ルカによる福音書 第6章46-49節
「家の土台」

 

ルカによる福音書 第6章39-45節
「心の倉から出る言葉」

 
 この半年でマスクを付けることが、もはや当たり前のことになりました。そのこともあって、この前テレビで、マスクによるコミュニケーションの弊害について、特集が組まれていました。それによると、私たちは、コミュニケーションの際、ただ言葉を交わすだけじゃない。相手の顔の動き、表情を見ながら、それによって細かなニュアンスであったり、気持ちを汲み取ったりしていくわけです。しかしマスクをしていると、それが分かりづらい。目元だけで判断しなければならなりません。番組の結論としては、口角をいつもより意識して動かす。そうやって目に変化をつけて思いを伝えよう、というものでした。
 
 マスクの日常化によって、必然的に、目に注目が集まるようになったと思います。で、この目に関しては、昔から「目は心の窓」ないしは「鏡」などというが言われてきました。他にも「目は口ほどに物を言う」など、目にまつわる諺がたくさんあります。それだけ目というものが、その人を理解する上で、重要な部分ということなのでしょう。「目を見れば分かる」なんて言ったりしますね。
 
 このことは日本だけではない、世界共通のことでもあります。聖書の舞台である、ユダヤの社会においても、目と心、それは切っても切れない関係にありました。心が目に現れる、そう考えられていたのです。その目について、イエス様は、今日読んだ聖書の中で、お語りになっている。あなたの目は、ちゃんと開いているか。見るべきものを、しっかり見ているか。色んなもので、余計なもので覆われてしまってはいないか。そうイエス様は問いかけます。
 
 この話の直前で、イエス様は「裁き」に関することを、おっしゃられていました。「人を裁くな」「罪人だと決めるな」(37節)。私たちの悪い癖です。人の嫌な所、欠点、それら悪い部分にばかり目が行く。そうしながら「あいつは駄目だ」と、得意になって裁くのです。そればっかりの人生になる。けれども、正にその状態を、イエス様は、次のように譬えるのです。まるであなたたちは「盲人」のようだと。覆われているのです。人の粗探しをする「裁き」でもって。目が、心が。それしか見えなくなってしまっている。
自分では見えているつもりかもしれない。なるほど他人に関しては、そうなのかもしれません。続く、丸太とおが屑の譬えで「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見える」とイエス様も関心なさっている。「おが屑」っていうのは細かなゴミのことです。吹けば飛んでいくような小さなこと。些細な問題。しかしそれを見逃さない。そんな目を、私たちは持っている。よほどの視力です。しかし、それなのになぜ、それだけの視力を持ちながら、「自分の目の中の丸太に気づかないのか」(41節)そうイエス様は嘆いておられる。
 
 「目の中」というのは、言い換えれば、心の中ということです。そこに「丸太」がある。ここで言われている「丸太」とは、一体何のことでしょうか。前の訳では、この部分、「梁」となっていました。建物を支える横木のことですね。以前、小島美穂子さんのコンサートを見に、善光寺門前にある竹風堂に行った時のことです。その3階に多目的ホールがある。美穂子さんはそこで歌われたのですが、その多目的ホール、何と言ってもまず目に付くのは、立派な「梁」です。とにかく「梁」が凄い。なんでも表彰されるくらいのものだそうです。
 
 そのような建物の中心を横切り、デーンと居座る、存在感抜群の梁が、あなたの目に、心にあるのではないか。あなたの目を捉えて離さないもの。それによって視界が遮られ、もうそれしか目につかないというもの。それをイエス様は「丸太」「梁」と呼び、それがあなたの中にもあるだろう、と語るのです。なるほど言われてみれば、そうなのです。私たちの中には、不安とか恐れとか、人に対する怒りとか、嫉妬とかそういうもので、いっぱいです。それでもって目が、心が覆われてしまっている。
 
 「まず自分の目から〔その〕丸太を取り除け」(42節)とイエス様はおっしゃられます。「人にあれやこれや言うのは、それからだ」と。では、どうやったら丸太、取り除けられるのでしょうか。そのヒントとなる言葉が、40節に出てきます。「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」。これは当時の格言のようなものです。
 
 ここに「修行」とあります。修行と聞くと、何か自分で頑張って、努力して、自分の力で問題の丸太を取り除ける、そういうふうに聞こえるかもしれませんが、そうじゃありません。原語のギリシア語を見ても、そんな「修行」なんて言葉、どこにも出てこない。この「修行を積む」と訳されている部分、元々は「完全になる」「整える」「正しい道に立ち帰る」そういう意味の言葉なのです。そこから派生して、それすなわち「修行することだろう」と訳す人が解釈したのだと思う。しかしこの部分、本来直訳すればこうなのです。「しかし誰でも、十分に整えられるなら、その師のようになれるだろう」ないしは「正しい道に立ち帰らされるならば、その師のようになれる」。
 
 ここで言われている「師」とは、イエス様ご自身のことです。そして弟子というのは、その言葉を聞いている者たち、私たちのことです。私たちは、何か修行をして師匠のように、イエス様のようになるのではない。むしろ、イエス様の方が、私たちのようになってくださったのです。罪深い私たちと同じ姿となり、共に生きてくださった。私たちを整えるため、正しい道に立ち帰らせるためにです。だから自分で整えるんじゃありません。正しい道に立ち帰るんじゃない。それは師であるイエス様が導いてくださって、その後を信じ、お従いする中で、自然とそうなっていくものです。
 
 では、その「正しい道」とは何か。イエス様が、ひたすら追い求めた道とは何か。それは、神の国と神の義に通じる道です。言い換えれば、神様の思い。お考え。それを第一とする道。私たちは普段、どれだけ自分を第一としていることでしょうか。どれだけ自分の国、自分の正しさ、そればかりを求めていることか。それで目が、心がいっぱいになっています。自分の思い、考えが実現するように。成るように。自分の正しさが、何よりも優先されるように。そうしながら、神様が用意している道から逸れていく。暗い穴の中に落ちるのです。
 
 しかし誰でも、十分に整えられるなら、その師のようになれる。正しい道に立ち帰らされるならば、師であるイエス様のように、神様に望みを置きながら生き、そして死ぬことができる。もしも「修行」という言葉を、ここで使うのであれば、それはイエス様の後に従い続けることでありましょう。自分では敵を愛せないかもしれない。許せないかもしれない。けれども、神の国と神の義に向かって、徹底して生きられたイエス様が来てくださったのです。私たちは、そのイエス様に聞き従う。「まずそこからだ」「他人がどうこうじゃない」。
 
 イエス様に従う時、私たちの中にある「丸太」というのは、自然に取れてきます。どうしてか。その時、私たちは、もはや丸太の方を見ているんじゃない。イエス様と同じ方向、神の国と神の義を見ているからです。神様の御考えを第一とする時、丸太は、もう第一ではなくなります。その視界から勝手に消えて行くのです。その代わりに別のものが見えてくる。神様がどれだけ私たちのことを祝福しようとしているか。愛を注いでくだっているか。それが見えてくる。
 
 そのように語りながら、今度は、イエス様、木と実のたとえ話へと移られて行きます。ここで言われていること、それ自体は、難しいものではありません。なるほど「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」(43)。木と実の関係について、その通りだと思う。しかしわざわざなぜ、目の話から、急にまた別の話へと移られるのか。一見すると、あまり繋がりのないように、また別の話のように思えます。
 
 しかし実はこれ、繋がっているのですね。私たちの手元にある聖書では訳し出されていない言葉が、原語にはある。43節です。その冒頭「ガル」そういうギリシア語が出てきます。これは「なぜならば」そういう接続詞なんですね。先の「目と心」の話、それを裏付けるように、「なぜならば」と言って、「木と実」の話へと続いて行く。ここで「木」に譬えられているものは何か。それは私たちの「心」のことです。そして「実」に譬えられているもの。それは私たちの「言葉」です。
 
 「心」が「目」に現れるように、今度は「心」が「言葉」となって出てくる。そのように言われています。「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」(45節)。これは何も、その時の感情を、思ったことを、反射的に語るという意味での言葉じゃありません。ここで言われている「心」とは、その人が普段何を考え、何を大切に生きているか。その人自身、そのもの。人格とでも言いましょうか。本音の部分、素の部分ですね。それが言葉の節々に出てきてしまう。
 
 考えてみれば、恐ろしいことです。だから、私たちは必死で、失言しないように、余計なことを言わないように、気をつけるのですが、ポロっと出てしまう。その時、「あー、また言ってしまった」「結局、自分は悪いから、悪い言葉しか出てこないんだ」そう思います。しかしこれは、そのように「だからあなたは駄目なんだ」と反省を促す言葉なのでしょうか。戒めるための譬えか。そうじゃないでしょう。
 
 45節をもう一度、ちゃんと読んでみてください。「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」。善い人は良いものだけ持っていて、良いものがいっぱい出てくる。悪い人は悪いものだけ持っていて、悪いものを出すって、そういうことじゃない。善い人だろうが悪い人だろうが、両方の倉を持っているのです。問題は、どっちから引き出すかです。善い人は良い倉の方から、良いものを出します。悪い人は悪い倉の方から、悪いものを出す。そう言われているんです。
 
 私たちの中に、良いものを入れた倉、あるじゃないですか。ここで散々、私たちは神様の愛を知らされて、祝福を頂いているのに、いやいや、私はまだ良いものなんて貰ってません、十分ではありません、みたいな顔は止めた方がいい。だから「偽善者よ」と、イエス様に言われるです。「良い木である神様に、あなたは繋がっているじゃないか。そうであるならば、もうあなたには、十分に恵みが注がれている。それが入った倉があるはずだ」と。
 
 どうせなら、そっちが入っている倉を開きましょうよ。「修行」というならば、イエス様がそうされたように、良いものを入れた方の倉を、私たちも開けることです。その時、神の国と神の義が、この地に現れる。目の前の丸太が流され、神様が用意してくださっている祝福に満ちた世界が、ようやく見えるようになる。それに目を注ぎながら生きてほしい。イエス様はそのように願っておられます。
 

 

ルカによる福音書 第6章27-38節
「敵を愛せ」

 
 愛することと、赦すこと。二つのことが語られています。これらは、別々の事柄ではありません。背中合わせの一つのことです。愛の具体的な形が赦しであり、赦しの根底には愛がある。「それに生きよ」と、今日イエス様は私たちに語りかけます。
 
 旧約聖書の律法の中に、「目には目を、歯には歯を」(出エジ21:24、レビ24:20、申19:21)という言葉が出てきます。もしも目を潰されたならば、その潰した相手の目を、同じように潰してもいい。歯を折られたなら、歯を折り返していい。やり返す権利、仕返しを認めている、そのような掟です。
 
 しかし同時に、これは過度の仕返しを禁止する掟でもあります。目をやられたんだったら、目だけにしなさい。歯なら歯だけで止めなさい。それ以上はやってはいけない。ですからこれは、何も仕返しを勧めている言葉なんかではないのです。「仕返し」と銘打って、私たちがやり過ぎないように、それがどんどんエスカレートしないように制限する、そのような掟なのです。
 
 けれどもイエス様は、そこから更にこうおっしゃられる。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(27節)「赦しなさい」(37節)と。「やり過ぎないように」どころか、「やり返すな」むしろ「善いことで返せ」と命じられる。
 
 これらの言葉を、私たちは、どう理解したらいいのでしょうか。私たちの自然な思い、感情に従うならば、到底できないことです。もちろん「理想」としてならば聞けるでしょう。素晴らしい道徳としてなら、「さすがイエス様、立派なことおっしゃっている」と思うわけです。しかしそれは、あくまでも理想であって、現実ではない。
 
 それならばなぜ、イエス様は、このような一見、無理難題に思えることを言われたのか。高い理想を、できそうもない理想を掲げて、私たちに「なんて自分は駄目なんだ。できてない」と思わせるためでしょうか。そのように罪意識を持たせるために、あえて実践できないことを命じておられるのでしょうか。
 
 そうじゃないと思います。これが一体、誰に向けての言葉なのか。改めて、そこに注目してみたいと思う。この教えは、広く、一般の人たちに向けて語られたものじゃありません。不特定多数の人たちに向けて、どこでも通用するような道徳として語られた言葉ではないのです。
 
 27節でイエス様は「あなたがた」と語りかけます。「あなたがた」これはイエス様を信じ、そのイエス様に従っている弟子たちのことです。弟子たちは、イエス様に従うがゆえに人々から馬鹿にされたり、ののしられたり、無視されたり、時には暴力を振るわれたり。ユダヤの社会の中で、そういう酷い扱いを受けることが度々あった。
 
 イエス様も、もちろんその現実をご存知なわけです。ところがイエス様は、そういった悪意をもって嫌なことをしてくる人たちに対して、弟子たちに「仕返しするな。むしろその敵を愛しなさい。祝福しなさい」と、ここで命じておられる。これは単なる勧めとか、教えとか、抽象的な理想ではなく、実際の事柄に則した、具体的な命令なのです。
 
 私たち、命令されて、ようやくするようになる、ということがあります。命令されなければ、いつまで経っても自分からはやらないことがある。「敵を愛せ」というのはその最たるものでしょう。これは私たちからすれば無茶なんです。進んでできるようなことじゃありません。命じられなければ、強制されなければ、絶対にしない、できないことでしょう。
 
 でも「強いられる恵み」というものもあるのです。何でも、自由に、自発的に、それだけが信仰じゃない。例えば、教会での奉仕一つ取っても、半ば強制のようなものじゃないですか。教会員であれば、礼拝当番が回ってくる。役員さんたちなんかは、総会で選ばれた時点で、有無を言わさずです。命じられる。やらなきゃいけない。
 
 しかしそれは、その辺歩いている、教会に来ていない人を捕まえて「あなたこれしなさい」というのではないのです。イエス・キリストに従う「あなた」、神の愛を受けて生かされている「あなた」。そうであるがゆえに強いられる事柄なのです。
 
 ここで大切なのは、まず神様が、私のために大きな恵みを注いでくださったという事実です。御子イエス様を十字架にかけるほどに、私たちのことを愛してくださった。その事実を抜きにして、私たちが自分発で、敵を愛せるか。裁かずにおれるか。親切でいられるか。そんなものは、できるわけがありません。それこそただの理想です。
 
 しかしそれを理想ではなく、実際のこととしてくださった御方がいる。イエス様が敵を愛されたのです。憎む者に親切にし、悪口を言う者に祝福を祈られた。そうまでして愛してくださった。この事実に基づいて、イエス様は、御自分に従う者たちに、「敵を愛せ」と命じておられるのです。
 
 周りを見渡す時、自分のことを敵視し、嫌い、何かと突っかかってくる人が、一人や二人いるでしょう。そういう人は、自分の近くから居なくなってほしいと、切に願います。でもそういう人に限って、しぶとくいるんですね。もうその人のこと考えただけで憎たらしい。眠れない。何とか懲らしめてやりたい。
 
 もしも、自分の思い、感情にゴールを置くならば、そうなるでしょう。しかしその敵をも神様が愛しておられる。この嫌としか思えない出会いを通して、神様の御心がこの地に現れる。そこにゴールを置くならば、悪口を言われること、敵視されることそれも変わって見えてくるのではないでしょうか。
  
 イエス様の弟子たちは、散々、心ない言葉を浴びせられました。イエス様に従うがゆえに、ものすごい意地悪されたんです。でもイエス様は「敵を愛し」「善いこと」で返せと言われる。何でか。それ以上の慰めが、報いがあるからです。確かに、イエス様に従うがゆえの苦しみ、痛みがあるかもしれない。しかしイエス様が共にいる恵みが、いつだってそれを上回るのです。
 
 頬を打たれたら、もう片方を差し出す。上着を取られたら、下着も拒まない。それじゃただのやられ損だ。そんなことしたら相手は、益々いい気になるじゃないか。それを歯食いしばって、耐えるしかないのか。しかしそうじゃない。31節に「人にしてもらいたいと思うことは、人にもしなさい」そのようにあります。
 
 敵に、これ以上嫌な事されないように、「何もしない」ではないのです。やられたらやり返すんです。善いことで。愛でもって、むしろこっちから打って出ろ、とイエス様はおっしゃられる。「この人は必ず、神様によって変えられるぞ」という信頼に基づく、真に積極的な行為へ、私たちを招いておられる。
 
 その根拠は、まず神様が、私たちにそうしてくださったという事実です。「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」(35節)のです。その深い情け、背後にある愛、それをあなたも受けているじゃないか。そうであるならば、今度は、あなたがそれに応える番だ。36節「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。
 
 忘れてはならないことがあります。これは、イエス様に従う者たちに対する、イエス様からの具体的な命令だということを。簡単に「できません」じゃない。もちろん結果として、できないということばかりでしょう、私たち。しかしそれでもイエス様は、根気強く命じておられるのです。
 
 神様の愛を受けた者が、憐れみをこれでもかと注がれた者が、どうして罪人たちと同じような感覚でいられるのか。そのような嘆きにも似た、イエス様の声が聞こえてきます。それを表すように32節以降で「罪人」という言葉が、3回も出てきます。これは、神様を知らない人たち、信仰を持たずに生きている人たちということです。愛に対して愛を返す。そんなことは、神様知らない人たちでもやっている。「ましてやあなたがたは…」。
 
 信仰は、自分の思い次第、ただ自発的に、自由で、何の強制もないかというと、そうじゃありません。神様に従う時、そこには強制や義務も伴います。それも含めて、私たちは神様に従うのです。「嫌だなぁ」「仕方ない」ということもある。喜んで、皆に歓迎されて、そういう事ばかり望んでいたら、神様に従えません。従う時「神様、何でなんですか」と、本当に辛い思いする。涙が伴う。しかし神様が、それも含めて私たちを包んでくださるのです。神様の強制や義務のない世界。そんなのは嘘っぱちです。神様に縛られる、命じられることも含めて祝福なのです。
 
 38節に「自分の量る秤」とあります。自分の秤とは、神様の祝福抜きの、その分を計算に入れず除外した秤のことです。それでもって、何でも量るから、私たちは、やれ「損だ」とか「得だ」とか。やられたらやり返すとか。与えるのはこれだけにしようとか。しかし、それとは別に神様の秤がある。そこには沢山の愛が注がれている。それをあなたは、もう持っているはずじゃないか。「そうであるならば、あなたがたは…」。
 
 敵を愛すること。そして赦すこと。イエス様は、崇高な理想を、広く、一般の人たちに向けて語ったのではありません。御自分に従う弟子たちに、命令としておっしゃられた。神様の愛を受けた者として、それに応えて生きるようにと。その歩みが、どれだけ豊かなものか。祝福されたものに変えられるか。
 
 私たちは今日、イエス・キリストに従います。イエス様に従う時、色んな障害が出てきます。理解されなかったり、心ない言葉浴びせられたり。辛く当たられたり。しかし神様は、そんなあなたと共にいる。決してあなたを捨てて孤児とはしない。だから「しなさい」「してみなさい」そうイエス様は、私たちに語りかけるのです。それが恵みとなって現れる日が、イエス様の目には映っているのです。
 

ルカによる福音書 第6章20-26節
「幸いと不幸」

 
 「貧しい人々は、幸いである」。イエス様は、不思議なことをおっしゃられます。「今、飢え渇いている人々は、幸いである」。お腹を空かせたことがないのでしょうか。「今泣いている人々は、幸いである」。イエス様には、泣いている人の気持ちが分からないのでしょうか。「人々に憎まれるとき、…ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」。人から憎まれ、責められることが、どれだけ辛いか。イエス様は、私たちが住む現実を、世の中のことを、まったく知らないのでしょうか。
 
 今日、読んだ箇所で、4つの幸いと4つの不幸のことが語られています。いずれも私たちが普段、思い描いている「幸い」と「不幸」とは、正反対のことが言われています。ここで言われていること、逆ならば、よく分かるのです。「貧しい人々は不幸だ。飢えている人は、泣いている人は、憎まれるのは、不幸なことだ」。その通りだと思う。また、後半の部分、「富んでいる人は幸いだ。満腹している人は、笑っている人は、褒められている人は幸いだ」そう言ってくれれば、誰もが頷くと思う。
 
 私たちは、豊かであることを、美味しいものを食べ、笑いながら過ごし、周囲の人たちからも認められる、そんな人生こそが「幸いである」そう信じながら、それを追い求めながら生きています。実際に、お金もあって、健康で、親しい者たちに囲まれる時、私たちは喜びを感じ、「幸せだなぁ」と思うわけです。逆に、お金がない時、病にかかり先が見通せなくなった時、信頼できる人が周りにいない時、私たちは「自分は不幸だ」と思うわけです。
 
 ところがイエス様は、そんな私たちの「考え」や「思い」「感情」とは、正反対のことをおっしゃられる。「貧しい人々は、幸いである」。到底、すんなりとは受け入れられない言葉です。「今泣いている人々は、幸いである」。「いやいや、不幸だから、私たちは泣いているんです!」そう言い返したくなります。それでも、イエス様は「幸いだ」と言われる。
 
 そのわけを、イエス様は続けます。「神の国はあなたがたのものである」。私たちの貧しさや、涙こそが、神の国の扉を開く鍵だ、というのです。「神の国」というのは、前にも言いましたが、日本とか、韓国とか、中国、アメリカ、そのような国土のことではありません。神様の支配、その力の及ぶ範囲のことです。
 
 貧しさの中で、明らかになることがある。貧しい時、私たちは、どうしたって外からの助けを必要とします。もうそれがないと、立ち行かない。しかしその助け手を、神様は必ず送ってくださる。どういうわけか、何とかやってこれた。貧しさを経験されたことのある方なら、これ分かると思います。貧しいがゆえに、もう神様に頼るしかない。けれどもその時になって、ようやく神様の支配、その力が自分にも及んでいることを知るようになる。神様がすぐ側にいることに気づく。だから幸いなのです。
 
 逆に、富んでいる人は、自分のお金や力で、何とかなると思い込んでいますから、それがない。世のことで満たされ、それ以上に注ごうとしている神様の恵みを、受け取ることができなくなっている。その意味で「不幸だ」とお語りになる。飢えること泣くこと、周囲から非難を浴びることについても同じです。それらは、それだけを取り上げると、辛いことです。ない方がいい。
 
 讃美歌321番に「来たれ、来たれ、苦しみ」そういう歌詞がありますが、私たち、本心で言えば、来てもらったら困るわけです。苦しみなど。一体誰が、自分から苦しみを迎えに行くようなことをするでしょうか。できることなら、そういったものからは、ずっと遠いままでありたい。
 
 しかし、神様が共におられる。神様の支配が、その悲惨な状況にも及んでいる。この限りにおいて、それらの意味は、まったく違ってきます。貧しいことや、泣くことが必ずしも悪いことなんかじゃない。もちろん、繰り返し言いますが、それ自体は、辛く、悲しいことです。だから仕方ない。それでいいという話ではありません。それを取り除ける、克服することも大事でしょう。けれども、貧しいか富んでいるか、そういった私たちの状況でもって、「幸せ」や「不幸せ」が決まるのではない。
 
 そもそも「貧しい」って、どこからどこまでのことを言うんでしょうか。「富んでいる」って、どれくらい持っている人のことを言うんでしょうか。下には下がいます。逆もそうです。上には上がいます。何よりも、それらの上とか下とかは、常に移り変わっていく。もしもそこに、私たちの「幸せ」「不幸せ」の基準があるならば、周りとの比較でそれが決まるのであれば、これほど不確かなものはないでしょう。
 
 しかしイエス様が、ここでおっしゃっている「幸せ」「不幸せ」の基準は、そうじゃありません。そこに主なる神様が共におられるかどうかです。その神様の国が、神様の支配が「あなたたちのところに来ている」(11:20)「あなたがたの間にある」(17:21)。そうであるならば「あなたがたは満たされる」「笑うようになる」「もうそれは始まっている」と、イエス様はここでおっしゃっているのです。
 
 これは「不幸は、ずっとは続かない。そのうちによくなります」そういう話ではありません。「若い時の苦労は買ってでもしろ」なんて言われたりしますが、そんな苦労を美化した人生訓を語っているのでもない。そんなこといくら言われたって、苦しんでいる人からしたら、しんどいものはしんどいんです。そんな「いつ来るかも分からない」話よりも、「今」なんです。
 
 けれども、その「今」のことを、イエス様は無視なさらない。貧しさがある。涙がある。その「今」を、イエス様はよしとされたのではありませんでした。だから下ってこられたのです。その悲しみの只中に身を置いてくださった。先週も言いました。場所に注目してください。イエス様は、この時、どこにおられたか。どの場所から、この言葉をお語りになったのか。20節「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」。「さて」というのは、接続を現す言葉です。で、何と接続しているかというと、その直前ですね。17節以下。
 
 イエス様が山から下りて来られ、平らな所に、人々の生活の場にお立ちになった。そこで病気や、汚れた霊に悩まされている人たちを癒しておられた、その時のことなのです。きっと横たわっている病人、その人たちの悪い部分に手を置き祈るために、イエス様も屈みこんでおられたのだと思う。貧しさ、飢え、涙、痛み、それらでいっぱいの場所、その所から「目を上げ」おっしゃられる。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」。
 
 その言葉の通り、目の前で、痛んでいた人たちが、その痛みから解放されていく。ついさっきまで泣いていた人が、喜び立ち上がって行く。イエス様を通して、神様の御支配が、御力が、はっきりと現れるのです。弟子たちからしたら、これ以上説得力のある言葉はなかったとでしょう。このことは、後に弟子たちが直面する貧しさや悲しみが、決して敗北ではなく、主の復活の喜びに通じる希望であることを指し示し、大いに励ましたことだと思う。
 
 後半の不幸について語られている部分は、前半と対になっています。どれだけ富んでいても、満たされていても、笑っていても、そこに主が共におられないならば不幸だ、虚しいことだ、と。前半の部分を、逆から言った言葉ですね。ここで気をつけていただきたいのは、富んでいること自体が悪いと言っているのではありません。富んでいるとか、貧しいとか、そういう状況が、私たちの幸せ不幸せを決定づけるのではない、ということです。
 
 そうじゃなくて、主なる神様と共にある人生かどうか、ということです。神様と共にある限り、私たちの貧しさは、涙は、ただの貧しさ、涙では終わらない。それらは決してそこだけのことではなく、大いなる意味が伴ってくるのです。神様の祝福の計画に基づく意味です。使徒パウロは言います。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りないと」(ロマ8:18)。
 
 貧しい私たちに、現わされる栄光がある。泣いている私たちだからこそ、受け取ることのできる恵みがある。イエス様はおっしゃられました。「天には大きな報いがある」と。地上における報いも、もちろん大切でしょう。満たされるように、笑えるように、どうかその日が近くなるように、私たちは求めるべきです。しかし同時に、それ以上のものが、天において用意されているということも、忘れてはなりません。
 
 ついつい「不幸だ、不幸だ」と口ずさんでしまう私たちです。そうやって、自分で自分に言い聞かせて、不幸になっている所がある。そんな私たちの心の方向に抗うように、イエス様は宣言なさる。「あなたは幸いである。私が共にいるのだから」と。
 
 

ルカによる福音書 第6章12-19節
「山を下りる決断」

 
 聖書の中には「福音書」と呼ばれるものが、4つ収められています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。いずれも、神の独り子イエス・キリストの生涯について書かれたものです。イエス様が、この地上で何をし、そして人々に何をお語りになったか。しかし、ふと不思議に思う。「どうして4つなんだろうか」と。イエス様は御一人なんだから、また起きている出来事も一つなんだから、わざわざ4つも必要ないように思います。実際に読み比べてみますと、重なる所も多い。それだったら一つにまとめてもらった方が、読む方としては有難い。しかし4つある。4つ必要だったのです。
 
 どうしてか。それだけ、イエス様の働きが豊かだからでしょう。とても一つのアングルからだけでは収めきれない。ドラマや映画の撮影なんかと同じです。イエス様をどの角度から見るのか。それによって見え方が、注目すべきポイントが違ってくる。そういったことを踏まえて、このルカによる福音書を読むと、ルカ独特の視点、とても面白いことが見えてきます。それは「場所」です。
 
 今日、読んだ箇所で、イエス様は弟子たちの中から「使徒」と呼ばれる人たちを選ばれます。「使徒」というのは、特別な使命を受けて、遣わされて行く人のことを言います。その使徒を選ぶ際「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」(12節)とあります。ルカはここで、それが「山」においてなされた、と語ります。
 
 「山」。聖書ではしばしば、神様が御自身を現わされる場として出て来ます。モーセが神様から十戒を授かったのも山でした。預言者エリヤが神様の声を聞いたのも山でした。「山」というのは、特別な場所として、神様と出会う神聖な場所として出て来ます。その「山」に、ひとり上られるイエス様。ルカは、ここに注目します。ここにイエス様の力の源、その秘密がある、と。そのことを、度々描き出すのです。
 
 私たちが読んでいる新共同訳聖書では、この部分、ただ「山に行き」となっていますが、「行く」という言葉は、原語では「去る」とか「逃れる」そういう意味の言葉なのです。山に、祈りの場に、神様のもとに逃げ込む。そういう場所を、イエス様は持っておられた。
 
 これは、とても大切なことです。人生における逃げ場。実はその逃げ場を、神様は私たちにも用意してくださっている。ここがそうです。ある意味で私たちは、教会という祈りの家(山)に、毎週、逃れるようにやって来ている。私たち、行き詰まることがあります。人との関係に破れ、社会の波にのまれ、自然の力に翻弄され、どうしようもない課題にぶつかり、疲れ、力を失うことばかりです。それはイエス様も同じでした。肉体をもって生きるというのは、そういうことです。
 
 しかし、その時にイエス様は、山に逃れ祈った、とある。そして祈りの中で、神様との交わりの中で、新たな力を得たというのです。「朝になると」イエス様は弟子たちを呼び集め、その中から12人を選ばれます。祈りに基づく選出です。で、これ何で12人なのか。聖書の中には、7とか、12とか、40とか、その他にも、いくつか決まった数字が出て来ます。しかしこれに関しては、あまり深く詮索する必要はありません。一つの単位と考えてもらったらいい。12の場合、私たちも、それを1ダースとして数えますでしょう。そういう区切り単位が、ユダヤの社会でもあった。
 
 イエス様は、沢山いる弟子たちの中から、特に中心的な役割を担うようにとの願いを込めて12人を選ばれました。その中には、後にイエス様のことを裏切るユダもいた。このユダに関しては、言ってしまえば汚点なのです。できることならばルカだって、この名前書きたくなかったと思う。しかしそんな彼が12人の内の一人として出て来る。それはユダもまた、他の11人と同じように、イエス様に特別に目をかけてもらい、愛された存在だからです。裏切ろうが何しようが、そのことに変わりはない。
 
 何よりも、ここで12人が一つの塊、単位なっているということ、その中にユダが含まれていること、これとても大切なことのように思います。私たちの体で言えば、ユダは癌のようなものなのです。それさえなければ、健康でいられるのに。問題なく暮らせるのに。でもあるんです。そういうものが、私たちの中には。それも含めた自分なのです。
 
 で、ここでユダ以外の使徒たち、11人は、何も問題なかったかと言うと、そうじゃありませんね。ユダ一人だけが悪いかというと、そうじゃない。他の11人、一人一人の中にも、また12分の1づつ悪いものを持っているのです。12人が一つの塊、単位というのは、そういうことです。一つの単位の中に、使徒となる可能性もあれば、裏切り者になる可能性もあるということです。
 
 ですからその意味で12人、全員に問題がある。ユダだけが悪いという話じゃない。結局は皆、問題児なんです。それは、私たちにも言えることです。教会という一つの単位を取ってみても、正直に「あの人さえいなければ…」そう思う時があるかもしれない。しかしそれでもって教会は構成されているのです。自分の中を覗き込んでも、この部分さえなければと思う。しかしそれでもって自分が形作られている。
 
 その12分の1を、問題の部分を、無視するんじゃない。ないこととするんじゃない。誰の中にも、そういうものがある。しかしそこにこそ、大切な神様の思いが隠されている。ユダもまたイエス様に祈られ、選ばれた人なのです。ユダの存在は、私たちにそのことを教えてくれます。
 
 誰もが、現在進行形のこととして問題を抱えています。そうであるからこそ、私たちは山に上るのです。神様のもとに逃げ込む。辛い時、どうしたらいいのか分からない時、行き詰まる時、山に上る。イエス様は、その山でひとりになって祈られました。私たち、どれだけその時間を持てているでしょうか。教会が、祈りの家が、そのようになっているでしょうか。
 
 今の時代は、物理的に暗闇のない世界です。いつもどこかに光が灯っています。常に何かが聞こえている。誰かがいます。自分の気持ちを紛らわしてくれます。しかしそのことが逆に、私たちの内面を、より暗いものに、貧しいものにしてしまっているのではないでしょうか。
 
 ひとりになる時、私たちは、そこで初めて自分を見つめ直すことができます。誤魔化すことなく、神様と向かい合うようになる。ボンヘッファーという人が言いました。「ひとりでいることのできない者は、交わりに注意せよ」と。イエス様は、人々の賑やかな交わりの中に逃げ込んだのではありません。神様のもとに、山にひとり上られたのです。信仰は、いつだってここから始まります。神との交わりの中で、私たちは新たな力を得、人生が豊かにされるのです。
 
 じゃあ、山にばっかり籠っていればいいか。神様とだけ向きっていれば、他のことは、どうでもいいか。軽んじても問題ないか。そうじゃありません。そこで17節を見てもらいたい。「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」とあります。今度は「山」ではなく「平らな所」。このようにルカは、山と平らな所を印象的に、対比させながら描きます。平らな所というのは、問題があるのです。山が逃れの場、祈り、神様と交わる神聖な場だとすれば、平らな所は、私たちにとっての実生活の場所です。高い所と低い所。山と平地。その落差に、ルカは注目します。
 
 例えば、飛行機になんか乗って、上空から地上を眺めている分には、綺麗なものです。でもだんだん平地に近づいて行くと、色んなものが見えてくる。私もイスラエルに行った時、その風景を空から見て最初、感動しっぱなしでしたが、実際降りてみて、よくよく見渡すと、ゴミばっかりでガッカリしたのを思い出します。しかしそれが、私たちが暮らす現実、「平らな所」なのです。人でも、モノでも、何でもそうですね。遠くから見てたら、「良いなぁ」「きれいだなぁ」と思うんです。でもよくよく関係を持つと、近づくと、腹立つこと、気に食わないことばかりが目に付く。
 
 その意味で「平らな所」に立つというのは、決して良いことなんかじゃないんです。むしろ嫌なことの方が多い。過酷なんです。だってそうでしょう。山にいた方が、そこに留まった方が、どれだけいいか。ここでずっと祈ってたら、讃美してれば、聖書の言葉に聞き入っていたら、その価値観が支配する世界にいれば、心かき乱されることなく、清らかな思いでいられるんです。少なくとも、他の煩わしさからは解放される。嫌なことからも離れられる。そういったものは見なくて済む。
 
 しかしイエス様は、どうか。17節「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」とあります。イエス様は、ずっと山におられたのではありません。天ばっかり見上げて、神様の方ばっかり仰いで、汚い平地は見ずに、自分だけ山の上おられたのではないのです。平らな所に下りて来られた。使徒たちと一緒に。神が人となった、肉体をとって現れたというのは、そういうことです。神様は、遠く離れて、高い所から、眺めている御方なんかじゃない。私たちの地平に、私たちが実際に生活をしているその場に、下りて来て、共に生きてくださった。
 
 平らな所。そこには嘆きや悲しみ、病があります。人の醜い思い、世の不条理が、いくつも転がっている。イエス様が山から下りられた時「おびただしい群衆が」(17節)全国各地から、イエス様のもとにやって来た、とあります。平らな所に来た瞬間、やれ病気やら悪霊やら、色んな人がイエス様にまとわりついてくるのです。でもイエス様は、そういう人たちを無視されなかった。
 
 このイエス様が山に上られたということ。そして平らな所に下りて来られたということ。私たちの信仰の歩みにとって、その両方の場所が大切だということでしょう。どちらか片方だけでは駄目なんです。「信仰、信仰」そう言って、世の事、ごちゃごちゃしたこと、面倒なこと、そういうのは教会に持ち込まないでほしい。ただ神様だけ仰いでいたら、それに集中していたらいいか。そうじゃないのです。反対に、祈ったって仕方ない。そんな暇あるんだったら動こう。世の事ばっかりに目を向ければいいかというと、そうでもない。
 
 ひとり静まり、祈ることは大切です。私たちにとって欠かせないことです。これがないと、神様との関係、交わりなしには始まらない。だからイエス様も、まず山で祈られた。でもイエス様は、それだけに生きられたのではありませんでした。「山から下りて、平らな所にお立ちになった」のです。実際の生活の場、それは綺麗ごとでは済まされない所でしょう。しかしそこへとイエス様は出て行かれた。
 
 私たちも、この後、出て行きます。平らな所へと、遣わされて行く。そう「使徒」がそうであったように。問題のある私たちが、神様の器として遣わされて行く。しかし一人で行くのではありません。「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」。イエス・キリストが共にいてくださる。
 
 私たちにとって、山を下りてからが、ある意味で勝負です。そこには苦手な人が待っているでしょう。自分のことを理解してくれる人ばかりじゃありません。したくないこと、避けたいことがあります。仕事のこと、病気のこと、家族のこと、難しい問題が待ち構えています。
 
 しかし、その一見、山とは関係のない、俗なる世界にも、キリストが赴かれるのです。癒しをなすために人を生かし、立ち上がらせるために、働いてくださっている。ここだけに、山だけに神様がおられるんじゃない。私一人が、平らな所を生きるのでもない。どこに行こうが、イエス様が共にいてくださいます。