ルカによる福音書第8章22~25





 「向こう岸に渡ろう」。イエス様は、弟子たちにそう言われました。
 私たちも、なかなか向こう岸に渡ろうとはしません。弟子たちにもこの時、躊躇があったと思われます。湖の向こう岸は、ユダヤ人以外の人たちの地でした。生粋のユダヤ人であった弟子たちにとって、ユダヤ人が住んでいない地域に行くことには、強い抵抗感がありました。しかもユダヤ人以外に神の恵みを伝えに行く! この時点の弟子たちには、まだそのような感覚がありませんでした。向こう岸、それは弟子たちにとって、不安と恐れの場所だったのです。


 また、弟子たちの中には、こちらの岸に多くの未練を持っていた者たちもいたと思われます。イエス様の一団は、こちらの岸で大歓迎を受けていました。人が大勢集まり、イエス様の言葉を熱心に聞き、また癒しを受けた。弟子たちも、そのイエス様のもとで働いていることを誇りに感じ、また使命感も感じていたこと。それなのにイエス様は言われたのです。「向こう岸に渡ろう!」。


 これは私たちも同じではないでしょうか。「神様の声が聞こえてきた」というのは、私たちにもあることだと思います。肉声として聞こえてくるという意味ではなく、どうしてもそうとしか思えなくなる。神様が、こちらに行け、「向こう岸に渡れ」とおっしゃっているとしか思えなくなる。そのような時が、実際私たちにもあると思います。しかし大抵の場合、私たちも、向こう岸にはためらいがあり、こちらの岸には未練がある。私たちにもいつも、向こう岸に渡らない充分な言い訳を持っているのです。


 私も親しくさせていただいている牧師がいます。その方は、牧師になる前、企業に勤めておられました。しかしある時、娘さんが重い心の病にかかり、死に瀕するまで追いつめられてしまいました。その時、医師はその牧師はこう言ったそうです。(その牧師にとって非常に厳しい一言になったのですが・・)
 「娘さんの病の原因は、小さいとき、親からしっかり愛情を受けられなかったせいです。今からでも遅くありません。すべてを捨てて、治療に専念してください」。


 そこでその牧師は、文字通りすべてを捨てて治療に専念する決断をされたそうです。
 今では、娘さんの病も随分良くなったと聞いております。その牧師は、よく私にこう言われました。「わたしは今になって初めて、子どもを愛するというのは、こんなにも大変なことかということが分かりました。鷹澤先生、私にこのようなことを言う資格はありませんが、子どもたちが小さいうちに、たっぷり愛してあげてください」。


 信仰における大きな決断というのがあります。しかし大きな決断だけではない。大事な小さな決断もある。私たちの生活は、ある意味、大事な小さな決断の連続であります。愛する決断、ゆるす決断、そして信仰を証しする勇気ある決断。一つ一つ、イエス様が私たちに語りかけてくる。「向こう岸に渡ろう。・・・・・向こう岸にためらいがあっても、こちらの岸に未練があっても、さあ、向こう岸に渡ろう!」


 そして、そこで最も大事なことは、「向こう岸に渡ろう」と言ってくださっているのが、イエス様御自身だ、ということであります。・・・・・・・・
 (以下省略)