ルカによる福音書 第10章38-42
「あいつを見てると腹が立つ」

 

ルカによる福音書 第10章25-37節
「あなたの隣人とは」

 
 先程、イエス様の数あるたとえ話の中でも、特に有名なものを読みました。ここで語られていること、それ自体は、決して難しいものではありません。三人の登場人物(祭司、レビ人、サマリア人)が、追いはぎにあって半殺しにあった人を前に、どうしたか。そのことが語られています。この話を聞いて、皆さんはどう思われたでしょうか。私なんかは、シンプルに「サマリア人凄いな」「偉いな」と思いました。自分もできればそうありたいと。
 
 しかし実際問題として、このことを自分に当てはめて考えた時に、これがどれだけ難しいことかと思います。心温まる良い話としては、一つの教訓、道徳としては聞けるんだけど、いざ自分がそういう場面に出くわした時、はたしてサマリア人のように動けるか。むしろ、祭司やレビ人に親近感を覚える自分がいるのです。そう考えるとこのたとえ話、読めば読むほど、自分が祭司やレビ人に重なり、これまで自分が手を差し伸べなかった、あの人やこの人が思い浮かんでは嫌になります。
 
 けれども、はたしてイエス様は、このたとえ話を「困っている人がいたら助けましょうね」とか「あなたもサマリア人のようになりなさい」とか、そういう美談として隣人愛を説くものとしてお話になったのか。あるいは、それを実行できない私たちの姿を炙り出しては「だからお前は駄目なんだ」と責め立てるためにお話になったのか。よくよく読むと、そうでないことに気づかされます。これは、ただの教訓や美しい道徳の話ではありません。ここでの中心テーマは別にあります。
 
 それを紐解く鍵となる言葉が、26節に出てきます。この話が、どういう流れの中で出てきたか。そのきっかけとなる最初の部分。ある律法の専門家が、イエス様に尋ねる所から始まります。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。「永遠の命」これは、不老不死のような、地上で生き続ける命のことではありません。そういう時間的な意味での「永遠」ではない。聖書で言う「永遠の命」とは、たとえ死を前にしても脅かされない、揺るがない命のことです。つまり、どうしたら安心して生きられるか。平安の内に死ねるか。それは「神と共にあることだ」と聖書は告げます。その神と繋がる命のことを「永遠の命」と呼ぶわけです。
 
 で、それを「どうしたら確かなものと、自分のものとできるか」そういう問いかけから始まります。それに対して、イエス様はおっしゃられる。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」。「どう読んでいるか」。神様がお語りになったこと、定められたこと、その思いや考え、それらを書き記した聖書。すなわちそれは、ここで言う「律法」のことですけれども、その律法を、聖書を、あなたはどう読むか。どう受け止めるか。そのことが、実はここでの中心テーマとなっている。
 
 律法の専門家は答えます。27節「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」これは申命記とレビ記に出てくる言葉です。これ以上ない模範解答です。さすが律法の専門家と言った所でしょうか。イエス様も言われます「正しい答えだ」と。けれども「正しい」と認めながら、こう付け加えるのです。「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と。
 
 最初の問いかけ「律法には何と書いてあるか」これには答えられるのです。しかし大切なのは、その先「あなたはそれをどう読むか」これは、私たちに突き付けられている問いかけでもあります。「あなたは聖書を、神の言葉を、どう読むか。どう受け止めるか」。小難しい解釈の話をしているのではありません。それを実際に聞いて、受けて、あなたはどう生きるかの話です。そうしながら30節以降のたとえ話へと入って行く。この所、小見出しに「善いサマリア人」とありますが、聖書をよく読むとイエス様は、サマリア人が善いとか、祭司やレビ人が駄目だとか、そんなこと一切言っていないんですね。つまりどっちが善い悪いの話ではないということです。
 
 中身を見て行きましょう。30節「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った」。実際「エルサレムからエリコへ下る」道で、強盗が出没することがあったようです。運悪くそれに遭遇し、半殺しにされ、動けなくなっている所に、「祭司」が通りかかります。祭司というのは、神殿に仕える聖職者です。今で言う牧師みたいなものでしょうか。ところが、この半殺しにあった人を見ると「道の向こう側を通って行った」とあります。そしてその後、通った「レビ人」も同じようにしたとあります。レビ人もまた神殿に仕え、祭司の補佐役というか、神殿職員のような立場の人です。いずれも特別に選ばれた人たち、ユダヤの人々から信頼され、尊敬されるような人です。
 
 しかしそんな彼らが、半殺しの人に気づきながらも「道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い…介抱した」(33節)とある。当時の「サマリア人」と「ユダヤ人」は、水と油の関係、非常に仲が悪かった。けれども、元を辿れば、この二つ同じなのです。遠い親戚のような関係にあった。戦争により、分かたれ、別々の場所で暮らすようになっただけで、ユダヤの人たちの伝統、その多くはサマリアの人たちも共有していました。律法に関しては同じものですし、似たような生活していたわけです。それだけにちょっとした違いが許せない。同族嫌悪というやつでしょうか。その憎たらしいサマリア人が助けたというこの話は、ユダヤの人たちにとって衝撃だったと思います。
 
 そうしながら、たとえ話の最後、イエス様は問いかけます。「『さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。』律法の専門家は言った。『その人を助けた人です。』そこで、イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」(3637節)。何度も言いますが、たとえ話自体はシンプルです。何の説明も要らないでしょう。ただ、このたとえ話を聞いている当時の人たちの感覚、受け止め方については、補足する必要があるかと思います。
 
 まず、前提として、このたとえ話が扱っている場面は、極めてレアな、特殊なケースだということです。そうしょっちゅう出くわすようなことではない。考えてみればそうです。強盗に襲われて半殺しに遭っている人に出くわすなんて、その当時だって一生の内で一度あるかないか。それを脇へ置いて、私たちは勝手にですね、今の自分の状況に置き換えて「ああ、自分はあの時、あの場面、見て見ぬふりをした」そう読みますけど、別に、イエス様はあなたのその状況を想定して語っているわけではない。滅多にない特殊なケースのことを、イエス様は語っているのです。
 
 そしてここでの「祭司」や「レビ人」の対応。これ私たちは、この話だけを聞くと「冷たいな」と思うわけです。しかし、当時の彼らの務め、それを考えると、避けて通るのも無理ない事、当然のことだというのが分かってきます。彼らは別に、心がなかったわけではない。そういう決まりだったのです。というのも、律法には、祭司やレビ人といった神殿に携わる者、神に仕える者は、死体に触れてはならない(民数記5章2節、19章11節)との規定がありまして、なので近寄ろうにも近寄れないのです。絶対の決まりだった(レビ21章1節)。
 
 ですので、今の私たちの感覚からすると「冷たいな」と思うかもしれませんが、当時の人たちからすると、当たり前のこと、「そら祭司やレビ人は避けるでしょう」そういう事情があることは、皆知っていました。このことからも、祭司やレビ人が冷たくて、心がないとか、そういう話ではないことが分かるわけです。
 
 「律法をどう読むか」これが、この話を貫くテーマです。この場合だと、命よりも律法を優先すべきかどうか。イエス様が問題にされているのは、正にそこなんです。最初に戻ります。ここでようやく「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」という問いかけに繋がって来る。祭司やレビ人のように、律法に書かれている通りに、それを遵守するならば、半殺しの人は避けざるを得ないんです。しかし、そういう読み方しかできないのか。はたして、それで律法を読んだことに、神の言葉を聞いたことに、受けたことになるのか。大きな問いかけです。
 
 前回読んだ、一つ前の箇所で、神様は御自身のことを「知恵ある者や賢いものには隠して、幼子のような者にお示しに」(21節)なったとありました。この「賢い者」の代表が、今日の「律法の専門家」です。この賢い人は「律法をどう読んでいる」のでしょうか。彼は「自分を正当化」(29節)するために読んでいました。律法に書かれている通りに生きている自分。神様のことを優先している自分。聞こえはいいです。しかし実はその生き方って、結局は自分なんです。神様持ち出していますけど、神様を言い訳にして、自分に都合の悪い事から目を背けているだけなのです。
 
 「あなたはそれをどう読んでいるか」。私たち、賢い者のように、「自分を正当化」するものとして読んではいないでしょうか。先程も言いました。サマリア人だって、律法に関しては、同じものを持っていたのです。半殺しに遭い、死んでいるかもしれない状況。見ようによっては遺体です。サマリア人だから、それに触れても問題ないとか、そういうことではない。彼らだって、同じ規定に従って生きていたのです。しかしその律法を、どう読むかで、両者は全然違う結果を生むことになる。
 
 祭司やレビ人は、律法をいかに守るか。文字通り、そこからズレずに生きること。そこに注力していました。しかしサマリア人は、その律法が何のためにあるのか。ここに込められた神様の愛を基に読んでいた。その心を押さえていた。だから助けるのです。確かに、律法を文字通り読めば駄目なんですよ。近づいちゃ。禁止なんです。
 
 でも、なぜ禁じているのか。その精神、思いを知らずに、ただ禁じているから。駄目だから。それでいいのか。律法は本来、人を守り生かすために書かれたものです。それを見失う時、律法の命を、そこに示されている永遠の命を失うことになる。このサマリア人が注いだ憐れみの心、愛の心をもって律法を読むということをイエス様は、たとえを通して教えたかったんだと思います。
 
 考えてみれば、イエス様は「キリスト教を始めます」そうやって現れたのではありません。誤って人々に読まれていた律法を、そこに込められている神様の思いを、再解釈して見せたのです。本来あるべき読み方、それをお示しになった。それは、ここだけではありません。イエス様はこれまで何度も、律法の解釈を巡って、それをどう読むかを巡って、当時のユダヤの指導者たちとぶつかってきました。
 
 例えば6章6節以下で、手の萎えた人が出てきますが、その人を、律法で定められた安息日であるにもかかわらず、イエス様はお癒しになる。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」(6:9)と言って。またこの後、13章10節以下で、18年間病気で苦しむ女性が出てきますが、この人のことも、医療行為をしてはいけないとされる安息日にお癒しになる。
 
 イエス様がそうまでして、律法を破ってまでして、動かれた理由は何か。とても単純です。「憐れに思った」のです。今日のたとえ話の中で、サマリア人が「その人を見て憐れに思い」(34節)そういう表現が出てきますが、これはイエス様が人々をお助けになる時だけに使われる、特別な言葉で、元来は「腹が痛む」という意味だそうです。つまりここでのサマリア人とはイエス様のことであり、イエス様は、困っている人、痛んでいる人、ボロボロになった人を見ると、腹痛くなるんです。
 
 私たちも思い煩うと、考え過ぎると、それが身体の不調として現れるでしょう。イエス様も、私たちのことを思うがあまり、お腹の調子が悪くなる。下痢になるんです。そう考えると、なんか親近感湧かないですか。日本語には「腹」にまつわる諺がたくさんあります。腹というのは、その人の中心その人の本心が宿っている場所と考えられてきました。正にそこが痛む。イエス様は、私たちの痛みを、まるで自分のことのように、いや自分以上に痛んでくださるのです。憐れに思う、腹が痛む、聖書はそれを「愛」と呼びます。
 
 この愛の動機に基づいて、「善を行う」「人の命を救う」「サタンの束縛から解いてやる」。ただそれだけなんですね。イエス様は、このたとえ話を通して、愛を持って、憐れみの心をもって、律法を読む。読んでいるか。そのことを問いかけました。それは言い換えれば、イエス・キリストの心をもって読むということです。イエス様ならどう読むか。どう理解されるか。これこそが、このたとえ話の中に出てくるサマリア人が持っていた視点であります。
 
 話は簡単です。そんな「すべての人の隣人になりなさい」とか、「聖人のようになりなさい」とか、そういう大それたことを、できそうにないことを求めているんじゃない。聖書の文字、律法の文言に縛られて、あなたが持っている自然な心の動き、思い憐れみ、情というものを押しつぶしてはならない。逆に、それをもって読むべきである。このたとえ話で教えられているのは、決して「敵を愛せ」でも、「サマリア人のようになれ」でも、そんな高等な、難しいことなんかじゃない。目の前に倒れている、一生に一度会うか会わないかというような立場の人に、もう発作的に「憐れに思って」駆け寄るという、ただそれだけのことなんです。それはおかしなことなんかじゃない。
 
 「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」。その字面に縛られて「自分は祭司だから近づけない」「レビ人だから近づけない」そういうふうに読むんじゃなくて、自然に、神様から与えられている人としての情を、捨ててはいけない。軽んじてはいけない。無理に抑え込む必要はない。
 
 やれ教理だ、神学だ、教会論だ、それは要らないとは言いませんよ。でもね、そっちが、目の前の人よりも優先されてはいないか。結局は「自分を正当化」するためのものになっていないか。今の日本の教会に、私たちに突き付けられている、大きな問いかけのように思います。
 
 「行って、あなたも同じようにしなさい」。これは「あなたもサマリア人のようになりなさい」という命令ではありません。キリストが、私たちのサマリア人になってくださった。半殺しに遭い、死ぬしかない、滅びるしかない、誰も助けに来ない私たちに腹を痛めては、近寄って来てくださった。そして、その全財産を、命を十字架上で差し出し、介抱し、救ってくださったのです。キリストが、私の隣人となってくださった。だから今度は、あなたが「行って、…同じようにしなさい」。その腹の痛みを大切にしなさい。「行け、小さなキリスト」。
 
 

マルコによる福音書 第16章1-8節
「空っぽの墓」

 
 今日は、教会の暦の上では、イエス・キリストの「復活」を祝うイースターです。本来ならば喜ばしい日、盛大にお祝いをする日ですが、なかなか諸手をあげて、喜べない日々が続いています。昨年のイースターに引き続き、長野市内のコロナの状況もあって、いつもよりさらに短縮した形での礼拝となりました。
 
 この一年、ずっとこんな感じですね。多くの人が神経すり減らし、疲れ切っています。いつまでこんなことが続くのか。そんな中でこの世界は、必死で明るいニュースを、希望を捜しているように思います。沈み込みがちな自分を、何か鼓舞するような言葉はないか。どこかに、こんな状況でも前向きになれるような物語はないか。それらを私たちは求めています。
 
 先日テレビで、水泳の池江(いけえ)璃花子(りかこ)さんのことが特集で取り上げられていました今ちょうど、オリンピックの代表選を兼ねた、日本選手権をやっている最中ですね。それに向けてのインタビューでした。白血病から復帰して1年足らずで、もうオリンピックの代表選考に名前が上がるほどになった。ただただ「凄い」の一言です。彼女にばかり注目が集まって、何だか他の選手が可愛そうな気もしますが、それだけ彼女の存在というのは、多くの人にとっての「希望」だということでしょう。だからテレビも、こぞって彼女を取り上げます。
 
 インタビューの中で「どうやって立ち直りましたか」そう聞かれた時に、池江さんは、こんなことをおっしゃっていました。「恩師からの言葉、『出口のないトンネルはない』との言葉に支えられた」と。「出口のないトンネルはない」この言葉、その辺の人が同じこと言っても駄目なのです。池江さんが言うから意味がある。池江さんにこそ言ってもらいたい。私たちは見たいのです。求めている。彼女が困難を克服して、再び活躍するストーリーを。自分たちが立ち上がるための象徴が欲しい。それが池江さんなのです。
 
 けれども、そうやって彼女を、希望の象徴として、過剰なまでに担ぎ上げることに違和感を覚えるのは、私だけでしょうか。池江さん自身が、どうこうという話ではありません。「あの池江さんがそう言うんだから、彼女が頑張っているんだから、ほら、あなたも頑張ろう」「前を向いて、希望を持って生きよう」と、なんか無理に奮い立たせようとしているテレビ局の意図というか、この社会全体の風潮というか。「希望のゴリ押し」。それってどうなんだろうと思うのです。
 
 もちろん、池江さんには頑張ってもらいたい。凡人には描けない圧倒的なストーリーも必要でしょう。しかし一方で、そんな無理くり、空元気振り絞るようなこと、もうほとんどの人、空元気すら使い切ったことでしょう。それなら、希望がないなら希望がない。私たちは、そのことをしっかり認め、そこに立つことから始めなければいけないのではないか。今日のイースターを迎えるまでの期間、イエス様の十字架までの苦しみを覚える受難節の間、改めてそのように思わされたのです。
 
 旧約聖書の哀歌に、こういう言葉があります。「軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵に口づけせよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ」(3:2830)。一言に要約すると、「しっかり絶望しろ」ということです。それを抜きに、見せかけの希望、安易な希望にすがって、その絶望を治療してはいけないと言うのです。
 
 考えてみれば「出口のないトンネルはない」そう言いますけど、トンネルって出ても、また次のトンネルがあるんです。私なんかは、長野から実家の和歌山に行く時、中央道の下伊那から中津川にかけて、かつて日本一の長さを誇った恵那山(えなさん)トンネルあれ通るたびにどこまで続くんだと思います。で、やっと出たと思ってもまた次の長いのが待ち構えている。京都に行けば宇治トンネルがあって、和歌山に入っても、4000m級のトンネルが出てくる。そうトンネルは続くのです。今はコロナというトンネルの中にいて、それを抜けても、また別のトンネルがやってくる。この中にも「何でこの歳になって」ということを、今正に味わっている人がいることでしょう。そして最後は、これ決定事項です、例外なく、出口のないトンネル、墓の中へと入って行く。これが、私たちの現実でしょう。
 
 生きている間だけならば「出口のないトンネルはない」それでいいかもしれない。でもそれは、死を前には通用しません。お墓を前にした時に、そんな言葉は通用しないのです。お墓は実際に、出口がないんですから。けれども、その「出口がない」という現実を打ち破った出来事がある、と聖書は告げます。死を前にしても、通用する希望。それがイエス・キリストの復活の出来事だ、と。
 
 今日読んだ聖書箇所にそのことが記されている。こう始まります「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」聖書によれば、イエス様が息を引き取ったのが、金曜日の午後3時頃だとされています。ユダヤでの一日の数え方というのは、日没から新しい日がスタートします。なので、十字架上での死の、わずか数時間後には、もう土曜日になるわけです。
 
 この土曜日というのは、ユダヤ社会では「安息日」と言って、どんな些細な仕事もしてはいけないと定められていました。死者を葬ることもです。身体を拭いたり、香油を塗ったり、そういった遺体の処置をするのも「仕事」と見なされますから、土曜になると、それができなくなるわけです。そういうこともあって、イエス様の遺体に関しては、十分に処置されることもなく、最低限、簡易的に、とりあえず土曜日になる前、日没前に、墓まで運ぶ。そのことが急ピッチでなされたのだと思います。
 
 その手はずを整えたのは、弟子たちではありませんでした。弟子たちはこの時、逃げ去って、そばにはいなかった。代わりに議員のヨセフという人が、それをしたと聖書にはあります。そしてそこに立ち会っていたのは、数名の女性たちだけでした。これまで散々、人々に仕え、愛を注いできた結果がこれです。これまで散々、神様を信頼し、その御心に従った結果がこれです。何とも虚しい最期じゃありませんか。結局はどう生きようが、何をしようが、神を信じようが信じまいが、死んだらお終い。そこに望みは、出口はない。キリストの十字架は、人々にそう思わせるには十分でした。
 
 そんな中「それじゃあんまりだ」ということで、婦人たちが遺体の処理をしにやって来るのです。そこで彼女たちが目にしたもの。4節「目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった」。恐る恐る墓に入ると、そこには「白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えた」とある。これに「婦人たちはひどく驚いた」(5節)それはそうです。普通に考えて気味が悪いですよ。墓の中に人がいるわけですから。
 
 すかさず若者は言います。6節「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」。「死んだイエス様を、天の父なる神様が、御自分の手で復活させた」という驚くべき宣言です。「ここにはおられない」。確かに、この若者が言う通り、中を見ると空なのです。
 
 彼は続けて言います。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(7節)。それを聞いた婦人たちは「墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(8節)とある。一体何が、彼女たちをそこまで恐れさせたのか。彼女たちは、実際に空の墓を確認することで、神様の業を目の当たりにしたのです。イエス様が、かねて言われていたこと「私は人々の手に引き渡され、殺されるが、三日の後に復活する」それが本当だった。現実に起こった。
 
 それまで婦人たちも、死が絶対だと思っていました。「イエス様、そうは言っても、死んだらどうしようもない。お終いじゃないですか。墓に出口はない」。やはり、どこかでそう思っていた。けれども、その彼女たちにとって絶対だった道理が、揺るがぬ現実がひっくり返されてしまう。確かに三日前、この目で見たのです。遺体が墓に納められるのを。あれだけ厳重に保管していたはずの遺体が、今、目の前から消え去っている。どうにもこうにも説明がつかない。
 
 この時、彼女たちは、空っぽの墓の中で見たのです。死をも超える神様の業が、そこに働いたことを。死をも凌駕する神様の力を。だから恐れた。死への恐れよりも、神様への恐れが上回った瞬間です。どう考えたって、人間の言葉で説明しようがないことが起きた。若者は言います「さあ、ガリラヤへ行け」と。ガリラヤというのは、かつて弟子たちが、イエス様と出会った場所です。ガリラヤ。そこは弟子たちにとって慣れ親しんだ場所。いつもの場所。
 
 イエス・キリストは復活した後、ガリラヤへ行かれました。そこで弟子たちと再会される。ガリラヤというのは、特別な場所ではありません。言ってしまえば、日常です。その日常の中で、復活の主は弟子たちと再会される。復活は、確かにそれ自体は非日常の世界、にわかに信じ難い。それが正直な所でしょう。けれども、私たちも、その復活の主に、出会っているのです。日常の中で。その命に触れている。
 
 振り返れば、あの日、あの時、こういうことがあった。こんな言葉をかけられた。こんな出会いがあった。何気ないことから、偶然に思えるような不思議なことまで。どういうわけか、こうして生かされている。それは、私たちの日常の中で、復活の主が出会ってくださっているからに他なりません。
 
 マルコによる福音書は、その後のことを、ガリラヤにおける弟子たちとの再会の場面を描きません。あえて未完のままになっています。この続きは、あなたの命で描きなさい。あなたがこの福音書を、どう終わらせるか。あなたはイエス・キリストが復活した知らせを、本気で受け取るか。あなた自身が、墓場の暗い絶望から、外に出てキリストと共に、死をも圧倒し、打ち負かしてしまう永遠の命に生きるか。神様は、私たちの生涯を通して、この驚きの知らせを、喜びの知らせを、完成させようとしておられます。
 
 だから今は、望みがないなら望みがない。無理に自分を奮い立たせる必要はないと思います。おかしな言い方かもしれませんが、キリストはちゃんと死にました。完全に死んだのです。望みの「の」の字もない状態になった。そこから自分の力で復活したのではありません。神様によって復活させられました。同じように神様は、あなたの人生を死んだままでは、未完成のままでは終わらせない。
 
 私たちの希望は、ここにあります。それは出口のないトンネル、死を前にしても通用する希望です。やがて私たちにも、キリストと同じように、神様に起こされる日が来る。その先のことは分かりません。私、死んで復活したことありませんから。だから、分かったような、見てきたようなことは言えない、嘘になります。
 
  ただ聖書に、使徒パウロがその一端を、幻を通して、垣間見たことが記されています(Ⅱコリント12章)。それによると「あまりにもすばらしい」そうです。事実、帰って来た人はいません。全員が帰って来ないって、よっぽど良い所なんでしょう。それがキリストの復活を通して保証されている。ここに望みがある。だから、私たちは、毎週、日曜日の朝に、それを確認するために礼拝を続けるのです。
 
 

 

ルカによる福音書 第10章17-24節
「成功体験」

 
 私が通っていた小学校では(今は校舎が新しくなってどうかは知りませんが)、その当時、校門を通ってすぐの所に、大きな掲示板がありました。そこには上級生のスポーツテストでの成績、1位~3位までの記録が(50メートル走とか、走り幅跳びとか)それぞれジャンルごとに、ずらっと並べられていました。それを朝、登校するたびに目にしてから、下駄箱へ行くのです。
 
 で、小学生の頃というのは大体、勉強できるよりも、スポーツできる方が目立ちますし、人気者ですね。なので、そこに名前があるというだけで、低学年の人たちからしたら憧れの的でした。ここに自分の名前があったら、どれだけカッコいいか。私の中にも「いつか自分も」そんな思いがありました。
 
 そうこうしているうちに私も上級生になり、上位3番以内に入れば、掲示板に載るチャンスが巡って来ました。結論から言うと、私の名前、そこに載ったのです。1つは「持久走(2,000m)」3位、上山耕平、記録7分29秒。そして「ソフトボール投げ」2位、記録51m。当時は少年野球をしていましたので、走ることと、投げることは得意だったわけです。が、上には上がいますね。自分よりも上位だった人、1位と2位の名前と記録は、今でもよく覚えています。
 
 いずれにせよ、それからというもの、学校に登校するのがとても気持ちよかった。俺の名前がある。俺の記録がある。それが誇らしく自慢でした。なぜなら、特別な人じゃなきゃ、そこには載らないからです。誰でも名前が載るわけではない。そこに名前があるということが、他よりも優れている、力があることの証であり、自分の中で価値あることだったのです。
 
 今になって思い返すと、ここに、この小学校の掲示板に、私たちの住む世界、この社会を支配している理屈、原理が凝縮されているように思います。これが中学以降になると、今度は「運動」から「勉強」での成績に代わります。大学になると、それが偏差値となり、学歴となり、そして社会人になると、会社名、肩書、年収になり。それでもって自分の名前に意味づけをしていきます。
 
 そのために私たちは、どれだけのことをしたか。どんなに役立ったか。実益をもたらしたか。その貢献度、功績にばかり目が行きます。それでもって価値があるかないかを決めます。けれどもそれは今に始まったことではありません。イエス様の時代、イエス様の弟子たちも同じでした。彼らは少し前の箇所で「だれがいちばん偉いかという議論」(9:46)をしていました。能力主義、成果主義のもとで、人の価値を評価し判断する。
 
 ただの名前じゃ駄目なのです。そこに何かオプションが、特別な何かがくっついていないと、その名前には、その人には価値がない。以前、韓国に行った時、こういうことがありました。韓国は御存じの通り、日本よりも厳しい学歴社会です。ある教会で奉仕することになったのですが、礼拝が終わると色んな人が声をかけてくれました。で、会う人、会う人、名刺を渡してくるんですね。名刺を見ると、どれも裏までびっちり、これまでの経歴や肩書が記されている。
 
 ある人は「医者だ」と言って名刺をくれました。裏には細かく、学会での受賞歴なんかが書かれていました。また別の人は「大学教授だ」と言って名刺を差し出しました。これも裏まで、どういう研究成果を上げたとか、国のプロジェクトに関わっているとか、国際的な組織の委員だとか、専門じゃないと分からないこと、素人からしたら「知らんがな」ということまで書いてあった。
 
 ただの「Dr.○○」じゃ、「△△博士」じゃ駄目なのです。どれだけ自分が凄いか。その名が知れ渡っているか。重要な人間か。それを名前にくっつけないと、とてもじゃないけど名乗れない。裏を返せば、そこまでしないと価値を認められない社会ということでしょう。そこまで露骨ではないにせよ、私たちの社会も同じだと思います。そしてそれは、イエス様の時代もそうだった。
 
 だから今日の箇所の冒頭で、72人の弟子たちが、イエス様によって遣わされた宣教の旅から帰って来た時、誇らしげに言うのです。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」(17節)と。「自分たちは立派なこと、良い働きをしたぞ。結果を残した。これで弟子としての名が上がる」。「喜んで」帰って来たとありますがその喜びは、自分の名前が掲示板に載る。イエス様に評価される。価値あるものと認められる。そういったものから来る喜びだったのではないでしょうか。悪霊さえも屈服する力、それを持つ優越感みたいなものもあったでしょう。
 
 やることなすこと成功し、有頂天になった72人の弟子たちを前に、イエス様は諭すようにおっしゃられます。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(1820節)。
 
 イエス様は言うのです。「あなたたちが、大きな成果を上げたこと、サタンを打ち負かす様、それらをちゃんと見ていたよ」と。その点に関しては、「凄いぞ」「よくやった」と、その活躍を褒めるのです。しかしその上でこう続けられる。「でもな、悪霊を服従させたその偉業でもって、あなたがたに価値があるのではないのだよ」と。名を上げるようなことをしたから、立派なこと、成果を残したから、神様がそれでもって「よろしい、合格。お前の名を、天の国の掲示板に載せてやる」ではないのです。
 
 そうじゃなくて「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(20節)とイエス様はおっしゃられる。「書き記されている」という言葉は、ギリシア語では「完了形」です。つまり72人が宣教の旅から帰って来る前に、「もうすでに記されている」ということです。何が言いたいかというと、悪霊を追い出すという偉業をしたから、大きな働きをしたから、人よりも優れているから、書き記すではないのです。掲示板に名前が載るのではない。
 
 考えてみれば、私たちの名前というのは、決して良い部分ばかりではないでしょう。悪い部分マイナス面、私たちの名前には、そういうのも当然含まれていることだと思う。名刺には書かないだけで。先に紹介した、持久走大会で2位になった人。彼は後に、とあるお店で暴れたということで地元新聞にその名前が載りました。良い意味で名前が載るだけじゃないのです。悪い意味で名前が載る、残ることだってある。私もそうです。小学生の頃はスポーツできたかもしれません。でも中学は、からっきしパッとしませんでした。勉強に至っては、補習クラスの名簿に名前が載っていた。
 
 この72人の弟子たちだってそうでしょう。この時は、大きな成果があったかもしれない。でも、これまで、どれだけ失敗を重ね、恥ずべきことを繰り返して来たことでしょう。悪い意味での名前というのを、堂々とは名乗れない面を、私たち誰しもが持っているのです。
 
 じゃあ神様は、そういうのを一つ一つカウントして「これはプラスポイント」「これはマイナス」と言って、それでもって天に名前を記すか、それとも記さないか、加えるか、外すかを決めているのかというと「そうじゃない」と言うのです。「あなたが良いとか、悪いとか、何をしたとか、しなかったとか、それ以前にもうあなたの名前を書き記している。それを喜びなさい」とイエス様は言われるのです。
 
 「名は体を表す」と言います。聖書でも名前というのは、単なる呼称ではなくて、その人の人格、人生、存在そのもの、すべてを表すものと考えられています。良いも悪いも込みでの名前なのです。私たちは立派な名前ばかりを追い求めます。少しでも恥ずかしくないように。堂々と名乗れるように。それに相応しいと思われるものを周りに並べながら、名刺の裏に加えながら生きています。
 
 72人の弟子たちがそうであったように、自分の実績、成果を前面に掲げては、名を上げることに必死です。しかしそれでもって、天に名が書き記されるのではない。神様に認められるのではないのです。良い子だと言って、その愛を受けるのに相応しくなるのではない。
 
 先程も言ったように、私たちには、一方で、悪名があるはずです。汚名があるでしょう。どれだけ隠そうが、誤魔化そうが、それらも、私の名前の一部であることに変わりはありません。良い名前、良い面ばかりじゃない。それ以上に悪い名前、悪い面がどれだけあることか。けれども神様は、それも含めた上で、それも込みの名前を、天に書き記すのです。もうすでに記し終わっておられる。「そのことを喜ぼう」とイエス様はおっしゃられる。
 
 私たちに誇れる名があるなしに関わらず、たとえそこに堂々と名を名乗れない、負い目、引け目、汚い部分、消したい過去、数々の罪があろうとも、すべてを知った上で、受け入れてくださっている神様がおられる。
 
 この世で、掲示板に載るような名前を持っていないかもしれません。たとえ載ったとしても、それはやがて塗り替えられ忘れ去られて行くような名前しか持ち合わせていない、私たちかもしれない。誰も気づかないような無名のままで、死んで行くかもしれない。しかしそんな者の名前も、神のもとできちんと記録されている。神様が知ってくださっている。
 
 ここでは72人の弟子たち。一人一人の名前は出てきません。考えてみれば、これ不思議なことです。というのも、直前の12人の弟子たち、彼らの名前は、きちんと一人一人出て来ている。それは72人の弟子たちが、彼らよりも劣っていたからでしょうか。それとも、72人分名前を書くのが大変だったからでしょうか。
 
 そうじゃないと思います。もはやこの72人には、必要なかったのです。掲示板に載るような名前は。どうしてか。もうすでに「名が天に書き記されている」そのことをイエス様から教えていただいたからです。無理に背伸びする必要はない。反対に、自分の名を卑下する必要もない。そのままで、そのままの名前で、良い名前も、悪い名前も含めて、神様が愛の眼差しでもって受け入れ、認めてくださっている。それで十分だったのです。
 
 イエス様は名前を大切にされました。「おい」とか「お前」とか、そういう呼び方はされなかった。たとえそれが悪霊であっても、「名は何というのか」(マルコ5:9)そう尋ねられました。そしてきちんと人を、名前で呼ばれるのです。それは目の前にいる人を、一人の価値ある存在として認め、受け入れている、肯定しているからに他なりません。どうでもよくはないから、きちんと名前で呼ぶのです。
 
 堂々と名乗れるような、いわゆるこの世の中で立派と言われるような名前を持ち合わせていないかもしれない。自分で自分の名前が恥ずかしい、誇れないかもしれない。でも、そんな私たちの名が、誰も見向きもしないような無名の名が、神様に覚えられている。天において記されている。それを喜びましょう。