ルカによる福音書 第11章14—28節
「悪霊の物件探し」

 

ルカによる福音書 第11章5-13節
「図々しく生きる」

 
 先程、先週の総会で、新しく役員に選ばれた3名の方の任職をしました。ちょうど総会の日は、長野で参院選挙区の補選があって、前日の土曜日まで、この教会の前でも、選挙カーが通ったりして、候補者がアピールをしていました。教会の外と中、両方で選挙があったわけですが、改めて、政治家を選ぶのと、教会の役員を選ぶのとの違い。そのことを考えさせられました。
 
 その違いについては、色々と言えるでしょうが、私なりに一つ挙げるとすると、それは本人が「望んでいるか」or「望んでいないか」です。自分から立候補して「やります」「やらせてください」「是非、選ばれたい」というのが政治の世界で、教会の場合むしろ、その逆ですね。選ばれた人は大抵、「まさか」とか「自分なんかが」「いやいや無理です」という反応をします。
 
 ある面でその反応は、真っ当だと思います。「自分は選ばれて当然」といったような自信みたいなものは、教会の役員には必要ありません。むしろそれは邪魔になります。自分が役員になることなんか望んでいない。求めてもいない。でも選ばれた。
 
 旧約聖書にモーセという人が出てきます。彼は、神様からイスラエルの民をエジプトから導き出すよう命じられるのですが、こう言って逃れようとします。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。…どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」(出4:1013)。また預言者エレミヤは、神様に選ばれた際、言いました。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」(エレ1:6)。
 
 その他にも一見理不尽に、そして一方的に、神様から命じられ、その任に就かなければいけない人が聖書には出てきますが、いずれも最初は、自分がいかに相応しくないか、向いていないか、能力不足かを並べ立てて抵抗します。確かに、私たちは能力がない、資質がない、時間がない、お金がない。色々とないもの尽くしでしょう。しかし信仰者にとって「ない」ということは、決して悪い事ではありません。むしろそれは、神様の恵みをより深く知り、味わう上で大切なことです。
 
 イエス様は「ない」ことを嘆く私たちにおっしゃられます。「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」と。改めて、自分は、真剣に求めているだろうか。探しているか。叩いているか。適当に、諦め半分に求めてはいないか。変に分別を弁えているというか、達観して分かった気になって、それが真剣に求めることの妨げになっていないだろうか。そのように問われているように思います。
 
 先週、こんなことがありました。総会が終わって、さすがに疲れたので、横になっていた時、「ピンポン」が鳴ったのです。出ると「話を聞いてほしい」と言う男性がそこにいました。一瞬、躊躇いました。本心は休みたいからです。「でもな、聖書にも『旅人をもてなす』(ロマ12:13、ヘブ13:1)ようにと勧められてるし、イエス様も『小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと』(マタイ25:40)って言ってるしな…」。とりあえず、困っていそうなので、中に入ってもらいました。
 
 なんか私の場合、動機が全然、愛に基づくものではありませんね。義務的というか立場上仕方なしにというか。牧師としてどうなんだ、と自分でも思いますが…。すると、その人が「腹が減ってる」というので、ちょうど前日に作っておいたカレーがあったので、それを出しました。食べ終わって「他に食料品はないか」と言ってきたので「まぁパスタならあるわ」と言って、今度はそれを差し出しました。よく分かんないですよ、本当の所は。その日に、会ったばっかりですし。でも、その人の求めに応えました。
 
 イエス様は弟子たちに、次のような話をされました。5-8節。この真夜中に押しかけられた人は、押しかけて来たのが友達だからという理由ではなく、うるさいから、しつこいからという理由でパンを与えました。先ほどの私同様、全然、愛に基づく動機ではありません。仕方なしにです。しかし、この譬えを通してイエス様はおっしゃるのです。「あなたがたは、たとえ嫌々であっても、仕方なしにであっても、友達の要求に応えるではないか。ましてや愛に富んだ神様なら、なおのこと応えるに違いない。応えてくださるに決まっている」そのことを言うのです。
 
 続く、魚と蛇、卵とサソリの話もそうです。普通の、その辺にいる父親であっても自分の子供に良い物を与えるだろう。そうであればなおのこと、天のお父さん、神様は良い物をくださるに決まっている。くださらないはずがない。そうなのです。私みたいなケチで、中途半端な人間でも、執拗に求められれば、差し出すのです。ならば神様が差し出さないことなどあるでしょうか。愛に基づかない私でさえ与えるのです。ならば、愛に満ちた神様が、与えないなんてことがあるでしょうか。
 
 イエス様は、これらの話を「真夜中」の出来事として、お語りになられました。真夜中というのは、光がありません。何もない、何も見えない状態です。それは正に、今の私たちが置かれている状況、そのものじゃないでしょうか。これからが見通せない。望みがない。かといって、乗り越える力も、知恵も、コネも、財力もない。ないもの尽くしです。
 
 しかし、その中で、しつように頼むのです。イエス様は言われます「求めても得られなかったら、探しなさい。それでも駄目なら門を叩きなさい」。逆に、求めなかったら何も起こらない。探さなかったら見つけられない。門をたたかなかったら、誰も助けてくれない。考えてみれば、これ当たり前のことです。求めてもらわないと、神様もそれに応えようがないからです。
 
 その求めが、祈りです。神様は私たちに、御自身に向かって求めることを、祈ることを、望んでおられる。神様は与えたいのです。その際13節「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」そうあります。「求める者には、求めたものを、そのまま与えてくださる」ではありません。「求めた通りのものを与えてくださる」でもない。「聖霊を与えてくださる」。
 
 「そんな訳の分からんもんより、実際に求めた物をくれ」そう思われるかもしれません。「そんな回りくどいことせず、神様シンプルに、要求したものくれ」私なんかはいつもそう思う。しかしここで言われている、神様が与えてくださる「聖霊」とは何か。イエス様は別の所で、こうおっしゃっている。「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え」(ヨハネ14:26)「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(同16:13)。
 
 神様が与えてくださるもの。既に与えてくださっているもの。それがどれだけ素晴らしいものであったとしても、その素晴らしさに気づけなければ意味がありません。私たちにとって有難くもなんともない。神様は、ただ与えるのではありません。それが何であるか、なぜそれなのか、そこに込められた神様の意図、思い、それを教え、悟らせる聖霊を与えてくださるというのです。
 
 この聖霊が「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」。今は「真夜中」なのです。蛇を掴まされた。そう思っていたものが、実は魚だった。サソリだと思っていたものが、卵だった。聖霊は、そのことを明らかにしてくれます。天の父である神様が、あなたに蛇を掴ますことが、サソリを与えることがあるだろうか。あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えるだろう。まして天の父は、それ以上に良い物を与えてくださる。だから大胆に求めなさい。ちゃんとあるから探しなさい。しっかり叩きなさい。祈りにおいて遠慮は禁物です。
 
 

 

ルカによる福音書 第11章1-4節
「お祈りのコツ」

 
 神様を信じるか、信じないか。これに関しては、人によって、色々と温度差があります。信じている人もいれば、信じてない人もいて、あるいは半々だという人もいます。けれども「祈り」に関して言えば、神様を信じる、信じないを抜きにしたとしても、恐らく誰もが、一度は真剣にしたことがあると思います。どれだけ普段、神様のことを否定していたとしても、無神論、無宗教の立場を取っていたとしても、危機的な状況を前に、思わず手を合わさずにはいられない。気づけば「誰か、何とかしてくれ」と呻いている。そういう経験を、誰もがお持ちのことだと思います。
 
 それだけ「祈り」というものが、私たちにとって自然な行為、最初から備わっているもの、ということでしょう。元来人は、祈る者として、神様に形作られました。特に私たちは何かを求める時、また自分ではどうしようもない時、一生懸命祈ります。そこでようやく私たちは、自分を超えた御方に目を注ぐようになる。祈りは、普段、小さな自分だけの世界に閉じ籠り、その中だけで生きている私たちをもっと広い世界へと、神様が支配しておられる世界へと誘います。そして、そこに目を開かれ生きることの、何と確かなことか。
 
 聖書が教える「祈り」は、ただの「願望」「願い」に止まりません。私たちは、しばしば「祈り」と「願い」これを混同して、願いが叶わないこと=祈りが聞かれていない。そう勝手に判断し、落胆します。しかし、たとえ願いが叶わなくとも、思い通りに行かなくとも、祈りが聞かれているということがあるのです。
 
 ニューヨーク州立大学病院の壁に、「無名の兵士の詩」と題された、有名な詩があります。少し長いですが読んでみます。「大きなことを成し遂げるために、力を与えてほしいと神に求めたのに、謙遜を学ぶように弱い者とされた。より偉大なことができるように、健康を求めたのに、よりよいことができるようにと病気を戴いた。幸せになろうとして富を求めたのに、懸命であるようにと貧しさを授かった。世の人々の称賛を得ようとして成功を求めたのに、神を求め続けるようにと弱さを授かった。・・・求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意に添わぬ者であるにも拘わらず、心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた」。
 
 祈りは、私たちの願いを、遥かに超えています。私たちの願いを包み込んでいると言ってもいい。その意味で、祈りは力です。力にならない祈りは、祈りではない。もし私たちが、祈れば祈るほど、惨めになるとすれば、力を落とし、絶望するならば、そんな祈りは、今すぐに止めるべきです。祈り方を間違えている。聖書にこうあります。「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(ヤコブ4:3)。
 
 正しく願う。ひいては、それが正しく祈ることに繋がるわけですが、じゃあその正しい祈りとは、一体どういうものか。祈る際の押さえておくべき点、コツみたいなものですね。それをイエス様は、弟子たちに伝授なさる。それが今日読んだ箇所に記されています。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください、わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください』」(24節)。
 
 私たちが、いつも礼拝の中で祈っている「主の祈り」と呼ばれているものの原型がここにあります。この「主の祈り」は、イエス様が弟子たちに教えられた祈りのお手本であると同時に、主御自身が頻繁に祈っておられた祈りでもあります。ここに祈りが、単なる願望ではなく、それを超えて、人を生かす力であることの秘密が詰まっている。
 
 この祈りは、まず「御名が崇められますように」「御名をあがめさせたまえ」と、神様のために祈ることから始まります。続く「御国が来ますように」「御国を来たらせたまえ」もそうです。神様のことから祈るのです。これは、自分の願いを再優先にする私たちからは、絶対に生まれてこない祈りです。私たちの自然な思いありのままの心、その傾きに従うならば、これとは逆の祈りになるでしょう。
 
 私たちは御名が崇められるよりも、自分の名が崇められることを求めます。私たちは御国が来ることよりも、自分の国を、自分の思い通りになる世界を求めます。また私たちは一日分の糧ではなく、一生分の糧を願います。私たちは自分に負い目のある人を、何が何でも赦しません。そして、たとえ誘惑にあっても、悪に溺れても、自分だけは見逃してくれるようにと、神様に願います。
 
 しかし、ここで教えられている祈りは、そうじゃないのです。その意味で、主の祈りは、とても祈りにくい。どうしてか。私たちの生き方に、いちいち突っかかるからです。以前、ある人から、こんなことを聞きました。「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく」この所で詰まってしまって、先に進めない。その部分だけ、どうしても声が小さくなると。
 
 その人は「正直だなぁ」と思います。そうなのです。一つ一つ、ここで祈られていることを噛みしめるならば、とても私たちは祈れない。どれもこれも、私たちの願い思い、生き方とは逆なのです、主の祈りは。だからこそ、「教えてください」弟子がそう言ったように、これは教えられなければ、私たちは一生、知ることも、口にすることもなかったでしょう。
 
 ではなぜ、イエス様は、このような一見、不自然な、私たちの思いに反した、正直な感情に抗うような祈りをお教えになったのか。それは、私たちが「祈り」と称して自分の願望をひたすら念じ、ブツブツと変わらない世界を恨んでは、卑屈になって座り込むからです。そうしながら、いつまで経っても願望の世界から、自分の世界から出てこない。神様が、せっかく与えようとしている恵みに目を向けない。その意味で主の祈りは、自分の願望に捕らえられては、そこから動けなくなっている私たちを、解き放つ祈りでもあります。
 
 何よりも、この祈りは「独り言」ではありません。私たちの祈りは、行く当てもなく、宙に漂うような、虚しいものではない。ちゃんとそれを聞き、受け止めてくださる神様に向かっているのです。その際、イエス様は「父よ」と呼びかけ、祈りを始めました。これは当時の感覚からすると、ビックリするような呼びかけです。この「父よ」というのは、アラム語で「アッバ」と言い、子供が使う言葉でした。「パパ」とか「お父ちゃん」ということでしょうか。大の大人が使うような言葉ではないのです。
 
 ところがイエス様は、祈る時に、その「アッバ」という言葉を使うのです。それは今まで、人々がしたことのないシンプルな呼びかけでした。むしろ当時はその逆で、どれだけ冠を神様に付けて祈れるか。「天地の造り主にして、歴史をすべ治め、人々を導き、栄光と力に満ちた神様」みたいな感じに長々と、いつ祈りの中身に入るんだと言ったくらいに、これでもかとよいしょしながら祈っていた。そういう祈りが良い、立派とされていたのです。
 
 しかしそういう祈りをすればするほど、たくさん冠をつけ、着飾るような立派な言葉を並べるほど、神様が遠くなっていた。そらそうです。それで荘厳さはでるでしょうが、その分、自分たちとの間に距離ができて当たり前です。何かよそよそしくなる。しかしその距離を、イエス様は一気に縮められる。祈りを身近なものへと取り戻すのです。ひいては、それは神様と人との距離を埋めることに他なりませんでした。
  
 神様のことを「父よ」「アッバ」と呼ぶ。まるで子が親を呼ぶように、信頼しきって呼びかける。何もおかしなことではありません。これが本来の姿なのです。人は自分から距離を取り、壁を作り、神様のことを遠ざけます。そうやって生きることを聖書は「罪」と呼ぶわけですが、私たちになぜ平安がないのか。息苦しさを覚えつつ、常に何かに怯えなきゃいけないか。この命に、人生に何の意味も見いだせずに、力なく、虚無の中にうずくまるのか。命の源、力の源である神様から離れているからです。
 
 「父よ」すべての祈りはここからです。そしてまず、その父なる神様のことが祈られる。そして続いて、私たちのことが祈られる。この順番ですね。それが、この主が教えてくださった祈りの大きなポイントです。祈りは、自分の願望を大きくするものではありません。それ以上に、父なる神様の思いを、御心を大きくするのです。結局は、御心が一番なんだ、ということです。それが成ること以上にベストなことはない。そこに「自分」を重ね合わせていく。身を置く。その何と確かなことか。
 
 本来ならば、神様に向かって「父よ」と呼びかけることができるのは、真の神の子イエス・キリストただお一人です。私たちにその資格はない。けれども、その独り子キリストが、神様から遠く離れた私たちのことを兄弟姉妹と呼んでくださるのです。そればかりかキリストは、その子としての権利を、すべて私たちのために捨てて、それを譲る形で、身代わりとなり死んで下さったのです。それゆえに私たちは、父なる神様から、御子と同等に見られるようになった。キリストのゆえに「神の子」と見なされ、「父よ」と親しく呼びかけることが許されているのです。
 
 その父なる神様が言うのです。「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう」(イザヤ46:4)と。そうしながら今も、良い物を与えようと画策してくださっている。その計画が成りますように。あなたの思いが実現しますように。これは私たちを自由にする祈りです。小さな自分の願望、計画、思いから私たちを解き放ち、父なる神様への信頼に生きる合言葉です。
 

 

ルカによる福音書 第10章38-42節
「あいつを見てると腹が立つ」

 
 今日も、発声を控えた形での礼拝となりました。コロナ禍で、どう礼拝を守っていくか。その模索が続いています。今やってること、何が正解で、何が間違いか。その評価は、まだまだ先にならないと分からないでしょう。しかし、すべてが出そろわなくとも、今の時点でも言えることがあるように思います。コロナの「功罪」とでも言いましょうか。コロナが教会にもたらした影響、必ずしも悪い事ばかりじゃない。良い面もありました。
 
 その一つが「礼拝」について、改めて、これを見つめ直すきっかけになったことが挙げられます。今まで何となく集っていたという人も多いでしょう。その意味を問うこともなく、当たり前のように礼拝していた。しかしその当たり前が叶わなくなる。そんな中で「なぜ、私たちは集まって礼拝をするのか」「そもそも礼拝とは何か」「教会とは」「信仰とは」これら、とっても本質的な問いを、コロナは私たちに突き付けたように思います。
 
 物事の本質を問い、それを見極め、そこから今を見つめ直す。すると色んなことに気づかされます。もちろん神様の下では、無駄なことは一つもありません。しかし本質を問う時に、「これだけは外せない」「これこそが大切」というものが、より際立つように思います。その意味でイエス・キリストは、物事の本質に、常に目を向けておられました。それがどこにあるのかを見定めながら歩んでおられた。このことは逆を言えば、イエス様は、本質以外のことに関しては、案外いい加減な所があると言うかとても自由だったということです。
 
 ここに神様を信じて生きる者の自由があります。信仰を持つということ、これ外から見れば、不自由なように、何か制限されるように思われるかもしれませんが、そうじゃありません。神様を信じるということは、言い換えれば、この世界の本質、命の本質を押さえるということです。それを押さえているが故に、私たちは自由でいられる。命を脅かすものを前にしても、「死ぬこと」からすらも自由であれる。これが信仰の素晴らしい所だと思います。イエス様は、それをお示しになった。
 
 今日読んだ箇所も、正にその本質を巡っての出来事です。マルタとマリア、二人の姉妹が出てきます。あらかじめ言っておきます。一方が良くて一方が間違っているという話ではありません。そういう「どっちか」二者択一を迫る話なんかではない。
 
 イエス様一行が、エルサレムへ向かって旅をしている途中のことです。「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた」(38節)。マルタが出迎えたことからも、恐らくマルタがこの家の主人、つまりマルタの方がお姉さんで、マリアの方が妹だったのではないかと考えられています。
 
 で、この時、迎えたのはイエス様だけではありません。弟子たちもいたわけです。どれだけの人数がいたのかは定かではありませんが、マルタが忙しく立ち回っていたことからも、結構な人数がいたのでしょう。しかし彼女にとって、そのことは別に苦でもなければ、嫌なことでもなかったはずです。イエス様にお仕えできる。むしろ喜びだった。光栄なことだった。そうでなければ「迎え入れる」なんてことはしません。

 ところが、そのように「イエスを家に迎え入れた」マルタだったのですが、その心に、やがて一つの変化が生じてきます。イエス様の足もとに座って、その話に聞き入っているマリアのことが気になり始めます。やらなければならないことが山ほどあるのに、手伝わないマリア。
 
 しびれを切らしたマルタは、イエス様に訴え出ます。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と。よく考えると、おかしな話です。そんなこと客人であるイエス様に言わないで、マリアに直接言えばいいことです。ところが、マルタはそうしません。なぜでしょうか。それは本当にマルタが物申したい相手は、マリアではなくてイエス様だったからです。
 
 マルタは言います。「何ともお思いになりませんか」。マルタはイエス様に「何とか思って」ほしかったようです。この部分、原文では「気に懸ける」という意味の言葉です。マルタは気に懸けてほしかったのです。マリアが「わたしだけ」にもてなしをさせていること。「わたしだけ」。そう、「わたしだけ」が大変な思いをしている。この「わたしだけ」という事態を、イエス様にも少しは気にかけて欲しかったのです。
 
 「わたしだけ」が大変な思いをしている。そして「わたしだけ」、イエス様の視界から離れた所で、損な役回りを続けている。それはマルタにとって、とても悲しいことだったに違いないし、また、腹立たしいことでありました。イエス様はぜんぜん気にも懸けてくれない。別に褒めてもらいたくて、見返りが欲しくてやっているわけではない。でもこれじゃ、あんまりじゃないか。「私は何なんだ」と。

 そんなマルタの訴えを聞いて、イエス様はおっしゃられます。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(4142節)。
 
 印象的なのは、イエス様がマルタの名前を2度繰り返すこの呼びかけです。同じような呼び方が、この後、22章にも出て来ます。それはシモン・ペトロに対してです。イエス様が十字架にかかられる日の前夜、最後の晩餐の席において、イエス様はシモン・ペトロにこう言われます。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(22:3132)。

 これはシモン・ペトロがやがてイエス様を見捨てて逃げていくことを予告した言葉です。しかし、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と主は言われます。ペトロのために、イエス様はペトロの知らないところで、祈っておられたのです。それだけペトロのことを、心底気に懸けておられたのです。そんなイエス様の思いが「シモン、シモン」という呼びかけに込められている。
 
 また教会の迫害者、サウロに対してもそうでした。キリスト者を捕えて牢にぶち込もうと意気込むサウロ。そんな彼がダマスコに向かう途中、天からの光に照らされ、打倒される経験をする。そこでイエス様は、彼と出会われるのですが、その際、こう呼びかけられました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒9:4)。イエス様は、迫害者であるサウロのことをも気に懸けておられたのです。

 それらと同じように「マルタ、マルタ」と、イエス様は呼びかけます。2度名前を呼ぶということ。今日の箇所で、イエス様が一番気に懸けておられるのは、実は足元に座るマリアなんかではない。他ならぬ、せわしく働くマルタです。
 
 マルタはイエス様の視界に入っていなかったでしょうか。イエス様はマルタのことを気に懸けていなかったのでしょうか。いいえ、違います。イエス様はマルタが「多くのことに思い悩み、心を乱している」(41節)ことをちゃんと見ておられました。そんなマルタの心の状態を、誰よりも心配し、気に懸けておられたのはイエス様だったのです。

 この時、マルタの心は、「多くのこと」に向かっていました。私たちもまた、日々どれだけ「多くのこと」に振り回され、心奪われていることでしょうか。しかしそんなマルタに、イエス様は「必要なことはただ一つ」と言われます。接待することがどうでもいい。お世話することなんか、しなくていい。そういうことを言っているのではありません。マルタが一生懸命もてなしをしていたこと自体が責められているわけではない。それは良いことであり、必要なことです。誰かが行わなくてはなりません。
 
 だからイエス様も、それを労うように声をかけるのです。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに気を使い、心砕き、働いてくれているね」。しかし、そのように働く「マルタにとって」必要なことがある。彼女の人生、彼女の命、その本質に関わる話を、イエス様はなさるのです。
 
 最初にも言ったように、イエス様はエルサレムへと向かう途中でした。エルサレムで何が待っているか。十字架刑です。人々の罪を贖うためには、代わりに自分の命を差し出さなければならない。そのことをイエス様はご存知でした。この地上における残された時も、そう多くはない。そんな中で、わざわざマルタの家によるのです。
 
 だからこそ、イエス様は聞いてほしかった。どれだけ神様が、あなたのことを愛し気にかけているか。それを聞くということは、その神様の愛を受け取ることに他なりません。それを受け取り生きることは、マリアにとって必要なことでした。そして、それはまたマルタにとっても、必要なただ一つのことなのです。

 この物語を改めて読むと、ここにはイエス様がマリアや、その他の人々に語った言葉は、何一つ記されていないことに気づかされます。ただ、マルタに語りかけられた言葉だけが残っている。イエス様に苛立ちながら訴えたマルタは、結果としてイエス様と向き合い、イエス様に愛されている人として、その語りかけを聞くことになりました。イエス様は、確かにマルタを心に懸け、マルタが必要なただ一つを失わないでいることを望んでおられました。そしてイエス・キリストは、私たちにもそのことを望んでおられるのです。