ルカによる福音書 第3章23-38節
「そして神に至る」

 

 先程、読んだ聖書の箇所に、イエス様からアダムまで、ずらっと77代に及ぶ系図が記されていました。これ、目で追うだけでも、耳で聞くだけでも、大変なことです。途中で諦めて、この部分は飛ばして、次に行きたいと思った方も、おられるのではないでしょうか。私なんかはこういう所を読みますと、学生時代を思い出すのです。テストのために必死で、こういった人名や単語を暗記していたなぁ、と。大体こういうのって、覚えようと思っても一気には覚えられない。そこでどうするかというと、自分なりにリズムをつけて区切り、一つのまとまりを作ります。そのまとまりが覚えられたら、今度は次のまとまりへと移る。そして最終的に、それらを繋ぎ合わせて一つにするのです。で、この方法というのは、世界中どこに行っても、そう変わらないと思います。よほどの天才でない限り、そんな一回で覚えられる人なんていません。どこの国でも、リズムに乗せて、区切っては覚え、繋げる、それの繰り返しです。暗記に近道はない。ひたすら唱え続けるしかありません。
 
 以前、イスラエルに旅行した時に、有名なエルサレム神殿の外壁、「嘆きの壁」の前に行きました。そこはイスラエルの人たちの祈りの場でもあるのですが、私が行った時も、多くの人たちが壁に向かって祈りをささげていました。それを傍から見ているとですね、あることに気づく。祈っている人の身体が、前後に揺れているのです。何しているかって言うと、リズムを刻んでいるのです。リズムに乗せながら、聖書の言葉で祈っている。イスラエルの人たちの暗記の分量は、私たちの比ではありません。中でもユダヤ教の「正統派」と呼ばれる人たち、彼らは、聖書の創世記から申命記まで、トーラー(律法)と呼ばれる部分、それを全部覚えるわけです。まだ少年のような子でも、大人と一緒になって、身体揺らして祈っているんですね。それは彼らが、聖書の言葉、そこに自分たちの命の根拠がある、ルーツがある、そのことを大切にしているからでありましょう。暗記と共に、自分たちは「神の民」であるということを、体に刻むのです。
 
 私たちには、そうやって聖書を全部覚えるという習慣はありません。覚えたとしてもせいぜい一部分です。それは覚えたに越したことはないのかもしれませんが、私なんかは、もう最初から白旗上げてしまいます。「無理だ」と言って。ただ、なぜイスラエルの人たちが、今でもトーラーを全部覚えるのか。その心、その精神から、私たちも大いに学ぶべきだと思います。私たちの命を支え、生かす根拠が、聖書にはある。ですから、私たち、このルカによる福音書に記されている系図ごときで、一々たじろいでいる場合じゃない。ここにも、これを通して、神様が私たちに語らんとしていることがある。そのことに目を向けたいと思うのです。
 
 今日の箇所、系図に先立ち、ルカはこのように告げます。23節「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった」。ここに、イエス様のおおよその年齢が記されています。この記述から、他の福音書(ヨハネ)と照らし合わせて(年に一度のイスラエルの伝統行事(過越祭)が、3回は記されていることから)大体、イエス様の公生涯、神の国を宣べ伝える働きは、約3年ほどであったのではないかと言われています。で、この「三十歳」という年齢、現代の私たちの感覚で言えば、特に教会の中ではまだまだ「若い」部類になるでしょう。しかし聖書の世界において「三十」というのは、必ずしも若さを意味する数字ではありません。例えば、創世記に出て来るヨセフが異国の地エジプトで、奴隷から成り上がり、実質、国のトップに立ったのは「三十歳であった」(創41:46)とあります。また羊飼いであったダビデが、イスラエルの王様になったのも「三十歳」(サム下5:4)ですし、エゼキエルが預言者として立ったのも三十歳です(エゼ1:1)。他にも、祭司の務めにつくのは「三十歳以上」(民4:3)などという規定もある。
 
 王・祭司・預言者。この三つの役職に就く人というのは、昔から、人々を導くために、重要な働きを担ってきた人たちです。それがいずれも、「三十」という節目で表舞台に登場する。つまりこれ、何が言いたいかというと、「三十歳」というのは、決して「若い」ということではなくて、むしろ「機が熟した」という意味でありましょう。準備が整い、いよいよその働きを開始する、というタイミングです。その王・祭司・預言者が表舞台に立つ年齢と、イエス様が宣教を開始する年齢とが、ここでピタリと重なるのです。わざわざルカが、ここで「およそ三十歳であった」と告げているのは、イエス様こそが、人々を神の国へと導く、真の王であり、真の祭司であり、真の預言者である。そのことを伝えたかったのだと思います。聖書自身がそれを証している。その前提のもとで、系図がスタートしていくのです。
 
 イエス様から始まり、アダムまで総勢77名。そのままに読むと、これただズラッと並んでいるだけですので、分かりにくいかもしれませんが、聖書を研究する学者なんかは、次のように指摘します。「この系図は7人一組でまとめられている」と。つまり7名ごとで区切られ、それが11組あるというのです。なるほど、この7という数字は、聖書の世界では「完全数」とされる特別な数字でありまして、聖書の至る所に出て来ます。ここでもそうです。まるで後に続く人たちが、リズムを刻み、覚えやすいように、そんな配慮があるかのようです。このイエス様の系図に関しては、マタイによる福音書の方でも記されています。ただそれは、読み比べてもらえれば分かることですけれども、順序が逆になっている。マタイの方では、アブラハムからスタートして、イエス様に至る。過去から現在へ、そのような流れで系図が書かれています。方や、ルカの方では、イエス様からスタートして、アブラハム、そして更にはアダムまで系図が進むのです。現在から過去へ。で、このマタイとルカ、二つの系図に関しては、ただ出発点が違っているというのであれば、何ら問題はないのですが、詳しくこの二つを並べて見ますと、どうもそう単純でないようなのです。単刀直入に言いますと、この二つの系図、一致していないのです。特に、ダビデからイエス様に至る部分。ほぼ違っているのです(名前が合致しているのは3名だけ)。しかも名前だけではありません。そもそも人数が合っていない。更には旧約聖書のどこ読んでも、この系図に記されている人の名前が出て来なかったりと、「これ、一体どういうことか」と不思議に思えることばかりなのです。マタイとルカどっちの系図が正しいのか。それとも、どっちも間違っているのか。
 
 結論から言います。どちらも合っています。もっと正確に言えば、どちらも、ある意図をもって書かれているという点で、合っている。そもそも、ルカの系図が、7名一組で、それが11組続いている(計77名)。マタイの系図が、14名一組で、それが3つの区分で出来上がっている(ダビデが重複しているので計51名)。あまりにも、出来過ぎではないでしょうか。そんな綺麗に、計ったように、数字が揃いますでしょうかね。もちろん、神様の御計画に基づけば、造作もないことだ、と言ってしまえばそれまでなのですが、じゃあマタイとルカ、突き合わせた時に、人数も名前も合っていないのは、どう説明するんだ、という話になります。これまた結論を先に言えば、両方とも削っているのです。「要約」をしていると言ってもいい。ここに全部の人の名前が、事細かに載せられているわけではないのです。私たちだって、徳川の将軍、全員覚えるわけではないでしょう。家康(初代)と家光(三代)と綱吉(五代)と、といった感じに、目だった働きをした人を、テストに出そうな人をピックアップして覚えたことでしょう。ここでもそうです。全部を載せるわけではなく、ポイントとなる人を選んで、それぞれ系図を形作っている。
 
 じゃあ、マタイとルカ、ことごとく名前が合致しないのはどういうことか。これに関しては、昔から色んな説明がなされてきました。どれも聖書に、はっきりしたことが記されていませんので、推測の域を出ませんが、有力なのはマタイの方は、父方ヨセフの系図で、ルカは母方マリアの系図じゃないか、という説です。その理解でいきますと、23節の「ヨセフはエリの子」この「エリ」というのは、ヨセフからしたら義理の父親、妻であるマリアの父親ということになります。なるほどそうやって考えますと、マタイとルカ、系図に出て来る人の名前が違っているのもうなずけます。それらを踏まえた上で、ここで更に興味深いのは、それら別々の系図が、そこから約1000年さかのぼって、ダビデ王で繋がっている、ということです。それを裏付ける記述が、この系図の直前、第2章に出て来る。あの有名なクリスマスの出来事です。そこで、その時代、住民登録が行われたこと、人々が本籍地まで帰らなければならなかったことをルカは伝えています。注目すべきは、ヨセフもマリアも、同じダビデの町「ベツレヘム」へ登録のために帰ったということです。つまり二人は同郷、ダビデにルーツを持つ者ということになります。もしもヨセフだけが、ダビデの家系というのであれば、わざわざ妊娠しているマリアまで、ベツレヘムへ連れて行くなんてことはしないでしょう。自分だけで行って、登録を済ませてくるはずです。しかしマリアも同行した。
 
 マタイとルカ、ダビデから、別々に分かれた二つの系図。ダビデ以降、かつて一つだった神の民が、バラバラに散らされたのです。けれども、それから約1000年の時を経て、イエス・キリストの誕生でもって、それが繋がるのです。再び一つとされる。ヨセフとマリアの系図が、ダビデから分かれ、イエス様で繋がっているのは、決して偶然なんかではない。ここに神様の思いが現わされている。神様の御計画が実現しているのです。これまで約1000年の間、色々あったかもしれない。国が滅ぼされる。奴隷生活を強いられる。自分たちの拠り所である神様を、礼拝することさえ禁じられる。苦渋をなめ続けてきたのです。その中でイスラエルの人たちは何度「自分たちは神に見捨てられた」と思ったことでしょう。望みを抱くことを諦めたことか。しかし、それでも神様は見捨ててはおられなかった。その答えがイエス・キリストなのです。「この者を見よ。ここに私の思いが現れている」。
 
 聖書の系図を見る時に、私たちは、ただ「誰々がいた」という名前を見るのではない。血のつながりを、その順番の正確さを、歴史的な信憑性を吟味するのでもない。もちろん、系図ですから、それも大切なことですけれども、それよりも、その系図に込められた意図、神様の思いを、私たちはしっかりと見つめるべきです。それらが何気ない言葉の中に散りばめられている。例えば、ルカは、イエス様から系図を始めましたが、最初こう記しています。23節「イエスはヨセフの子と思われていた」。いきなり曖昧な表現から、この系図は始まるのです。「思われていた」ということは、「実際は違っている」ということです。私たちの感覚からすると、それじゃあ、この後に続く系図の意味がないじゃないか、と思うかもしれません。「実際は違っているんだから」と。しかし、正にそのことをルカは、はっきりさせておきたかった。と言うのもルカは、第1章から2章にかけて、イエス様の誕生の出来事を記した際、マリアが「聖霊によって身ごもった」ということを強調しているのです。つまりマリアが、ヨセフと肉体関係を持って、それで生まれたのではない。聖霊、神の見えない力による出来事なのだ、ということです。それを大前提に、系図をスタートさせるのです。だから「思われていた」なんて表現になる。
 
 系図を見る時、もっと言うならば、私たちが過去を眺める時、どうしたって肉の思いでもって、それを見てしまいます。人が何を考え、どう行動してきたか。私たちの側の理解ですね。しかし、それだけでは見えてこないものがある。人の営みの背後に秘められた神様の思い、御計画です。ルカの系図が、なぜアダムまでさかのぼり「そして神に至る」この言葉で結ばれているのか。アダムというのは、全人類共通の祖であります。ルカはこの系図を通して語るのです。「イエス・キリストという御方、この御方は、イスラエルの人たちだけの救い主なんかではない。全人類の救い主なのだ」ということを。「この御方がもたらしてくださった救いの御業、罪の赦しは、すべての人に及ぶ。そう、あなたとキリストは無関係なんかではない。あなたのために、キリストは来てくださった。あなたを神の国へと招くために」。
 
 系図の最後、「そして神に至る」そうあります。キリストから始まり、神に至る。これは、単なるルーツの話では、過去の話ではない。私たちが向かうべき、これからのことです。なぜルカが、イエス・キリストからアダムへ。その流れでもって系図を記したのか。それは、イエス・キリストを通して、私たちは「神に至る」。神の国へと帰って行く。その筋道を、はっきりさせたかったからです。私たちの人生は、無意味にさ迷っているのではない。ましてや、滅びへと向かっているのでもない。「神に至る」。神様に根拠を持ち、その神様に向かって、神の国に、私たちの命は向かっている。かつてイエス様は、おっしゃられました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)。「私を通って父のもとに帰ろう」「私と共に生き、そして死のう」「神の国に行こう」。この系図に記された流れの中に、あなたの命もある。そう聖書は語りかけるのです。
 
 
 
 
 

ルカによる福音書 第3章21-22節
「天から響く声」

 今のような非常時になると、決まって出てくる「問い」があります。それは「神がおられるならば、なぜこのようなことが起こるのか」という問いです。戦争を経験する。自然災害に見舞われる。あるいは、不慮の事故に巻き込まれたり、病気にかかったり。また離婚を経験したり、仕事を失ったり。その生活が、日常が、根底から覆される時、立ち行かなくなる時、私たちは問わざるを得なくなる。「なぜ神は…」と。これは、興味本位で問うような問いではないと思います。ましてや冷やかし半分で問う問いでもない。たまに、神様のことを否定するために、「なぜ神は…」この問いを持ち出す人がいますけれども、そもそも神様を信じていない人が「なぜ神は」などとは問えないはずです。問うこと自体がおかしい。明らかな矛盾です。この問いは、神様の存在を、信仰を前提としている。
 
 私たちは、いい加減、気づくべきです。「自分には信仰がない」とか、その「信仰が弱い」とか「小さい」とか、呟いてばかりですけれども、イエス様はおっしゃったじゃありませんか。「からし種一粒ほどの信仰があれば」(マタイ17:20)それで十分だ、と。どれだけ自分で悲観しようとも、私たちには、神様を想う心が、信じる思いが与えられている。だからこそ、真剣に問うのです。「なぜ神は…」と。そうしながら、私たちは神様を探すのです。「神様、あなたは一体どこにおられるのか」「何をお考えなのか」「その姿を見せてほしい」と言って。「なぜ神は…」から「神はどこに…」これ、必然の流れだと思う。と言うのも私たちは、空想に生きているわけではありません。具体的な生活の場があります。そこから問うのです。「神様はどこにおられるのか」。信仰は、決して抽象的な話なんかではない。
 
 それに対して神様は、イエス・キリストという存在でもってお答えになる。ここにすべてがある。イエス・キリストを見よ。事実、イエス様ご自身も、こうおっしゃられました。「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14:9)。ここにすべてが現れている。イエス・キリストを見れば、神様がどのような御方か、その思いが、お考えが、余すことなく分かる。だから聖書には、そのイエス様の生涯を記した福音書が、4つもあるのです。4つそれぞれ別の角度から、丁寧に、その姿を描き出している。特に、今私たちが読んでいるルカによる福音書は、「神はどこにおられるのか」、そのことを詳しく、より鮮明に表します。
 
 今日読みました聖書箇所に、イエス様が洗礼を受けた時の様子が記されていますが21節「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」とある。何気ない表現です。しかし、この所に「神はどこにおられるのか」その答えが、はっきりと示されている。今一度、ルカの記述から、想像してみてもらいたいのです。この時の様子を。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」。この直前、先週読んだ箇所で、洗礼者ヨハネのもとに、大勢の人たちが集まって来たことを見ました。それぞれに、悔い改めの洗礼、清めの儀式をヨハネから受けるために、ゾロゾロと集まって来たのです。そして今日読んだ箇所に入る。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて」。この部分、私なりに訳し変えるとこうです。「人々が皆、洗礼を受けている時、イエスも洗礼を受けて」。
 
 お気づきでしょうか。イエス様、人々が洗礼を受けるその列に、加わっているのです。混じって並んでいる。人々が洗礼を受ける前に、一足先に、イエス様だけが特別に洗礼を受けた、ではないのです。あるいは、人々が一通りはけて、その後に、ヨハネに特別な時間を取ってもらって、洗礼を受けた、でもない。人々が洗礼を受けている、正にその時に、イエス様も洗礼を受けた。そういう記述になっています。何ならこの時、洗礼者ヨハネは、イエス様の存在に、救い主に気づいていないのです。マタイによる福音書の方を見ますと、洗礼を受ける前の、ヨハネとイエス様とのやり取りなんかが記されていますけれども、ルカでは、その部分は割愛されている。ルカが注目したのは、そこではなく、イエス様が一般の人々に混じって、その中に入って洗礼を受けられた、ということです。特別な存在として、目立つ形で登場し、洗礼を受けられたのではない。
 
 そう考えますと、それだけで嬉しくなってきませんか。この時、イエス様は「おおよそ三十歳であった」(23節)と言われていますから、その辺にいる青年です。そんなイエス様が、誰に気づかれるでもなく、洗礼を受ける大勢の中の一人として、列に並んでいる。このことを通してルカは伝えるのです。神様は、どこか遠くにおられるのではない。ましてや、あなたがたの上に、特別な存在として、偉そうに君臨しているのでもない。人々の中に、あなたたちの中に、人知れず、紛れ込むようにして、共におられる。聖書の有名な一節に、次のような言葉があります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を低くして、僕の身分になり、人間と同じ者となられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6-8)。
 
 イエス様は、まことの神でありながら、まことの人として、この世に来られました。それは神様が、形だけ、格好だけ、ポーズを取るように人となった、というのではありません。完全な人となられた。完全な人であるということは、弱さを持っている、ということです。私たちが抱く、悲しみや恐怖、疑い。あるいは、私たちが感じる誘惑や不安。そういったものを、イエス様も持っておられた。それはすなわち、私たちと同じ姿で、罪人の姿で、この世を歩まれた、ということです。そのイエス様が、今日の箇所を見ると、人々が洗礼を受ける列に並び、その人々と一緒に洗礼をお受けになった。よくよく考えてみますと、これ大変、不思議なことです。この時、洗礼者ヨハネが、ヨルダン川で人々に授けていたのは、悔い改めのしるしとしての洗礼です。これまでの罪を水で洗い清め、神様の方に立ち帰って生きるように。そう人々に勧め、洗礼を授けていたのです。
 
 その洗礼を、罪のないイエス様がお受けになる。「何のために?」と思います。まるで必要がない。確かに、人であるということ、人は、誰しもが、例外なく、罪の中にある。そう聖書は告げています。それを「原罪」などと言ったりしますが、どんなに正しい人でも、神様の前では、罪ある存在なのです。そのままではいけない。神様によしとされることは、神の国に迎え入れられることはない。だから、その罪を清めるために洗礼がある。しかしそれは、ことイエス・キリストには当てはまらないのです。この御方は、まことの人でありますけれども、同時に、まことの神でもあられる。神様ですから、罪を犯しようがない。ですから、この一点において、罪がないという点において、私たちとは違うのです。悔い改める必要がない。そのイエス様が、なぜ悔い改めの洗礼をお受けになるのか。それは、そこまでイエス様が自分を低くされた、ということでしょう。本来の栄光の姿を捨てて、僕の身分になった、ということでしょう。この時、イエス様は、完璧な人として、罪のない存在として、胸を張って洗礼の列に並び、ヨハネの前に立ったのではない。悔い改めを必要とする一人の罪人として、ヨハネの前に出られたのです。
 
 よく教会で、洗礼をお勧めした時に、それを断る理由として、二つのことが言われます。一つは、「わたしは悔い改めなければならないような、重大な罪は犯していない。だから洗礼は必要ない」という立派な人。もう一つは、それとは逆に、「わたしなど洗礼を受ける資格はありません。罪深くて、恐れ多い。まだまだそこまで行っていません」という謙遜な人。しかし、ここで私たちは、イエス様が洗礼を受けたということを、忘れてはいけません。イエス・キリストが洗礼を受けたという、その事実に目を向けるべきです。イエス様は「わたしは悔い改める必要はないから、罪がないから」と言って洗礼を受けなかったか。あるいは「わたしには資格がないから」と言ったか。そうじゃないでしょう。確かにイエス様には罪はない。けれども、世界中には、私たちの中には、罪が満ち満ちているのです。その罪を、イエス様は他人事としてではなく、それは「あの人の罪だから、この人の罪だから、わたしには関係ない」とせずに、自分の罪として、自分のこととして、悔い改めてくださった。
 
 それが形だけじゃない、パフォーマンスじゃないということは、イエス・キリストの十字架での死が物語っています。文字通り命がけで、悔い改めてくださった。私たちが悔い改めても、悔い改めても、なお悔い改めようがない部分、拭えない罪、その責任の一切を、イエス様は、御自身のこととして引き受け、贖ってくださった。イエス・キリストは、自分は神だから、自分には罪がなく正しいから、その立場から、「お前たちも正しくなれよ」「頑張ってここまで来いよ」と言われたのではありません。もしそうであるならば、わたしたちは、もうどうしようもなくなってしまう。そうじゃなくて一緒に、この罪深い私たちの所にまで降りて来て、私たちの側に立ち悔い改めてくださったのです。私たちと同じ罪人として、洗礼を受けてくださった。
 
 ある牧師が、この人は、一人の高校生を救うために逮捕されてしまった牧師ですけれども、こんなことを言っています。「誰かを救おうとするなら、その人の共犯者になること」と。上から言い聞かせる、模範を示す、ということも大切でしょう。しかし、その人を根本的に立ち直らせるには、その人と同じ側に立ち、一緒に生きることです。それを神様が、イエス・キリストを通して、私たちにしてくださった。罪を素直に認めることのできない私たち。謝るのを渋っている私たちに代わって、イエス様が一緒に頭を下げてくれたのです。悔い改めの洗礼を受けてくださった。
 
 その時、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」(2122節)と聖書は告げます。「天が開け」ということは、それまでは、天が閉じていたということでしょう。「天」というのは、神様がおられる場所です。そこが閉じていた。つまり神様との交わりが、それまで絶たれていたのです。それが、キリストによる、まことの悔い改めによって、開かれた。そして天から声が聞こえてくる。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(22節)。私たちが悔い改めて、心を入れ替えて、清く正しくなったから、それでもって神様の「心に適う者」となるのではない。罪のない御方、イエス・キリストの悔い改めの故に、イエス・キリストの顔に免じて、わたしたちは清い者とされる。キリストと同等と見なされる。まるで罪がないかのように扱われる。
 
 「神はどこに…」。今もわたしたちの側に立ち続けてくださっている。罪のないイエス・キリストが、罪人であるわたしたちと同じ場所まで降りて来てくださり、そこから洗礼を受けてくださった。天へと通ずる道を切り開いてくださった。それに続くように、と。「洗礼を受けるのに、何か妨げるものがあるでしょうか」(使徒8:37)。わたしたちの側に、この恵みの出来事を拒む理由などはないはずです。
 
 
 
 
 

ルカによる福音書 第3章7-20節
「聞け、蝮の子らよ」

 

 「蝮の子らよ」(7節)「悔い改めにふさわしい実を結べ」。かつて洗礼者ヨハネが、イスラエルの人々に向かって言い放った言葉です。「蝮の子らよ」。これ、決して、褒め言葉なんかではないでしょう。「蝮」っていうのは、毒蛇のことです。この「蛇」というのは、聖書では、あまりいい生き物としては出てきません。「狡猾」で、人を惑わす存在として、人を神様から引き離す存在として出てきます。創世記のアダムとエバが、神様から食べてはいけないと言われていた木の実、それを食べるように勧めたのも蛇でした。
 
 「あなたたちは、そのような蛇、『蝮の子』になっている」とヨハネは、厳しい口調で語りかけます。明らかに悪い意味での表現です。しかし言われてみれば、私たち「その通りだなぁ」と思います。私たちは本来、神様の子として、真っ直ぐな存在としてこの世に生を受けたはずなのです。それなのに、いつの間にか「蝮の子」になってしまっている。蝮、蛇というのは、真っ直ぐではありません。クネクネと曲がりながら生きている。そして手あたり次第に噛み付き、毒を撒き散らす。その様は、私たちの姿、そのものではないでしょうか。ヨハネも「蝮の子らよ」とよく言ったものです。
 
 そう呼びかけ、ヨハネは続けます。「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧(おの)は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。一見、脅しとも取れるような恐ろしい言葉が続きますけれども、その裏には、そうまでして人々を救いたい!形だけじゃない、本当の悔い改めに導き、神様と共に生きる歩みの中に連れ戻したい!そのような熱意があります。真剣であるが故の厳しさですね。
 
 というのも、当時のイスラエルの人たちは、どこかで勘違いしていたのです。「自分たちは、神様によって選ばれた民、アブラハムの子孫なんだから、それだけでもう救いは保証されている。悔い改めなんかしなくったって、今のままで、ありのままでいい」と、都合よくアブラハムの子孫であることを持ち出していたのです。それに対してヨハネは言うのです。8節「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」。「あなたたちが価値を置いている、アブラハムの子孫であるということ。そんなものは大したことではないし、ましてや救いを保証するものでもない。神の手にかかれば、その辺にある価値のない石ころからでも、それを生み出すことだってできるのだから」。そして9節「そのままでいい。そうやって、いつまでも実を結ばない木でいるならば、お前たちはやがて切り倒され、火に投げ込まれるだろう」と。
 
 「今のままでは駄目だ」。それは、もしかしたら、イスラエルの人たちが、誰よりもよく分かっていたことなのではないでしょうか。だからわざわざ荒れ野まで、ヨハネの所にまでやって来たのです。「悔い改めよ」「神様の方に向き直れ」「その道筋をまっすぐにせよ」。私たちは普段、それとは反対のことばかりを聞きます。「そのままでいい」「ありのままのあなたが大切」そういう言葉を、あちこちで耳にする。私たちは言ってもらいたいのです。「そのままでいい」と。そうやって、これまで自分で自分を説得し、安心させてきたのです。現状を肯定し続けてきた。しかしヨハネは、はっきり言うのです。「そのままじゃ駄目だ」「向きを変えろ」と。本当は、私たちも、気づいているのではないでしょうか。「今のままではいけない」ということを。「そのままの自分」「ありのままの自分」。聞こえはいいですけれども、その何と荒んでいることか。歪みきっていることか。そのままでいいはずがない。だから私たちは、それが分かっているから私たちは、必死でもがき、苦しみ、変わろうとします。しかし、どうしたらいいかが分からない。
 
 ヨハネの周りに集まってきた人たちも、そうでした。これまで騙し騙し生きてきた。何かあれば「自分はアブラハムの子孫だから」そう自身に言い聞かせ、安心させてきた。しかし本当は「このままではいけない」分かっているのです。分かっているけれども、どうしたらいいかが分からない。だから言うのです。10節「そこで群衆は、『では、わたしたちはどうすればよいのですか』」。今のままじゃいけない。だからヨハネのもとに来たのです。それに対して、ヨハネは答えます。11節「下着を二枚持っている者は、一枚も持っていない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」。続けて、徴税人がヨハネに聞きます。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」。ヨハネは答える。13節「規定以上のものは取り立てるな」。更に兵士も尋ねます。「このわたしたちはどうすればよいのですか」。ヨハネは答える。14節「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」。
 
 どれも、当たり前と言えば、当たり前のことです。「わたしたちはどうすればよいのですか」。それに対してヨハネは、特別なことは言いません。無理難題を、私たちに要求しているわけではない。困っている人がいれば、悔い改めて、今日からその人に愛を注げ、と言うのです。徴税人の仕事は、あまりいい仕事、褒められた仕事じゃないから辞めろ、などとは言わない。「規定以上のものを取り立てずに、それを続けなさい」と言うのです。兵士も同じです。「ゆすり取ったり、騙し取ったりせずに、その務めを全うせよ」と。ヨハネは、何か、「劇的に、生活を一新させよ」そう言っているのではありません。今ある生活、置かれている状況、悔い改めとは、日々、その場で起きるのです。私たちは、悔い改めるために、仕事を辞めたり、環境を変えたり、大きな変化、何か特別なことをするんじゃない。あなたの身の回りにこそ、悔い改めの機会が、たくさん転がっている。それこそ、今日から、すぐにでもできるのです。その場所から悔い改めることが。神様の方に向き直って生きることが。
 
 これまでがどうだったか。今の状況がどうか。悔い改めは、そんな過去をほじくり出して、どうこう、そんな話ではない。これからの話です。これから神様に信頼をして生きて行くための方向転換です。その勧めを、ヨハネはしたのです。「あなたはそのままじゃいけない」と言って。しかしヨハネの場合、それで終わらない。人に対して「駄目だ」ということは、罪を指摘することは、誰だってできます。むしろ私たちは、得意なのではないでしょうか。けれども大切なのは、その先です。どれだけ上手に罪を語っても、暴いても、それでもって人は救われるのではない。そのことをヨハネは、よく分かっていました。だから言うのです。「わたしよりも優れた方が来られる」「イエス・キリストを見よ」と。この御方は「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。「消えることのない愛の火でもって、あなたの罪を洗い清めてくださる」と。
 
 ヨハネが人々に授けていた洗礼というのは、水によるものです。悔い改めのしるしとして、これを行っていた。しかし、水による洗い、洗礼を受けた後も、私たちは罪を重ねるのです。ちょうど、一日の最後に風呂に入るように、その時は綺麗になるかもしれない。けれども、次の日には、また汚れるのです。しかしイエス・キリストが授ける洗礼は違います。その洗浄力は、永遠に続く。ヨハネは言います。この御方は「聖霊と火で…洗礼をお授けになる」と。「聖霊と火」、これ、まるで別々のものかのように聞こえますけれども、本質は同じです。キリストから送られるもの。キリストが送る聖霊、見えない力によって、私たちは常に洗われ続けている。キリストが送る「火」によって、私たちが持っている不要なもの、神の国に入るのに余計なものが、焼き尽くされている。
 
 教会でも洗礼式を行います。しかし注意していただきたいのは、私たちは、洗礼を受けたから、それでもって綺麗になる、神の国に入るのに相応しくなるのじゃありません。もしも、洗礼を受けて、綺麗になってからでないと神の国に入れないというのであれば、それが神の国に入る条件というのであれば、私たち、死ぬまで洗礼を受け続けなければならないでしょう。しかしそうじゃない。そこに「聖霊と火で…洗礼をお授けになる」キリストの業を見るのです。表向きは、ビジュアルとしては、洗礼式の際、ただ水をかけているだけに見えるかもしれない。しかしその背後に、キリストから送られた聖霊の働きを私たちは見る。私たちは、洗礼を受けたから救われるんじゃない。この罪深い私の罪が、洗っても洗っても落ちない私の罪が、キリストの十字架によって、そこで流された血によって、洗い流された。キリストの命の火でもって、その罪が焼き尽くされた。
 
 もう、神の国に入るのに、余計なものは、妨げとなるものは何もない。私たちはキリストによって、キリストのおかげで、神の国に入ることができる。そう信じるから私たちは洗礼を受けるのです。自分の意志で、決断で「清くなるぞ」って洗礼を受けるんじゃない。もうそれは、キリストがしてくださっている。済ませてくださっている。それを、ただ感謝をもって受け止める。そのしるしが、洗礼です。ですから、教会で、もう洗礼を受けた方は、安心したらいい。自分はまだまだ聖書のことが分からない。あの時の決断、思い返すと曖昧で、恥ずかしい。自分はクリスチャンとして半人前なんじゃないか。自分の信仰は中途半端じゃないか。等々、あるでしょう。けれども、洗礼を受けたのでしょう。聖霊が働いたのです。神様がそう望まれたのです。
 
 マルティン・ルターという人が、こんなことを言いました。「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ、しかしてより大胆に悔い改め、大胆に祈れ」。面白い言葉です。別に罪を犯すことを勧めているのではありません。ただ、罪を犯すこと、罪を重ねてしまう自分、「洗礼を受けたのに…」その狭間で、私たちは苦しむことがある。しかし、そんなことでキリストによる洗い、洗礼が無効になるなんてことはない。キリストの血で洗えないものはない。清められぬものなどない。だから大胆であれ。余計な心配するな。
 
 洗礼を、まだ受けておられない方は、是非、この安心の中に加わってほしい。もう神様が、その招きをしてくださっていることに気づいてほしい。自分が決断して洗礼を受けるのではない。自分の力で、努力で、意志で、神の国に入るのではない。もうその道はキリストによって用意されている。感謝を持って受けましょう。私たちは「蝮の子」のままでいて、いいはずがない。神の子として、神の国に帰って行きましょう。「そのままじゃ駄目だ」「悔い改めよ」「神の方に向き直れ」。その方向が、キリストによって、はっきりと示されています。
 
 
 
 

ルカによる福音書 第3章1-6節
「その道をまっすぐに」

 

 新しい年度になって、一ヶ月が経ちました。けれども、あまり新しい年度が始まった、スタートした、その実感が湧かない。そういう方も多いのではないでしょうか。新型コロナウイルスの影響で、色んなものが軒並み、中止になったり、延期になったりしています。私たちの教会でも、共に会堂に集まっての礼拝は、先週から休止となり、年に一度の教会総会も、書面での開催となりました。あらかじめ立てていた教会の年間計画も、しょっぱなから、頓挫してしまったわけです。
 
 この夏には、新たな試みとして、将来牧師になるために神学校で学んでいる学生を教会に迎えて、実習していただく予定になっていますけれども、それも果たしてどうなることか。また子どもたちの夏期学校だって、どうなるか。まだまだ先行きが見えてこない所があります。夏期学校で、毎年恒例になっている「流しそうめん」するの楽しみなんですけどね。できることならば、今年もしたい。と言うのも昨年、流しそうめん専用の筒を献品してくださった方がいまして、そのおかげで、そうめんがスムーズに流れようになったのです。「流しそうめん」ですから、流れて当たり前と思われるかもしれませんが、それまでは、2リットルのペットボトルありますでしょう。それを半分に切って、つなぎ合わせたものでやっていましたので、そうめんがうまく流れないのです。ペットボトル特有の凸凹に引っかかって途中で止まってしまう。後ろで待機している人の所まで届かない。その点、新たに導入された筒は見事です。まぁそれ専用ですから、当然と言えば当然なのですが、左右の歪みもなく、真っ直ぐなのです。凸凹もない。なのでそうめんが綺麗に、スーッと最後まで流れて行く。あの凸凹のペットボトルでやっていた時とは大違いです。それはそれで楽しかったのですが、思い返してみますと、そうめんが凸凹に引っかかり、流れずに詰まってしまう様は、私たちの姿と一緒だなと思います。
 
 私たちは、どれだけ、神様から注がれている恵みを、ちゃんと受け取れていることでしょうか。私たち、素直じゃない所があります。ひん曲がって、歪みに歪んでいる所がある。凸凹なのです。だからでしょうか。せっかく神様が恵みを、愛を根気強く注ぎ続けてくださっていても、それが色んな所で突っかかってしまって、感謝を持って受け取れなくなっている。不安や心配事が尽きません。感情の起伏があります。変な拘りを持っています。それらが邪魔をして、障害となって、神様から注がれた恵みを遮るのです。分からなくする。挙句の果てに、私たちは言うわけです。「自分の所には届いていない」「そんなもの貰った覚えはない」と。だから聖書は言うのです。「その道筋をまっすぐにせよ」(4節)と。「あなたたちの中にある凸凹、まずそれを取り除け。曲がった部分、それを真っ直ぐにせよ」。この言葉は、かつて預言者イザヤによって、イスラエルの人々に向かって語られた言葉です。それから時を経て、イエス様が地上で、その働きを開始なさる前に、改めて、洗礼者ヨハネの口を通して語られることになる。今度は「悔い改めよ」(マタ3:2)という言葉でもって。
 
 「まっすぐにせよ」と「悔い改めよ」。これ、言わんとしていることは同じです。つまり「神様の方に向き帰れ」ということです。神様の方を向く、神様を信じて生きるその時、私たちは自然と真っ直ぐになる。悔い改めというのは、そのための方向転換のことです。そこで私たちは、初めて「神の救いを仰ぎ見る」(6節)ことになる。神様が、自分にどれだけ愛を注いでくださっているかが、分かるようになる。元々は私たち、真っ直ぐな存在として、神様に創られたのです。それは教会に来ている子どもたち見れば分かるでしょう。中には生意気なのもいますけれども、基本的に、聖書に書かれていることを、神様のことを、真っ直ぐに信じています。しかし私たちは、歳を重ねる中で、次第に、神様以外の方に顔を向けて生きるようになる。その生活が当たり前になり、結果、どれだけ歪んでしまっていることか。
 
 そもそも人は、そのはじめから、歪みやすい性質を持っていました。創世記に出てくるアダムとエバからしてそうです。彼らは「主なる神の顔を避けて…隠れ」(創3:8)たとある。聖書はその根本に、私たちの罪を見ます。「罪」というのは、これまで何度もお話してきたことですが、ギリシア語で「ハマルティア」と言って、「的を外す」という意味がある。つまり神様の方を向いていない、神様から顔を背けて、顔をずらして自分勝手に生きる、そのことを罪と呼ぶわけです。もちろん子どもにも罪はありますよ。けれどもそれが日に日に顕わになって行くのです。罪の中にある時、神様の方を向いて生きられない時、人は何かに、怯えながら生きるようになる。アダムとエバがそうでした。また、その息子カインがそうでした。いや、それ以降の聖書に出てくるイスラエルの人々、多くの王様や、預言者が出てきますけれども、彼らもまたそうです。ある面で聖書は、神様から顔を背けて生きてきた人たちの記録でもあるのです。
 
 的を外しながら生きる時、罪の中を生きる時、私たちは神様がいかに恵み深い御方かが分からなくなる。そしてますます離れて生きるようになる。そうしますと、一見自由なようで、自由じゃないのです。結局は、神様以外の何かに縛られながら、支配されながら生きることになる。だから安心がないのです。そらそうです。命の源である神様から離れているのですから。当たり前のことです。このことは聖書の舞台、そのほとんどが「荒れ野」だったということと、無関係ではありません。今でも、イスラエルに行けば、ちょっと街の外、郊外に出れば、辺り一面、ごつごつとした岩が転がり、緑の少ない、乾燥した茶色い大地が広がっています。そこは、人が生きて行くには、決して容易ではない、過酷な場所です。何かしらの助けなくしては生きてはいけない。そこでは水がいかに重要であったかは、言うまでもありません。聖書にも井戸を巡って、争いが絶えなかったことが記されています。
 
 イスラエルの人々の「荒れ野」での生活。それは、そのままに、私たち人間の内面を表しているように思います。私たち、贅沢を言わなければ、生活に必要なものは一通り揃っています。周りにも、いざとなったら助けてくれる人がいます。物理的な面で言えば、満たされています。しかし、どこかで渇いている自分がいる。中を覗き込むと、荒れ野が広がっている。イスラエルの人たちが、水を求めたことと、神様を求めたこと。これが決して別の事柄ではなかったということを、私たちは見逃してはいけません。そう、私たちは、神様との関係を抜きに、生きることは、満たされることはないのです。今日、読んだ聖書の中に「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」とあります。「神の言葉が荒れ野…に降った」。とても象徴的な出来事だと思う。水や食料が荒れ野に供えられた、ではないのです。「神の言葉が荒れ野…に降った」。それだけ人が、それに飢えていたということでしょう。それなしには生きていけないということでしょう。
 
 その直前に、この出来事がいつの時代だったかが記されています。その際、当時の支配者たちの名前が、ずらりと出てきます。1節「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファが大祭司であったとき」とある。これはもちろん、年代をはっきりさせるという意味での記述でしょう。ここに出てくる人たちは、聖書以外の、当時の文献(記録)にも出てくる人たちですから、その客観性を持たせるために、わざわざ名前を持ち出した考えることもできるでしょう。しかしそれならば最初の「皇帝ティベリウスの治世の第十五年」で事足りるのです。これだけで大体、紀元28年前後というのが分かる。それなのに、この福音書を記したルカは、続けるのです。「ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデが…」と。くどいように思います。そうまでして、これが史実であることを言いたかったのか。
 
 しかしそれだけの理由ではないでしょう。ここでわざわざ「ピラト」「ヘロデ」「フィリポ」「リサニア」4人の統治者(領主)の名前を出したということ、そして「アンナスとカイアファ」2人の大祭司の名前を出したということ。それはイスラエルの人々が当時、4分割されていたということです。政治的な面でバラバラになっていた。それだけではありません。2人の大祭司がいる。普通、大祭司というのは1人です。それが2人いるというのは、一体どういうことか。その4分割された地域の大元締めであるローマ帝国(皇帝ティベリウス)の息のかかった大祭司(カイアファ)と、イスラエルの人々が支持する大祭司(アンナス)とが混在していたということです。つまり本来信仰において一致しているはずの神の民が、その信仰面においてもバラバラになっていた。その時に3節「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」と聖書は告げます。このことからも「荒れ野」というのは、単なる物理的・空間的なことにとどまりません。当時のイスラエルの人々の内面、人と人とが分断され、信仰的にも混乱し、神様が分からなくなっていた。その状態をも表していた。その荒れ野に、神の言葉が降ったのです。「その道筋をまっすぐにせよ」「悔い改めよ」と。
 
 このことはイスラエルの人たちだけに限った話ではない。私たちもまた、荒れ野の中にいると言えましょう。私たちは今、先行きが見えない中にいます。辺り一面、見渡す限り、どこに望みを置いたらいいのか分からない。まるで色を失ったかのような無機質な世界が広がっています。そのような中にあって、望みを持ち続けることが、如何に難しい事であるか。神様の方を向かない時、私たちは呟くわけです。「もう新しい事などない」「もう子どもの様に、希望に目を輝かせることもない」。希望を捨て、喜びを捨ててしまう。しかしたとえ、どれだけ私たちが諦めようとも、神様の方は諦めてはおられないのです。私たちが、希望を抱くことに疲れてしまおうとも、神様は希望をお与えになることに疲れないのです。私たちの方が、神様から隠れようとも、神様の方が私たちからお隠れにならない。いつの間にか、荒れ野の中で、行く先を見失ってしまう、私たちであります。しかしそのような私たちに向かって、神様は預言者の口を通して呼びかける。「その道筋をまっすぐにせよ」。「もう終わりだ」という場所から、新しい歴史は始まります。イエス・キリストが、荒れ野から脱出する道を切り開いてくださいました。もうこれ以上はない、という地点から、新しい事柄が生じたのであります。
 
 ある人が言いました。「荒れ野というのは、人に捨てられた場所だ」と。「しかし、その荒れ野に、神の声が響く。荒れ野とは何よりも、神と出会う場所だ」と。イスラエルの人々が、荒れ野で神様の声を聞いたように、今私たちも、その荒れ野から響き始める声に耳を澄ませることができる。「その道筋をまっすぐにせよ」「悔い改めよ」「荒れ野でたたずむあなた。そこがあなたの居場所じゃない。望みを失い、いつの間にか、それに慣れてしまったあなた。それが本当のあなたなんかじゃない。本当のあなたは、私のもとにある。帰って来い。私のもとに帰って来い」。その旗印として、イエス・キリストが、私たちの所に来てくださったのです。
 
 
 
 
 
 
 

コリントの信徒への手紙一 第16章13-24節
「信仰に基づいて立とう」

 

 いつもは「どなたでも教会に来てください」「どうぞ皆さん、礼拝に出席してください」そう言っている教会が、今は「外出を控えるように」「礼拝はご自宅でおささげください」と勧めています。信州教会でも、今日から、共に会堂に集まっての礼拝は休止せざるを得なくなりました。今こうして説教原稿で、あるいは説教動画で、皆さんに聖書に記された神様からのメッセージを届けていることに、私自身も、とても複雑な思いがします。普段、あれだけ「教会第一」「礼拝中心」と言いながら、どんな理由があるにせよ、共に集まっての礼拝を休止するわけですから、違和感を持って当たり前です。特に、これまで教会での礼拝厳守で来られた方は、「これは信仰的な敗北だ」「生ぬるい」「その程度の信仰か」そうお思いになっても、仕方のないことだと思います。ただ、私たちは、礼拝それ自体を止めたわけではありません。神様を仰ぎ、神様を信じて生きる、その歩みを止めたわけではない。どこであっても、どんな状況であっても、礼拝はささげられます。そのための助けは、手段は、いくらでもある。こういう形も、その一つでしょう。
 
 新型コロナウイルスの感染が拡大する中で、「Stay Home」そのことがしきりに言われていますが、しかしこの時、私は言いたい。「Stay God」「Stay Faith」。使徒パウロは、その手紙を締め括るにあたり、次のように語りました。「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい」(13-14節)。今まさに、私たちが聞くべき言葉だと思う。「信仰に基づいてしっかり立ちなさい」。この言葉は訳し変えるならばこうです。「自分を置こう、信仰の中に」「自分を据えよう、信仰の中に」。正に「Stay God」「Stay Faith」。
 
 ともすると私たちは、信仰とは別のものを、その中心に据えて生きてしまいます。信仰以外のものに基づき、立ってしまう。なぜわざわざ、パウロが手紙の最後に「信仰に基づいてしっかり立ちなさい」そんなことを言ったのか。それはコリントの教会の中にしっかり立っていない人が、信仰に留まっていない人が、たくさんいたからです。好き勝手に信仰から離れ、礼拝から遠ざかり、教会の外に出てしまっていた。こういうことは、パウロの時代に限った話ではありません。いつだって、私たちを信仰から、礼拝から遠ざけようとする力は働いているのです。弱い私たちは、ついついそれに屈してしまいそうになる。私たちは言い訳上手な所がありますから、屈する理由なんか、いくらでも探し出せるわけです。忙しさを理由に、家族の問題を理由に、年齢的な衰えを理由に、そして今で言えば「緊急事態宣言」「外出の制限」を理由に。それらの理由というのは、大抵、聞けば、誰も、何も言えなくなります。認めざるを得ない。しかし問題は、それかこつけて、私たちが礼拝をしなくなることです。信仰を手離すことです。どれだけ周りを説得できる最もな理由があろうとも、牧師を言いくるめることに成功しても、それで神様が納得するかって話です。神様から離れていい理由、礼拝をしなくていい正当な理由なんて、本当はどこにもないはずです。
 
 その昔、「キプリアヌス」という教会の指導者が、このようなことを言いました。「教会の外に救いなし」。実に激しい言葉です。「教会の外に救いなし」。これだけを聞きますと、何て上から目線で、排他的な言葉なのだと思います。じゃあ、教会に来ていない人は救われないのか。滅びるしかないのか。地獄行きか。いくらなんでも、それは言い過ぎなのではないか。しかし注意しなければならないのは、このキプリアヌスの言葉は、教会に対する厳しい迫害の最中、語られたということです。しかも教会の中にいる、クリスチャンに向けて。いきなり町に出て行って、教会に来ていない人たちに向かって「教会の外に救いなし」そんなことを言ったんじゃない。厳しい迫害によって、教会から、信仰から離れて行く者たちがいたのです。そんな者たちを引き留めるために、信仰に、礼拝に留めるために、あえて「教会の外に救いなし」激しい言葉を使った。これは他を排除したり、周りを否定する言葉なんかではない。外に目移りしてしまう私たちを、教会から出て行き、自ら信仰を捨てようとする私たちを、再び信仰にしっかり立たせるための言葉なのです。
 
 パウロも、手紙の中で、それと似たようなことを言います。22節「主を愛さない者は、神から見捨てられよ」。これまた、実に激しい言葉です。「見捨てられよ」。別の訳だと「呪われよ」となっています。こういう言葉が聖書の中にあること自体、驚かれる方もおられるかもしれません。聖書に呪いの言葉が記されている。けれどもパウロは、本当に呪おうと思って、「主を愛さない者」、神様に敵対する者、もっと言えば信仰のない者、それらは皆、滅びてしまえ、くたばってしまえ、どうにでもなれ、そう思って語ったわけではないでしょう。この言葉の背後にあるパウロの思いを、ちゃんと汲み取らなければなりません。「主を愛さない者」というのは、言い換えれば、キリストによって示された主なる神様の愛から離れて行く者のことです。せっかく神様が「お前のことを愛している」「お前は大切な存在だ」そうおっしゃってくださっているのに、救いの手を差し伸べてくださっているのに、それを振り払う、拒む、無視する。具体的に、一度、神様の愛を知り、受け入れ、クリスチャンになった者が、その信仰を捨てて、教会から離れて行くことを指しています。
 
 私たちの教会でも、これは本当に残念なことですけれども、洗礼を受けてしばらくすると、教会に来なくなる人たちがいます。自分が思っていたのと違ったのか、あるいは、最初の感動、熱量が冷めてしまったのか、色んな理由をつけて、礼拝に来なくなる。正確な統計ではないと思いますけれども、一部では、信仰の寿命は3年未満、なんて言われたりもします。しかしパウロには、それが分からないのです。なぜ、こんなにも、神様から愛されているのに、そのことに気づかないのか。罪深いあなたの罪が、キリストの十字架によって赦され、今があるのに、感謝しないのか。そればかりか早々に、信仰を捨ててしまうのか。一体、あなたは何を信じていたのか。あなたのキリストに対する思い、信頼は、その程度のものだったのか。分からない。そんな思いが「神から見捨てられるがいい」という過激な言葉になって現れるのです。そしてどうか再び、信仰の交わりに、主なる神様を中心とした人生、すなわち礼拝を軸とした歩みの中に戻ってきてほしい。主を愛さない者ではなく、主を愛する者として、神様と共に生きてほしい。あなたが見捨てられていいはずがない。どんな理由があろうとも、私たちの命を養う礼拝から離れてはいけない。教会の外に出て行っては駄目だ。「Stay God」「Stay Faith」。
 
 そのような思いからパウロは「マラナ・タ(主よ、来てください)」と語るのです。これは、当時のクリスチャンたちの間で、盛んに口にされていた、合言葉のようなものです。礼拝の中で、祈りの中で、特に主の食卓を祝う、聖餐の中で、よく口にされていた言葉だった。「マラナ・タ(主よ、来てください)」。パウロは、これまで、クリスチャンにとっての希望、やがて私たちも、イエス・キリストが復活させられたように、復活する日が来る。そして完全な形で、神様と共にある命を、神の国で生きるようになる。そのことを語ってきました。色々と教会の中であるかもしれない。問題が尽きないかもしれない。「何で自分はこんななんだ」自分を責めることがある。また周りを裁くことがある。うまくいかない人生に、老いていく身体に、どこに望みを置いたらいいのか。そんな時、自分を満足させてくれそうなものに目が行きます。教会の外に救いがあるかのように思えてきます。礼拝をしても、祈っても仕方がない、信仰なんか何の役にも立たない、との思いに捕らわれる。しかしそのような時に聞こえて来るのです。「マラナ・タ(主よ、来てください)」あの合言葉が。これを聞いたコリントの教会の人たちは思い出したはずです。主が中心にいる食卓を、聖餐を。そう、私たちの望みは、その主なる神様にある。「マラナ・タ(主よ、来てください)」この惨めなわたしを憐れみ、そのままにお救いください。「マラナ・タ(主よ、来てください)」わたしを新たに造り変えてください。「マラナ・タ(主よ、来てください)」そしてこの世界を完成させてください。
 
 ここでパウロが、なぜ、わざわざ色んな人の名前を持ち出しているのか。今日読んだ箇所だけでも、ステファナ、フォルトナト、アカイコ、アキラとプリスカの名前が出てきます。さらに先週読んだ箇所には、テモテとアポロの名前が出てきました。これらの人々の名前を挙げながら、パウロは最後、「マラナ・タ(主よ、来てください)」と語るのです。いずれも、主の食卓を、共に囲んだ仲間たちです。中には、この時、別の場所にいるという人たちもいます。そう、今の私たちと同じように。物理的に、お互い離れていた。しかし「マラナ・タ(主よ、来てください)」。主に望みを置くということに変わりはないのです。その者たちが、たとえ遠くからであっても「よろしく」と言っている。あなたのことを気にかけ、今も祈ってくれている。だから「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい」。「Stay God」「Stay Faith」。神様から離れるための、最もらしい理由を探すのは止めましょう。礼拝をしない言い訳を口にするのも止めましょう。主イエス・キリストが、再び来てくださるのです。このままで終わるはずがない。私たちは、この世界は、変えられる。「マラナ・タ(主よ、来てください)」。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザ40:31)。私たちの望みは、私自身の中にあるのではない。また別のどこかにあるのでもない。自分を置きましょう、信仰の中に。自分を据えましょう、礼拝の中に。「信仰に基づいてしっかり立ちなさい」。
 
 
 
 
 
 

コリントの信徒への手紙一 第16章1-12節
「主が許してくだされば」

 

 「サンデークリスチャン」という言葉を、皆さんは聞いたことがあるでしょうか。これは教会用語の一つでありますけれども、良い意味での言葉ではありません。「サンデークリスチャン」。日曜だけの信仰。日曜限定のクリスチャン。それ以外は、まるで信仰を忘れたかのような、信仰とは切り離された生活をしている。そのことを揶揄した言葉です。私たちにとって、何が悲しいかって、すぐに肉の人になってしまうことです。この礼拝堂から一歩出た瞬間、世の価値観、世の常識、世の考えに、切り替わる。日曜日と、それ以外の日の生活が、繋がっていないのです。信仰と日々の生活が分かれてしまっている。正にサンデークリスチャン。あるいは「サムタイムクリスチャン」という人もいるかもしれません。時々クリスチャン。自分が困った時、助けが必要な時、気が向いた時、ふと教会に行く。神様に祈る。それ以外は好き勝手やるのです。都合のいい信仰。都合のいいクリスチャン。私自身、偉そうなことは言えません。気づけば私もサンデー牧師、サムタイム牧師になっている。日曜日、こうして前に立つ姿と、それ以外の日の姿と全然違うのです。
 
 これまで、使徒パウロがコリントの教会に宛てた手紙を、順に読んで来ました。その中で、コリント教会のクリスチャンたちが、いかにこの世的であったか。めちゃくちゃで乱れていたか。信仰と実生活がバラバラだったか。そのことを見てきました。ここに書かれている姿は、まさに私たちの姿そのものなのです。コリントの人たちもまた、サンデークリスチャンだった。そんなコリントの教会の人たちに対して、パウロは、彼らが抱える問題の一つ一つを丁寧に取り上げながら、時に熱っぽく、時に理詰めで諭すように語ってきました。特に一つ前の第15章では、時間をかけ、多くの紙面を割き、私たちにとっての希望、神様がその独り子イエス・キリストを、私たちの初穂として復活させられたということ。そのキリストに続いて、それに連なる私たちも、やがて復活させられるということ。これらを「最も大切なこととして」(15:3)語り伝えてきました。私たちが、それまで「絶対だ」と思っていた死の問題。しかしその死の力を、もう恐れる必要はない。それらはキリストの復活によって、打ち破られた。朽ちるべきものが朽ちないものに、死ぬべきものが死なないものに、私たちは復活の体をまとい、新たに造り変えられることになる。「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」そうパウロは、高らかに勝利宣言をしてみせたのです。ところが、そこで終わっていれば、聞かされる方も、信仰が大いに励まされ、強められ、よかったのかもしれませんが、そこから急に、最後、お金の話になるのです。まことにこの世的と言いますか、復活について、神の国に生きる望みについて高らかに語られ、私たちの顔が天に向いたと思った瞬間、突然、自分たちの足元を見るように、実に現実的で、具体的な話に引き戻される。
 
 なぜ、そのような話をしたのでしょうか。それは、パウロにとって、信仰というものが、日々の生活とは切り離せないものだったからです。お金の問題も、当然、信仰の事柄として関わってくる。私たちの教会でも、礼拝の後に「報告」の時間があります。そこで色々と、実務的なことをお話します。会計のことだって、献金のお願いだってします。中には、それを嫌う人もいるかもしれません。「せっかく礼拝で恵みを受けたのに、急にそんな話をされるとげんなりする。そういうのは脇へ置いておいて、せめて教会では、そんな話は聞きたくない」。以前は私も、そう考えていました。しかし、それは大きな間違いです。私たちは頭だけで、心だけで信じているのではない。しばしば信仰を、私たちは、そのような内面の事柄として、気持ちの問題として理解しがちですけれども、とんでもない。私たちが信仰の営みを続ける限り、教会がこの世に存在し、そこを拠点に神様の御業が進められる限り、それを維持し、支えていく必要があるのです。その意味で、信仰はタダではない。そこには実際的な、献金が、労力が、奉仕があることを忘れてはいけません。ですから中には、この報告を礼拝プログラムの中に組み込んでいる教会だってあります。私たちの信仰の歩み。それは、この世からかけ離れたものなんかではありません。日々の生活から切り離したものではない。だからパウロは言うのです。15章58節「〔世にあって〕しっかり立ち、主の業に励みなさい」と。「どうせ復活するんだから、どうせ神の国に入るのだから、あとは好き勝手やったらいい」そんなことは言わない。むしろ逆です。「主の業に励みなさい」。そうしながら献金の話に入る。主の業に励むということ。神様を信じて生きるということ。それは具体的なことです。その見える形の一つが「献金」です。新共同訳では、ここ「募金」と訳されています。なぜこんな訳にしたのか。募金と聞きますと、私たち、何か慈善活動のようなものをイメージしてしまいますので、ここは「献金」と訳した方がいい。読んで字のごとく、献げるのです。お金を。神様に。
 
 で、こういう献金の話、お金の話というのは、どうも教会ではしにくい所があります。と言いますのも、これ本当にデリケートな問題だからです。教会には色々な人が集まります。経済な面で裕福な人もいれば、お金に困っている人、カツカツの生活をしている人もいます。それはコリントの教会でも、同じだったと思います。けれども、だからと言ってパウロは、この問題を避けたり、有耶無耶にはしないのです。はっきりさせる。「聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい」。ここに「週の初めの日」とあります。これは今で言う「日曜日」のことで、つまりクリスチャンにとっては、礼拝をする日です。一週間を始めるにあたり、まず神様を礼拝し、その神様に自分が持っているお金を、宝を献げる。パウロにとって礼拝と献金はセットなのです。神様を仰ぎながら、献げないなどということはないのです。あるいは反対に、献金はするけど、神様は信じないということもない。その際「各自収入に応じて」とあります。無理をして、見栄を張って、借金までして献げなさい、などとは言われていません。「収入に応じて」です。私たちは普通、収入というものを、自分の労働の対価として考えます。けれども、それらは、元を辿れば、すべて神様が与えてくださったものです。仕事も、時間も、能力も。その与えられたものを用いて、収入を得ているに過ぎない。ですから、これは言い換えると「神様から与えられた恵みに応じて」ということでしょう。あるいは「信仰に応じて」と言ってもいい。額がどうこう、パーセンテージがどうこうの話ではないのです。
 
 教会には、収入が少なくても、多くを献げる人がいます。あるいは反対に、収入が多いのに、少ししか献げない人もいます。「献金は信仰のバロメーター」そう言った牧師がいますけれども、ある面で、的を得ています。かつてイエス様の頭に、高価な香油を注いだ女性がいました。弟子たちはそれを見て憤慨した。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」(マタイ26:8-)。しかし、イエス様はそれをお喜びになったのです。私たち、どうしても世の経済感覚を身に着けてしまっている所があります。無駄なく、合理的に。そうやって生きることが、賢いとされます。そして賢い人が、世の中では、多くのお金を持っています。ともすると、献金をささげる際にも、その理屈が賢さが入り込んでくる。神様にお献げするのに、損か得か、そういった考えがチラつくのです。そんなこと言い出すと、信仰は損です。教会に行くのは、お金もかかります。時間もとられます。人間関係の面倒に巻き込まれることだってある。損なのです。だから賢い人は来ません。来ても損だと思うと、自分に得がないと思うと、サーっと引いて行きます。いなくなる。
 
 しかし、私たち、それでもなぜ、教会に来るか。神様を信じるか。ここには損得を超えたものがあることを知っているからでしょう。まずもって神様が私たちに、すべてを献げ尽くしてくださったのです。神様が、私たちのために、御子イエス・キリストをお送りくださり、その御子が命まで、惜しむことなく、私たちのために献げてくださった。十字架による罪の赦しと、復活による完全な救いを、私たちの前に差し出してくださった。見方によっては、これ以上の無駄はありません。イエス様が、好き勝手に生きる私たちのために、命まで差し出す。滅んでも仕方ない罪人の罪を、一手に引き受けられ代わりに十字架にかかる。イエス様に、何のメリットもなければ、損でしかない。しかし、それをするのです。聖書は、そのイエス様がしてくださったこと、私たちが無駄と呼んでいるものを「愛」と言います。私たちのためなら、無駄を惜しまない。どこまでも損をする。神様とは、そういう御方なのです。
 
 私たちは、それに感謝をもって答える、そのしるしが献金です。ですから、感謝がない人は、献げません。そもそも献げる理由がありません。だから「献金は信仰のバロメーター」なのです。そこに神様への感謝があるか。救われた喜びがあるか。それが献金によって明らかになる。それは、お金に限った話ではありません。生き方そのものによって、感謝を表すという道だってあります。そのことを教会では「献身」と言います。今日はもう触れる時間がなくなってしまいましたが、16章5節以下で、パウロの旅行計画が語られています。一見すると、これまでの話と、何の関係があるのか、と思われるような話です。それこそ、言い方は悪いですが、あってもなくてもいいような話。信仰の本質からは、かけ離れた事務的な話。けれども、これは単なる旅行の話なんかではない。献金に続く、献身の話なのです。お金だけじゃなく、自分のこの身、人生をささげて生きる、その道筋をここで語り伝えるのです。献金をする時、私たちの懐事情は痛みます。また献身をする時、私たちの予定は狂います。誰だって、お金は自分のためだけに使いたい。時間も労力も自分のために用いたい。事実、パウロは献身をしたが故に、神様を信じて、その神様を伝える働きをしたために、様々なトラブルに巻き込まれるのです。反対者も大勢いた。命だって狙われた。損なのです。無駄なのです。しかし、それにも勝る恵みが、私たちには用意されている。パウロの人生を見ていますと、そうとしか説明しようがありません。パウロ自身こう言いました。「いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか」(Ⅰコリ9:7)。それでも彼はそうしたのです。
 
 それはパウロが、主なる神様を、常に礼拝しながら生きていたからでしょう。その中で「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを」(15:58)何度も知らされたのです。神様に宝をささげて生きる、人生をささげて生きる、その何と確かなことか。豊かなことか。私たち、不安だから献げないのではありません。献げないから不安なのです。神様からいただいたものを、神様に感謝し、それに応じて、お返しながら生きる。それを「礼拝」と呼びます。どこにいようとも、礼拝を続けましょう。どこからでも、そしていつでも、礼拝はできます。不安が心を覆いそうになる時、スーッと天を仰いでみてください。周りがどれだけ閉じられようとも、行動に制限がかかっても、天は常に開いています。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない」(哀3:22)。
 
 
 
 
 
 
 
 

コリントの信徒への手紙一 第15章50-58節
「死よりも確かなもの」

 
 今、私たちは、教会に来るのも難しい、ためらってしまう、外出してもいいのだろうか。本当に大きな決断をしないと来れない、戦いの中にあります。命がけで来ている。今となっては、決して大袈裟な表現ではないと思います。家族の目、社会の目、どれだけ気をつけて、対策をしても、完全などありませんから、色々と言う人がいます。私たちも言いたくなります。責任論を振りかざして。あるいは反対に、この時「教会には行かない」という決断をしている人もいます。ここにも、大きな信仰的な葛藤があることだと思う。決して、礼拝を軽んじているわけではない。しかしそれでも隣人のために、この社会のために、今は行かない。これも苦しい決断だと思います。どちらの判断が正しいか。そんなことは分かりません。どうとでも言えます。ただこの時、私たちが集中すべきは、どちらが正しい、間違っている、その議論ではありません。そんなことに時間を費やしてはいけない。今こそ、会堂に来ようが、家で待機してようが、ますます神を礼拝する時です。ますます「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈ることです。礼拝を止めてはいけない。祈りの手を下げてはいけない。
 
 先ほど読んだ聖書の中に「動かされないようにしっかり立ち」(58節)なさい、とありました。それだけ心動かされる人が、信仰にしっかり立っていない人が、コリントの教会には沢山いたのでしょう。私たちもそうです。それが、人の生き死にの話になりますと、尚更のことです。死を前に、私たちは、どうしたって心動いてしまう。しっかりしては、いられなくなる。それは、私たちが「死」というものを、人生のゴールに置いているからでしょう。それですべてが終わると、どこかで思っているからでしょう。だから、その力がいざ迫って来る。脅かしを受ける。その時、私たちは動揺し、しっかり立てなくなるのです。
 
 けれども、使徒パウロは言います「動かされないようにしっかり立ちなさい」。パウロは、これまで再三、そう言い切る根拠を語って来ました。「あなたのためにキリストは死者の中から復活させられた」「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた」(20節)「その後に、あなたも続くのだ」と。「私たちも、やがて復活する。死ですべてが終わるのではない」と。そのために色んな譬えを持ち出したりもしました。しかし言葉を重ねれば重ねる程はたしてちゃんと伝わっているだろうか、心配になったのだと思います。そこでパウロは、まとめに入る。それが50節「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです」。結局の所、自分が言わんとしていることはこうだ、と語り出す。「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」。「肉と血」「朽ちるもの」というのは、今の、私たちのこの体のことです。つまり今のままで、この人生において、すべてが完結するのではない、ということです。このことは逆を言えば、たとえ今、どれだけ苦労が多くとも、この人生がどれだけ敗れに満ちていても、やがてすべてが一新される。克服され、勝利を賜るようになる、ということでしょう。
 
 そう語りながら、51節「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今と異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」。言っていることの意味は、何となく分かるでしょう。私たちのこの体は、病気になります。歳を重ねるごとに、だんだん弱っていきます。死へと向かい、やがて朽ち果てるのです。けれども、朽ちないものを着る日が来る、というのです。そのことをパウロは、別の手紙の中で、次のように語ります。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(フィリピ3:21)。私たちの、痛む体が、病に屈し、すぐに弱り、情欲に振り回される、そんな惨めで卑しい体が、キリストの栄光の体と同じ形に変えられる、というのです。更にパウロは、こうも語るのです。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」(ロマ8:29)。体の甦り、死者の復活。私たちに与えられる霊の体。それはどういうものかというと、復活したキリストの体と似たもの、それと遜色ないもの、と言うことができるでしょう。
 
 長く、死者の復活について語ってきたパウロは、最終的に説明することを止めてしまいます。復活について、どれだけ言葉を重ねても、あまり意味がないと思ったのでしょう。そこで彼は、最後に歌を歌い始めるのです。54節「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか』」(5455節)。この括弧内の言葉は、イザヤ書25章8節および、ホセア書13章14節の引用だと言われていますけれども、それをパウロなりにアレンジして歌ってみせる。注目すべきは、ここでパウロは、聖書を引用するにあたって「次のように書かれている言葉が実現するのです」と言っている点です。
 
 「書かれている言葉が実現する」。「書かれている言葉」というのは、かつて神様が預言者に託した約束の言葉、それを書き記した旧約聖書のことです。それが「実現する」。つまり、神様がおっしゃったこと、交わした約束、それは必ず成るということです。旧約聖書に精通していたパウロは、よく知っていました。これまで書かれていたこと、それがイエス・キリストにおいて、ことごとく実現してきたことを。新約聖書はその答え合わせの記録と言っていい。神様は、嘘つきじゃなかった。聖書に書いてある通り、預言者が言っていた通り、神様は、救い主イエス・キリストを、この世に遣わしてくださった。そのキリストが、聖書に書いてある通り、私たちの罪のために十字架上で死んでくださった。しかし、これまた聖書に書いてある通り、三日目に復活させられた。イエス様の生涯は、正に神様が約束されたこと、その一つ一つの答え合わせなのです。この御方の生涯において、神様の約束は、確かに実現した。
 
 そのことを根拠に、パウロは断言するのです。神様は、御自分がおっしゃったことを、反故になさるような御方ではない。これまでもそうであったように、これからも書かれている言葉は実現する。神様は約束通り、キリストを復活させられたのです。私たちのために、私たちに先立ち、私たちの初穂として。そうであるならば、私たちが復活しないわけがない。52節~「私たちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」。これがパウロの確信です。そうしながら、パウロは歌わずにいられなくなる。あれだけ怯えていた死に向かって勝利宣言をするのです。「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(5455節)。そして締めくくる。57節~「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。
 
 体の甦りを知っている人。死者の復活を信じている人。それは、苦労の多い生活、肉体を痛めながら過ごす生活の中にあっても、その日々が、「決して無駄にはならない」ということを知っている人のことでしょう。なぜ、クリスチャンが、惨めな思いをしながらも、尚、望みを失わないのか。嘆きながらも、讃美することを止めないのか。苦しみながらも、祈り続けるのか。病の中にあっても、命を委ねながら生きることができるのか。それは、私たちのこの朽ちる体、卑しい体、弱い体をも、神様が愛し、責任を持って引き受けてくださる、そのことを信じているからであります。その神様が、私たちを、朽ちたままにしておかない。卑しいままにしておかない。弱いままにしておかない。地の底に、伏したままにしておかないのです。
 
 私たちの救い。それは霊魂だけが救われるなどといった、そんな上辺だけの、みみっちいものではありません。神様は、私たちのこの体ごと、すべてを、余すところなく救われるのです。だからその為に「〔神の〕言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)のです。その肉となったイエス・キリストが、私たちの「初穂」(20節)として復活させられたのです。2000年前に、事実として、確かに、そのことが起こった。朽ちるものから朽ちないものに。卑しいものから輝かしいものに。弱いものから強いものに。私たちに先んじて復活して下さった御方に続いて、私たちも変えられる。今とは異なる状態に、朽ちない体をまとって復活する日が来る。私たちの望みは、ここにあります。
 
 
 
 
 
 

コリントの信徒への手紙一 第15章35-49節
「天に属する者として」

 
 今共に、唱和しました日本基督教団信仰告白。これは、私たちが一体何を信じているのか。その信仰の内容を、一つ一つ確認するように言い表したものですけれども、その最後は、このような言葉で締め括られています。「身体のよみがえり、永遠の命を信ず。アーメン」。私たち、クリスチャンにとっての希望。それは、身体のよみがえり、永遠の命が約束されている、ということです。たとえ死んでも、この体が朽ち果てても、やがて神様によって起こされる日が来る。そして、その神様のまったき支配のもとで、「もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙21:4)神の国で、新たに生きるようになる。それを私たちは信じている。このことは改めて、凄いことだと思います。いいでしょうか。「身体のよみがえり」です。これ、クリスチャンでも勘違いしている人が多い。まるで私たち、魂だけが生き返る、人格だけが永遠に残るかのように考えている場合があります。体というのは頼りない。歳を取れば不自由になるし、やがて動かなくなる。体の喜びを享受できるのは、謳歌できるのは、せいぜい若いうちだけで、その後は、もはや重荷でしかない。だからでしょうか。「よみがえる」と言った時も、体に対しては、それほど執着をしないのです。大して期待をしていないというか、軽んじる傾向がある。大切なのは中身だ、と言わんばかりに。しかし聖書は、私たちの体というものを、とても重要視しています。むしろ「体あってのあなただ」ということを強調します。「体なしのあなたなどあり得ない」と。
 
 私たちは、中身だけが、魂だけが救われるのではないのです。神様によって受け入れられるのではない。この体ごとです。体も含む、すべてを神様は受け入れ、新たに造り変え、生かそうと考えておられるのです。これ、とても大切なことだと思う。私たちの体の問題。どれだけの人が、体のことで悩み、苦しんでいることでしょう。ちょっとした体のコンプレックスに始まり、手術後の痛みと闘っている人、体の機能にハンディキャップを抱えている人、体が深刻な病に侵されている人がいます。私たちは思うわけです。「なぜ、自分の体は、こんななのだ」と。「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれる」(ロマ7:24)のか、と。私たちにとっての救い。本当の平安。それは体抜きには考えられないことです。体の問題を無視して、魂だけが救われるなんてことはない。
 
 信仰は、しばしば内面の事柄、心の問題だ、と言われることがありますけれども、とんでもないことです。神様を信じるということ、信仰を持って生きるというのは、決して抽象的なことなんかではありません。非常に具体的であり、そこに体を伴うものであります。事実、私たちは、自分の足で教会に来ています。ここで賛美をし、御言葉を聞き、献金を、奉仕をする。どれも身体的な事柄です。それと切り離した信仰などあり得ない。神様が、私たちに用意してくださっている救い。それは体を伴った復活です。正に私たちが毎週告白しているように、ただのよみがえりなのではない、「身体のよみがえり」なのです。じゃあ、その際の体とは何か。一体どんなものか。どんな姿かたちで復活するのか。新たな疑問が湧いてきます。病気の人からすると、病気の状態で復活しても、困るわけです。その場合、復活はその人にとって希望ではなく、苦痛です。それだったら御免こうむりたい。他にも、正直、もう会いたくない人だっているでしょう。復活などしようものなら、また会わなければいけない。また結婚した人に先立たれて、再婚した場合、その人が復活したら、パートナーはどっちになるのでしょうか。最初の結婚相手か、それとも再婚相手か。あるいは復活する時、何歳ぐらいの体で復活するのか。赤ちゃんが死んだ場合はどうなるのか。
 
 そうやって考えて行きますと、色々とおかしな話になっていきます。どうも辻褄が合わない。矛盾が生じてくる。それはそうです。私たちは、復活を、今のこの体を基準に考えてはいけない。今のこの体、この生活が、そのまま復活して、再開するのではないのです。「どんなふうに」。私たちは、そう問う時、何が前提にあるかと言いますと、今ある自分のこの体であります。今、目の前にある確かなこと、この自分の体から出発して、死後の体ことを、復活の体のことを考えるのです。だから手がどうとか、姿形がどうか、年齢はいくつかということが気になり、おかしなことになる。しかしパウロにとって、そんなことはどうでもいいのです。それが重要なのではない。だから、そのような問いをする人たちに向かって言います。「愚かな人だ」(35節)と。それよりも、彼が伝えたいこと、それは、たとえ肉の体が朽ち果てても、それで私たちは終わりではない。その後に、復活の体が、霊の体が用意されている、ということです。その体は、これまでの体とは違うものです。何が違うか。朽ちないのです。パウロはそのことを伝えるために、ここから色々な話をするのです。
 
 最初に「種の話」が出てきます。種を蒔く時のことを考えてみなさい。蒔かれた種が、地中でどうなるか。もみ殻は朽ちていく。しかし、そこから、種が朽ち果てたその場から、新しい命が出てくるではないか。種という体からは、想像できない新しい体が生まれてくるではないか。「死者の復活もこれと同じ」(42節)だ、と。今のこの体と、これから与えられる復活の体。それを種と、そこから生じる実に譬えて語るのです。種と実は、ある面で、まったくの別物です。姿かたちを異にする。つまり、今のこの体が、そのまま持ち越されるわけではない、ということです。復活の体は、この体の延長ではない。この体による苦しみやハンディキャップ、不幸な関係が、復活において、そのまま再開されることはありません。神様の新しい創造の力によって、それらのことから解放された、新しい命と体が与えられるのです。それゆえに復活は、私たちが今抱えている全ての問題が解決し、悩みや苦しみや悲しみの全てが、取り去られるという希望であり、喜びをもって待ち望むべきことなのです。
 
 だからと言って、これまでの体と、まったく関係がないかというと、そういうわけでもない。考えてみてください。大根の種を蒔いたのに、人参ができることはないでしょう。大根の種は大根になる。私たちの今の体と、復活の体とは、まったくの別物です。しかしだからと言って、私たちは復活において、別の人になってしまうわけではない。私が私でなくなってしまうのではありません。その意味では、今の私たちと、復活する私たちとは連続しているのです。パウロはこの種と実の譬えで、そのことも意識しています。神様は御心のままに、種に体をお与えになるわけですが、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになる。それは、ある種にはある体を、という対応があるということです。つまり、大根の種を蒔けば、大根ができるということです。種はそのように、全く別のものになってしまうのではない。本質的には同じなのです。復活においても、私たちは、全く新しい命と体を与えられる、しかし私は私であり続けるのです。
 
 そうしながらパウロは、39節以下、また別の譬えをし始めます。肉の話から、天体の話へ。話があっちに行ったり、こっちに行ったり、何だか余計に分かりにくくなっているような気もしますが、ここで大切なのは、神様がお与えになる体は、どれも輝きに満ちている、ということです。私たちのこの体、色々な不自由があります。弱くて脆い、それでいて汚い部分を沢山持ち合わせています。とても輝いているなどとは言えない。そんな体が、そのまま再開されるなら、私たちは、遠慮したくなります。それならば結構だ、と。しかし、復活の体は、これまでとは違う、はるかに輝きに満ちたものだと言うのです。42節「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」。これらをまとめて、パウロはこう語ります。44節「つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです」。
 
 今の私たちのこの体のことを、パウロは「自然の命の体」と表現します。しかしこの訳だと、パウロが本来、言わんとしていたことが、どうも伝わりにくい。直訳すればここはこうです。「息をしている体」。これは続く45節に関わる表現です。45節に「最初の人アダムは命のある生き物になった」と言われています。この背後には、創世記2章7節の言葉があります。「主なる神は、土(アダマ)で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。そう、神様の命の息です。この息を吹き入れられて、人は初めて生きるようになったというのです。まさしく息をするようになった。これは、ただ生物学的に生きるようになったという説明ではありません。神様との関係において、人は人として生きるようになった。ここに、聖書の人間理解があります。私たちの命は、神様によって生かされている。しかし、その「息をしている体」は同時に、朽ちるものであり、卑しいものであり、弱いものであると言われています。
 
 そのことを、私たちは、事あるごとに、嫌と言う程に知らされる。体を持つが故の限界、苦しみですね。その根底には、いつも罪が横たわっている。それが解決しない限り、到底、救われたなどとは言えないのです。「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれる」のかとの叫びを、呻きを、誰もが持っていることだと思う。しかし、その嘆きの只中に、神様は愛する御子をお送りくださいました。イエス様ご自身、そのような朽ちるべき「自然の命の体」をまとってくださったのです。49節に「わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです」とある通りです。この御方は、神の御子だからといって、特別な体を与えられたわけではありません。空腹を覚えることもあれば、傷つく言葉を言われて、寝られない時だってあったでしょう。ウイルスに侵されて熱だって出たことでしょう。恐怖に震えることだってあった。十字架につけられた時、痛みのあまりに叫んだのです。この御方は、死に至るまで「土からできた」私たちの似姿になってくださいました。
 
 その御方が「最後のアダム」(48節)として「命を与える霊となったのです」。父なる神様は「最後のアダム」であるイエス・キリストを、死者の中から復活させられました。私たちの復活に先立ち、その「初穂」(20節)として。その際、体を持って復活させられた。復活の出来事は、弟子たちの心の中の出来事でも、内面の事柄でもないのです。非常に具体的です。それを見せつけるように、イエス様は、弟子たちの前で魚を食べ、傷を触るようにと言われました。私たちは、その御方に似るのです。48節「土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです」。ここに、私たちの望みがあります。
 
 
 
 
 
 

コリントの信徒への手紙一 第15章20-34節
「最後の敵」

 
 つい最近、「100日後に死ぬワニ」という4コマ漫画が、インターネット(Twitter)上で話題になりました。これは擬人化されたワニの日常を描いたものなのですが1日4コマ、それを100日続けて、100日後に死ぬという設定で、昨年の12月12日から始まったものです。先日の3月20日に最終回100日目を迎えました。主人公のワニ君は、親友のネズミ君と一緒にゲームをしたり、ラーメン食べたり、映画を観たり、漫画読んだり、バイトをしたり、恋をしたり。普通のどこにでもいる若者の毎日を送るわけですが、一日が終わる度に、4コマ目の下に「死まであと〇〇日」と書かれているのです。カウントダウンが進む。しかし100日後に死ぬと言っても、当のワニは死ぬなんて思っていませんし、読者もそう宣言されていなければ分からない、普通ののどかな、悲壮感などまったくない、ちょっと笑える漫画なのです。100日目に近づくにつれ、どういう終わり方になるのか、ネット上で話題になりました。この漫画の作者は、インタビューで「ワニは強い。そんなワニでもいつか必ず死ぬ。少しでも人生の終わりを意識してもらえればと思って描いた。その意味で話題になった時点で成功だ。終わり方は、それほど重要じゃない」そのようなことを語っていました。
 
 終わりを意識する。自分の死と向き合って生きる。それが大切であることが分かっていても、私たち、なかなかできないものです。できれば先送りにしたい。キリスト教会でも修道院などで、「メメント・モリ」という言葉が、盛んに言われた時期があります。ラテン語で「自分が死ぬことを忘れるな」「死を覚えよ」という意味です。中世の時代、修道士同士の挨拶の際に、この言葉が使われていたようです。「自分が死ぬ」ということ。そこから今ある命を見つめる。それによって生き方が変わる。一日一日を大切に、有意義に生きられるようになる。そのような話は、色んな所で耳にします。「100日後に死ぬワニ」も、そんな意図で描かれました。しかし、本当にそうなのでしょうか。自分の死を見つめれば、意識すれば、今をもっと積極的に、今ある命を十分に、感謝を持って生きられるようになるのでしょうか。もちろん、そういった面もなくはないと思いますが、私はむしろ、その逆だと思います。死を見つめる時、私たちは、どうしたって恐怖に足がすくんでしまう。余命宣告を受けるなど、そのことがリアルであればあるほど、どうすることもできなくなる。それが私たちの死に対する、正直な姿でしょう。
 
 死という絶対に避けられない圧倒的な力を前に、怒り、嘆き、もう諦めるしかない。投げやりにならざるを得ない。私たちに出来ることとすれば、せいぜい悔いがないようにすることです。やりたいことをやるだけです。そのような抵抗しか、私たちには残されていない。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(32節)これはかつて、イスラエルの人々が口にしていた言葉(イザヤ22:13)です。パウロが手紙を記した、コリントの教会の中にも、それと似たようなことを口にする人たちがいたようです。「食べたり飲んだりしようではないか。どうで明日は死ぬ身ではないか」。死と向き合えば、向き合う程、私たちは、その死の力に打ちのめされ、そして飲み込まれる。絶望という二文字に。そして行き着くのです。「食べたり飲んだりしようではないか。どうで明日は死ぬ身ではないか」という虚無主義(ニヒリズム)に。これは他人事ではないでしょう。「食べたり飲んだりしようではないか。どうで明日は死ぬ身ではないか」。これ程、私たちの本心を言い当てている言葉はないでしょう。死を見つめて出て来る結論は、せいぜい、その程度のものです。そもそも、どれだけ死を意識しても、死と向き合っても、死がなくなるわけではないのです。死に対する恐れ、死に対する不安、問題は、依然として残ったままです。これを、どう受け止め、乗り越えるか。
 
 パウロは語ります。信仰者は、死を見つめるのではない。死を意識して生きるのではない。キリストを見つめて生きるのだ。これ、とても大切なことだと思う。そう、私たちは、ことさらに「死」という言葉を、時に強調し過ぎてしまう所がある。教会でもそうです。「メメント・モリ」がいい例でしょう。それは、どこかで死をゴールに見立てているからかもしれません。そこですべてが終わる。ならば死を見つめる時、そこには、何の望みもないでしょう。私たちは、信仰者は、死を見つめて生きるのではありません。イエス様が復活した時のことを思い出してもらいたいのです。イエス様が葬られた墓の前で、マリアは泣いていました。彼女は死を見つめていたのです。その象徴である墓の方を向いてへたり込んでいた。そこには絶望しか、涙しかありません。そんなマリアに対して、復活したイエス様は、彼女の後ろに立ち、何とおっしゃったか。「婦人よ、なぜ泣いているのか」(ヨハネ20:13)。その時、マリアは「後ろを振り向いた」とあります。そう、私たちが見つめるべきは、墓ではない。死ではない。その後ろに、その対極に立つ復活のイエス・キリストです。「そっちではない。こちらを見るように」イエス様はそう語りかける。
 
 使徒パウロも、そのことを手紙の中で語ります。20節「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」。「初穂」とは、字の通り、その年の最初に実った稲の穂のことです。他に先立って、いち早く、実る稲がある。それを見て、稲を管理する人は思うわけです。「いよいよこれから収穫の時期が始まる」と。つまり「初穂」とは、これから収穫が続くことの知らせ、合図なのです。「キリストの復活は、正にそれだ」とパウロは言います。初穂に続いて、次々と他の稲も穂を実らせて行くように、キリストの復活、それが合図となり、目印となり、それに連なる者たちも、やがて次々と復活するようになる。キリストを死から起き上がらせ、墓の外へと導き出した命を、キリスト者たちもまた生きるようになる。
 もしそれが「嘘だ」と言うのであれば、「そんなのは作り話だ」と言うのであれば、キリストを信じて死ぬ、これ程惨めなことはない。無駄なことはない。パウロは言います。さらに30節「また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか」。そんなことに命をかけている自分は、大バカ者ではないか、と。32節に「エフェソで野獣と闘った」とあります。実際にコロッセオのような闘技場で、パウロが見せ物として野獣と闘わされた、そういう記録(使徒言行録などに)はありません。ですから、これは比喩的な意味で、でありましょう。野獣のような、敵意剥き出しの人たちが、常にパウロの行く先々にはいたのです。迫害を受け、命を狙われることだってあった。それでも彼は、語り続けたのです。キリストの死と復活を。だから「誰が嘘のために、作り話のために、迷信のために、そこまでするか」とパウロは言うのです。20節「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」。
 
 そう語りながらパウロは、この復活の出来事が、私たちのための出来事なのだ、と語ります。そもそも、私たちは、ただただ死に向かうだけの存在だったではないか。私たちが、どうして死ぬことになったか、その経緯を思い出してほしい。それが21節「死が一人の人によって来た」、続く22節「つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになった」という言葉です。これだけで、手紙を受け取ったコリントの教会の人たちは、パウロが何を言いたいのかが、分かったと思います。そう、創世記に出て来る、あのアダムの話です。神様から「決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創2:17)と言われていた木の実を、アダムは取って食べてしまった。神様のお考えよりも、自分の思いを優先したのです。命の源である神様に背き、その神様から離れて生きる時に、人は命から離れ、死ぬことになる。「アダム」とは「人間」を意味する言葉です。つまりアダムは、私たち人間すべての代表と言ってもいい。そのアダムが神様から離れ、死の道を切り開き、突き進んで行ったように、私たちも、その道に続いていたのです。キリストが来られるまでは。死が、滅びが、私たちの行き着く先だった。
 
 ところが22節「キリストによってすべての人が生かされることになる」とパウロは語ります。キリストの復活が、私たちの命の行き先を、ゴールを変えた、というのです。キリストが、私たちの初穂として復活させられた。23節以降は、その復活の具体的な順序についてです。「最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりがきます。…」云々。色んなことが言われていますけれども、大切なことは26節「最後の敵として、死が滅ぼされ」るということです。アダム以来、どうすることもできずに、屈し続けた死という最大にして「最後の敵」。しかし、今やその死が滅ぼされる、というのです。その力が無効となる。そう宣言してパウロは、詩編(8:7)の言葉を引用します。27節「神は、すべてをその足の下に服従させた」。
 
 「すべて」です。その中には「死」も含まれています。神様はご自身の力が、支配が、すべてに及ぶことを、キリストの復活によってお示しになられました。けれどもどうでしょう。私たちは、その御力を、その御支配の範囲を、どれだけ小さくしていることか。まるで、死に対しては、神様でもどうすることもできないかのように、考えます。だからでしょうか、実際に、それが自分のこととして迫って来ると、動揺します。正気を失ってしまうのです。死は事あるごとに、私たちに、その力をチラつかせ、脅し、囁くのです。「死ですべてが終わりだ。それだったら食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」と。今を生きる私たちを、諦めへと誘い、骨抜きにしようとしてきます。
 
 それに対してパウロは言います。34節「正気になって身を正しなさい」。「正気になる」というのは、「酔いから目を覚ます」という意味の言葉です。いつまでも死に酔っていてはいけない。死にばかりに目を向けていてはいけない。あなたが目を向けるべきは、向かい合うべきは、そっちじゃない。私たちの初穂、キリストの復活だ。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」。人を死んだままにはしておかない、何が何でも起き上がらせようとする、神様の強い思いがキリストの復活に現れている。私たちの希望、その根拠はここにあります。
 
 
 
 
 
 
 
 

コリントの信徒への手紙一 第15章1-19節
「信仰はむなしくない」

 
 「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます」(12節)。今まさに、私たちが聞くべき言葉が、ここにあります。「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます」。この手紙を受け取った、コリントの教会の人たちは、忘れかけていたのです。最も大切なことを。自分たちの生活のよりどころを。私たちは、どうでしょうか。私たちも、忘れてしまってはいないでしょうか。周りを見渡せば、不安なことばかりが目につきます。安らぎをかき乱す声が、絶え間なく聞こえてきます。目の前のことで精一杯になっている自分がいる。そんな中で、忘れてしまうのです。最も大切なことを。自分たちの生活のよりどころを。
 
 そこで使徒パウロは「ここでもう一度知らせます」と言って、改めて「福音」を、神によってもたらされた良い知らせを、確認するように語り出します。それが3節からの言葉です。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。ここに「キリストが、…わたしたちの罪のために死んだこと」そして「三日目に復活したこと」とあります。要するに、この二つ。キリストの死と復活。これが私たちにとって「最も大切なこと」、忘れてはならない「福音」だ、とパウロは言うのです。しかし、これのどこが「福音(良い知らせ)」なのだ、と思う方がおられるかもしれません。キリストの死と復活が、一体自分にどう関係しているのか。それが、なぜ喜ばしいことなのか。
 
パウロの言葉を注意深く読みますと、キリストが、ただ死んだのではない、ということが分かってきます。もう一度3節をご覧ください。「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだ」と言われています。「自分が犯した罪のせいで死んだ」「十字架にかけられた」ではないのです。「わたしたちの罪のために死んだ」。キリストの死には、私たちの罪が、大きく関わっている。パウロは、別の手紙の中で「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。…『正しい者はいない。一人もいない』」(ロマ3:9-10)そう述べながら、私たちの「罪が支払う報酬は死」(同6:23)である、と語ります。私たちにとって避けられない死の問題。その根本には、元を辿れば、そこに罪がある、とパウロは言うのです。
 
 では「わたしたちの罪」とは、一体何でしょうか。聖書は繰り返し、私たちに罪があることを指摘します。しかし、当の私たちはというと、その実感がまるでない。そそれもそのはず、私たちは「罪」というと、まず第一に法に触れること。「犯罪」を思い浮かべます。自分は、そこまで悪くはない。しかし聖書が言う罪は、そのような目に見える事柄だけに留まりません。私たちがどう考え、どう思い、何を企んでいるか、その内面をも問題にします。神様は、心根にまで踏み込んで来られる。そのことは「罪」という字を見れば明らかです。聖書が言う「罪」は、ギリシア語で「ハマルティア」と言いますが、これは「的外れ」を意味する言葉なのです。神様が「こうだ」と定められた道がある。しかしそこから外れて行く。神様の考えや思い、それらを無視して、ただ自分の思いに生きること。それがハマルティア、罪なのです。聖書は、そんな神様の言葉に聞き従わない人間の姿の、罪の歴史の記録と言ってもいい。命の源である神様から離れる時、罪の中に生きる時、私たちは、命そのものが分からなくなる。その証拠に、私たちは、自分の価値を見失っています。「この人生に意味などなく、ただただ死んでお終いだ」と思い込んでいます。どこにも望みを見出せないでいる。それはもう、死んでいるのと同じでしょう。けれども、その罪の只中に、神様は御子イエス・キリストをお送りくださったのです。私たちの「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断」(ロマ8:3)してくださった。その現場が、十字架です。
 
 パウロは言います。このことは3節「聖書に書いてあるとおり」の出来事なのだ、と。「聖書に書いてあるとおり」。続く4節にも出て来る言葉です。これは具体的に、聖書のどこどこの箇所(イザヤ53:5-12、ホセア6:2)というよりも、聖書全体がそのことを証している。神様が予め語られていたとおり、神様の御計画に従って、この出来事は起きた、ということでしょう。すべては私たちを罪から救うために。それによってもたらされる、死と滅びの恐怖から解放するために。神様がそう望まれたのです。その際、イエス・キリストは、聖人として死んだのではありません。罪人として死んだのです。それは、イエス様が罪人の私たちと、一つになってくださったということです。イエス様は、私たちの罪を「これこそ私の罪だ」と言って、御自分のものとしてくださったのです。その罪の代償である呪われた死を、代わりに死んでくださった。
 
 その御方が、4節「聖書に書いてあるとおり三日目に復活した」のだ、とパウロは語ります。ここに、私たちの望みがある。喜びが、救いがある。私たちと同じ罪人として死なれた御方を、神は、私たちに先んじて復活させたのです。その命が死の中に滅びの中にあり続けることを、よしとはなさらなかった。この部分「復活した」とありますが、正確には「復活させられた(起こされた)」です。誰によってか。神様によってです。しかも、他が「死んだ」「葬られた」と過去形なっているのに対し、ここだけが完了形なのです。つまり、今なお継続している、今も起こされている。これは現在のことなのです。イエス・キリストは罪人として十字架で死に、葬られた。しかし、神によって起こされた。今も起こされたままでいる。そのことを裏付けるように、5節以下でパウロは数々の証人たちを挙げて行きます。「ケファに現れ、その後十二人に現れた…。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れ…次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」。
 
 ここでパウロは、自分のことを「月足らずで生まれたようなわたし」と言います。「月足らず」というのは、「早産」を意味する言葉です。つまりは未熟児、本当は死んでいてもおかしくない存在ということです。これは何もパウロの実際の生まれが、そうだったという話ではありません。続く9節でパウロは、自分は使徒として「いちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」と言っています。「私は他の使徒たちと違って、イエス様と共に生活をしたわけでも、そこで特別な準備や訓練を受けたわけでもない。むしろ教会を迫害する側にいた人間。散々、神を裏切り、否定し、自分の思いに生きてきた、信仰的にも未熟児のような存在。そんな私が『神の恵みによって今日…ある』(10節)。このような者でさえも、神様は目をかけ、生かしてくださっている」。そのことを言いたかったのだと思います。その意味で、パウロにとって復活は、過去の出来事でも、これから先の出来事でもないのです。今まさに、自分の身に起きている。もうすでに復活の力は、自分にも及んでいる。本来ならば、滅ぼされてもおかしくない存在。実際にパウロは、一度は死んだのです。地に打倒された(使9:4)。しかしそこから彼は起こされたのです。罪人をそのままにはしておかない。何としても救い出す。新しい命に生かす。神の執念が「神の恵み」が、ここにはある。
 
 神様は、イエス・キリストを復活させられました。ただ復活させたのでありません。罪人として十字架につけられ死に、墓に葬られたキリストを、復活させたのです。それはすなわち、罪人である私たちの罪を赦すことに他ならない。キリストの復活は、そのことを神様がお認めになった、承認されたことの証なのです。そうであるならば、私たちはもう「罪が支払う報酬は死」そのことを恐れる必要はない。その清算を、イエス様がご自分の命で済ませてくださったのです。これは「神の恵み」によることです。「神の恵み」とは、私たちの業績には一切依存しない、神の業のことです。私たちが何を行ったから、その見返りとして与えられるものではない。一方的に差し出されたもの。だから福音(良い知らせ)なのです。私たちが頼みもしない内に、私たちが求めてすらいない段階で、神様は私たちに必要な罪の赦し、死と滅びからの解放を与えてくださった。キリストの死と復活の出来事を通して、それが確かであることをお示しくださった。私たちはその福音を、ただただ感謝をもって受けるのみです。パウロは言います。3節「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたものは、わたしも受けたものです」。信仰は、修行して得るものでも、勉強して学ぶものでも、自分の中を覗き込み発見するものありません。既に差し出されているものを、受けるのです。
 
 この神の恵み、それを告げ知らせる福音に立ち、それを足場として生きる。生活のよりどころとする。その時、私たちは救われるのです。その歩みが、命が、ようやく確かなものとされると言ってもいい。それなのに私たちは、すぐに忘れてしまいます。キリストが一体誰のために死んだのかを。そのキリストが一体誰のために復活させられたかを。そうしながら、心騒がせる。あるいは反対に、まるで死んだかのように、暗闇の中に伏す。この世が、目の前の状況が、すべてだと思い込むのです。事実、コリントの教会では「死者の復活などない」(12節)という人たちがいたようです。彼らは、ただこの世での生活にのみ、望みを見出そうとしていた。注目すべきは、この発言は、教会の外から、神様を信じていない人たちの間から聞こえて来た言葉ではないのです。パウロは言います。「あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」。
 
 神様を信じている人が、一度、福音を受け入れた者が、「死者の復活などない」その言葉を口にする。それに対してパウロは、死者の復活があるかないかの議論をいたしません。そんなことをしても無駄だからです。結局は堂々巡りになる。不信仰しか出てこない。そこでパウロは、ただ事実を述べるのです。その事実とは、イエス・キリストが私たちの罪のために死んだこと。復活したことです。そうしながら16節「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストも復活しなかったのなら、あなたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」。百歩譲って、仮にあなたたちが言うように、死者の復活がなかったとしよう。そうであれば、あなたが抱えている未解決の罪の問題はどうするのか。そう問いかけるのです。しっかり覚えていましょう。キリストが私たちの罪のために死んで下さったことを。復活なさったことを。私たちの命はもう、罪による死と滅びの支配下にはない。むなしいものなんかでもない。私たちも、やがて復活するのです。起き上がる。いや、もうそれが始まっています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

コリントの信徒への手紙一 第14章26-40節
「まずは黙ること」 

 
 「え…わたしが祈るんですか?」。先月の23日に、長野県町教会で行われた分区の修養会で掲げられた講演のタイトルです。「え…わたしが祈るんですか?」。この修養会を分区の委員会で企画した時に、「祈り」ということをテーマにしようと話し合ったのですが、最初は「礼拝における祈り」とか「信仰共同体の祈り」などといった、もっとお堅いタイトルが挙げられていました。しかしそれじゃあ「あまり来たいと思わないだろう」「関心を引かないだろう」ということで、話し合いの末「え…わたしが祈るんですか?」になったのです。私たちが普段の教会生活で、直面する問題ですね。教会でお祈りを頼まれた時に、ついつい言ってしまう、あるいは思ってしまうことです。なぜ、そういう祈りに対して逃げ腰な姿勢に、私たち、なってしまうのか。そこから「そもそも祈りとは何か」をテーマに講演をしていただきたいと思い、このタイトルにしたのです。
 
 お祈りをするということ。これは信仰者にとって、呼吸をするくらいに大切なことです。呼吸しないと私たちは死んでしまいます。信仰も同じです。祈らない時、あるいは祈れない時、私たちの信仰生活は、活力を失い、息苦しさを覚え、やがて死んだようになってしまう。命の源である神様との関係を断たれてしまうからです。それなのにどうでしょう。いざ祈ろうとなると、祈ることが難しく思えてしまう。特に人前だと、いくら「神様に向かって祈っているのだ」「周りの目なんか気にする必要はない」と思っても、緊張してしまう。言葉が出て来ない。スラスラと祈れる人が隣にいると、尚の事、「自分にはそんなふうにはできない」と委縮してしまうのです。そのような経験を、誰もがお持ちのことだと思います。
 
 その分区の修養会には、信州教会からも何人か出ておられました。講演の後に分団での話し合いの時間があったのですが、ある分団で、こんな発言が出たそうです。私は、その分団にいませんでしたので、正確な引用ではないかもしれませんが、趣旨はこうです。「お祈りは、あらかじめ準備したもの、書いたものを読むのは、いかがなものか。それだと心がこもっていないような気がする」。要するに「クリスチャンならその場で、即興で祈れ」「普段、日常的に祈っていれば、その訓練ができていれば、そんなことはできるはずだ」そうことを言いたかったのだと思います。なるほど、その人の言い分も分からないでもない。私たち、色んなことを言い訳に、どれだけ祈りから逃げていることか。それは神様との交わりを避けていることに他ならない。
 
 しかし、祈りを用意することが、直ちに、訓練が足りないとか、心がこもっていないとか、不信仰だとか、そういうふうにはならないと思います。用意するにも、祈って、時間をかけて言葉を選び、教会の人たちのことを思い浮かべ、配慮しながら用意しているわけですから。それは尊く、大切な業でしょう。それを否定するということは、もしかしたら何か、自由に、その場で祈れることにこそ価値があって、そうできないのは駄目だ、という変な考えがあるのかもしれません。「祈りを準備するのは駄目だ」「人の真似をしてはいけない」「読み上げるなんて以ての外」「その場で、自分の言葉で、自分のオリジナルで祈らなければいけない」という主張は、裏を返せば自分は準備せずとも祈れる、それができるということでしょう。そのような祈りに対する思い上がりは、時に、周りを裁いてしまうことがある。そうできない人は駄目なんだ、ということになりかねない。
 
 それぞれ自由に、促されるままに祈る。それが信仰者の本来のあるべき姿だ。確かに、それができたに越したことはないのかもしれません。使徒パウロも前々回読んだ箇所で「あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思います」(14:5)と語っています。異言というのは、神様に向けられて語られた言葉のことです。それは言い換えれば、自由な祈りの言葉のことでありましょう。スラスラと、思いのままに、導かれるままに言葉を口にする。コリントの教会には、そのような賜物を与えられている人が多くおりました。自由に、用意せずとも、その場で祈りの言葉が出て来る。そうあることが「よし」とされていた。いや、そうあることを皆が目指していたのです。自由に祈る。促されるままに言葉を口にする。それこそが、信仰者にとって求めるべき最高の道だ、と。正に、修養会での発言、「祈りは書いたものではなく、その場でなされるべきだ」「信仰者はそうあるべきだ」という人たちの主張と同じです。しかし、はたしてそうなのでしょうか。皆が、そうあるべきなのでしょうか。そうじゃなきゃいけないのか。
 
 私が、以前にいた教会では、早天礼拝が毎週水曜日に、朝6時半から持たれていました。30分の礼拝で、まず牧師から御言葉の解き明かしを聞いて、それから祈るのですけれども、その祈りの時間は、まったくの自由なのです。誰が祈るという決まりがあるわけでも、順番があるわけでもない。ですから、長く沈黙が続く時もあれば、立て続けに祈られる時もありました。このような礼拝の持ち方は、祈ることに慣れている人にはいいでしょうが、初めて来た人には、ハードルが高いように思います。これと似た礼拝のスタイルをとる教会が世界にはあります。「クエーカー(別名:フレンド派)」と呼ばれる教派があります。そのクエーカーの礼拝が、正にそうなのです。クエーカーの礼拝には、司式者などいません。牧師もいません。その特徴としましては、形式的なものを嫌い、個人の霊的な体験を重んじますので、導かれるままに促されるままに誰かが語り、祈るのです。礼拝に集った人たちが、霊的な体験にあって身を震わせる(quake)から「クエーカー」と呼ばれるようになったと言われています。
 
 恐らく、コリントにある教会の礼拝も、今日読んだ26-31節を見る限り、そのようなスタイルだったのではないかと考えられます。色んな人が礼拝の中で語り出す。しかしその際、秩序が問題になったのです。27節で「異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り」。「二人か三人」といわれています。恐らく、それ以上の人が異言を語っていたのでしょう。しかも「順番に」とあります。順番関係なしに、それこそ導かれるままに、好き勝手に、それぞれが異言を口にしていた。29節の預言に関しても同じです。今の、私たちの教会のように、司式者がいて、説教者がいて、奏楽がいてと、整えられた礼拝式順、プログラムがあるわけではありません。特に、決まりといった決まりがない。自由に、促されるままに人々が祈り、語り出し、歌い出す。中でも、コリントの教会では、婦人たちのパワーが凄かったようです。34節に「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません」とある。ここだけを切り取って読むと、大変な問題発言です。で、こういう所から「パウロは男尊女卑だ」とか、「聖書は女性の権利を認めていない」とか、そういったことが言われることがあります。また、ある教派ではここを根拠に、女性の牧師を認めない。そればかりか女性の役員も認めない。そんな教派もあります。
 
 けれども、これに関して言えば、私たち、コリントの信徒への手紙を順に読み進めていますから、パウロがそういうことを言いたいのではない。ということが、その前の部分を読めば分かるでしょう。例えば、11章5節で「女はだれでも祈ったり、預言したりする際に」と出て来ます。女性が礼拝の中で祈ること、預言することを前提に語られているのです。何もパウロは、女性を認めていないわけではない。むしろ女性の活躍を積極的に認め、推奨している。別の箇所で、パウロはこう言っています「もはや…(信仰において)男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(カ3:28)。女性全般に、どうこう言っているのではない。その意味で34節は、聖書の言葉を、前後関係抜きに、一部分だけを取り上げるとおかしなことになる、その良い例です。じゃあパウロは、なぜ「婦人たちは、教会では黙っていなさい」と、まるで前言を撤回するようなことを言ったのか。これは後に続く35節と合わせて考えなければいけません。「何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです」。
 
 ここに「何か知りたいことがあったら」とあります。恐らく、礼拝中、質問のような形で、口を開く婦人たちがいたのでしょう。私たち今だと考えにくいですが、それが許されていた。しかしその中身はというと、質問という形を取りながらの独演会になっていたのです。自分の主張・知識・思い・考え、それをつらつらと述べ続ける。続く36節に「それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか」とあります。この婦人たちは、信仰のことについて「自分たちこそがよく知っている」と思っていたに違いありません。そういう変な自信を持っていた婦人たち。しかしはっきり言って、その中身は、信仰に何の関係もないことを、得意になって語っているだけなのです。「自分はこれを知っている」「こう考える」。それに対してパウロは言うのです。「そういうのは、家でやってくれ」「満たされない承認欲求、あるいは自己顕示を、教会でしてくれるな」と。
 
 誤解して頂きたくないのは、何も「教会で質問してはいけない」と言っているのではありません。私も、色んな方の質問によって気づかされることがありますし、学ばされることがたくさんあります。質問、それ自体は大歓迎です。神様を信じて生きる時、必ず、その神様に対する問いが出てくるものです。問題は、それが信仰にまったく関係のない場合です。「ただの自己主張、自己満足に教会を巻き込むな。ましてや礼拝を乱すな」というのです。質問と銘打ちながら、いかに自分が正しいか、優れているか、自分のことばかり話している事がある。そういう人に「教会では黙っていなさい」とパウロは語るのです。「もう自己主張はいいから、そのおしゃべりな口を閉じて、神様の前に、一人の罪人として、そのあなた自身の罪と向き合え。そして預言の言葉に、その罪からいかにして解放されたか。その救いの宣言に耳を傾けよ」と。だから「黙りなさい」と繰り返し語るのです。
 
 私たちは、不信仰に陥る時、神様のことが信じられない時、その不安からでしょうか、黙っていられなくなる。自分の知恵や力で、何とか物事を動かそうとします。そうしながら、どんどんと自分の声を、自分の思いを、考えを大きくするのです。おしゃべりになる。しかし礼拝は、その逆です。自分を大きくするのではありません。神様を大きくする場所です。神様ご自身は、大きな御方ですよ。それに変わりはない。しかし、それを私たちは日々の生活の中で、どれだけ小さくしてしまっていることか。「さすがに神様も、このことはおできにならないだろう」「これに関しては、どうしようもないだろう」。神様の御支配を、御力を小さく見積もるのです。それを本来の姿に、私たちの理解の及ばぬ、遥かに大きな御方として仰ぐ、それが礼拝です。そのためには、まず「黙りなさい」というのです。詩編に「力を捨てよ、知れ、わたしは神」(46:11)という言葉が出て来ます。以前の訳だと「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(口語)となっていました。あるいは、もっと荒々しく「黙れ」そう訳す人だっている。
 
 礼拝は、自分の主義主張を、神様に認めてもらう場所ではありません。自分の思いや考え、それを正当化する場所でもない。それらを越えて、神様がお語りになる場所です。そしてそれを聞く場所です。当然のことですけれども、自分がしゃべっていては聞けません。だから礼拝は「前奏」から始まるのです。そこで、この一週間、開きっぱなしだった口を閉じるのです。黙る時、私たち、否が応でも、自分というものの虚しさ、嫌らしさ、醜さ、そして罪深さに気づかされます。ある面、それを誤魔化すために、私たちは口を開き続けているのかもしれません。黙る時、そこに、どうしようもない自分の姿がある。しかし、そこで聞く言葉があるのです。黙る中で、ようやく聞こえて来る言葉がある。イエス・キリストが、私たちの、そのどうしようもない姿を、罪にまみれた人生の責任の一切を、負ってくださったという事実を伝える言葉です。キリストがこんな私のために、十字架にかかり、命を投げ出してくださった。それだけの価値を、神様は私に見出してくださった。そればかりか、私たちのこれからをも、キリストの復活によって保証してくださっている。
 
 この神様から、教会に預けられた言葉。預言を聞く時、そこから私たちは整えられ造り上げられて行く。私たちの生活に秩序が生まれるのです。これは神による秩序です。神による平和と言ってもいい。無秩序で、不確かだった歩みが、確かなものにされて行く。神様によって預けられた言葉。預言は変わりません。そこに込められた、私たちへの思いは変わらない。「兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい」(39節)。
 
 
 
 
 
 
 
 

コリントの信徒への手紙一 第14章20-25節
「大人の教会」

 

 私たちが今、手にしている聖書。これは、元々は、ヘブライ語とギリシア語で書かれたものです。旧約聖書がヘブライ語(一部:アラム語)で、新約聖書がギリシア語ですね。それを日本語に翻訳をする際、あえてそのまま訳さずに、カタカナで表記している言葉というものが、聖書の中にはいくつかあります。その代表格が「アーメン」という言葉です。「アーメン」。これは、ヘブライ語の「エメツ(真実)」という言葉から派生してきた言葉でありまして、同意を表す言葉です。日本語に訳すならば「その通り」「わたしもそう思う」「本当だ」ということでしょうか。旧約聖書に記されているイスラエルの民の礼拝の様子(歴上16:36、ネヘ5:13、8:6)なんかを見ましても、比較的古い時代から、礼拝の中でこの「アーメン」という言葉が使われていたようであります。それを新約時代の教会もまた、そのままに引き継ぎましたので、新約聖書を記す際ギリシア語に訳し直すことはせず、そのまま「アーメン」と記したのです。そしてそれが世界中に広まって行った。ですから、どの言語に訳された聖書であっても「アーメン」なのです。「アーメン」の部分だけは、元のヘブライ語の音を残したままに記されている。その意味で、クリスチャンは、世界共通語を持っているのです。世界中、どこの教会に行っても「アーメン」だけは通じる。この「アーメン」は、いわば教会が教会であることのしるし、その信仰が一致していることのしるしなのです。
 
 聖書は、私たちに問いかけます。あなたがいるその所に、はたして「アーメン」はあるのか、と。ドキッとする問いかけです。私たちは普段、どれだけ「アーメン」ではない世界を足場として生きていることでしょう。心の底から「その通り」「本当だ」「真実だ」と言えることが、どれだけあるか。家庭でも、学校でも、会社でも、周りを見渡せば、同意しかねることばかりです。それは信仰生活においてもそうです。私たちは、聖書を読んでも、説教を聞いても素直に「アーメン」と思えない時があります。また祈りの言葉に「アーメン」と言えない時があります。教会の在り方に、方針に「アーメン」ではない場合だってある。あなたがいるその所に、はたして「アーメン」はあるのか。「アーメン」のない教会。「アーメン」と言えない自分が、そこにはないでしょうか。2000年前のコリントの教会が、正にそうでした。とてもじゃないけれども「アーメン」と言えない状況がそこにはあった。一体何が「アーメン」と言うことを妨げていたのか。人々に「アーメン」と言えなくさせていたのか。
 
 その大きな原因の一つに、言葉の混乱がありました。教会の中で皆が皆、「異言」を好き勝手にしゃべっていたのです。「異言」というのは「神に向かって」語られるもので、そのほとんどは誰にも分からない。意味不明な言葉というか、音の羅列です。外から見れば、奇妙な光景だったと思います。しかしそれだけに、コリントの教会の人たちには、その姿が神秘的に、また魅力的に見えたのでしょう。異言を「天使たちの」(13:1)言葉として、もてはやしていた。それだけに多くの人が異言を求め、またそれを礼拝の中で、我先に口にする、ということが起こっていたようです。あちこちで異言が語られる、語っている本人はというと、その悦に浸っている。しかし、それがどれだけ素晴らしいものであったとしても、どれだけ熱心に、神様に向いていようとも、周りにいる人たちには分からないのです。分かりませんから「アーメン」と言いようがない。結局は、異言を語っている本人の満足でしかないのです。
 
 私たちも、そういう言葉を口にしてはいないでしょうか。自分だけの言葉。自分中心の言葉。それが周りの人を励ましたり、慰めたり、立ち上がらせたりするようなことはないのです。だからパウロは言う。20節「兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください」。何もパウロは「異言」が悪いと言っているのではありません。禁じてもいない。ただ「弁えよ」と言うのです。そのために「子供となってはいけません」と。私たち、歳を重ねても、相変わらず子供っぽい所を持っています。いや、ますます子供になっている部分がある。子供っぽい誇りに、拘りに生きてしまいます。この場合の子供というのは、イエス様がおっしゃられた「神の前では幼子のようであれ」というのとは違います。むしろ子供の悪い側面ですね。子供は、周りのことなんか考えません。自分が気に入ったことを、好きなだけやります。自分中心の世界にだけ生きているからです。ともすると信仰も、そんな独り善がりな状態になりかねない。皆がいる中で、自分だけの言葉、誰にも分からない異言を語るというのは、そういうことです。自分のことしか考えないのです。しかしそれは子供のすることだ、とパウロは語ります。「あなたがたはそうであってはならない」「物の判断については大人になってください」と。
 
 そうしながら21節「律法にはこう書いてあります」そう言って、パウロは、旧約聖書のイザヤ書28章11-12節に記されている言葉を引用します。「『異国の言葉を語る人々によって、異国の人々の唇で、わたしはこの民に語るが、それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』と主は言われる」。かつて神様は、預言者イザヤを通して、イスラエルの人々に分かる言葉で語りかけました。「このままでは、あなたがたは隣国のアッシリアに滅ぼされてしまう」そう警告をし、「これまでの生き方を悔い改め、主なる神に立ち返るように」と迫ったのです。ところがイスラエルの人々は、その預言を聞こうとはしませんでした。そして、イザヤの語る言葉を、神様からの預言を、意味のないおしゃべり、たわ言として退けたのです。そのようなイスラエルの人々の思い上がり、預言をないがしろにする姿勢に対して、神様はアッシリアによる征服、国の滅亡という裁きを下されます。
 
 アッシリアによって征服されるということは、つまり彼らが「異国の言葉」、外国語によって支配されるということです。分かる言葉、預言に耳を傾けなかったがために、聞いても分からない、異国の言葉に支配されるようになってしまう。そこに異言がある。異言しか、聞いても分からない言葉しかない。「アーメン」がない。このことは、裏を返せば、神様の裁きのしるしでもあるのです。そうかつてのイスラエルの民がそうだったように。だからパウロは22節「このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるし」と語るのです。異言は、私たちの不信仰を明らかにする。対して預言はというと「預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです」。そこに聞いて分かる言葉がある。「アーメン」がある。預言は、信仰を明らかにします。そしてその預言によって、人は造り上げられ、励まされ、慰められていく。
 
 そこに「アーメン」があるのか、それともないのか。このことは言い換えれば、そこで異言が語られているのか、それとも預言が語られているのか、ということです。もっと言えば、まことに「アーメンである方」(黙3:14)そう呼ばれているイエス・キリストのことが語られているのか、いないのか、です。そう問いかけながらパウロは続けます。23節「教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか」。「反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら」25節「まことに、神はあなたがたの内におられます」と言い表すことになるだろう、と言うのです。
 
 このことは単純に、訳の分からない言葉を語っている教会と、分かる言葉が語られている教会との違いと言っているのではありません。話し方の問題ではない。平易な言葉で、説教が語られてさえいれば、必ず信者でない人が「まことに、神はあなたがたの内にいます」と告白するようになる、というわけではないのです。問題は、そこで何が語られているかです。「まことに、神はあなたがたの内におられます」という告白が生まれるのは、その人が24節「皆から非を悟らされ、罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され」ることによってです。それは教会の人たちが、新しく来た人を取り囲んで「お前は罪人だ」と言って責め立てるということではありません。ここで言われている「皆」とは、教会のことです。
 
 その教会で、預言によって語られるのは、イエス・キリストのことです。神様が、イエス・キリストを通して何をしてくださったかを、預言によって知る。その時、人は「非を悟らされ、罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され」ることになるのです。神様の独り子であられるイエス様が、私のために人となって世に来て下さり、私の罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった。それによって私の罪が赦され、イエス様の復活により、私にも神の国に生きる望みが与えられた。そのことが明らかになる。これに、私たちは「アーメン」と応えるのです。この「アーメン」を基に、私たちは生きてい行くことができる。どんなことがあっても、神は私のことを見捨てない。「アーメン」「その通りだ」「間違いではない」。教会は、そのことを繰り返し、唱和し続けてきました。これからも繰り返して行きます。その中に、身を置き続けましょう。
 
 
 
 
 
 

コリントの信徒への手紙一 第14章1-19節
「人を造り上げる言葉」

 

 異言と預言。先ほど読んだ聖書の中に、普段、私たちには、あまり馴染みのない、二つの言葉が出て来ました。異言と預言。恐らく、教会に来なければ、聞くことも、使うこともない言葉かと思います。異なる言葉と書いて「異言」。預かる言葉と書いて「預言」。注意すべきは、未来の出来事を言い当てるという意味での「予言」ではありません。聖書が語る「預言」は、「予定」や「予告」に使われる「予(あらかじめ)」という字ではなく、預かるという字で預言です。いずれにしましても、異言と預言。その両方に、「言(げん)」「言葉」という字が使われています。すなわち言葉を巡って、コリントの教会内で問題が起きていた、というのです。言葉にまつわるトラブル。そう聞くと、一気に私たちの身近なことになるでしょう。私たちが抱える人間関係のトラブル。そのほとんどが、言葉を巡って起きていると言ってもいい。言った言わないに始まり、発した言葉が意図した形で伝わらなかったり、また誤解して受け取ったり、悪意をもって一部分だけ切り取られたり。「口は災いの元」などと言ったりしますが、聖書でも、ヤコブの手紙などを読みますと、私たちの口が、そこから発せられる言葉が、いかに汚れているか。「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(3:8)そのようにある。
 
 けれども聖書は、何も、私たちの舌や口、言葉について、全部が全部悪いと言っているわけではありません。もしもそうであるならば、誰一人、口を開くことができなくなる。聖書は、その大前提として、言葉というものが、神様から与えられた賜物の一つだと語ります。そのことが、少し前の第12章に記されている。「ある人には霊によって知恵の言葉、ある人にはその同じ霊によって知識の言葉が与えられ、…ある人には預言する力、…ある人には種々の異言を語る力…」(12:8-10)。その上で、それら言葉を用いる際に「愛」というものが重要になって来る。それが土台になければ、どれだけ良い賜物、素晴らしい言葉であっても「騒がしいどら、やかましいシンバル」(13:1)に過ぎない。そのことが第13章で語られていました。そして今日の第14章に入って行く。1節「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」。愛を追い求めて生きる。その具体的な事柄、第一歩として「預言を求めよ」と聖書は語ります。
 
 これに関しては、当時のコリントの状況を踏まえながら、少し説明がいるかもしれません。まず「預言」についてですけれども、聖書がいう「預言」は、先ほども少し話したように、読んで字のごとく「預かる」の方の預言です。何を預かるかというと神様の意志、思い、計画を預かって語ることです。今日の私たちで言えば「説教」や「証」の言葉に当たるでしょうか。対して「異言」の方は、一般の人には理解できない、信仰の言葉のことを言います。2節を読むと「異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません」とあります。今でも、一部の教派では、異言を用いて祈ったり、語ったりするということが行われています。
 
 私自身は、その賜物は与えられていませんので、異言を口にしたことはありません。しかし神学生時代、ルームメイトが、ペンテコステ系の教会出身の人で、異言について、色々と教えてもらったことがあります。それこそ耳にしますと、文字に起こせないような、ここで真似てみろと言われても出来ないようなものです。正直に言いますと、最初、気味が悪かった。祈っている本人に後で聞くと、「覚えていない」そういうのです。そして自分でも何言っているか分からない。ある人は、それを「宗教的な陶酔だ」と言って切り捨てます。否定的に、疑いの目で見る。その気持ちも分からないでもない。しかし私は、聖書に異言というものが書いてある以上、やはりそういう賜物はあるのだと思います。自分にはない、分からないだけで。で、そういう異言。おおよそ人間業とは思えない。何かにとりつかれたかのように語り出すその姿が、コリントの教会の人たちには、神秘的に、また魅力的に見えたようです。「異言こそ、信仰者が求めるべきもの、最高の道だ。それが語れる人の信仰は素晴らしく、そうでない者はまだまだだ」。そんな異言を、過度に重んじ、それに憧れる風潮があった。そのために多くの人が異言の賜物を求め、またそれを持っている人が、礼拝の中で、我先に異言を口にする、ということが起こっていたようです。
 
 それに対してパウロは言います。「霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」(1節)。異言と預言。コリント教会の人々は、異言の方が一段上の、より優れた賜物だと思っていました。しかしパウロは、預言こそ、より優れた賜物であり、追い求められるべきものだと言います。何故か。その理由が2節以下で述べられている。異言は2節「人に向かってではなく、神に向かって語る」言葉で、それゆえに「誰にもわからない」。対して預言は「人に向かって語られ、人を造り上げ、励まし、慰める」。異言は神に向かって語られ、預言は人に向かって語られる。
 
 では神に向かって語ることと、人に向かって語ること。どちらが貴く、大切なのでしょうか。私たちの信仰的な感覚からすると、神に向かって語ることの方が、人に向かって語ることよりも貴いことのように思えます。きっとコリント教会の人々もそう思ったでしょう。しかしパウロは、ここで異言よりも、預言の方が大事だとはっきり語ります。その理由は、神に向かって語る異言は、誰にも分からないのに対して、人に向かって語る預言は「人を造り上げ、励まし、慰める」からです。つまりパウロは、異言と預言の違いを、人にどのような益をもたらすか、という点において見るのです。それは言い換えれば、愛において語られているのは、どちらかということです。第13章で「どんな優れた賜物も、愛なしには何の益もない」と語られていました。その愛とは、自分の利益を求めず、むしろ人の利益になるように、人の為になるようにすることです。その愛によって語られているのは、異言よりもむしろ預言の方なのです。
 
 そのことは4節において、よりはっきりと示されています。「異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます」。異言を語る者は自分を造り上げている。つまり異言は、自分の信仰を深め、自分と神様の関係を緊密にする。けれども、それは自分のことだけに止まり、人には何の益ももたらさないのです。それに対して預言は、教会を造り上げます。3節では、預言が人を造り上げ、励まし、慰めると語られていました。それはある人を、個人的に向上させたり、励ましたり、慰めたりする、ということではありません。預言において語られるのは、神様の御意志、御計画です。具体的にそれは、イエス・キリストの生涯において示されている。私たちは神様が世にお送りくださったイエス様の十字架、その死によって罪から救われたのです。それだけではありません。その復活によって死に打ち勝つ命、神の国に生きる希望を頂いた。それ程までに神様は、私たちのことを愛している。それが神様の御意志です。それを語り伝える「預言」の言葉によって、私たちは信仰者として造り上げられ、励まされ、慰められ、生きていくことができるのです。預言はそのように、神の意思であるイエス・キリストによる励ましと、慰めによって生かされる者たち、教会を造り上げていく言葉です。自分だけが神様と対話し、信仰を深めていくという異言とはそこが決定的に違う。

 そうしながらパウロは異言と預言の違いを7節以下で、いくつかの喩えによって語っていきます。まず、楽器がただ音を鳴らしているのでは音楽にならず、人の心に何も伝わらない。異言はそれと同じだと言います。そして8節、軍隊における合図のラッパには、決められたメロディーがあるのであって、それに従って吹かれなければ、何の合図か分からず行動が起こせない。異言もそれと同じだと。更には11節、異言が語られる場合、語る人と聞く人との関係は、外国人との会話と同じだ、とも言われています。お互いに理解できない外国語でしゃべり合っているようなもので、そこには意思の疎通が生じないのです。これらの喩えによって語られている、人と人との心が通じない、言葉が伝わらない、意思疎通ができないという事態は、異言が語られる場合に限った話ではなく、様々な場面で私たちの間に起っているのではないでしょうか。
 
 私たちの教会では、異言が語られることは、ほとんどありません。私自身も、異言は語れませんし、ただ知識として知っているだけです。そういう意味では、この異言と預言の話は、あまり関係がないことのようにも思えます。けれども異言が語られる所に、意思疎通がままならない状況が起こる。そういった状況は、むしろ私たちが日々経験している現実ではないでしょうか。私たちは、自分の語る言葉が相手に通じない、意思疎通ができないという苦しみを経験します。同じ日本語を話しているのに、外国人のように通じないということがあるのです。そこでは、自分の語っている言葉が、相手にとっては異言となっており、相手の言葉も自分にとって異言となっているのです。なぜそうなるのか。私たちは今一度、自分の語っている言葉を、吟味しなければなりません。私たちの言葉が人に対して、異言になってしまうのは、私たちが、自分を造り上げることしか頭にないからでしょう。神様に向かって語っているつもりでも、正しいことを語っているつもりでも、それが自己満足の、自分のためだけの言葉になっているなら、独りよがりの愛のない言葉になっているなら、その時、私たちの言葉は異言になっているのです。

 これは人間の罪によって引き起こされている現実です。そのことを最もよく教えているのが、創世記11章に記されている「バベルの塔」の物語です。それまで一つの言葉をしゃべっていた人間が、この出来事を通して言葉が乱され、結果、意思疎通ができなくなったという話です。何が原因でそのようなことが起こったのでしょうか。それは人間が、自分たちの力を天にまで、神様のもとにまで届かせ、神様と肩を並べる者となろうとしたからです。自分が神のようになろうとする。神に従って生きるのではなく、自分が主人になり、自分の思い通りにしようとする。そういう思い上がりの罪によって、私たちの言葉は相手に対して異言となり、お互いに言葉の通じない者、心と心が通わない者、愛し合うことのできない者となってしまっている。バベルの塔はそのことを教えています。

 では、お互いが異言を語り合っているような状態から、私たちはどうしたら抜け出せるのでしょうか。それは私たちの言葉が異言ではなく、預言になることによってです。そのためにパウロは「預言するための賜物を熱心に求めなさい」と語るのです。皆が皆、説教者になれということではありません。人に向かって語る言葉、自分をではなく、人を造り上げる言葉を語る者となれ、ということです。それは言い換えれば、愛を求めることに他ならない。愛を失っているが故に、私たちの言葉は、異言になってしまうのです。愛を追い求めることによってこそ、私たちの言葉は、異言から預言へと変えられるのです。では、その愛を、私たちはどこに追い求めればよいのでしょうか。それは私たちが聞いている預言の言葉の中にです。預言の言葉は、聖書に記されています。そこに、イエス・キリストによって示された神様の、私たちへの愛が示されている。このイエス・キリストの姿が、私たちに、神様の愛を教えてくれます。この神様の愛を告げる預言の言葉によって、私たちは、何度でも造り上げられ、励まされ、慰められて行く。
 
 預言を求めましょう。そこに示されている神の愛、イエス・キリストとますます繋がっていく中で、私たちの語る言葉は変えられていきます。私たち一人一人が、人を造り上げ、励まし、慰める言葉を、キリストの体である教会を破壊するのではなく、築き上げていくような言葉語る者とされていくのです。