ルカによる福音書 第1章26-38節
「お言葉どおりに」

 
 

ルカによる福音書 第1章1-25節
「実現する言葉」

 
 「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」(13節)。イエス・キリストの生涯を、歴史上の事柄として、順序正しく書き記すことに拘った福音書の記者ルカは、一組の老夫婦に起こった不思議な出来事から、その物語をスタートさせます。
 
 ヘロデという人がユダヤの王として君臨していた時代(紀元前37~4年)のことです。「アビヤ組の祭司にザカリアという人が」いました。妻の名は「エリサベト」。で、この二人に関しては、「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」(6節)と聖書にはあります。
 
 非のうちどころがないわけですから、それだけ人柄においても、そして信仰の面においても、人々から慕われ、尊敬されていたのだと思います。しかし、そんな二人にも、ある悩みがありました。それは「子供がいない」ということです。当時は、子供がいないということは、大きな問題でした。神様から祝福されていない、気の毒な人たちだという、そういう見方があった。ですからこの二人もまた、自分たちのことをそのように考えて、どこかで暗い気持ちを抱えながら過ごしていたのだと思います。
 
 「神様、子供を与えてください」と、どれだけ祈ったことでしょう。何度も何度も願ったと思う。しかし与えられることはなかった。いつしか二人は年をとり、もう子供を望めない年齢にまでなりました。「子供を与えてください」との祈りも、それに合わせて、だんだん祈らなくなって行ったと思います。
 
 年老いて、子供の望みも絶たれ、静かに暮らしていたある日のことです。ザカリアが祭司の務めの一環で、神殿の聖所に入ることになりました。これは一生に一度、あるかないかの大仕事です。当時は、祭司といっても、何千人、何万といました。ザカリアが属していたアビヤ組だけでも、800人位いたのではないかと言われています。そういう組が、全部で24もあり、一週間ずつ交代で、その組の代表者が聖所に入り、香をたき祈りをささげるという務めに、ザカリアが選ばれたのです。
 
 一世一代の大仕事ですから、何度も手順を確認し、間違えないように、緊張しながらその務めに当たっていたことだと思います。「すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った」(11節)とあります。突然の出来事に「ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われ」(12節)る。すかさず天使は言います。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」(13節)。
 
 「あなたの願いは聞き入れられた」とは、どういうことでしょうか。ザカリアにとって「子供を与えてください」との祈りは、とうの昔に終わったのです。確かに、若い頃は、よくそのことを祈っていたのかもしれません。しかし子供が与えられない中で、その祈りはいつからか、自分たちの人生が神様に役立ち、後の世に奉仕できるようにと変えられていたことでしょう。個人の祈り、それに終始していた所から、イスラエル全体のために祈るように変えられて行った。
 
 それはザカリアとエリサベトにとって、そして神の民イスラエルにとって、なくてはならない期間でした。二人の老夫婦だけではない、イスラエルの人々もまた、長い間、待っていたのです。約400年。イスラエルには、預言者が立てられることはありませんでした。いわゆる「中間時代」と呼ばれている預言者不在の期間です。神の言葉が沈黙していた。その間、人々はどれだけ祈り求めたことでしょう。願ったか。
 
 私たちはどうしたって、願いが聞き入れられるのは、早いに越したことはないと考えます。この二人に関してもそうです。神様はどうして彼らが若い時に、それを実現させなかったのか。すぐに子供を与えなかったのか。そしてイスラエルに対しては400年もの間、黙っていたのか。その期間が二人にとって、イスラエルにとって、なくてはならないものだったからでしょう。その期間があったからこそ知ったはずです。神の言葉、約束は、人間の力や可能性を越えて「時が来れば実現する」ということを。
 
 しかしこの時、ザカリアは口答えします。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(18節)。ザカリアがそう言うのも、最もなことだと思う。天使は言います。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」(1920節)。
 
 これによりザカリアは、口が利けなくなる。一見すると、何かこれは、信じないことに対するペナルティ、罰ように思えます。仮にそうだとしても、子供が産まれるまで、十月十日の間、口が利けなくなるというのは、罰としては、少々厳し過ぎるのではないでしょうか。結論から言います。口が利けないこと。これは信じなかったことへのペナルティでも、罰でもない。
 
 そのことは、この後のザカリアの様子を見れば分かります。彼はこの口が利けない期間を、神様の罰として、耐え忍んだわけではないのです。子供が産まれて八日目、割礼を施して子供に名前を付ける日に、ザカリアは字を書く板を出させて「この子の名はヨハネ」と書きました。「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」(64節)と聖書は伝えています。
 
 ようやく口が利けるようになった時、最初に出てきたのが、神様への賛美だったということは、話せない時にも、既に心の中に、神様への賛美が満ちていた、心の中では神を賛美していた、ということでしょう。このように、口が利けなかった期間は、決して罰などではなく、ザカリアにとっては、賛美が満ちるための期間だったことが分かります。

 口が利けなくなるということ。それ自体を切り取るならば、辛い事でしょう。ザカリアのように私たちだって、嫌でも、黙らされることがあります。黙るしかないくらいに追い込まれる時がある。しかし、それは裏を返せば、神様からの「しるし」でもあるということを、私たちは覚えておく必要があります。神様は、ザカリアに求めました。「時が来れば実現するわたしの言葉を信じるように」と。そうして口を利けなくされました。これによって彼は、神様を仰ぐ者へと変えられて行きます。
 
 「信仰」というは、信じて仰ぐと書きます。私たちは、ただ神様を信じるのではない。仰ぐのです。私たちが仰ぐ時、目を向けている先は、あくまでも神様の側です。こちら側ではありません。ところが私たちは、往々にして、こちら側のこと、人間の側のことばかりに目が行きます。こちら側の事ばかりが気になってしまう。
 
 だからザカリアは言うのです。「わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(18節)と。そのように、自分たちの側の都合、常識、理屈にばかり目が行って、主なる神様がなさろうとしていることに目が行かない。こちら側のことを優先してしまう。主なる神様が定め、計画し、実現しようとしていることがあるにもかかわらずです。神様のなさることならば、それは時として人間の常識や、限界を越え出るような仕方で実現されるのだ、という所になかなか目が行きません。
 
 実際、私たちも、同じようなことを口にしてはいないでしょう。私は老人ですし、妻も年をとっています。私は病弱ですし、能力もありませんし、性格も良くありませんし、不注意でミスばかりしてますし、家族の問題もありますし、時間がありませんし、云々。教会でもそうです。人数が少ないですし、経済的にも十分ではありませんし、互いの間にいろいろ問題もありますし。このような私たちを用いて、神様が御業を進めようとしているのだということ信じない理由なら、いくらでも挙げられるのです。こちら側だけを見ていれば。

 ザカリアもそうだったと思うのです。信じないためのこちら側の理由を、放っとけば、いくらでも語り続けたことでしょう。そうやって自分で語りながら、自分で不信仰になって行く。しかし、神様は恵み深い御方でした。そんな彼を、この時、強制的に黙らせるのです。口を利けなくするという仕方でもって、沈黙させたのです。「それ以上、信じられない理由を口にするな」「そんなことしても、お前はどんどん惨めになるだけだ。不信仰になるだけだ」と言ってです。
 
実はこの出来事は、罰どころか、とんでもない恵みの出来事だったのです。人は黙らなくてはならない時がある。神様の前で、人間の側のことを並べ立てることを止めて、黙らなくてはならない時があるのです。私たちが黙らなければ、ぶつぶつ言い続け、こちら側のことを言い続けるならば、時として強制的に黙らされることもあるのです。そうじゃなきゃ、いつまで経っても、私たちが神様の方を見ないからです。神様がなさろうとしていることに気づかない。こっちの側のことにばかり気を取られて。だから神様は、ザカリアの口を利けなくされたのです。
 
 彼は、この沈黙の恵みをいただいたことにより、こちら側ではない、神様の側を仰ぎ見る生き方へと変えられて行きました。それは喜びと賛美に満ちた人生でもありました。私たち、黙ることがあるかもしれません。強制的に黙らざるを得ない状況に置かれるかもしれない。しかしそうすることで、実は神様が私たちを守り、導いておられる。喜びと賛美の人生へと。沈黙の恵みがある。そこからイエス・キリストの物語はスタートするのです。
 
 

ルカによる福音書 第8章22-25節
「あなたの信仰はどこに」

 
 先程読んだ聖書の中に、イエス様が嵐を静められたという出来事が記されていました。この話は、ルカによる福音書だけではなく、他の福音書、マタイでも、マルコでも出てきます。このことは何を意味するかというと、福音書が書かれた時代、つまり初代の教会の人たちが、それだけこの出来事を大切にしていたということです。この話は、現実とはかけ離れた、単なる奇跡物語とか、そこから学び取る教訓とか、そういう類のものじゃない。正に、今を生きる自分たちの事柄として、嵐の中を進む舟と自分たちの人生を重ね合わせながら、信仰の励みとしていたのです。
 
 「ある日のこと」です。「イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、『向こう岸に渡ろう』と言われた」(22節)そのように聖書にあります。それまでイエス様は、ひっきりなしにやって来る、病人や、悪霊に取りつかれた人など、色んな問題を抱えた人たちを癒し、慰め、立ち上がらせと、忙しい日々を過ごしておられました。そのような時に「向こう岸へ渡ろう」と弟子たちに呼びかけられる。
 
 「召す」「命」と書いて、「召命」という言葉が、教会にはあります。これは一般に広く用いられている言葉ではありません。召命。英語では「calling(呼びかける)」と言います。日本語で、これを「召命」の他に「職業」「天職」などと訳す場合があります。この世の中には色んな職種、務めがあります。しかし、ただ自分の思いだけで、あるいは偶然に、その職についているんじゃない。神様によって、そこに置かれている。神様に呼ばれて、その務めについている。それを「召命(calling)」と呼ぶわけです。その意味で、これは神様に対する信仰を前提とした言葉です。
 
 イエス様は、弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と呼びかけられました。ただの呼びかけではありません。神様からの、イエス様からの呼びかけです。信仰というのは、それに応えることだと思います。今いる場所を離れて、神様が示される新しい場所に移る。神の言葉、神の約束を信じて、それに従う。つまりこの場合だと「向こう岸へ渡る」ということになります。「向こう岸」。そこは、弟子たちからしたら、まったくもって知らない場所、未知の世界です。慣れ親しんだ、自分たちのホームではありません。何が待ち構えているか分からない、アウェイの世界。
 
 しかし、そこもまた、神様の目から見たらホームなのです。神様が支配されている所に変わりない。そうであるならば「向こう岸」とは、安心と希望に満ちた場所と言えましょう。「そこに行こう」とイエス様は、弟子たちに呼びかけられる。「イエス様がそう言うんだから、きっと素晴らしいことが待っているのだろう」。弟子たちは、その呼びかけに応えて、舟に乗り込みます。
 
 しかし「渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた」(23節)とあります。これまでの働きで、よほどお疲れだったのでしょう。ゆらゆら揺れる舟の中で眠ってしまわれる。ところが、その時です。「突風が湖に吹き降ろして来て彼らは水をかぶり、危なくなった」。イエス様に言われた通り、その呼びかけに応えて、舟に乗り込んだはずなのです。しかし大嵐に遭う。イエス様の言葉に聞き従ったから、荒れた湖が静まった。悩んでいた心が開けた。順風満帆に事が進んだというなら、話は分かります。しかしイエス様と共に、舟に乗り込んだ時、「向こう岸に渡ろう」とした時、湖が荒れだしたというのです。これは一体どういうことか。
 
 これが、私たちの現実なんだと思います。イエス様の言葉を信じて、それに従い、生きること、向こう岸へ渡ることを決心する。そういった弟子たちの姿は、正に信仰を持って生きる私たちの姿そのものです。イエス様と共に舟に乗り込む。人生を新たにスタートする。じゃあそれで、何もかもがうまくいくかというと、そうじゃない。むしろ舟に乗ったがために、散々な目に遭う。
 
 旧約聖書の出エジプト記にモーセという人が出てきます。この人は、神様から呼び出され「エジプトで奴隷となっているイスラエルの人たちを救い出せ」そのような召命を受けます。それに呼応するようにイスラエルの人たちも、エジプトを出ることを決意する。神様の導きにより、彼らはエジプト脱出に成功します。ところがしばらくすると、すぐ後ろを見たらエジプトの軍隊が追いかけて来る。そして前には、海が広がっている。もう前にも後ろにも進めないという状況に、彼らは絶望することになる。
 
 「向こう岸へ渡ろう」「エジプトを脱出せよ」神様が言われたことだから、その先は順調に行くかと思いきや、そうではない。むしろ前よりも、状況が悪くなるのです。で、イスラエルの人たちは叫びます。「何で自分たちをエジプトから連れ出したんだ。頼んだ覚えなんてない。余計なことしやがって。モーセの言うこと聞いたから、自分たちの人生台無しだ」。そう言ってモーセに詰め寄る「話が違うではないか」と。
 
 モーセはモーセで言います。「神様どうしてですか」と。「だから私は言ったじゃないですか。嫌だと。自分には、そんな皆引っ張って行く力なんてない。あの大国エジプトの圧倒的な力。このイスラエルの人たちの物分かりの悪さ。そんなの引き連れて行けるわけがない。あなたの言葉を信じて、従った結果がこれですか。そりゃないですよ」そのように神様に泣きつくのです。
 
 いずれも、発端は神様です。彼らは、言ってしまえば、神様に従ったまでです。「向こう岸へ渡ろう」その呼びかけに、召命に応えただけなのです。ところがそのせいで散々な目に遭う。「信仰など持たない方が、どれだけ楽か」と、私たちもふとそう思うことがあるかもしれない。何でこんな目に遭わなければいけないのか。神様知らない方が、呼びかけに応えない方が、自分の思う通りに、自分の声に従って生きた方が、どれだけ良いか、と。
 
 そのような大変な時に、イエス様はというと、眠っていたと聖書にはある。嵐の中でも眠るって、どんだけイエス様、鈍感なんだとも思います。ある人は言います。「それだけイエス様は安心しきっていたんだ。神様にすべてを委ねていたのだ」と。「それに対して弟子たちは、そうじゃなかった、委ねる信仰がなかったのだ。だから私たちもイエス様のように、すべてを任せましょう」と。しかし果たして、そういう問題でしょうか。そんな精神論のようなことを、抽象的なことを聖書は伝えたいのか。自分の人生、本当に沈みそうになっている時、そんな悠長なことは言ってられないでしょう。「イエス様が一緒に舟に乗ってくださっているのだから大丈夫」との理屈は分かるのです。しかしそんな理屈より、現実の波の方が怖い。それが私たちなんだと思う。
 
 嵐の中で、イエス様が眠っておられる。まるで私たちのことなど、まったく関心がないかのように、神様が一向に動いてくださらない。こんな時こそ、「ああしなさい」「こうしなさい」と指示してくれたら、あるいは「大丈夫だ」そう言ってくれたら、どれだけ力強いことか。しかし眠っている。うんともすんとも反応がない。
 
 弟子たちはたまりかねて、「先生、先生、おぼれそうです」と助けを求めます。揺すって起こそうとする。ここに、私たちの祈りの姿があります。イエス様が眠っておられることは、弟子たちにとって大きな不安でしかありませんでした。助けを求めても黙ったまま。何の返答もない。私たちは祈りの中で、幾度となく、そのことを経験します。
 
 しかし正にその時に、ようやく私たちは「神様どうにかしてください」と必死になって祈るのではないでしょうか。弟子たちが「先生、先生」と叫んだように。どんな状況でも「主よ、主よ」と祈れることは、そう呼びかけられる相手がいることは、実はとても幸いなことだと思います。そこで「イエスが起き上がって風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった」(24節)。大きな不安と混乱の中で、イエス様の言葉は、すべてを静めてしまわれた。ここに、この世の一切のものを従えてしまう、人知を超えた神様の権威と力があります。その神様に呼ばれて、召されて、この人生がある、命があるということを忘れてはなりません。
 
 この時、弟子たちを救ったのは何かというと、「先生、先生」「主よ、主よ」というこの祈りです。「あの人に頼ろう。これがある、あれがある」皆駄目になった。そういう中で「主よ」と呼ぶしかない。しかし、その主がいてくださるんだ。主なる神様が共にいてくださるんだということを、彼らはその時、本当に気が付いた。そして「イエス様こそ、私たちの主だ」と告白をした時、すべてが収まっていた。
 
 イエス・キリストは弟子たちに対して「あなたがたの信仰はどこにあるのか」(25節)と諭されました。それは「わたしが共にいるのに、何をあわてふためいているのか」「わたしが共にいるのだから、あわてなくていいよ」という諭しです。「今、とても辛いです」「状況は悪くなる一方」「沈みそうです」「いや、もう沈んでいます」そういう時に私たちは、神様は眠っていて頼りにならないと思います。しかし正にそこで、私たちは神様に出会うんだと思う。その本当の力を知ることになる。
 
 「向こう岸に渡ろう」。その召命に応えて生きようとする時、色んな出来事に遭遇します。舟に乗らなければ、もっと安全に、そして無難に生きられたかもしれません。けれども、それでは、いつまで経っても「向こう岸へ」行くことは、神様が用意してくださっている祝福に与かることはないでしょう。神様が呼んでくださっているのです。「向こう岸に渡ろう」と。確かにその道中だけを切り取れば、散々かもしれない。でもそれを差し引いても、余りある祝福がそこにはある。だから呼ぶのです。
 
 嵐をも治めてしまう力を持った方が言われるのです。「向こう岸に渡ろう」「神様を信じて生きて行こう」。イエス様がおっしゃるのですから、約束されているのですから、何よりも乗り込んでくださっているのですから、この舟は沈むことなどありません。必ず向こう岸に、祝福の地に辿り着きます。
 
 

 

ルカによる福音書 第8章1-21節
「忍耐して実を結ぶ」

 
 イエス・キリストは「神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅」(1節)をされました。イエス様が伝えられた「神の国」とは、日本とか、アメリカとか、中国とか、そういう国のことではありません。「神が共におられる」という事実のことです。その意味で、国とか、地域とか、そういったものに縛られない。むしろ、それを越えた神の支配の中ある。それを「神の国」と呼ぶのです。
 
 イエス様はおっしゃられました。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(17:21)。そして「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)と。
 
 「神も仏もあるか」としか思えない世界が、目の前に広がっているかもしれない。その中で、生きる気力を削がれ、望みも何もなくなることがあるかもしれない。しかし正にその只中を、突っ切るように、イエス・キリストは歩かれるのです。「あなたは神の支配の外に置かれているのではない」「この状況、この場所にも、神が共におられる」という福音を告げ知らせるために。
 
 その福音を聞き、心動かされた人が、一人、また一人と、イエス様の後について行く。今日の所を読むと、イエス様の宣教の旅には、12弟子に限らず、その他、多くの婦人たちも同行したようです。ルカは、そのことに注目します。当時の女性は、今のような人権があるわけではありません。そこにいても数に数えない。それくらい軽んじられていました。しかし神の国では違います。男だからとか、女だからとかはない。むしろそれで言えば女性が、積極的な働きを担っている。真に自由で、生き生きとした福音の力が、この女性たちの姿を通して表されています。
 
 そのような一行ですから、評判を聞きつけてか「大勢の群衆が集まり、方々の町から人々が側に来た」とあります。そこで「イエスはたとえを用いてお話になった」(4節)。小見出しには「『種を蒔く人』のたとえ」とありますが、これ実際は、蒔かれた種と土地との関係の話がされています。
 
 たとえと言うのは、不思議なもので、話を分かり易くする面と、分かりにくくする面が、その両方があります。その際、問われるのは、聞く側の姿勢です。語られたことを、どう聞くか。そのことが、今日読んだ箇所に貫かれているテーマとなっています。「聞く耳のある者は聞きなさい」(8節)「どう聞くべきかに注意しなさい」(18節)「聞く」という言葉が、繰り返し出てきます。
 
 まるで「あなたの中で、ちゃんと聞く準備ができているか」「聞く気はあるか」そう問いかけられているようです。それが整わないならば、譬えは「聞いても理解できない」(10節)難解なものとなる。しかし「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されている」(10節)とイエス様は、弟子たちに、そして私たちに語りかけます。
 
 そうしながら、先ほどのたとえの意味を、イエス様自身が解説なさる。それが11節からです。それによると「種」というのは、「神の言葉」のことで、それが蒔かれる土地というのは、それを聞く人の状態、心を表している。「神の言葉」である「種」が人に伝えられ、蒔かれる時、道端、石地、茨の中、良い土地という4種類の有り様が見られる。神の言葉を聞く、聞き方が4種類あると言うのです。
 
 まず、道端に落ちた種とは、神の言葉を聞くけれども、受け入れる信仰がなくて、評論家のように、ただ耳で聞いているだけで、信じていない人のことです。どんなにいいことを言われても、自分と関係ありません。そういう距離を置いて聞いている。情報としてしか入っていない。どこか他人事なんですね。だから聞いたことが、何か見える形で、行いとして現れることもない。
 
 次に、石地に落ちた種とは、すぐに芽が出るのですが「根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人」その信仰が枯れてしまう人のことです。神の言葉を聞いて、初めは感動し、心が燃え上がるのですが、困難なことが起きるとすぐに、それが冷めてしまう。離れて行く。
 
 また、茨の中に落ちた種とは、神の言葉を聞いて「そうだ」と芽は出るのですが、茨も一緒に伸びて、それに邪魔されて、覆われて消えてしまう人のことです。人生の思い煩いや富や快楽、そういったものの方が大きく育ってしまって、それに心奪われては、何が何だか分からなくなり、結局、神の言葉を聞くことができない。実を結ぶことができない。
そして最後、良い土地に落ちた種は、百倍の実を結びます。「立派な良い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」(15節)です。このように並べられる時、私たちは「自分はこの内のどれか」ということに気が行きます。道端じゃないか石地じゃないか、茨じゃないか、少なくとも良い土地とは言えない、と。
 
 しかしはたして、そのように綺麗に4つに分けられるものなのでしょうか。ここで言われている4つの土地のように、4つの人、私たちはその中のどれか一つのパターンなのでしょうか。私は、そうじゃないと思います。一人の中に、この4つがあるのだと思う。ある時は、良い土地だと思っていても、茨が生えて来たり、石地になったり、道端に成ったりする。そういう変わりやすい心を、私たちは持っているのではないでしょうか。
 
 そう考えますと、道端、石地、茨、この3つに関しては、誰もが「あぁこれは自分のことだ」と心当たりがあるかと思います。しかし最後の「良い土地」というのは、一体どういう状態のことか。どういう人のことか。どうも自分は、良い土地とは言えないような気がする。
 
 農業において「良い土地」というのは、よく耕されていて、石もなく、雑草も生えていない所のことでしょう。しかし考えてもらいたいのです。自然に、何もしない状態で、そんな理想的な所ってあるんでしょうか。ご存知の通り、良い土地、よく肥えた土地は、そのままにしておくと、すぐに雑草が生い茂ります。どんな所でも、掘れば石がありますし、草が生えるし、やがて土も固くなるでしょう。空の鳥が来て、種を取っていくことだってある。
 
 「良い土地」なんてものは、ほっといてできるもんじゃない。雑草抜いたり、耕したり、肥料やったり、石ころのけたり、そうやって手入れして、ようやく良い土地になるんじゃないですか。
 
 私たちが、なぜ礼拝をするのか。祈祷会で祈るのか。家で聖書を読むのか。そうしながら私たちは、良い土地に、自分を整えるのです。礼拝もせずに、祈らずに、何もせずに良い土地になるんじゃない。神の言葉を聞くのを、邪魔しているもの。妨げているもの。それらを取り除ける。そういう人のことをイエス様は「立派な良い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」と言っておられます。
 
 私たち、岩地のような頑固さを持っています。色んな思い煩い、誘惑に覆われては迷う、優柔不断な面があります。しかしそんな私たちにも、良い土地があるのだということを、忘れてはなりません。神の言葉を、それでも信じて聞く土壌が、その部分が、私たちには与えられている。
 
 ここで大切なことは、私たちが何か頑張って、種を成長させるのではありません。種それ自体には、もう十分に力があるのです。私たちが手を加えなくとも、それは勝手に大きくなります。私たちにできることは、それを妨げないことです。そのために石を取り除けたり、草を抜いたり、整える。
 
 私たちにとっての望みは、種を蒔く人が、これは神様のことですけど、今も、ひたすら種を、神の言葉を蒔き続けているということです。神様は、良い土地にだけ種を蒔くんじゃない。そんなの関係なしに、蒔くのです。私たち、道端の時があるでしょう。石地のように頑固者になっているかもしれない。他の者に邪魔されては、心奪われ、優柔不断に迷っている、茨の中にいるかもしれない。しかし、そこにも種は蒔かれている。そんな私であっても、神様は根気強く種を、神の言葉を語り続けてくださっている。
 
 その意味で「忍耐して実を結ぶ」その忍耐は、私たちの側のことなんかじゃない。神様が何よりも忍耐をして、実を結ぶことを、神の言葉が実現していく、その喜びの中を生きることを待っていてくださる。だから「聞く耳のある者は聞きなさい」。
 
 イエス様はまた、神の言葉を、ともし火、そこから放たれる光に譬えられました。神の言葉を聞く。火をともされ、光となったキリスト者でも、もし光の働きをしないなら、光が灯されたことが空しく終わってしまいます。せっかくのともし火を「器で覆い隠したり、寝台の下に置いたり」(16節)すると、光が消えてしまいます。神の言葉を聞く私たちが、その言葉をどう生活の中に生かしていく、根付かせていく、証していくかが問われます。
 
 そして、イエス様に会おうとして訪ねてきたお母さんと兄弟に対して、イエス様は「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人のことである」(21節)と、ずいぶん冷たいことを言っています。これは、家族はどうでもいいというのではありません。神の言葉を、本当に生活の中で聞いて行こう。
 
 ついつい、お母さんだ、兄弟だ、妻だ、孫だと、それを大事にするがゆえに、結局、神の言葉をないがしろにしている。分からなくしてしまっている。そして兄弟や家族を駄目にするのだ。神の言葉に聞き従うことこそ、家族を愛することであることを示しているのです。神の言葉を、生きた言葉として生活の中で聞く、受け止める、そういう良い土地を、私たちいただいているのですから、きちんと手入れしましょう。種は育つのですから、神の言葉はことごとく成って行くのですから、それに信頼して行きましょう。
 

ルカによる福音書 第7章36-50節
「帳消し」

 
 数年前にお笑いタレントのビートたけし『新しい道徳』という本を出しました。この本では、聖書のことなんかも、たくさん取り上げられておりまして、私も興味深く読んだのです。たけしさんならではの切り口で、今の日本の道徳教育が抱えている矛盾や問題、そいうったものを面白おかしく突っつく、そんな内容になっています。
 
 その中で、ヨハネによる福音書第8章に記されている、姦通の罪を犯した女が石打ちの刑に処せられる、その場面が紹介されていました。この話を引き合いに出して、ビートたけしは言うのです。「『この中で罪を犯したことのない人が、最初に石を投げなさい』キリストにそういわれて、昔の人はみんな黙り込んでしまったけれど、今は『じゃあ僕から』って、どんどん石を投げちゃうんじゃないか」と。
 
 なるほど、その通りかもしれません。まるで、自分は罪とは無関係であるかのような、他人事のような感覚や態度を、私たちも取ってはいないだろうか。罪を罪とも思わない。自分の罪にいつまでも気づかない、いや気づこうともしない。少し前の第6章で、人の「目にあるおが屑」つまり間違いや欠点、罪、そういったものはよく見えるのに、どうして「自分の目の中の丸太に気づかないのか」そのようにイエス様が嘆いておられましたが、それが正に、私たちの姿なのではないでしょうか。
 
 今日読んだ箇所に、ユダヤ教のファリサイ派に属するシモンという人が出てきます。「ファリサイ派」とありますから、厳格で、信仰熱心な一派に属する人だったのでしょう。彼もまた、律法に書かれていることを忠実に守りながら、間違いのない、正しい生活していたのだと思います。その意味で「ファリサイ」これは「分ける」という意味ですが、律法に従って生きる自分と、そうじゃない人を分けながら、そこに線を引きながら生きていた。
 
 そのファリサイ派のシモンが、イエス様を自分の家に招待した時のことです。招待をしていない「一人の罪深い女」がシモンの家に入ってきた、とあります。そして「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(38節)。
 
 突然の出来事に、その場にいた人たちも、固まってしまったことだと思う。聖書はこの女性のことを「罪深い女」とだけ伝えています。彼女が、一体どのような罪を犯したのか、詳しいことは分かりません。ただ一つ、この人は有名だった「罪深い女」として。きっと町中で、知らない人はいなかったのだと思います。
 
 良くも悪くも、私たち、一度ついたイメージというのは、そうそう簡単には変えられません。下手したら一生、それが付いて回る。狭い世界であれば、尚の事です。田舎ほど、噂や評判、それが一気に広まり、根強く残るでしょう。そして私たちは、それに影響されてしまう。そういう目で見てしまう。この女性が正にそうです。一度、罪の烙印を押される。ずっとそれを背負いながら、周りから避けられながら、独り生きていたのだと思う。
 
 私たちも、絶対に関わらないと心に決めた人が、一人や二人、いるのではないでしょうか。「あいつはもう駄目だ」「どうしようもない」そう心の中で裁き、距離を取っている人がいることでしょう。そんな人が、この礼拝堂に入って来たら、しかもあなたの隣の席に座ったらどうでしょう。きっと固まってしまうと思う。必死に、冷静を装いながら、それでいて内心は、動揺すると思う。
 
 シモンもこの時「えっ!?」と思ったはずです。あの例の「罪深い女」が、自分が最も関わりたくないと思っている女が、自分の家に入って来たからです。そして客人であるイエス様の足に香油を塗り始める。シモンはそれを見て思います。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ」(39節)と。
 
 預言者というのは、神様から言葉を預かり、それを人々に語る、いわば、神と人との橋渡しをする人のことを言います。神様からの遣いと言ってもいい。特別な存在です。自分が食事に招いたイエスが、そのような預言者であれば、この女のことなど、その正体なんて、簡単に見抜けるはずだ。そして、神に由来するその正しさゆえに、罪ある者を、汚れた者を退けるに違いない。そうシモンは思っていた。
 
 その時です。イエス様が「シモン、あなたに言いたいことがある」(40節)と語りかけられる。そして一つの譬え話を始められる。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」(4142)
 
 「デナリオン」というのは、一日の労働対価です。それが「五百」ならば、五百日分の給料。「五十」ならば、五十日分の給料。帳消しにされて喜ぶのは、感謝し、より愛するのは、その額が多い方に決まっています。ですからシモンは「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」(43節)そのように答えます。イエス様も「そのとおりだ」とおっしゃられる。そうしながら今度は「女の方を振り向いて、シモンに言われた。『この人を見ないか』」(44節)と。
 
 「この人を見ないか」。そう言ってイエス様は、シモンの視線を、この女の方に向けさせます。「あなたが罪深い女として断罪しているこの人」「あなたが関わりたくないと距離を取っているこの人」「あなたがさっき答えた『帳消しにしてもらった額の多い方』それがこの人なんだ」と。
 
 そして続けられる。「わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた」(4446節)。
 
 足を洗う水。挨拶の接吻。頭にオリーブ油。いずれも客人をもてなす際に、行われていたユダヤの大切な伝統です。ところがシモンは、イエス様のことを食事に招いておきながら、それを怠った。忘れていたわけではないでしょう。あえてしなかったのだと思います。
 
 というのも、シモンは、何も諸手をあげて、イエス様のことを歓迎していたわけではないからです。「どれ、いっちょ見てやろう」「凄いと噂のイエスという男。一体、どの程度の者か」と試すような思いで、イエス様を食事の席に呼んだのだと思う。もしお眼鏡にかなわなければ、距離を取るまでです。あの罪深い女と同じように。
 
 そんなシモンですから、イエス様の譬え話も、どこまで分かったか。ここでは罪のことを借金に置き換えて語られていますが、たくさん借金を背負っている人が、この罪深い女ということは分かったでしょう。しかし、もう一人、借金を帳消しにされた人がいる。それが、まさか自分だとは思ってもいなかったと思う。
 
 そう、他人事なのです。罪に関しては。自分の目の中の丸太に気づかない。平気で率先して石を投げようとする。それは、シモンだけの話ではないでしょう。これは私たち自身のことです。イエス様はおっしゃられます。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示された愛の大きさで分かる」(47節)と。
 
 多く赦された者が、多く愛する。少なく赦された者は、愛することも少ない。「多い」「少ない」という比較の言葉が出てきます。そこに注目するならば、神様は、誰かを多く赦し、誰かを少なく赦しておられるのでしょうか。そういう赦しの量の話を、多い少ないの話をされているのでしょうか。そうではありません。
 
 これは、あくまでも、罪を罪として認識しているかの話です。多い、少ないというのは、あくまでもシモンの中にある物差しです。同時にそれは、私たちの中にもあります。「あの人は罪深い」とか、「あの人よりはマシだ」とか、多い少ない、比較の中で罪というものを見ている。それをイエス様は用いたまでです。神の目に多い、少ないはない。罪は罪です。
 
 重要なのは多い少ないではなく、罪の認識です。ですから、ここでのイエス様の言葉は「多く赦されたことを認識できない人は、愛することも少ない」と言い換えることもできるでしょう。そう考えると、五百デナリオンの借金を五百デナリオンの借金として認識できること自体、既に神の恵みだとも言えます。
 
 他の人を悪者にし、見下げ、「自分は悪くない」という鎧に身を固めて生きるのではなくて、本当の自分に目を向ける時。そこには、ズルくて、汚くて、嘘にまみれ、勝手で、それでいて表面は良くして。実に醜い姿、多い少ないの理屈では誤魔化せない罪があることでしょう。
 
 この罪深いとされる女は、周りから言われなくとも、そんなことは自分が嫌という程分かっていた。自分は救いようのない、どうしようもない存在だ、と。それでも、そんな自分でも、この方は受け入れてくださる。その信頼のもとで、イエス様に近づいたのです。
 
 それ以前に、イエス様の話を聞いていたのかもしれません。その姿を見ていたのかもしれない。どれだけ罪深くとも、その罪を赦し、受け入れる神の姿がそこにはあった。それが彼女にとって、どれだけの救いだったか。喜びだったか。今まで否定し続けてきた人生。それは、彼女の涙に現れています。これまで、どんな思いで生きてきたか。しかし、そんな自分でも近づくことができる。それを拒まない御方がいる。イエス様のもとに行くこと、行けること、イエス・キリストのもとで泣くことができる、それ自体が、どれだけ恵み深いことか思う。
 
 「この人を見ないか」。イエス様は、シモンにそうおっしゃいました。「この人を見ないか」。借金が、五百デナリオンか、五十デナリオンかが問題なのではありません。借金は借金です。しかしそれを神様は、キリストの十字架の故に、イエス・キリストの顔に免じて、帳消しにしてくださる。「あなたも罪赦された存在なんだ、シモン」。女性の方を向きながら、イエス様はそう語りかけられる。彼女に言った「あなたの罪は赦された」(48節)との宣言を、シモンに聞かせるために。
 
 私たちが、繰り返し礼拝の場に招かれるのも、そのためです。シモンとのやり取りを通して、あの女性に与えられた宣言を、私たちもここで聞いている。イエス・キリストは宣言しました。「あなたの罪は赦された」「後のことは、私が担うから」。そして、こう言われるのです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と。
 
 「打ち砕かれ悔いる心を」(詩51:19)神様は侮られません。そればかりか、それを「信仰」と呼び、よくぞ帰って来たと、神様は手を広げ、受け入れてくださる。そして赦された者として、新しい人生へと送り出してくださる。「安心して行きなさい」と。