられる言葉が、いかに汚れているか。「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(3:8)そのようにある。
 
 けれども聖書は、何も、私たちの舌や口、言葉について、全部が全部悪いと言っているわけではありません。もしもそうであるならば、誰一人、口を開くことができなくなる。聖書は、その大前提として、言葉というものが、神様から与えられた賜物の一つだと語ります。そのことが、少し前の第12章に記されている。「ある人には霊によって知恵の言葉、ある人にはその同じ霊によって知識の言葉が与えられ、…ある人には預言する力、…ある人には種々の異言を語る力…」(12:8-10)。その上で、それら言葉を用いる際に「愛」というものが重要になって来る。それが土台になければ、どれだけ良い賜物、素晴らしい言葉であっても「騒がしいどら、やかましいシンバル」(13:1)に過ぎない。そのことが第13章で語られていました。そして今日の第14章に入って行く。1節「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」。愛を追い求めて生きる。その具体的な事柄、第一歩として「預言を求めよ」と聖書は語ります。
 
 これに関しては、当時のコリントの状況を踏まえながら、少し説明がいるかもしれません。まず「預言」についてですけれども、聖書がいう「預言」は、先ほども少し話したように、読んで字のごとく「預かる」の方の預言です。何を預かるかというと神様の意志、思い、計画を預かって語ることです。今日の私たちで言えば「説教」や「証」の言葉に当たるでしょうか。対して「異言」の方は、一般の人には理解できない、信仰の言葉のことを言います。2節を読むと「異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません」とあります。今でも、一部の教派では、異言を用いて祈ったり、語ったりするということが行われています。
 
 私自身は、その賜物は与えられていませんので、異言を口にしたことはありません。しかし神学生時代、ルームメイトが、ペンテコステ系の教会出身の人で、異言について、色々と教えてもらったことがあります。それこそ耳にしますと、文字に起こせないような、ここで真似てみろと言われても出来ないようなものです。正直に言いますと、最初、気味が悪かった。祈っている本人に後で聞くと、「覚えていない」そういうのです。そして自分でも何言っているか分からない。ある人は、それを「宗教的な陶酔だ」と言って切り捨てます。否定的に、疑いの目で見る。その気持ちも分からないでもない。しかし私は、聖書に異言というものが書いてある以上、やはりそういう賜物はあるのだと思います。自分にはない、分からないだけで。で、そういう異言。おおよそ人間業とは思えない。何かにとりつかれたかのように語り出すその姿が、コリントの教会の人たちには、神秘的に、また魅力的に見えたようです。「異言こそ、信仰者が求めるべきもの、最高の道だ。それが語れる人の信仰は素晴らしく、そうでない者はまだまだだ」。そんな異言を、過度に重んじ、それに憧れる風潮があった。そのために多くの人が異言の賜物を求め、またそれを持っている人が、礼拝の中で、我先に異言を口にする、ということが起こっていたようです。
 
 それに対してパウロは言います。「霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」(1節)。異言と預言。コリント教会の人々は、異言の方が一段上の、より優れた賜物だと思っていました。しかしパウロは、預言こそ、より優れた賜物であり、追い求められるべきものだと言います。何故か。その理由が2節以下で述べられている。異言は2節「人に向かってではなく、神に向かって語る」言葉で、それゆえに「誰にもわからない」。対して預言は「人に向かって語られ、人を造り上げ、励まし、慰める」。異言は神に向かって語られ、預言は人に向かって語られる。
 
 では神に向かって語ることと、人に向かって語ること。どちらが貴く、大切なのでしょうか。私たちの信仰的な感覚からすると、神に向かって語ることの方が、人に向かって語ることよりも貴いことのように思えます。きっとコリント教会の人々もそう思ったでしょう。しかしパウロは、ここで異言よりも、預言の方が大事だとはっきり語ります。その理由は、神に向かって語る異言は、誰にも分からないのに対して、人に向かって語る預言は「人を造り上げ、励まし、慰める」からです。つまりパウロは、異言と預言の違いを、人にどのような益をもたらすか、という点において見るのです。それは言い換えれば、愛において語られているのは、どちらかということです。第13章で「どんな優れた賜物も、愛なしには何の益もない」と語られていました。その愛とは、自分の利益を求めず、むしろ人の利益になるように、人の為になるようにすることです。その愛によって語られているのは、異言よりもむしろ預言の方なのです。
 
 そのことは4節において、よりはっきりと示されています。「異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます」。異言を語る者は自分を造り上げている。つまり異言は、自分の信仰を深め、自分と神様の関係を緊密にする。けれども、それは自分のことだけに止まり、人には何の益ももたらさないのです。それに対して預言は、教会を造り上げます。3節では、預言が人を造り上げ、励まし、慰めると語られていました。それはある人を、個人的に向上させたり、励ましたり、慰めたりする、ということではありません。預言において語られるのは、神様の御意志、御計画です。具体的にそれは、イエス・キリストの生涯において示されている。私たちは神様が世にお送りくださったイエス様の十字架、その死によって罪から救われたのです。それだけではありません。その復活によって死に打ち勝つ命、神の国に生きる希望を頂いた。それ程までに神様は、私たちのことを愛している。それが神様の御意志です。それを語り伝える「預言」の言葉によって、私たちは信仰者として造り上げられ、励まされ、慰められ、生きていくことができるのです。預言はそのように、神の意思であるイエス・キリストによる励ましと、慰めによって生かされる者たち、教会を造り上げていく言葉です。自分だけが神様と対話し、信仰を深めていくという異言とはそこが決定的に違う。

 そうしながらパウロは異言と預言の違いを7節以下で、いくつかの喩えによって語っていきます。まず、楽器がただ音を鳴らしているのでは音楽にならず、人の心に何も伝わらない。異言はそれと同じだと言います。そして8節、軍隊における合図のラッパには、決められたメロディーがあるのであって、それに従って吹かれなければ、何の合図か分からず行動が起こせない。異言もそれと同じだと。更には11節、異言が語られる場合、語る人と聞く人との関係は、外国人との会話と同じだ、とも言われています。お互いに理解できない外国語でしゃべり合っているようなもので、そこには意思の疎通が生じないのです。これらの喩えによって語られている、人と人との心が通じない、言葉が伝わらない、意思疎通ができないという事態は、異言が語られる場合に限った話ではなく、様々な場面で私たちの間に起っているのではないでしょうか。
 
 私たちの教会では、異言が語られることは、ほとんどありません。私自身も、異言は語れませんし、ただ知識として知っているだけです。そういう意味では、この異言と預言の話は、あまり関係がないことのようにも思えます。けれども異言が語られる所に、意思疎通がままならない状況が起こる。そういった状況は、むしろ私たちが日々経験している現実ではないでしょうか。私たちは、自分の語る言葉が相手に通じない、意思疎通ができないという苦しみを経験します。同じ日本語を話しているのに、外国人のように通じないということがあるのです。そこでは、自分の語っている言葉が、相手にとっては異言となっており、相手の言葉も自分にとって異言となっているのです。なぜそうなるのか。私たちは今一度、自分の語っている言葉を、吟味しなければなりません。私たちの言葉が人に対して、異言になってしまうのは、私たちが、自分を造り上げることしか頭にないからでしょう。神様に向かって語っているつもりでも、正しいことを語っているつもりでも、それが自己満足の、自分のためだけの言葉になっているなら、独りよがりの愛のない言葉になっているなら、その時、私たちの言葉は異言になっているのです。

 これは人間の罪によって引き起こされている現実です。そのことを最もよく教えているのが、創世記11章に記されている「バベルの塔」の物語です。それまで一つの言葉をしゃべっていた人間が、この出来事を通して言葉が乱され、結果、意思疎通ができなくなったという話です。何が原因でそのようなことが起こったのでしょうか。それは人間が、自分たちの力を天にまで、神様のもとにまで届かせ、神様と肩を並べる者となろうとしたからです。自分が神のようになろうとする。神に従って生きるのではなく、自分が主人になり、自分の思い通りにしようとする。そういう思い上がりの罪によって、私たちの言葉は相手に対して異言となり、お互いに言葉の通じない者、心と心が通わない者、愛し合うことのできない者となってしまっている。バベルの塔はそのことを教えています。

 では、お互いが異言を語り合っているような状態から、私たちはどうしたら抜け出せるのでしょうか。それは私たちの言葉が異言ではなく、預言になることによってです。そのためにパウロは「預言するための賜物を熱心に求めなさい」と語るのです。皆が皆、説教者になれということではありません。人に向かって語る言葉、自分をではなく、人を造り上げる言葉を語る者となれ、ということです。それは言い換えれば、愛を求めることに他ならない。愛を失っているが故に、私たちの言葉は、異言になってしまうのです。愛を追い求めることによってこそ、私たちの言葉は、異言から預言へと変えられるのです。では、その愛を、私たちはどこに追い求めればよいのでしょうか。それは私たちが聞いている預言の言葉の中にです。預言の言葉は、聖書に記されています。そこに、イエス・キリストによって示された神様の、私たちへの愛が示されている。このイエス・キリストの姿が、私たちに、神様の愛を教えてくれます。この神様の愛を告げる預言の言葉によって、私たちは、何度でも造り上げられ、励まされ、慰められて行く。
 
 預言を求めましょう。そこに示されている神の愛、イエス・キリストとますます繋がっていく中で、私たちの語る言葉は変えられていきます。私たち一人一人が、人を造り上げ、励まし、慰める言葉を、キリストの体である教会を破壊するのではなく、築き上げていくような言葉語る者とされていくのです。