コリントの信徒への手紙一 15章35-49節
「天に属する者として」

 
 今共に、唱和しました日本基督教団信仰告白。これは、私たちが一体何を信じているのか。その信仰の内容を、一つ一つ確認するように言い表したものですけれども、その最後は、このような言葉で締め括られています。「身体のよみがえり、永遠の命を信ず。アーメン」。私たち、クリスチャンにとっての希望。それは、身体のよみがえり、永遠の命が約束されている、ということです。たとえ死んでも、この体が朽ち果てても、やがて神様によって起こされる日が来る。そして、その神様のまったき支配のもとで、「もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙21:4)神の国で、新たに生きるようになる。それを私たちは信じている。このことは改めて、凄いことだと思います。いいでしょうか。「身体のよみがえり」です。これ、クリスチャンでも勘違いしている人が多い。まるで私たち、魂だけが生き返る、人格だけが永遠に残るかのように考えている場合があります。体というのは頼りない。歳を取れば不自由になるし、やがて動かなくなる。体の喜びを享受できるのは、謳歌できるのは、せいぜい若いうちだけで、その後は、もはや重荷でしかない。だからでしょうか。「よみがえる」と言った時も、体に対しては、それほど執着をしないのです。大して期待をしていないというか、軽んじる傾向がある。大切なのは中身だ、と言わんばかりに。しかし聖書は、私たちの体というものを、とても重要視しています。むしろ「体あってのあなただ」ということを強調します。「体なしのあなたなどあり得ない」と。
 
 私たちは、中身だけが、魂だけが救われるのではないのです。神様によって受け入れられるのではない。この体ごとです。体も含む、すべてを神様は受け入れ、新たに造り変え、生かそうと考えておられるのです。これ、とても大切なことだと思う。私たちの体の問題。どれだけの人が、体のことで悩み、苦しんでいることでしょう。ちょっとした体のコンプレックスに始まり、手術後の痛みと闘っている人、体の機能にハンディキャップを抱えている人、体が深刻な病に侵されている人がいます。私たちは思うわけです。「なぜ、自分の体は、こんななのだ」と。「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれる」(ロマ7:24)のか、と。私たちにとっての救い。本当の平安。それは体抜きには考えられないことです。体の問題を無視して、魂だけが救われるなんてことはない。
 
 信仰は、しばしば内面の事柄、心の問題だ、と言われることがありますけれども、とんでもないことです。神様を信じるということ、信仰を持って生きるというのは、決して抽象的なことなんかではありません。非常に具体的であり、そこに体を伴うものであります。事実、私たちは、自分の足で教会に来ています。ここで賛美をし、御言葉を聞き、献金を、奉仕をする。どれも身体的な事柄です。それと切り離した信仰などあり得ない。神様が、私たちに用意してくださっている救い。それは体を伴った復活です。正に私たちが毎週告白しているように、ただのよみがえりなのではない、「身体のよみがえり」なのです。じゃあ、その際の体とは何か。一体どんなものか。どんな姿かたちで復活するのか。新たな疑問が湧いてきます。病気の人からすると、病気の状態で復活しても、困るわけです。その場合、復活はその人にとって希望ではなく、苦痛です。それだったら御免こうむりたい。他にも、正直、もう会いたくない人だっているでしょう。復活などしようものなら、また会わなければいけない。また結婚した人に先立たれて、再婚した場合、その人が復活したら、パートナーはどっちになるのでしょうか。最初の結婚相手か、それとも再婚相手か。あるいは復活する時、何歳ぐらいの体で復活するのか。赤ちゃんが死んだ場合はどうなるのか。
 
 そうやって考えて行きますと、色々とおかしな話になっていきます。どうも辻褄が合わない。矛盾が生じてくる。それはそうです。私たちは、復活を、今のこの体を基準に考えてはいけない。今のこの体、この生活が、そのまま復活して、再開するのではないのです。「どんなふうに」。私たちは、そう問う時、何が前提にあるかと言いますと、今ある自分のこの体であります。今、目の前にある確かなこと、この自分の体から出発して、死後の体ことを、復活の体のことを考えるのです。だから手がどうとか、姿形がどうか、年齢はいくつかということが気になり、おかしなことになる。しかしパウロにとって、そんなことはどうでもいいのです。それが重要なのではない。だから、そのような問いをする人たちに向かって言います。「愚かな人だ」(35節)と。それよりも、彼が伝えたいこと、それは、たとえ肉の体が朽ち果てても、それで私たちは終わりではない。その後に、復活の体が、霊の体が用意されている、ということです。その体は、これまでの体とは違うものです。何が違うか。朽ちないのです。パウロはそのことを伝えるために、ここから色々な話をするのです。
 
 最初に「種の話」が出てきます。種を蒔く時のことを考えてみなさい。蒔かれた種が、地中でどうなるか。もみ殻は朽ちていく。しかし、そこから、種が朽ち果てたその場から、新しい命が出てくるではないか。種という体からは、想像できない新しい体が生まれてくるではないか。「死者の復活もこれと同じ」(42節)だ、と。今のこの体と、これから与えられる復活の体。それを種と、そこから生じる実に譬えて語るのです。種と実は、ある面で、まったくの別物です。姿かたちを異にする。つまり、今のこの体が、そのまま持ち越されるわけではない、ということです。復活の体は、この体の延長ではない。この体による苦しみやハンディキャップ、不幸な関係が、復活において、そのまま再開されることはありません。神様の新しい創造の力によって、それらのことから解放された、新しい命と体が与えられるのです。それゆえに復活は、私たちが今抱えている全ての問題が解決し、悩みや苦しみや悲しみの全てが、取り去られるという希望であり、喜びをもって待ち望むべきことなのです。
 
 だからと言って、これまでの体と、まったく関係がないかというと、そういうわけでもない。考えてみてください。大根の種を蒔いたのに、人参ができることはないでしょう。大根の種は大根になる。私たちの今の体と、復活の体とは、まったくの別物です。しかしだからと言って、私たちは復活において、別の人になってしまうわけではない。私が私でなくなってしまうのではありません。その意味では、今の私たちと、復活する私たちとは連続しているのです。パウロはこの種と実の譬えで、そのことも意識しています。神様は御心のままに、種に体をお与えになるわけですが、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになる。それは、ある種にはある体を、という対応があるということです。つまり、大根の種を蒔けば、大根ができるということです。種はそのように、全く別のものになってしまうのではない。本質的には同じなのです。復活においても、私たちは、全く新しい命と体を与えられる、しかし私は私であり続けるのです。
 
 そうしながらパウロは、39節以下、また別の譬えをし始めます。肉の話から、天体の話へ。話があっちに行ったり、こっちに行ったり、何だか余計に分かりにくくなっているような気もしますが、ここで大切なのは、神様がお与えになる体は、どれも輝きに満ちている、ということです。私たちのこの体、色々な不自由があります。弱くて脆い、それでいて汚い部分を沢山持ち合わせています。とても輝いているなどとは言えない。そんな体が、そのまま再開されるなら、私たちは、遠慮したくなります。それならば結構だ、と。しかし、復活の体は、これまでとは違う、はるかに輝きに満ちたものだと言うのです。42節「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」。これらをまとめて、パウロはこう語ります。44節「つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです」。
 
 今の私たちのこの体のことを、パウロは「自然の命の体」と表現します。しかしこの訳だと、パウロが本来、言わんとしていたことが、どうも伝わりにくい。直訳すればここはこうです。「息をしている体」。これは続く45節に関わる表現です。45節に「最初の人アダムは命のある生き物になった」と言われています。この背後には、創世記2章7節の言葉があります。「主なる神は、土(アダマ)で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。そう、神様の命の息です。この息を吹き入れられて、人は初めて生きるようになったというのです。まさしく息をするようになった。これは、ただ生物学的に生きるようになったという説明ではありません。神様との関係において、人は人として生きるようになった。ここに、聖書の人間理解があります。私たちの命は、神様によって生かされている。しかし、その「息をしている体」は同時に、朽ちるものであり、卑しいものであり、弱いものであると言われています。
 
 そのことを、私たちは、事あるごとに、嫌と言う程に知らされる。体を持つが故の限界、苦しみですね。その根底には、いつも罪が横たわっている。それが解決しない限り、到底、救われたなどとは言えないのです。「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれる」のかとの叫びを、呻きを、誰もが持っていることだと思う。しかし、その嘆きの只中に、神様は愛する御子をお送りくださいました。イエス様ご自身、そのような朽ちるべき「自然の命の体」をまとってくださったのです。49節に「わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです」とある通りです。この御方は、神の御子だからといって、特別な体を与えられたわけではありません。空腹を覚えることもあれば、傷つく言葉を言われて、寝られない時だってあったでしょう。ウイルスに侵されて熱だって出たことでしょう。恐怖に震えることだってあった。十字架につけられた時、痛みのあまりに叫んだのです。この御方は、死に至るまで「土からできた」私たちの似姿になってくださいました。
 
 その御方が「最後のアダム」(48節)として「命を与える霊となったのです」。父なる神様は「最後のアダム」であるイエス・キリストを、死者の中から復活させられました。私たちの復活に先立ち、その「初穂」(20節)として。その際、体を持って復活させられた。復活の出来事は、弟子たちの心の中の出来事でも、内面の事柄でもないのです。非常に具体的です。それを見せつけるように、イエス様は、弟子たちの前で魚を食べ、傷を触るようにと言われました。私たちは、その御方に似るのです。48節「土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです」。ここに、私たちの望みがあります。
 
 
 
 
 
 

コリントの信徒への手紙一 15章20-34節
「最後の敵」

 
 つい最近、「100日後に死ぬワニ」という4コマ漫画が、インターネット(Twitter)上で話題になりました。これは擬人化されたワニの日常を描いたものなのですが1日4コマ、それを100日続けて、100日後に死ぬという設定で、昨年の12月12日から始まったものです。先日の3月20日に最終回100日目を迎えました。主人公のワニ君は、親友のネズミ君と一緒にゲームをしたり、ラーメン食べたり、映画を観たり、漫画読んだり、バイトをしたり、恋をしたり。普通のどこにでもいる若者の毎日を送るわけですが、一日が終わる度に、4コマ目の下に「死まであと〇〇日」と書かれているのです。カウントダウンが進む。しかし100日後に死ぬと言っても、当のワニは死ぬなんて思っていませんし、読者もそう宣言されていなければ分からない、普通ののどかな、悲壮感などまったくない、ちょっと笑える漫画なのです。100日目に近づくにつれ、どういう終わり方になるのか、ネット上で話題になりました。この漫画の作者は、インタビューで「ワニは強い。そんなワニでもいつか必ず死ぬ。少しでも人生の終わりを意識してもらえればと思って描いた。その意味で話題になった時点で成功だ。終わり方は、それほど重要じゃない」そのようなことを語っていました。
 
 終わりを意識する。自分の死と向き合って生きる。それが大切であることが分かっていても、私たち、なかなかできないものです。できれば先送りにしたい。キリスト教会でも修道院などで、「メメント・モリ」という言葉が、盛んに言われた時期があります。ラテン語で「自分が死ぬことを忘れるな」「死を覚えよ」という意味です。中世の時代、修道士同士の挨拶の際に、この言葉が使われていたようです。「自分が死ぬ」ということ。そこから今ある命を見つめる。それによって生き方が変わる。一日一日を大切に、有意義に生きられるようになる。そのような話は、色んな所で耳にします。「100日後に死ぬワニ」も、そんな意図で描かれました。しかし、本当にそうなのでしょうか。自分の死を見つめれば、意識すれば、今をもっと積極的に、今ある命を十分に、感謝を持って生きられるようになるのでしょうか。もちろん、そういった面もなくはないと思いますが、私はむしろ、その逆だと思います。死を見つめる時、私たちは、どうしたって恐怖に足がすくんでしまう。余命宣告を受けるなど、そのことがリアルであればあるほど、どうすることもできなくなる。それが私たちの死に対する、正直な姿でしょう。
 
 死という絶対に避けられない圧倒的な力を前に、怒り、嘆き、もう諦めるしかない。投げやりにならざるを得ない。私たちに出来ることとすれば、せいぜい悔いがないようにすることです。やりたいことをやるだけです。そのような抵抗しか、私たちには残されていない。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(32節)これはかつて、イスラエルの人々が口にしていた言葉(イザヤ22:13)です。パウロが手紙を記した、コリントの教会の中にも、それと似たようなことを口にする人たちがいたようです。「食べたり飲んだりしようではないか。どうで明日は死ぬ身ではないか」。死と向き合えば、向き合う程、私たちは、その死の力に打ちのめされ、そして飲み込まれる。絶望という二文字に。そして行き着くのです。「食べたり飲んだりしようではないか。どうで明日は死ぬ身ではないか」という虚無主義(ニヒリズム)に。これは他人事ではないでしょう。「食べたり飲んだりしようではないか。どうで明日は死ぬ身ではないか」。これ程、私たちの本心を言い当てている言葉はないでしょう。死を見つめて出て来る結論は、せいぜい、その程度のものです。そもそも、どれだけ死を意識しても、死と向き合っても、死がなくなるわけではないのです。死に対する恐れ、死に対する不安、問題は、依然として残ったままです。これを、どう受け止め、乗り越えるか。
 
 パウロは語ります。信仰者は、死を見つめるのではない。死を意識して生きるのではない。キリストを見つめて生きるのだ。これ、とても大切なことだと思う。そう、私たちは、ことさらに「死」という言葉を、時に強調し過ぎてしまう所がある。教会でもそうです。「メメント・モリ」がいい例でしょう。それは、どこかで死をゴールに見立てているからかもしれません。そこですべてが終わる。ならば死を見つめる時、そこには、何の望みもないでしょう。私たちは、信仰者は、死を見つめて生きるのではありません。イエス様が復活した時のことを思い出してもらいたいのです。イエス様が葬られた墓の前で、マリアは泣いていました。彼女は死を見つめていたのです。その象徴である墓の方を向いてへたり込んでいた。そこには絶望しか、涙しかありません。そんなマリアに対して、復活したイエス様は、彼女の後ろに立ち、何とおっしゃったか。「婦人よ、なぜ泣いているのか」(ヨハネ20:13)。その時、マリアは「後ろを振り向いた」とあります。そう、私たちが見つめるべきは、墓ではない。死ではない。その後ろに、その対極に立つ復活のイエス・キリストです。「そっちではない。こちらを見るように」イエス様はそう語りかける。
 
 使徒パウロも、そのことを手紙の中で語ります。20節「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」。「初穂」とは、字の通り、その年の最初に実った稲の穂のことです。他に先立って、いち早く、実る稲がある。それを見て、稲を管理する人は思うわけです。「いよいよこれから収穫の時期が始まる」と。つまり「初穂」とは、これから収穫が続くことの知らせ、合図なのです。「キリストの復活は、正にそれだ」とパウロは言います。初穂に続いて、次々と他の稲も穂を実らせて行くように、キリストの復活、それが合図となり、目印となり、それに連なる者たちも、やがて次々と復活するようになる。キリストを死から起き上がらせ、墓の外へと導き出した命を、キリスト者たちもまた生きるようになる。
 もしそれが「嘘だ」と言うのであれば、「そんなのは作り話だ」と言うのであれば、キリストを信じて死ぬ、これ程惨めなことはない。無駄なことはない。パウロは言います。さらに30節「また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか」。そんなことに命をかけている自分は、大バカ者ではないか、と。32節に「エフェソで野獣と闘った」とあります。実際にコロッセオのような闘技場で、パウロが見せ物として野獣と闘わされた、そういう記録(使徒言行録などに)はありません。ですから、これは比喩的な意味で、でありましょう。野獣のような、敵意剥き出しの人たちが、常にパウロの行く先々にはいたのです。迫害を受け、命を狙われることだってあった。それでも彼は、語り続けたのです。キリストの死と復活を。だから「誰が嘘のために、作り話のために、迷信のために、そこまでするか」とパウロは言うのです。20節「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」。
 
 そう語りながらパウロは、この復活の出来事が、私たちのための出来事なのだ、と語ります。そもそも、私たちは、ただただ死に向かうだけの存在だったではないか。私たちが、どうして死ぬことになったか、その経緯を思い出してほしい。それが21節「死が一人の人によって来た」、続く22節「つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになった」という言葉です。これだけで、手紙を受け取ったコリントの教会の人たちは、パウロが何を言いたいのかが、分かったと思います。そう、創世記に出て来る、あのアダムの話です。神様から「決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創2:17)と言われていた木の実を、アダムは取って食べてしまった。神様のお考えよりも、自分の思いを優先したのです。命の源である神様に背き、その神様から離れて生きる時に、人は命から離れ、死ぬことになる。「アダム」とは「人間」を意味する言葉です。つまりアダムは、私たち人間すべての代表と言ってもいい。そのアダムが神様から離れ、死の道を切り開き、突き進んで行ったように、私たちも、その道に続いていたのです。キリストが来られるまでは。死が、滅びが、私たちの行き着く先だった。
 
 ところが22節「キリストによってすべての人が生かされることになる」とパウロは語ります。キリストの復活が、私たちの命の行き先を、ゴールを変えた、というのです。キリストが、私たちの初穂として復活させられた。23節以降は、その復活の具体的な順序についてです。「最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりがきます。…」云々。色んなことが言われていますけれども、大切なことは26節「最後の敵として、死が滅ぼされ」るということです。アダム以来、どうすることもできずに、屈し続けた死という最大にして「最後の敵」。しかし、今やその死が滅ぼされる、というのです。その力が無効となる。そう宣言してパウロは、詩編(8:7)の言葉を引用します。27節「神は、すべてをその足の下に服従させた」。
 
 「すべて」です。その中には「死」も含まれています。神様はご自身の力が、支配が、すべてに及ぶことを、キリストの復活によってお示しになられました。けれどもどうでしょう。私たちは、その御力を、その御支配の範囲を、どれだけ小さくしていることか。まるで、死に対しては、神様でもどうすることもできないかのように、考えます。だからでしょうか、実際に、それが自分のこととして迫って来ると、動揺します。正気を失ってしまうのです。死は事あるごとに、私たちに、その力をチラつかせ、脅し、囁くのです。「死ですべてが終わりだ。それだったら食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」と。今を生きる私たちを、諦めへと誘い、骨抜きにしようとしてきます。
 
 それに対してパウロは言います。34節「正気になって身を正しなさい」。「正気になる」というのは、「酔いから目を覚ます」という意味の言葉です。いつまでも死に酔っていてはいけない。死にばかりに目を向けていてはいけない。あなたが目を向けるべきは、向かい合うべきは、そっちじゃない。私たちの初穂、キリストの復活だ。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」。人を死んだままにはしておかない、何が何でも起き上がらせようとする、神様の強い思いがキリストの復活に現れている。私たちの希望、その根拠はここにあります。
 
 
 
 
 
 
 
 

コリントの信徒への手紙一 15章1-19節
「信仰はむなしくない」

 
 「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます」(12節)。今まさに、私たちが聞くべき言葉が、ここにあります。「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます」。この手紙を受け取った、コリントの教会の人たちは、忘れかけていたのです。最も大切なことを。自分たちの生活のよりどころを。私たちは、どうでしょうか。私たちも、忘れてしまってはいないでしょうか。周りを見渡せば、不安なことばかりが目につきます。安らぎをかき乱す声が、絶え間なく聞こえてきます。目の前のことで精一杯になっている自分がいる。そんな中で、忘れてしまうのです。最も大切なことを。自分たちの生活のよりどころを。
 
 そこで使徒パウロは「ここでもう一度知らせます」と言って、改めて「福音」を、神によってもたらされた良い知らせを、確認するように語り出します。それが3節からの言葉です。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。ここに「キリストが、…わたしたちの罪のために死んだこと」そして「三日目に復活したこと」とあります。要するに、この二つ。キリストの死と復活。これが私たちにとって「最も大切なこと」、忘れてはならない「福音」だ、とパウロは言うのです。しかし、これのどこが「福音(良い知らせ)」なのだ、と思う方がおられるかもしれません。キリストの死と復活が、一体自分にどう関係しているのか。それが、なぜ喜ばしいことなのか。
 
パウロの言葉を注意深く読みますと、キリストが、ただ死んだのではない、ということが分かってきます。もう一度3節をご覧ください。「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだ」と言われています。「自分が犯した罪のせいで死んだ」「十字架にかけられた」ではないのです。「わたしたちの罪のために死んだ」。キリストの死には、私たちの罪が、大きく関わっている。パウロは、別の手紙の中で「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。…『正しい者はいない。一人もいない』」(ロマ3:9-10)そう述べながら、私たちの「罪が支払う報酬は死」(同6:23)である、と語ります。私たちにとって避けられない死の問題。その根本には、元を辿れば、そこに罪がある、とパウロは言うのです。
 
 では「わたしたちの罪」とは、一体何でしょうか。聖書は繰り返し、私たちに罪があることを指摘します。しかし、当の私たちはというと、その実感がまるでない。そそれもそのはず、私たちは「罪」というと、まず第一に法に触れること。「犯罪」を思い浮かべます。自分は、そこまで悪くはない。しかし聖書が言う罪は、そのような目に見える事柄だけに留まりません。私たちがどう考え、どう思い、何を企んでいるか、その内面をも問題にします。神様は、心根にまで踏み込んで来られる。そのことは「罪」という字を見れば明らかです。聖書が言う「罪」は、ギリシア語で「ハマルティア」と言いますが、これは「的外れ」を意味する言葉なのです。神様が「こうだ」と定められた道がある。しかしそこから外れて行く。神様の考えや思い、それらを無視して、ただ自分の思いに生きること。それがハマルティア、罪なのです。聖書は、そんな神様の言葉に聞き従わない人間の姿の、罪の歴史の記録と言ってもいい。命の源である神様から離れる時、罪の中に生きる時、私たちは、命そのものが分からなくなる。その証拠に、私たちは、自分の価値を見失っています。「この人生に意味などなく、ただただ死んでお終いだ」と思い込んでいます。どこにも望みを見出せないでいる。それはもう、死んでいるのと同じでしょう。けれども、その罪の只中に、神様は御子イエス・キリストをお送りくださったのです。私たちの「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断」(ロマ8:3)してくださった。その現場が、十字架です。
 
 パウロは言います。このことは3節「聖書に書いてあるとおり」の出来事なのだ、と。「聖書に書いてあるとおり」。続く4節にも出て来る言葉です。これは具体的に、聖書のどこどこの箇所(イザヤ53:5-12、ホセア6:2)というよりも、聖書全体がそのことを証している。神様が予め語られていたとおり、神様の御計画に従って、この出来事は起きた、ということでしょう。すべては私たちを罪から救うために。それによってもたらされる、死と滅びの恐怖から解放するために。神様がそう望まれたのです。その際、イエス・キリストは、聖人として死んだのではありません。罪人として死んだのです。それは、イエス様が罪人の私たちと、一つになってくださったということです。イエス様は、私たちの罪を「これこそ私の罪だ」と言って、御自分のものとしてくださったのです。その罪の代償である呪われた死を、代わりに死んでくださった。
 
 その御方が、4節「聖書に書いてあるとおり三日目に復活した」のだ、とパウロは語ります。ここに、私たちの望みがある。喜びが、救いがある。私たちと同じ罪人として死なれた御方を、神は、私たちに先んじて復活させたのです。その命が死の中に滅びの中にあり続けることを、よしとはなさらなかった。この部分「復活した」とありますが、正確には「復活させられた(起こされた)」です。誰によってか。神様によってです。しかも、他が「死んだ」「葬られた」と過去形なっているのに対し、ここだけが完了形なのです。つまり、今なお継続している、今も起こされている。これは現在のことなのです。イエス・キリストは罪人として十字架で死に、葬られた。しかし、神によって起こされた。今も起こされたままでいる。そのことを裏付けるように、5節以下でパウロは数々の証人たちを挙げて行きます。「ケファに現れ、その後十二人に現れた…。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れ…次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」。
 
 ここでパウロは、自分のことを「月足らずで生まれたようなわたし」と言います。「月足らず」というのは、「早産」を意味する言葉です。つまりは未熟児、本当は死んでいてもおかしくない存在ということです。これは何もパウロの実際の生まれが、そうだったという話ではありません。続く9節でパウロは、自分は使徒として「いちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」と言っています。「私は他の使徒たちと違って、イエス様と共に生活をしたわけでも、そこで特別な準備や訓練を受けたわけでもない。むしろ教会を迫害する側にいた人間。散々、神を裏切り、否定し、自分の思いに生きてきた、信仰的にも未熟児のような存在。そんな私が『神の恵みによって今日…ある』(10節)。このような者でさえも、神様は目をかけ、生かしてくださっている」。そのことを言いたかったのだと思います。その意味で、パウロにとって復活は、過去の出来事でも、これから先の出来事でもないのです。今まさに、自分の身に起きている。もうすでに復活の力は、自分にも及んでいる。本来ならば、滅ぼされてもおかしくない存在。実際にパウロは、一度は死んだのです。地に打倒された(使9:4)。しかしそこから彼は起こされたのです。罪人をそのままにはしておかない。何としても救い出す。新しい命に生かす。神の執念が「神の恵み」が、ここにはある。
 
 神様は、イエス・キリストを復活させられました。ただ復活させたのでありません。罪人として十字架につけられ死に、墓に葬られたキリストを、復活させたのです。それはすなわち、罪人である私たちの罪を赦すことに他ならない。キリストの復活は、そのことを神様がお認めになった、承認されたことの証なのです。そうであるならば、私たちはもう「罪が支払う報酬は死」そのことを恐れる必要はない。その清算を、イエス様がご自分の命で済ませてくださったのです。これは「神の恵み」によることです。「神の恵み」とは、私たちの業績には一切依存しない、神の業のことです。私たちが何を行ったから、その見返りとして与えられるものではない。一方的に差し出されたもの。だから福音(良い知らせ)なのです。私たちが頼みもしない内に、私たちが求めてすらいない段階で、神様は私たちに必要な罪の赦し、死と滅びからの解放を与えてくださった。キリストの死と復活の出来事を通して、それが確かであることをお示しくださった。私たちはその福音を、ただただ感謝をもって受けるのみです。パウロは言います。3節「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたものは、わたしも受けたものです」。信仰は、修行して得るものでも、勉強して学ぶものでも、自分の中を覗き込み発見するものありません。既に差し出されているものを、受けるのです。
 
 この神の恵み、それを告げ知らせる福音に立ち、それを足場として生きる。生活のよりどころとする。その時、私たちは救われるのです。その歩みが、命が、ようやく確かなものとされると言ってもいい。それなのに私たちは、すぐに忘れてしまいます。キリストが一体誰のために死んだのかを。そのキリストが一体誰のために復活させられたかを。そうしながら、心騒がせる。あるいは反対に、まるで死んだかのように、暗闇の中に伏す。この世が、目の前の状況が、すべてだと思い込むのです。事実、コリントの教会では「死者の復活などない」(12節)という人たちがいたようです。彼らは、ただこの世での生活にのみ、望みを見出そうとしていた。注目すべきは、この発言は、教会の外から、神様を信じていない人たちの間から聞こえて来た言葉ではないのです。パウロは言います。「あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」。
 
 神様を信じている人が、一度、福音を受け入れた者が、「死者の復活などない」その言葉を口にする。それに対してパウロは、死者の復活があるかないかの議論をいたしません。そんなことをしても無駄だからです。結局は堂々巡りになる。不信仰しか出てこない。そこでパウロは、ただ事実を述べるのです。その事実とは、イエス・キリストが私たちの罪のために死んだこと。復活したことです。そうしながら16節「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストも復活しなかったのなら、あなたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」。百歩譲って、仮にあなたたちが言うように、死者の復活がなかったとしよう。そうであれば、あなたが抱えている未解決の罪の問題はどうするのか。そう問いかけるのです。しっかり覚えていましょう。キリストが私たちの罪のために死んで下さったことを。復活なさったことを。私たちの命はもう、罪による死と滅びの支配下にはない。むなしいものなんかでもない。私たちも、やがて復活するのです。起き上がる。いや、もうそれが始まっています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

コリントの信徒への手紙一 14章26-40節
「まずは黙ること」 

 
 「え…わたしが祈るんですか?」。先月の23日に、長野県町教会で行われた分区の修養会で掲げられた講演のタイトルです。「え…わたしが祈るんですか?」。この修養会を分区の委員会で企画した時に、「祈り」ということをテーマにしようと話し合ったのですが、最初は「礼拝における祈り」とか「信仰共同体の祈り」などといった、もっとお堅いタイトルが挙げられていました。しかしそれじゃあ「あまり来たいと思わないだろう」「関心を引かないだろう」ということで、話し合いの末「え…わたしが祈るんですか?」になったのです。私たちが普段の教会生活で、直面する問題ですね。教会でお祈りを頼まれた時に、ついつい言ってしまう、あるいは思ってしまうことです。なぜ、そういう祈りに対して逃げ腰な姿勢に、私たち、なってしまうのか。そこから「そもそも祈りとは何か」をテーマに講演をしていただきたいと思い、このタイトルにしたのです。
 
 お祈りをするということ。これは信仰者にとって、呼吸をするくらいに大切なことです。呼吸しないと私たちは死んでしまいます。信仰も同じです。祈らない時、あるいは祈れない時、私たちの信仰生活は、活力を失い、息苦しさを覚え、やがて死んだようになってしまう。命の源である神様との関係を断たれてしまうからです。それなのにどうでしょう。いざ祈ろうとなると、祈ることが難しく思えてしまう。特に人前だと、いくら「神様に向かって祈っているのだ」「周りの目なんか気にする必要はない」と思っても、緊張してしまう。言葉が出て来ない。スラスラと祈れる人が隣にいると、尚の事、「自分にはそんなふうにはできない」と委縮してしまうのです。そのような経験を、誰もがお持ちのことだと思います。
 
 その分区の修養会には、信州教会からも何人か出ておられました。講演の後に分団での話し合いの時間があったのですが、ある分団で、こんな発言が出たそうです。私は、その分団にいませんでしたので、正確な引用ではないかもしれませんが、趣旨はこうです。「お祈りは、あらかじめ準備したもの、書いたものを読むのは、いかがなものか。それだと心がこもっていないような気がする」。要するに「クリスチャンならその場で、即興で祈れ」「普段、日常的に祈っていれば、その訓練ができていれば、そんなことはできるはずだ」そうことを言いたかったのだと思います。なるほど、その人の言い分も分からないでもない。私たち、色んなことを言い訳に、どれだけ祈りから逃げていることか。それは神様との交わりを避けていることに他ならない。
 
 しかし、祈りを用意することが、直ちに、訓練が足りないとか、心がこもっていないとか、不信仰だとか、そういうふうにはならないと思います。用意するにも、祈って、時間をかけて言葉を選び、教会の人たちのことを思い浮かべ、配慮しながら用意しているわけですから。それは尊く、大切な業でしょう。それを否定するということは、もしかしたら何か、自由に、その場で祈れることにこそ価値があって、そうできないのは駄目だ、という変な考えがあるのかもしれません。「祈りを準備するのは駄目だ」「人の真似をしてはいけない」「読み上げるなんて以ての外」「その場で、自分の言葉で、自分のオリジナルで祈らなければいけない」という主張は、裏を返せば自分は準備せずとも祈れる、それができるということでしょう。そのような祈りに対する思い上がりは、時に、周りを裁いてしまうことがある。そうできない人は駄目なんだ、ということになりかねない。
 
 それぞれ自由に、促されるままに祈る。それが信仰者の本来のあるべき姿だ。確かに、それができたに越したことはないのかもしれません。使徒パウロも前々回読んだ箇所で「あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思います」(14:5)と語っています。異言というのは、神様に向けられて語られた言葉のことです。それは言い換えれば、自由な祈りの言葉のことでありましょう。スラスラと、思いのままに、導かれるままに言葉を口にする。コリントの教会には、そのような賜物を与えられている人が多くおりました。自由に、用意せずとも、その場で祈りの言葉が出て来る。そうあることが「よし」とされていた。いや、そうあることを皆が目指していたのです。自由に祈る。促されるままに言葉を口にする。それこそが、信仰者にとって求めるべき最高の道だ、と。正に、修養会での発言、「祈りは書いたものではなく、その場でなされるべきだ」「信仰者はそうあるべきだ」という人たちの主張と同じです。しかし、はたしてそうなのでしょうか。皆が、そうあるべきなのでしょうか。そうじゃなきゃいけないのか。
 
 私が、以前にいた教会では、早天礼拝が毎週水曜日に、朝6時半から持たれていました。30分の礼拝で、まず牧師から御言葉の解き明かしを聞いて、それから祈るのですけれども、その祈りの時間は、まったくの自由なのです。誰が祈るという決まりがあるわけでも、順番があるわけでもない。ですから、長く沈黙が続く時もあれば、立て続けに祈られる時もありました。このような礼拝の持ち方は、祈ることに慣れている人にはいいでしょうが、初めて来た人には、ハードルが高いように思います。これと似た礼拝のスタイルをとる教会が世界にはあります。「クエーカー(別名:フレンド派)」と呼ばれる教派があります。そのクエーカーの礼拝が、正にそうなのです。クエーカーの礼拝には、司式者などいません。牧師もいません。その特徴としましては、形式的なものを嫌い、個人の霊的な体験を重んじますので、導かれるままに促されるままに誰かが語り、祈るのです。礼拝に集った人たちが、霊的な体験にあって身を震わせる(quake)から「クエーカー」と呼ばれるようになったと言われています。
 
 恐らく、コリントにある教会の礼拝も、今日読んだ26-31節を見る限り、そのようなスタイルだったのではないかと考えられます。色んな人が礼拝の中で語り出す。しかしその際、秩序が問題になったのです。27節で「異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り」。「二人か三人」といわれています。恐らく、それ以上の人が異言を語っていたのでしょう。しかも「順番に」とあります。順番関係なしに、それこそ導かれるままに、好き勝手に、それぞれが異言を口にしていた。29節の預言に関しても同じです。今の、私たちの教会のように、司式者がいて、説教者がいて、奏楽がいてと、整えられた礼拝式順、プログラムがあるわけではありません。特に、決まりといった決まりがない。自由に、促されるままに人々が祈り、語り出し、歌い出す。中でも、コリントの教会では、婦人たちのパワーが凄かったようです。34節に「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません」とある。ここだけを切り取って読むと、大変な問題発言です。で、こういう所から「パウロは男尊女卑だ」とか、「聖書は女性の権利を認めていない」とか、そういったことが言われることがあります。また、ある教派ではここを根拠に、女性の牧師を認めない。そればかりか女性の役員も認めない。そんな教派もあります。
 
 けれども、これに関して言えば、私たち、コリントの信徒への手紙を順に読み進めていますから、パウロがそういうことを言いたいのではない。ということが、その前の部分を読めば分かるでしょう。例えば、11章5節で「女はだれでも祈ったり、預言したりする際に」と出て来ます。女性が礼拝の中で祈ること、預言することを前提に語られているのです。何もパウロは、女性を認めていないわけではない。むしろ女性の活躍を積極的に認め、推奨している。別の箇所で、パウロはこう言っています「もはや…(信仰において)男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(カ3:28)。女性全般に、どうこう言っているのではない。その意味で34節は、聖書の言葉を、前後関係抜きに、一部分だけを取り上げるとおかしなことになる、その良い例です。じゃあパウロは、なぜ「婦人たちは、教会では黙っていなさい」と、まるで前言を撤回するようなことを言ったのか。これは後に続く35節と合わせて考えなければいけません。「何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです」。
 
 ここに「何か知りたいことがあったら」とあります。恐らく、礼拝中、質問のような形で、口を開く婦人たちがいたのでしょう。私たち今だと考えにくいですが、それが許されていた。しかしその中身はというと、質問という形を取りながらの独演会になっていたのです。自分の主張・知識・思い・考え、それをつらつらと述べ続ける。続く36節に「それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか」とあります。この婦人たちは、信仰のことについて「自分たちこそがよく知っている」と思っていたに違いありません。そういう変な自信を持っていた婦人たち。しかしはっきり言って、その中身は、信仰に何の関係もないことを、得意になって語っているだけなのです。「自分はこれを知っている」「こう考える」。それに対してパウロは言うのです。「そういうのは、家でやってくれ」「満たされない承認欲求、あるいは自己顕示を、教会でしてくれるな」と。
 
 誤解して頂きたくないのは、何も「教会で質問してはいけない」と言っているのではありません。私も、色んな方の質問によって気づかされることがありますし、学ばされることがたくさんあります。質問、それ自体は大歓迎です。神様を信じて生きる時、必ず、その神様に対する問いが出てくるものです。問題は、それが信仰にまったく関係のない場合です。「ただの自己主張、自己満足に教会を巻き込むな。ましてや礼拝を乱すな」というのです。質問と銘打ちながら、いかに自分が正しいか、優れているか、自分のことばかり話している事がある。そういう人に「教会では黙っていなさい」とパウロは語るのです。「もう自己主張はいいから、そのおしゃべりな口を閉じて、神様の前に、一人の罪人として、そのあなた自身の罪と向き合え。そして預言の言葉に、その罪からいかにして解放されたか。その救いの宣言に耳を傾けよ」と。だから「黙りなさい」と繰り返し語るのです。
 
 私たちは、不信仰に陥る時、神様のことが信じられない時、その不安からでしょうか、黙っていられなくなる。自分の知恵や力で、何とか物事を動かそうとします。そうしながら、どんどんと自分の声を、自分の思いを、考えを大きくするのです。おしゃべりになる。しかし礼拝は、その逆です。自分を大きくするのではありません。神様を大きくする場所です。神様ご自身は、大きな御方ですよ。それに変わりはない。しかし、それを私たちは日々の生活の中で、どれだけ小さくしてしまっていることか。「さすがに神様も、このことはおできにならないだろう」「これに関しては、どうしようもないだろう」。神様の御支配を、御力を小さく見積もるのです。それを本来の姿に、私たちの理解の及ばぬ、遥かに大きな御方として仰ぐ、それが礼拝です。そのためには、まず「黙りなさい」というのです。詩編に「力を捨てよ、知れ、わたしは神」(46:11)という言葉が出て来ます。以前の訳だと「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(口語)となっていました。あるいは、もっと荒々しく「黙れ」そう訳す人だっている。
 
 礼拝は、自分の主義主張を、神様に認めてもらう場所ではありません。自分の思いや考え、それを正当化する場所でもない。それらを越えて、神様がお語りになる場所です。そしてそれを聞く場所です。当然のことですけれども、自分がしゃべっていては聞けません。だから礼拝は「前奏」から始まるのです。そこで、この一週間、開きっぱなしだった口を閉じるのです。黙る時、私たち、否が応でも、自分というものの虚しさ、嫌らしさ、醜さ、そして罪深さに気づかされます。ある面、それを誤魔化すために、私たちは口を開き続けているのかもしれません。黙る時、そこに、どうしようもない自分の姿がある。しかし、そこで聞く言葉があるのです。黙る中で、ようやく聞こえて来る言葉がある。イエス・キリストが、私たちの、そのどうしようもない姿を、罪にまみれた人生の責任の一切を、負ってくださったという事実を伝える言葉です。キリストがこんな私のために、十字架にかかり、命を投げ出してくださった。それだけの価値を、神様は私に見出してくださった。そればかりか、私たちのこれからをも、キリストの復活によって保証してくださっている。
 
 この神様から、教会に預けられた言葉。預言を聞く時、そこから私たちは整えられ造り上げられて行く。私たちの生活に秩序が生まれるのです。これは神による秩序です。神による平和と言ってもいい。無秩序で、不確かだった歩みが、確かなものにされて行く。神様によって預けられた言葉。預言は変わりません。そこに込められた、私たちへの思いは変わらない。「兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい」(39節)。
 
 
 
 
 
 
 
 

コリントの信徒への手紙一 14章20-25節
「大人の教会」

 

 私たちが今、手にしている聖書。これは、元々は、ヘブライ語とギリシア語で書かれたものです。旧約聖書がヘブライ語(一部:アラム語)で、新約聖書がギリシア語ですね。それを日本語に翻訳をする際、あえてそのまま訳さずに、カタカナで表記している言葉というものが、聖書の中にはいくつかあります。その代表格が「アーメン」という言葉です。「アーメン」。これは、ヘブライ語の「エメツ(真実)」という言葉から派生してきた言葉でありまして、同意を表す言葉です。日本語に訳すならば「その通り」「わたしもそう思う」「本当だ」ということでしょうか。旧約聖書に記されているイスラエルの民の礼拝の様子(歴上16:36、ネヘ5:13、8:6)なんかを見ましても、比較的古い時代から、礼拝の中でこの「アーメン」という言葉が使われていたようであります。それを新約時代の教会もまた、そのままに引き継ぎましたので、新約聖書を記す際ギリシア語に訳し直すことはせず、そのまま「アーメン」と記したのです。そしてそれが世界中に広まって行った。ですから、どの言語に訳された聖書であっても「アーメン」なのです。「アーメン」の部分だけは、元のヘブライ語の音を残したままに記されている。その意味で、クリスチャンは、世界共通語を持っているのです。世界中、どこの教会に行っても「アーメン」だけは通じる。この「アーメン」は、いわば教会が教会であることのしるし、その信仰が一致していることのしるしなのです。
 
 聖書は、私たちに問いかけます。あなたがいるその所に、はたして「アーメン」はあるのか、と。ドキッとする問いかけです。私たちは普段、どれだけ「アーメン」ではない世界を足場として生きていることでしょう。心の底から「その通り」「本当だ」「真実だ」と言えることが、どれだけあるか。家庭でも、学校でも、会社でも、周りを見渡せば、同意しかねることばかりです。それは信仰生活においてもそうです。私たちは、聖書を読んでも、説教を聞いても素直に「アーメン」と思えない時があります。また祈りの言葉に「アーメン」と言えない時があります。教会の在り方に、方針に「アーメン」ではない場合だってある。あなたがいるその所に、はたして「アーメン」はあるのか。「アーメン」のない教会。「アーメン」と言えない自分が、そこにはないでしょうか。2000年前のコリントの教会が、正にそうでした。とてもじゃないけれども「アーメン」と言えない状況がそこにはあった。一体何が「アーメン」と言うことを妨げていたのか。人々に「アーメン」と言えなくさせていたのか。
 
 その大きな原因の一つに、言葉の混乱がありました。教会の中で皆が皆、「異言」を好き勝手にしゃべっていたのです。「異言」というのは「神に向かって」語られるもので、そのほとんどは誰にも分からない。意味不明な言葉というか、音の羅列です。外から見れば、奇妙な光景だったと思います。しかしそれだけに、コリントの教会の人たちには、その姿が神秘的に、また魅力的に見えたのでしょう。異言を「天使たちの」(13:1)言葉として、もてはやしていた。それだけに多くの人が異言を求め、またそれを礼拝の中で、我先に口にする、ということが起こっていたようです。あちこちで異言が語られる、語っている本人はというと、その悦に浸っている。しかし、それがどれだけ素晴らしいものであったとしても、どれだけ熱心に、神様に向いていようとも、周りにいる人たちには分からないのです。分かりませんから「アーメン」と言いようがない。結局は、異言を語っている本人の満足でしかないのです。
 
 私たちも、そういう言葉を口にしてはいないでしょうか。自分だけの言葉。自分中心の言葉。それが周りの人を励ましたり、慰めたり、立ち上がらせたりするようなことはないのです。だからパウロは言う。20節「兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください」。何もパウロは「異言」が悪いと言っているのではありません。禁じてもいない。ただ「弁えよ」と言うのです。そのために「子供となってはいけません」と。私たち、歳を重ねても、相変わらず子供っぽい所を持っています。いや、ますます子供になっている部分がある。子供っぽい誇りに、拘りに生きてしまいます。この場合の子供というのは、イエス様がおっしゃられた「神の前では幼子のようであれ」というのとは違います。むしろ子供の悪い側面ですね。子供は、周りのことなんか考えません。自分が気に入ったことを、好きなだけやります。自分中心の世界にだけ生きているからです。ともすると信仰も、そんな独り善がりな状態になりかねない。皆がいる中で、自分だけの言葉、誰にも分からない異言を語るというのは、そういうことです。自分のことしか考えないのです。しかしそれは子供のすることだ、とパウロは語ります。「あなたがたはそうであってはならない」「物の判断については大人になってください」と。
 
 そうしながら21節「律法にはこう書いてあります」そう言って、パウロは、旧約聖書のイザヤ書28章11-12節に記されている言葉を引用します。「『異国の言葉を語る人々によって、異国の人々の唇で、わたしはこの民に語るが、それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』と主は言われる」。かつて神様は、預言者イザヤを通して、イスラエルの人々に分かる言葉で語りかけました。「このままでは、あなたがたは隣国のアッシリアに滅ぼされてしまう」そう警告をし、「これまでの生き方を悔い改め、主なる神に立ち返るように」と迫ったのです。ところがイスラエルの人々は、その預言を聞こうとはしませんでした。そして、イザヤの語る言葉を、神様からの預言を、意味のないおしゃべり、たわ言として退けたのです。そのようなイスラエルの人々の思い上がり、預言をないがしろにする姿勢に対して、神様はアッシリアによる征服、国の滅亡という裁きを下されます。
 
 アッシリアによって征服されるということは、つまり彼らが「異国の言葉」、外国語によって支配されるということです。分かる言葉、預言に耳を傾けなかったがために、聞いても分からない、異国の言葉に支配されるようになってしまう。そこに異言がある。異言しか、聞いても分からない言葉しかない。「アーメン」がない。このことは、裏を返せば、神様の裁きのしるしでもあるのです。そうかつてのイスラエルの民がそうだったように。だからパウロは22節「このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるし」と語るのです。異言は、私たちの不信仰を明らかにする。対して預言はというと「預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです」。そこに聞いて分かる言葉がある。「アーメン」がある。預言は、信仰を明らかにします。そしてその預言によって、人は造り上げられ、励まされ、慰められていく。
 
 そこに「アーメン」があるのか、それともないのか。このことは言い換えれば、そこで異言が語られているのか、それとも預言が語られているのか、ということです。もっと言えば、まことに「アーメンである方」(黙3:14)そう呼ばれているイエス・キリストのことが語られているのか、いないのか、です。そう問いかけながらパウロは続けます。23節「教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか」。「反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら」25節「まことに、神はあなたがたの内におられます」と言い表すことになるだろう、と言うのです。
 
 このことは単純に、訳の分からない言葉を語っている教会と、分かる言葉が語られている教会との違いと言っているのではありません。話し方の問題ではない。平易な言葉で、説教が語られてさえいれば、必ず信者でない人が「まことに、神はあなたがたの内にいます」と告白するようになる、というわけではないのです。問題は、そこで何が語られているかです。「まことに、神はあなたがたの内におられます」という告白が生まれるのは、その人が24節「皆から非を悟らされ、罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され」ることによってです。それは教会の人たちが、新しく来た人を取り囲んで「お前は罪人だ」と言って責め立てるということではありません。ここで言われている「皆」とは、教会のことです。
 
 その教会で、預言によって語られるのは、イエス・キリストのことです。神様が、イエス・キリストを通して何をしてくださったかを、預言によって知る。その時、人は「非を悟らされ、罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され」ることになるのです。神様の独り子であられるイエス様が、私のために人となって世に来て下さり、私の罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった。それによって私の罪が赦され、イエス様の復活により、私にも神の国に生きる望みが与えられた。そのことが明らかになる。これに、私たちは「アーメン」と応えるのです。この「アーメン」を基に、私たちは生きてい行くことができる。どんなことがあっても、神は私のことを見捨てない。「アーメン」「その通りだ」「間違いではない」。教会は、そのことを繰り返し、唱和し続けてきました。これからも繰り返して行きます。その中に、身を置き続けましょう。
 
 
 
 
 
 

コリントの信徒への手紙一 14章1-19節
「人を造り上げる言葉」

 

 異言と預言。先ほど読んだ聖書の中に、普段、私たちには、あまり馴染みのない、二つの言葉が出て来ました。異言と預言。恐らく、教会に来なければ、聞くことも、使うこともない言葉かと思います。異なる言葉と書いて「異言」。預かる言葉と書いて「預言」。注意すべきは、未来の出来事を言い当てるという意味での「予言」ではありません。聖書が語る「預言」は、「予定」や「予告」に使われる「予(あらかじめ)」という字ではなく、預かるという字で預言です。いずれにしましても、異言と預言。その両方に、「言(げん)」「言葉」という字が使われています。すなわち言葉を巡って、コリントの教会内で問題が起きていた、というのです。言葉にまつわるトラブル。そう聞くと、一気に私たちの身近なことになるでしょう。私たちが抱える人間関係のトラブル。そのほとんどが、言葉を巡って起きていると言ってもいい。言った言わないに始まり、発した言葉が意図した形で伝わらなかったり、また誤解して受け取ったり、悪意をもって一部分だけ切り取られたり。「口は災いの元」などと言ったりしますが、聖書でも、ヤコブの手紙などを読みますと、私たちの口が、そこから発せられる言葉が、いかに汚れているか。「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(3:8)そのようにある。
 
 けれども聖書は、何も、私たちの舌や口、言葉について、全部が全部悪いと言っているわけではありません。もしもそうであるならば、誰一人、口を開くことができなくなる。聖書は、その大前提として、言葉というものが、神様から与えられた賜物の一つだと語ります。そのことが、少し前の第12章に記されている。「ある人には霊によって知恵の言葉、ある人にはその同じ霊によって知識の言葉が与えられ、…ある人には預言する力、…ある人には種々の異言を語る力…」(12:8-10)。その上で、それら言葉を用いる際に「愛」というものが重要になって来る。それが土台になければ、どれだけ良い賜物、素晴らしい言葉であっても「騒がしいどら、やかましいシンバル」(13:1)に過ぎない。そのことが第13章で語られていました。そして今日の第14章に入って行く。1節「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」。愛を追い求めて生きる。その具体的な事柄、第一歩として「預言を求めよ」と聖書は語ります。
 
 これに関しては、当時のコリントの状況を踏まえながら、少し説明がいるかもしれません。まず「預言」についてですけれども、聖書がいう「預言」は、先ほども少し話したように、読んで字のごとく「預かる」の方の預言です。何を預かるかというと神様の意志、思い、計画を預かって語ることです。今日の私たちで言えば「説教」や「証」の言葉に当たるでしょうか。対して「異言」の方は、一般の人には理解できない、信仰の言葉のことを言います。2節を読むと「異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません」とあります。今でも、一部の教派では、異言を用いて祈ったり、語ったりするということが行われています。
 
 私自身は、その賜物は与えられていませんので、異言を口にしたことはありません。しかし神学生時代、ルームメイトが、ペンテコステ系の教会出身の人で、異言について、色々と教えてもらったことがあります。それこそ耳にしますと、文字に起こせないような、ここで真似てみろと言われても出来ないようなものです。正直に言いますと、最初、気味が悪かった。祈っている本人に後で聞くと、「覚えていない」そういうのです。そして自分でも何言っているか分からない。ある人は、それを「宗教的な陶酔だ」と言って切り捨てます。否定的に、疑いの目で見る。その気持ちも分からないでもない。しかし私は、聖書に異言というものが書いてある以上、やはりそういう賜物はあるのだと思います。自分にはない、分からないだけで。で、そういう異言。おおよそ人間業とは思えない。何かにとりつかれたかのように語り出すその姿が、コリントの教会の人たちには、神秘的に、また魅力的に見えたようです。「異言こそ、信仰者が求めるべきもの、最高の道だ。それが語れる人の信仰は素晴らしく、そうでない者はまだまだだ」。そんな異言を、過度に重んじ、それに憧れる風潮があった。そのために多くの人が異言の賜物を求め、またそれを持っている人が、礼拝の中で、我先に異言を口にする、ということが起こっていたようです。
 
 それに対してパウロは言います。「霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」(1節)。異言と預言。コリント教会の人々は、異言の方が一段上の、より優れた賜物だと思っていました。しかしパウロは、預言こそ、より優れた賜物であり、追い求められるべきものだと言います。何故か。その理由が2節以下で述べられている。異言は2節「人に向かってではなく、神に向かって語る」言葉で、それゆえに「誰にもわからない」。対して預言は「人に向かって語られ、人を造り上げ、励まし、慰める」。異言は神に向かって語られ、預言は人に向かって語られる。
 
 では神に向かって語ることと、人に向かって語ること。どちらが貴く、大切なのでしょうか。私たちの信仰的な感覚からすると、神に向かって語ることの方が、人に向かって語ることよりも貴いことのように思えます。きっとコリント教会の人々もそう思ったでしょう。しかしパウロは、ここで異言よりも、預言の方が大事だとはっきり語ります。その理由は、神に向かって語る異言は、誰にも分からないのに対して、人に向かって語る預言は「人を造り上げ、励まし、慰める」からです。つまりパウロは、異言と預言の違いを、人にどのような益をもたらすか、という点において見るのです。それは言い換えれば、愛において語られているのは、どちらかということです。第13章で「どんな優れた賜物も、愛なしには何の益もない」と語られていました。その愛とは、自分の利益を求めず、むしろ人の利益になるように、人の為になるようにすることです。その愛によって語られているのは、異言よりもむしろ預言の方なのです。
 
 そのことは4節において、よりはっきりと示されています。「異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます」。異言を語る者は自分を造り上げている。つまり異言は、自分の信仰を深め、自分と神様の関係を緊密にする。けれども、それは自分のことだけに止まり、人には何の益ももたらさないのです。それに対して預言は、教会を造り上げます。3節では、預言が人を造り上げ、励まし、慰めると語られていました。それはある人を、個人的に向上させたり、励ましたり、慰めたりする、ということではありません。預言において語られるのは、神様の御意志、御計画です。具体的にそれは、イエス・キリストの生涯において示されている。私たちは神様が世にお送りくださったイエス様の十字架、その死によって罪から救われたのです。それだけではありません。その復活によって死に打ち勝つ命、神の国に生きる希望を頂いた。それ程までに神様は、私たちのことを愛している。それが神様の御意志です。それを語り伝える「預言」の言葉によって、私たちは信仰者として造り上げられ、励まされ、慰められ、生きていくことができるのです。預言はそのように、神の意思であるイエス・キリストによる励ましと、慰めによって生かされる者たち、教会を造り上げていく言葉です。自分だけが神様と対話し、信仰を深めていくという異言とはそこが決定的に違う。

 そうしながらパウロは異言と預言の違いを7節以下で、いくつかの喩えによって語っていきます。まず、楽器がただ音を鳴らしているのでは音楽にならず、人の心に何も伝わらない。異言はそれと同じだと言います。そして8節、軍隊における合図のラッパには、決められたメロディーがあるのであって、それに従って吹かれなければ、何の合図か分からず行動が起こせない。異言もそれと同じだと。更には11節、異言が語られる場合、語る人と聞く人との関係は、外国人との会話と同じだ、とも言われています。お互いに理解できない外国語でしゃべり合っているようなもので、そこには意思の疎通が生じないのです。これらの喩えによって語られている、人と人との心が通じない、言葉が伝わらない、意思疎通ができないという事態は、異言が語られる場合に限った話ではなく、様々な場面で私たちの間に起っているのではないでしょうか。
 
 私たちの教会では、異言が語られることは、ほとんどありません。私自身も、異言は語れませんし、ただ知識として知っているだけです。そういう意味では、この異言と預言の話は、あまり関係がないことのようにも思えます。けれども異言が語られる所に、意思疎通がままならない状況が起こる。そういった状況は、むしろ私たちが日々経験している現実ではないでしょうか。私たちは、自分の語る言葉が相手に通じない、意思疎通ができないという苦しみを経験します。同じ日本語を話しているのに、外国人のように通じないということがあるのです。そこでは、自分の語っている言葉が、相手にとっては異言となっており、相手の言葉も自分にとって異言となっているのです。なぜそうなるのか。私たちは今一度、自分の語っている言葉を、吟味しなければなりません。私たちの言葉が人に対して、異言になってしまうのは、私たちが、自分を造り上げることしか頭にないからでしょう。神様に向かって語っているつもりでも、正しいことを語っているつもりでも、それが自己満足の、自分のためだけの言葉になっているなら、独りよがりの愛のない言葉になっているなら、その時、私たちの言葉は異言になっているのです。

 これは人間の罪によって引き起こされている現実です。そのことを最もよく教えているのが、創世記11章に記されている「バベルの塔」の物語です。それまで一つの言葉をしゃべっていた人間が、この出来事を通して言葉が乱され、結果、意思疎通ができなくなったという話です。何が原因でそのようなことが起こったのでしょうか。それは人間が、自分たちの力を天にまで、神様のもとにまで届かせ、神様と肩を並べる者となろうとしたからです。自分が神のようになろうとする。神に従って生きるのではなく、自分が主人になり、自分の思い通りにしようとする。そういう思い上がりの罪によって、私たちの言葉は相手に対して異言となり、お互いに言葉の通じない者、心と心が通わない者、愛し合うことのできない者となってしまっている。バベルの塔はそのことを教えています。

 では、お互いが異言を語り合っているような状態から、私たちはどうしたら抜け出せるのでしょうか。それは私たちの言葉が異言ではなく、預言になることによってです。そのためにパウロは「預言するための賜物を熱心に求めなさい」と語るのです。皆が皆、説教者になれということではありません。人に向かって語る言葉、自分をではなく、人を造り上げる言葉を語る者となれ、ということです。それは言い換えれば、愛を求めることに他ならない。愛を失っているが故に、私たちの言葉は、異言になってしまうのです。愛を追い求めることによってこそ、私たちの言葉は、異言から預言へと変えられるのです。では、その愛を、私たちはどこに追い求めればよいのでしょうか。それは私たちが聞いている預言の言葉の中にです。預言の言葉は、聖書に記されています。そこに、イエス・キリストによって示された神様の、私たちへの愛が示されている。このイエス・キリストの姿が、私たちに、神様の愛を教えてくれます。この神様の愛を告げる預言の言葉によって、私たちは、何度でも造り上げられ、励まされ、慰められて行く。
 
 預言を求めましょう。そこに示されている神の愛、イエス・キリストとますます繋がっていく中で、私たちの語る言葉は変えられていきます。私たち一人一人が、人を造り上げ、励まし、慰める言葉を、キリストの体である教会を破壊するのではなく、築き上げていくような言葉語る者とされていくのです。