ルカによる福音書22章14-23節 

 皆さんご存じの、長野が誇るアスリートに、小平奈緒さんがいます。先月、今年の10月でもって引退するということが表明されました。彼女のスピードスケート界に残した功績というのは、言うまでもなく輝かしいものでありますが、しかしその背後で、所属先を探すのに、とても苦労されたという記事を、以前目にしたことがあります。
 
 無名の選手、実績のない選手なら、まだ分かります。しかし既にメダルを取っている小平さんに、スポンサーがつかない。「そんなことあるんだろうか」と私も最初、不思議に思いましたが、何でも、夏のオリンピックに比べて冬の競技は、どれだけ活躍し実績のある選手でも、スポンサーがつかないということが、ざらにあるそうです。その大きな理由の一つとして、夏に比べて、冬の競技はお金が掛かる。その割には注目されることが少ない。要は、宣伝効果があまりない、ということです。だから企業側も二の足を踏むケースが多いんだ、と。
 
 記事を読んでいて「へー、そういった事情があったんだ」と思うと共に、改めてスポンサーになるということ。そちらの側に立って物事を考える時に、非常にシビアにならざるを得ないな、と思わされます。契約を結んだからといって、その選手が必ず活躍するとは限りません。怪我をしたり、問題を起こしたりで、駄目になる場合だってあるでしょう。しかしスポンサー契約を結ぶということは、それも込みでサポートするということです。それだけの覚悟がなければ、契約なんて結べない。
 
 これスポーツの世界だけに限った話ではなく、信仰の世界においても、同じことが言えるな、と思います。神様が人間と結ぶ契約。言ってしまえば、私たちも、神様とスポンサー契約、結んでいるわけです。その最初、一番初めに神様と契約を結んだのは誰か。それはイスラエルの人たちです。彼らは長くエジプトで奴隷として、自由のない生活をしていました。けれども、そんな彼らに神様は目を留め、救い出される。で、救い出した際に、契約を結ぶのです。どういう契約かというと、神の民として生きる契約です。具体的には、神様がお定めになった十戒、それを守って生きるように。その限りにおいて「わたしは、あなたがたを守り、祝福する」と。
 
 それに対して、イスラエルの人々は「すべて行い、守ります」(出24:7)と答え、晴れて神の民として生きる契約が結ばれるわけです。ところがです。早速イスラエルの人たちは、それを破る。エジプトで奴隷だった時は「神様、神様」言ってたんです。「祈りを聞いてください」「助けてくれたら何だってします」「言うこと聞きますから」と。しかしいざ自由の身になった途端に、「神様なんか、契約なんか知ったことか。えぇい邪魔くさい。好きにやらせてもらいます」と、神様に背を向ける。ここに身勝手な人間の本質が、私たちが抱える罪が、現れているように思います。
 
 誰が後ろについているおかげで、今があるのか。明らかな契約違反です。スポンサーである神様が愛想を尽かして、もう降りる。契約を打ち切る。そう言い出しても、何らおかしくない。しかし神様はというと、それでもなお、イスラエルの人たちを支えようと、手を差し伸べ続けられる。だからと言って、変わらないんですよ。神様にスポンサーとしてついてもらいながら、自分たちはというと、好き勝手に振る舞う。そんな都合のいい契約なんてあるのか、と思います。もはや契約の体を成してない。人々によって破りに破られていた。
 
 しかしそれでもなお、神様は見捨てない。ある時、預言者エレミヤの口を通して言うのです(旧1237頁)。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る…。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。…わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレ31:31-)。
 
 一度、スポンサー契約を結んだ相手に対して、たとえどうなろうとも、どこまでもサポートし、保証しようとする、神様の揺るがぬ決意と覚悟、そして熱量を感じます。放蕩を繰り返すイスラエルの人たちに「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」そうしながら「新しい契約を結ぶ」とまで言われる。
 
 いいでしょうか。イスラエルの人たち、自分たちから出て行ったんですよ。契約を破棄して。なのに神様、どれだけ懐が大きいんだ、と思います。正に「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない」(哀3:22)と聖書にある通りなのです。神様との契約を破るということは、本来、その守りの外に身を置くということです。なので神様による保証の適用外。普通ならどうなっても知らない。自己責任なんです。
 
 けれども神様、今度は、預言者エゼキエルの口を通して言うのです(旧1350頁)。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」(33:11)と。そうしながら、再三にわたり、ご自分との契約の中に入るように、立ち帰るようにと呼びかけられる。
 
 そうしながらいよいよ「新しい契約」が、イエス・キリストを通して実現することになる。今回、神様が用意した「新しい契約」は、もう十戒を守れとか、そういうのじゃありません。それを守れない、あなた。どれだけ契約を結んでも、すぐに破ってしまう、あなた。その心根は、どこまでも汚く、自分本位で、罪深いあなた。だからと言って、罪の内に死んでよいだろうか。滅び去ってよいだろうか。「そうはさせない」と神様は、御自分の愛する独り子イエス・キリストをお遣わしになる。
 
 そのキリストの口を通して、最後の晩餐の席で「新しい契約」の内容が明らかになる。それは「わたしの血による」もの、その犠牲に基づくものなのだ、と。あなたがたがこれまで犯してきた罪、咎の責任。それは本来、自己責任なのです。契約の外にいますから。神様が、それをどうこうする筋合いはない。けれども、その責任の一切を、神から遣わされたキリストがその身に負い、十字架にかかる。そこで下される神の罰を、裁きを、呪いを一手に引き受ける。十字架上で流されたキリストの血によって、あなたの罪は赦される。もはや不問となった。このことを受け入れるか。
 
 もはやこれ、神様の側からの一方的な契約なのです。私たちの側がどうこうではない。言い方は悪いですが、神様の方で、すべてのことが済まされている。あとは、あなたたちが、そのことを自分のこととして受け止めるか。認めるか。あなたのために差し出されたキリストの血、それに対して「ありがとうございます。これは私のための血です」と感謝し受け入れる。ただそのことでもって「新しい契約」とする、あなたに対する保証を、確かなものとする、と言うのです。
 
 イエス様は、それを食事の席でのパンを使って、また杯を用いて、弟子たちに示される。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」。その際、「使徒たちに与えて」とあります。使徒たちが、自分たちで能動的に動いて取ったんじゃない。彼らは与えられるがままに、受け取っただけです。イエス様が差し出したのです。
 
 新しい契約は、それを、ただ感謝して受け取る、という契約です。それだけでいいのか。それだけでいいんです。来週、このイエス様が「記念するように」とおっしゃった「新しい契約」を覚えての食事。聖餐を共に味わいます。コロナになってから、役員がそれぞれの席の前にある机に置いて行く。そういうスタイルを取っています。自分から手を伸ばして取らないように。
 
 苦肉の策で始めた形ですが、案外、これいいな、と思うのです。自分から取るんじゃない。一方的に与えられるのです。それを、ただ感謝をもって受ける。「キリストの血による新しい契約」。神様の守りと祝福。それが確かに、「今」も生きていて、有効であるということ。そして「これから」も保証されているということを、忘れないように。目に見える仕方で、体験的に味わう恵みの食卓、その席が、あなたのためにも用意されている。
 
 イエス様は、ご自身を現わすパンと杯を差し出すにあたって、言われました。「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」(16節)「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」(18節)と。単純に、これが使徒たちとの最後の食事である。そのことを言っていると共に、「神の国で過越が成し遂げられるまで」「神の国が来るまで」というのは、裏を返せば、神の国、神様の支配が完全に成った暁には、盛大に食べ、飲もうということでしょう。私たちの行く先には、神様主催の大宴会が控えているのです。
 
 聖餐の度に、私たちはそのことを思い出す。キリストの血による新しい契約。それがいかに、確かなものであるのか。揺るがないものであるのか。私たちはスポンサー契約を結んでいる。どんなことがあっても見捨てず、サポートし続けてくださる神様がバックにいるのです。是非とも、まだ契約がお済みでない方、神様の方は、もう契約にサインしてくださっているのです。キリストの血印が押されている。あとはそれを受け取るだけです。その受け取りのサインである洗礼を受け、神様の守りと祝福の中に、身を置いていただきたいと思います。
 
 

ルカによる福音書22章7-13節

 私が今乗っている車のナビは、エンジンをかけると、最初に「今日は〇〇の日(〇〇記念日)です」そのように教えてくれます。「今日はバレンタインです」とか、「憲法記念日です」とか、「クリスマスです」とか。で、そういう広く知れ渡っている祝日や行事ならまだしも、その他、何でもない普通の日でも、ナビは何かしら言ってくるのです。例えば、「今日は中華まんの日です」とか、「UFOの日です」とか、「プロレス記念日です」とか。「なんじゃそれ」とツッコみたくなるような日も多々あるのですが、1年間365日欠かさず、今日が何の日であるのかを教えてくれます。
 
 私たちには、人生において「忘れてはならない日」というものがあります。それをちゃんと覚えておくために「記念日」というものがある。イスラエルの人々にとって「過越祭」が、正にそれでした。自分たちの先祖が、神様によって確かに救われた日を「祭り」という仕方で、覚え続けてきたのです。聖書の中では「過越祭と言われている除酵祭」(1節)、今日の所でも「過越の小羊を屠るべき除酵祭」(7節)と、二つのお祭りの名前が出てきますが、これはセットで考えてもらったらいいです。
 
 厳密に言えば、別の祭りですが、イエス様の時代には、それが合わさって祝われるようになった。というのも、この二つは、イスラエルの人々が、かつて奴隷であったエジプトからの脱出記念に、深く関わっているからです。そのためにはまず「過越」ということ、それが何であるのか、どんな出来事に由来しているのかを、知っておく必要があります。先週の説教でも、少し触れましたが、「過越」というのは、自分たちから災いが通り過ぎたことを覚えて、感謝する祭りのことです。
 
 かつてイスラエルの人たちは、430年にも亘り、エジプトで奴隷でした。苦しい生活を強いられていた。そんな彼らを救わんと、神様はモーセという一人の指導者を遣わします。そのモーセがイスラエルを代表して、エジプト王(ファラオ)と交渉するのですが、頑固な王はなかなか首を縦に振らない。そこで神様は10の災いをエジプトに下すことを決められます。その最後の災いが、「エジプトの国中の初子は皆、死ぬ」(出11:4)「家畜の初子もすべて死ぬ」(出11:6)という恐ろしいものでした。
 
 当然、イスラエルの人たちも、エジプト国内にいますから、その対象なわけです。けれども神様は、その災いがイスラエルの人たちに及ばぬように、それから守るために、あることをお命じになる。それが「小羊の血を、家の鴨居と入り口の二本の柱に塗っておくように」というものでした。それがしるしとなって、その「血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない」(出12:13)そのように約束なさる。
 
 そうしながら神様は、その恐ろしい災いをエジプトに下される。「真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。ファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、…大いなる叫びがエジプト中に起こった」(出12:29-)そうあります。けれども、あらかじめ玄関の柱に小羊の血を塗っていたイスラエルの人々の家だけは、その災いを免れる。
 
 明暗を分けたのは、小羊の血です。それがあったのか、なかったのか。非常に象徴的な出来事です。裏を返せば、その犠牲がなければ、イスラエルの人たちもまた、災いによって撃たれていたということです。この恐るべき出来事を前に、さすがのファラオも参って、モーセに言います。「出て行くがよい」(出12:31)と。エジプトの人たちも「〔イスラエルの〕民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったのである」(出12:33)そのようにあります。
 
 で、そういうことですから、イスラエルの人たちは、十分な準備もできぬまま、エジプトを発つことになる。その際「民は、まだ酵母の入っていないパンの練り粉をこね鉢ごと外套に包み、肩に担いだ」(出12:34)とあります。悠長にパンを捏ねて、膨らむのを待ってなんかいられない。そこで酵母を入れないパンを焼いて、即席の食糧としたのです。やがて、そのことを覚えて「除酵祭」が祝われるようになる。
 
 自分たちは、あの日、確かに、神様によって救われたんだ。その神様が生きて働かれたことを覚え、そして今も変わらず働いておられることを確信する。そのような大切な日、それが「過越祭」であり、そこから7日に亘って続く「除酵祭」だったわけです。「祭り」と言っても、ワイワイガヤガヤするわけではありません。各家庭で集まり自分たちの信仰の根拠に、改めて目を向ける。実際にこの祭りの期間中、人々は小羊を屠り、酵母の入っていない、カチカチのパンを食べて過ごすということをしていました。
 
 そのような地味でありつつも、非常に大切な食事。それをイエス様は前々から「弟子たちと一緒に」(11節)しようと、お考えになっていました。そのためにまず「イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、『行って過越の食事ができるように準備しなさい』と言われた」(8節)。
 
 ペトロとヨハネ。後に教会を形づくる、中心的な働きを担う二人です。彼らは、イエス様が用意した、この食事の席、その真意を知る必要がありました。やがてそれが教会の中心となっていくからです。イエス様と共にした過越の食事、そこにはどんな意味があり、どういう思いが込められていたのか。まだこの時、二人は知る由もありませんでした。
 
 命じられるがまま「二人が、『どこに用意いたしましょうか』と言うと、イエスは言われた。『都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にこう言いなさい。「先生が、『弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか』とあなたに言っています。」すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。』」(912節)。
 
 これから何をして、どこへ行くのか。行った先で何を言うのか。セリフまで事細かに指示されています。これらのことは何が言いたいかというと、イエス様があらかじめ、手配しておられたということです。人から場所から、すべてイエス様の方で整え計画した食事の席だった。
 
 「二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだった」(13節)そのようにあります。「言われたとおりだった」。私たち神様を信じる者の歩みというのは、正にその繰り返しなのだと思います。「言われたとおりだった」。そう、子どもが経験豊かな親のアドバイスを無視して、散々な目に遭うように、そこで「ああ、親がこう言っていたな」「言った通りだったな」それを痛感するように、私たちも神様がおっしゃったことに、いつも後で気づかされるのです。「言われたとおりだった」と。
 
 じゃあ神様は、何を言ってきたか。神様が言っていることは非常にシンプルです。「あなたを愛し、祝福する」。そのことを、言葉を変え、表現を変え、手段を変え、色んな形で言って来られた。けれども私たちは、その言葉を、そのままに受け取ることが難しい。
 
 なぜなら「愛す」というのであれば、どうしてこんなことが、自分の身に起きるのか。とても神様から愛されているとは思えないような状況が、目の前にはあるからです。また「祝福する」と言われても、それとは逆の「呪われてるんじゃないか」と思うようなことばかりです。これらを一体、どう理解したらいいのか。神様がおっしゃっていることは、本当なのだろうか。私たちには常に、その疑問が付きまとっている。
 
 しかしそれでも神様は、語り続けるのです。「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザ55:11)。「あなたを愛していること。祝福すること。それらは嘘じゃない。本当だ」と。
 
 そのことが、イエス・キリストの用意なさった、過越の食事に現れている。これはただの、過去の出来事を覚えての食事なんかじゃない。これから先を見据えた、キリストが十字架にかかる直前の、所謂「最後の晩餐」と呼ばれる食事でした。この食事の後に、キリストは十字架上で死ぬことになる。
 
 ここに不思議な一致があります。かつて神様が、エジプトでなさったこと。小羊の血を塗ることでもって、死の災いを免れ、自由の身となったあの出来事と、キリストが十字架で流した血によってもたらされた罪の赦し。贖いとが、ここで重なります。十字架を前に、なぜ弟子たちと、過越の食事をなさったのか。それは、その席で屠られる小羊は、ご自身を指していることを、伝えたかったからでしょう。
 
 災いとしか思えないような、恐ろしい神の裁きが、罪がもたらす結果としての死と滅びが、そのままに、あなた方の身に降りかからぬように。それが過ぎ越して行くように。キリストが神の小羊となって、私たちを生かすための犠牲となってくださった。ここに、どれだけ神様が、私たちのことを愛し、罪あるにもかかわらず、それでもなお、祝福せんとしておられるのか。その熱い思いが現れています。
 
 だから教会では、「過越祭」も「除酵祭」も祝うということはいたしません。改めて小羊を屠るようなことはしない。なぜか。する必要がないからです。神様が言ってきたこと「あなたを愛し、祝福する」という約束が、キリストの十字架によって実現したのです。目に見えて確かなものとなった。キリストの血が、私たちには注がれている。塗られている。その血が、いかなる災いからも、私たちを守るのです。
 
 そのことを使徒パウロは、次のように言います。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ロマ8:38-)と。
 

ルカによる福音書22章1-6節

 今は、物を捨てるのにも、何かとお金がかかる時代です。けれども、そのような時に助かるのは、リサイクルショップの存在です。自分にとってはいらないものでも、それを欲しい人がいる。そういった人の「いらない」と「いる」が出会う場所、リサイクルショップ。そこに持って行けば、代わりに買い取ってくれますし、たとえ値が付かなかったとしても、引き取ってくれたりします。今ではネットを活用することにより、よりスムーズに、そして気軽に、売買できるようになりました。そういうこともあって「売ります買います」でお馴染みのリサイクル業界は、この景気の悪い中でも、右肩上がりの成長を続けています。
 
 今日の個所を読んでいて、ふと思ったのです。「構図が一緒だな」と。自分の師であるイエス・キリストがもう不要になり「売りたい」ユダ。そのイエスを抹殺するために「買いたい」宗教指導者。両者の思惑が、一致する場面が描かれています。「さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた」(12節)そのように今日の所は始まっています。しかし「彼らは民衆を恐れていた」ので、イエス様に手出しができなかった、とあります。
 
 何とかして買い取りたい。自分たちのものにしたい。しかしなかなか売りに出されない。それだけ「民衆」が必要としていたのです。「民衆」が手放さなかった。イエス様が宣教を開始してからというもの、イエス様の周りには常に人がいました。直前の21章38節でも「民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」とありました。人々はイエス様を必要としていたのです。熱烈に支持していた。
 
 細かなことになりますけど、聖書には「民衆」(2節)という言葉と、「群衆」(6節)という言葉が出てきます。意識しなければ、ごっちゃにしてしまいそうですけど、実はそれぞれ意味が違っているのです。「民衆(ラオス)」というのは、特定の民族、神様が選ばれた民のことを指す言葉で、具体的にはイスラエルの民のことを言っています。それに対して「群衆(オクロス)」とは、文字通り、種々雑多な人々。色んな国、人種、文化、宗教の人たちをひっくるめての言葉です。で、面白いのは、祭司長や律法学者たちが気にしていたのは、「民衆」の方なんです。つまり自分たちの身内の目。異邦人なんか最初から眼中にない。イスラエルの人々にどう映るか。支持を得られるかが重要だったわけです。
 
 その「民衆」が、イエスの側についている。これでは、さすがの宗教指導者たちも手出しができません。ですが「ねたみ」(マル15:10)からくる殺意は、膨らむ一方です。「男の嫉妬は怖い」と言いますが、祭司長や律法学者たちは、民衆の心を自分たちからすっかり持って行った「イエスを殺すにはどうしたらよいかと」(2節)常日頃から考え、機会を伺っていたようです。
 
 そんな時です。イエスを売りたいという輩が現れる。それがユダです。ユダは、イエス様の十二弟子の中の一人でした。しかも会計を任されていた。弟子たちの中でも、それだけ信頼されていたということでしょうか。けれども、そんなユダが「祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけ」(4節)る。これには彼らも喜びます。正に渡りに船です。そしてすぐ「ユダに金を与えることを決めた」(5節)とあります。売買が成立した瞬間です。
 
 そもそもユダは、何でイエス様を裏切ったのでしょうか。その動機は何か。これに関しては、古くから色んな考察がなされてきました。その中でも真っ先に上がるのが、「ユダはお金が欲しかったんじゃないか」「お金に目がくらんだのではないか」ということです。なるほど、ヨハネ福音書なんかを見ますと、ユダが会計の「中身をごまかしていた」(12:6)とあります。更に、マタイ福音書では、イエス様を売買する際「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」(26:15)非常に踏み込んだ、具体的な額の話をしているんですね。こういったことからユダは、お金のことで頭がいっぱいだったんじゃないか。そう言われています。
 
 これらの洞察は、間違いではないと思うのです。実際に、彼の名前の頭についてくる「イスカリオテ」という言葉。これは十二弟子の中に、もう一人ユダがいたため、二人を区別するために付けられたニックネームのようなものですけど、「イス(人)」「カリオテ(大きな町)」(エレミヤ48:24、アモス2:2「ケリヨト」)を意味する言葉です。つまりは、現代風に訳せば「都会っ子のユダ」そんな感じでしょうか。そのことからもイエス様の弟子となるまでは、華やかな都会暮らしをしていたと想像されます。都会での生活に見合うように、何かとお金がかかったのでしょう。一度、生活水準を上げてしまうと、それを下げることは容易なことではありません。元「都会っ子のユダ」も例外なく、お金への未練、執着を断ち切れずにいたのだと思います。
 
 けれどもさすがに、お金のことだけで裏切った、とは考えにくい。というのもその額が1億や2億じゃないのです。「銀貨三十枚」(マタ26:15)。この時の銀貨がローマのデナリオンか、あるいはユダヤのシェケルかによって額が変わって来ますが、後になってユダが祭司長たちに突き返した時に「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」(マタ27:6)と言っていますので、恐らく神殿で使うお金。シェケルだったんじゃないかと思います。そうすると20~30万円といった所でしょうか。奴隷一人を買う相場だったようです。いくらお金が欲しいとはいえ、その程度の額で売るだろうか。それだけだと動機としては、弱いように思います。
 
 そこで言われているのは、ユダがイエス様に失望したのではないか、ということです。自分が思い描いているメシア(キリスト)ではなかった。この方なら、イスラエルを復興させてくれる。政治的に立て直してくれる。これまで散々、大国によって踏みつけられて来た民族としての誇りを回復し、物心両面において、自分たちに良い暮らしをもたらしてくれる。そう信じて着いて行ったのです。けれどもどうでしょう。一向にそうなる気配がない。むしろ権力から遠のくようなことばかりをされる。「こりゃ駄目だ。とんだ期待外れだ」と見切りをつけたのではないか。
 
 本当の所はどうか。こればかりは、ユダ本人に聞いてみなければ分かりませんので何とも言えませんが、これらの洞察というのは、当たらずといえども遠からずといった所でしょう。しかし今日読んだルカによる福音書では、そういったユダの動機、人間的な思いに関しては、一切触れずに、ただこう伝えています。「ユダの中に、サタンが入った」(3節)と。ユダがどういう生い立ちで、どういうマインドでいたか。ユダがどうこう、そういった個人的な問題として、この裏切り行為を見ているのではなく「サタン」がそうさせた。真の黒幕の存在を、ここで明らかにします。
 
 私たちが注目すべきは、ユダ個人ではなく、この売買が成立するために、何の力が働いていたか。もっと大きな視点で捉えるように。そうルカは伝えたいのだと思います。そもそもイエス様を「買いたい」と思っていた祭司長や律法学者たちがいたからこの悪の商談は成立したのです。律法に書かれている「殺してはならない」との戒めを人々に説く立場にいた彼らが、イエス様を「殺したい」そう思った所から始まっているのです。そこを見逃してはなりません。
 
 また、ここで忘れてはならないのは「民衆(ラオス)」の存在です。直前まで「民衆は皆、話を聞こうと」イエス様の近くに集まり、絶賛していました。ところが1日、2日と経たない内に、手の平を返し、今度は権力者たちの側に立って、一緒になって「殺せ」と口にするようになる。ユダの裏切り以上に、この民衆の心変わりの方が、どれだけ異常か。狂っているか。
 
 世の中で起きている醜い出来事。争い。その背後に、決して表には出てこない民衆がいることを忘れてはなりません。すべての責任をユダに、時のリーダーに、独裁者に押し付けるのは簡単です。しかしそのような構図にこそ問題がある。私たちはいかに、そのユダに隠れ、ユダを動かし、ユダにそうさせるような社会を、価値観を作り上げていることか。結局、この後に出て来るピラトも、その民衆が作り出す空気に押され、十字架刑の判決を下しました。そう考えると、キリストの十字架が、ユダやピラト、個人の考え、判断によって起きた事ではないことが分かるかと思います。彼らは、たまたま民衆の先に、目立つ位置にいただけです。
 
 これらを踏まえた上で、聖書は語ります。「ユダの中に、サタンが入った」。ユダの中には、サタンの入る余地がありました。そのスペースが空いていた。これはユダだけの問題ではないでしょう。誰もがユダになり得るし、ある面でユダなのです。事実私たちは、これまで何度神の救いの手であるキリストを、売って来たことでしょうか。それを「不要」としてきたか。サタンは私たちに、そういう生き方を、判断をさせます。「神様なんか売ってしまえ」「それよりももっと良いものが、役に立つものが、益となるものがある」と。それに唆されるまま、売ってしまう。神様との関係を断ってしまう。
 
 けれども神様の方は、私たちのことを売らないのです。そればかりか、自らその関係を断ち、離れて行こうとする私たち、自分で罪と死の奴隷に成り下がる私たちを、その支配から買い取るために、御子キリストを送ってくださった。キリストが売られ十字架にかけられ、殺される。その背後に、どれだけの人の思惑が、何よりサタンの策略があったか。しかし実はそれ以上に、そのことを通して、そこで流された血の値でもって、私たちは神によって買い取られたのです。神の救いの計画が実現していた。
 
 このユダの裏切り事件が起きたのは、ちょうど「過越祭」の時でした。この祭りはかつてイスラエルの民が、エジプトで奴隷であった時、そこから解放させるために、神様がエジプトに災いを下されたことに由来しています。その際、イスラエルの民にも災いが下らぬよう、玄関に仔羊の血を塗るということをしたそうです。で、その家だけは災いが通り過ぎ、そうやって自分たちは守られた。それを記念して「過越祭」と呼ばれるようになりました。
 
 そういう歴史を踏まえて読んでいくと、イエス・キリストが売り渡されたのが「過越祭」の時であったこと、偶然ではないことに気づかされます。この方が、なぜそのタイミングで売り渡されたのか。売り渡されなければならなかったのか。ユダが裏切ったからでしょうか。サタンが上手く民衆を扇動したからでしょうか。そうじゃありません。それをも超える神の救いの計画がそこにはあった。
 
 過越。私たち人類には、避けられない神の裁きがあります。どうしたって過ぎ越せない問題。それは、私たちが抱える罪の問題、その結果としての死と滅びです。けれども、あの日、イエス・キリストが、神の仔羊として、十字架上で血を流してくださった。その血が、私の人生、私の命、その玄関に塗られている。それにより、もう災いは、裁きは、私たちに及ぶことはないのです。死の力でさえ手出しができなくなった。私たちは、神によって買い取られた、神のものなのです。神がキリストの命で支払いを済ませ、買い戻された身。もう罪と死が、私たちの主人などではない。その支配の中に、私たちはいないのです。
 
 

ルカによる福音書21章34-38節

 以前、私が奈良の教会におりました時に、「朝禱会」と呼ばれる集まりがありました。これは1957年に大阪で始まった、教派を超えた集まりで、シンプルに、朝早く集まり、共に祈って食事をしてから、それぞれの仕事へと出て行こう。そういう運動でした。教会員の一人が、その働きに長く関わっておられたということもあって、私も何度か、大阪の朝祷会に参加しました。
 
 ある日のことです。私の隣に座った高齢の男性が、牧師の説教中にウトウトし始めまして、私の肩に寄りかかってきたのです。まま、最初は「疲れているんだろうな」そう思って、優しく押し戻していたのです。でもまたこっちに倒れてくる。それを戻す。段々とこっちも、押す力が強くなってくるわけです。しばらくすると説教が終わり、今度は色んな人が順不同に祈って行く、自由祈祷の時間になりました。隣のお爺さんは、依然として居眠りしたままです。私は「ここだ」と思いまして、いつもより大きな声で「アーメン」と叫んだのです。するとその声に反応して、お爺さんがビクッと起きる。でも次の人が祈り始めたら、また眠り始め、それを私の大きな「アーメン」で起こす。その攻防が、何度か続いたのです。
 
 そうこうしている内に、全体で30分のプログラムでしたが、それが終わりに差し掛かる。すると、正にその時です。さっきまで居眠りしていた人が、パッと目を覚まして、自分の口で最後「アーメン」と言って、帰って行ったのです。最初から最後まで、ほぼ寝てるんですよ、この人は。でも最後、計ったかのように起きて「アーメン」と言って帰る。その後、交わりをするでもないんですよ。本当に祈って、それだけで帰って行った。色々とツッコみどころ満載のお爺さんでしたが、イエス様がおっしゃった「目を覚ましていなさい」。「目を覚ますというのは、こういうことなんだな」と、この人の姿を通して教えられたように思います。
 
 というのも、私たちは、肉体的なことを言えば、どうしたって眠くなるんです。特に年配になれば、なかなか長時間、集中して話を聴くというのが難しいでしょう。また服用している薬の関係で眠くなる。そういうことがあります。若い人は若い人で、昼食後、午後一の授業は、眠くならない方がおかしい。また自分が興味のないこと、私は神学生時代、旧約の授業がもう訳が分からな過ぎて、いつもヨダレを垂らして寝ていました。自分でも「いけない」と思うんです。「起きなきゃ」と。でもああいう時って、抗えませんね。どうしようもない。
 
 で、イエス様は、そういう人間の生理現象としての居眠り。それ自体を「駄目だ」と言っているのではありません。そんな無理くり「起きよ」と言っているのではない。イエス様自身も、「心は燃えても、肉体は弱い」(マルコ14:38)と、私たちがそうなること、なってしまうことを、よく知ってくださっておりました。信仰は、肉体の理に反するような、不眠不休の耐久レースなどではありません。
 
 しかしその上で、イエス様は「目を覚ましていなさい」とおっしゃられる。これは物理的な、身体的な意味での言葉ではありません。私たちの内面、心の在り様をめぐっての忠告です。12章35節以下でも、「主人の帰りを待つ僕」の譬えとして、同じようなことが言われていました。いずれも「神の国」という文脈の中で語られたことです。やがて神の国、神様の支配が、完全な形で成る時が来る。それを迎える用意はできているか。その日を迎えるにあたって多くの困難、試練があなたを襲うだろう。恐ろしい事象が次々と起こる。しかしそれは裁きであると同時に、あなたがたにとって救いでもあるのだ。その日、すべてが正され、すべての悲しみや嘆き、労苦が取り去られ、神によって万事が良しとされる。
 
 「目を覚ます」というのは、そのことを忘れないということでしょう。その約束の中に身を置き続けるということでしょう。そのためにも、今日の所で「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」(34節)と言われています。ここで「放縦」と訳されている言葉は、原文だと「二日酔い」を意味する言葉で、お酒を飲み過ぎた結果としての、頭痛とか、吐き気、胃のムカムカ、そういった症状のことですね。続く「深酒」とは「泥酔」のことです。そして最後の「生活の煩い」というのは日々の心配事のことです。
 
 聖書ではしばしば、この所以外でも「飲み過ぎないように」そのような注意が出てきます。お酒によって、我を失うことを戒めています。そうならないように「目を覚まし、身を慎んでいましょう」(Ⅰテサ5:5)との勧めが至る所に散りばめられている。聖書が言う「身を慎む」とは、「しらふでいる」ことです。
 
 このことから、クリスチャンは禁酒・禁煙、そういうイメージがつくようになりました。実際に、聖書の言葉に従うという観点から、それを実践している人たちが、今も少なからずいます。一昔前には、神学校に入る時に、それを誓約させられたそうです。牧師を志す者なら当然のことだ、と。しかし一方でイエス様は「大酒飲み」(ルカ7:34)だったと言われています。当時の食事では、普通に「ぶどう酒」が出てきました。そういったことからも、お酒を飲むこと、それ自体を、聖書が否定しているとは思えない。
 
 では「目を覚まし、身を慎むように」「しらふでいましょう」との勧めは、私たちに何を言わんとしているのか。ポイントは、聖書において「酒に酔う」というのが、比喩的な使われ方をしていることです。今日の所でも、わざわざ「二日酔い」や「深酒」という言葉が使われています。続く「生活の煩い」という言葉と併せて、これ何が言いたいかというと、この世の事柄に心奪われ、それに酔いしれることでしょう。
 
 要は、この世のことで、心がいっぱいになった状態。あのことや、このこと「生活の煩い」で、心が圧迫されて、空きスペースがない、余白がない。それをイエス様は「心が鈍く」なる、そのように表現されました。そうすると人はどうなるか。「祈らなくなる」というのです。益々、神様を心の端へ追いやり、あまつさえ「邪魔だ」と追い出し、自分だけの小さな世界に籠るようになる。そうしながら、この世が全てになってしまう。それで心を満たしてしまう。
 
 しかしそのことの何と窮屈で、望みのないことか。そこからは「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(Ⅰコリ15:32)そういう考え、生き方しか出てきません。そして今起きていることにも何の意味もなく、虚しく、ただただ消え去るしかない。もし私たちが、この命、この人生、この世界、「そういうものだ」と思い込んでいるとするならば、それは完全に、酒に酔った状態です。本来、見るべきものを見ていない。
 
 それは悪い夢を見ているのと、何ら変わりありません。私たちは、どれだけ世の中で起きていること、戦争や暴動、地震や飢饉、疫病、その他恐るべき事象に翻弄されていることでしょうか。また身の回りで起こる問題に頭を悩ませ、心がいっぱいになっているか。「もう駄目だ」「終わっている」口癖のように言っています。まるで悪い夢の中に、どっぷり浸かっているかのような人生を送っている。
 
 しかしそんな私たちに、イエス様は「目を覚ませ」と言うのです。「目を覚ませ。それが全てではない。その悪夢のような状態、それしか見えない状態から、早く目を覚ませ」と。そうしながら「神の国」を指差すのです。「ほら、もう近くまで来ている」と。悪夢のようなことが、次々と起こる世界。それを見させられている私たち。けれども目を覚ませば、ちゃんと見るべきものに目を向ければ、神の国、神の支配は、もうそこまで来ている。「その日」は近い。だから「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように」それでもって心がいっぱいにならないように「注意しなさい」。
 
 では具体的に私たちは、どう注意すればいいのか。信仰における目を覚ますとは、来るべき「その日」に備えるとは、どういう取り組みのことを言っているのか。それがイエス様の「祈りなさい」(36節)という言葉に集約されています。目を覚ますということは、祈ることです。祈りによって、本来向けるべき所に、心を向ける。
 
 その時、私たちは、悪夢が見せる絶望の奴隷ではなく、神の国が見せる、希望に生きる者とされる。難しいことではありません。「いつも目を覚ます」というのは、常にビクビクと、緊張感を持って、いつかいつかと気の休まらない日々を過ごすことなんかではない。そうじゃなくて、神に向かって祈る。そうしながら、神様がイエス・キリストを通して私に何をしてくださったのか。何を約束し、そして、これから何をしようとされているか。
 
 この世に目を向ければ、悲惨なことばかりです。不安をあおるようなことが、次々と耳に入って来ます。祈ったからといって、すぐに何かが変わるわけではありません。しかし祈る中で、私自身が変えられて行く。それまで悪夢しか見ていなかった私が、神様と向き合うことを通して、その神様が、どれだけこの世界を愛し、この私のことを大切に思っておられるのか。この世界を見放していないか。この私を諦めていないか。その事実に、目を覚ますのです。
  
 その時、世界の見え方がガラリと変わる。状況は変わりませんよ。依然として、同じような光景が、目の前には広がっていることでしょう。しかしそれが全てではない。絶対ではない。それにも勝って、確かなことがある。それは、たとえこれから、どんなことが起きようとも、天地が滅びようとも、神様が私を愛し、そのすべてを受け入れ、良しとしてくださる、ということです。その約束は決してなくならない。
 
 イエス・キリストは、祈りの人でした。何よりも祈ることを大切にしておられた。「夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた」(37節)とあります。ここで毎晩、祈っておられた。イエス様ほどの御方であれば、わざわざ祈る必要ないんじゃないか。そもそも、神様が全部ご存じであるんだから、祈っても祈らなくても同じじゃないか。そうやって私たちは、どこかで祈りを軽視している所があります。生活における中心ではなく、せいぜい困った時に、思い出したかのように持ち出すもの。普段は、端の方に、端の方に追いやっている。
 
 イエス様ほどの御方であれば、祈らなくてもよいのではないか。いいえ、実際はその逆です。イエス様ほどの御方であっても、祈らなければならなかった。祈らなければやって行けなかった。であるならば、私たちが祈らないで大丈夫なはずがないでしょう。イエス様は祈って、十字架への道を進み行かれました。イエス様は祈って、十字架上で息を引き取られました。イエス様は祈って、天へと上げられて行きました。
 
 祈りは、この悪夢のような世にあって、それを打ち破り、神の国へと導く杖です。時にそれは、私たちのよろめく足を支えてくれます。時にそれは、私たちの妨げとなるものを退けてくれます。そうしながら祈りを頼りに、私たちは神の下へと帰って行く。イエス様ほどの御方であっても、分からなくなったのです。神の御心が。「この道で本当に大丈夫なのだろうか」と迷子になりそうになった。私たちは、なおのことでしょう。
 
 「いつも目を覚まして祈りなさい」。いつの間にか、私たち、この世の事で、目が覆われてしまっています。それに酔っぱらってしまっている。いい加減、その悪夢から目覚めるように。それが本当じゃない。神様があなたに見せようとしている景色。そちらに顔を向け、神の国への希望に生きよう。
 
 あの朝祷会での、お爺さんの姿を思い出します。あの人は、見事に誘惑に負けて、寝ていました。物理的な意味で、その目は完全に閉じていた。しかしその信仰は、起きていた。心は神様に向かって開いていたのです。逆説的な表現になりますが、目を覚ましているから、安心して眠れるのです。その日の準備ができているから、いつでもオッケーだから、大胆に眠れるのです。「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」(詩127:2)それくらい図々しく、私たちも、目を覚ましながら、眠る者でありたいと思います。
 
 

ルカによる福音書21章29-33節

 今この時も、ウクライナでは戦争が続いています。それを仕掛けたロシアのプーチンさんは、何を隠そう、私たちと同じキリスト者です。先のイースターには、教会で平和の祈りをささげたと、ニュースになっていました。それに多くのキリスト者は戸惑いを覚えたことだと思います。一体何を、どう祈ったのか、と。神の愛、隣人への愛を説いたキリスト。そのキリストを信じる者が、戦争をしている。この事実を、私たちは、どう受け止めたらいいのでしょうか。それとまた同時に、神様がおられるなら、神様が正しい御方だというのであれば、なぜこのような悪をのさばらしているのか。止めないのか。この現状を私たちは、どう考えたらいいのでしょうか。
 
 先日もある方から、聖書の神様は「おかしい」そういう訴えの電話がありました。聖書に「ノアの箱舟」の話があるが、なぜ神は、ノアの家族以外、すべてを滅ぼすようなことをしたのか。そこには子供だっていたはずだ。おかしい。やり過ぎだ、と。今まで私は、この手の質問に対して、色々と言葉を重ねて「説明」をしてきました。できるだけ分かってもらえるように、少しでも誤解が解け、納得してもらえるように。でも今回私は、それを止めました。もちろん、色んな理屈を捏ねることも可能なのですが、ふと「そういうことじゃないな」と思ったのです。そしてこう答えました。「私も、おかしいと思う」と。
 
 キリスト者になるということ、それは無理して正解を言うことでも、心にもない模範解答を言えるようになることでもありません。分からないことは「分からない」素直に、正直に言えるようになることでしょう。もちろん、長い歴史の中で、一応の答えを、教会は持っています。それが「教理」と呼ばれるもので、牧師になるための学校では、必修科目です。今、水曜日の祈祷会では「ハイデルベルク信仰問答」を学んでいますが、あれも教理です。まず「問い」があって、それに信仰者は、どう「答え」るか。そのことが順序だてて、理屈と根拠を持って語られています。教理とは、一種の模範解答です。この問題に対して、キリスト者はこう考える。こう答えるという。しかしだからといって、全部が全部「アーメン」か。必ずしも、それに「アーメン」じゃない場合だってあるし、あっていい。
 
 だってそうでしょう。私たち生きていて、何でもかんでも模範解答で済むことばかりじゃないはずです。そんな借り物の答えじゃ通用しないことが、どれだけ多いか。結局の所、私たちは自分の人生でもって、信仰問答をやっていくしかない。牧師は職業柄、すぐに正解を言いたくなります。教理を学んでいる手前、良くも悪くも説明ができてしまう。でも今回ふと「待てよ」と思ったのです。「おかしいと思う」この訴えに関しては、私も全くの同感なのです。
 
 神様がおられるなら、なぜ世界はこんななのか。悪が存在し、その悪が幅を利かせそして誰の目にも悪い事が、次々と起こるのか。人が死ななきゃならないのか。こんな悲惨な目に遭わなければならないのか。聖書を読むと、それらの問いに、真正面から向き合った人たち、いや向き合わざるを得なかった人たちの姿が、出てきます。その意味で聖書は、私たち人間の「なぜ」という訴え、嘆きの歴史と言うことができるでしょう。不条理の中で「神様、何でですか」「何で黙ったままで、何もしてくれないのか」「いい加減、答えてください」と、信仰の先達たちは神様に祈って来たのです。
 
 ある牧師は言いました。「神に祈った段階で、祈れた時点で、もう既に問題は、半分以上、解決している」と。含蓄のある言葉だと思います。なるほど私たちには、なぜこの世界がこんななのか。分からない。しかし信仰者の「分からない」は、ただ諦めて、何もかも放棄しての「分からない」じゃない。それらが神様の下にあって意味があるということ、何一つ無駄がないということ、やがて全てが明らかになることを信じた上での「分からない」なのです。神様に信頼するが故の「分からない」とでも言いましょうか。ですから神様に対して「分からない」「なぜ」と訴え、祈るのも、一つの信仰告白なのです。信じてなければ、そんな祈りしませんから。
 
 イエス・キリストは言われました。これからも「なぜ」ということが、あなたがたの身に起こる。神様を信じれば、そういうのがなくなるか、問題は解決するとかというと、そうではないのです。依然として、問題は問題としてあるんです。世界に目を向ければ、戦争とか暴動、地震に飢饉、疫病、その他、私たちの生活、そして生存を脅かすような事象があります。また身近な所にも、様々な危機が潜んでいます。家族のこと、病気のこと、仕事のこと、学校や職場・ご近所の人間関係、一筋縄ではいかない問題ばかりです。その中にあって、気力・体力共に削られ、疲弊し、うなだれることばかりだと思う。
 
 けれどもそんな私たちにイエス・キリストは言うのです。「身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(28節)と。「今あなたを襲っている危機は、ただ危機にあらず」「〔確かに〕今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれ」(Ⅰペト1:6)ないが、「やがてあなたは、それら一切から解き放たれる」「もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙21:4)「死の恐怖からさえも自由になる、そんな日が来るのだ」と。
 
 そうしながら、一つの譬えを話されます。それが今日の個所です。イエス様は言われます。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」(2931節)。
 
 「神の国」とは「日本」とか「中国」とか「アメリカ」とか、そういう特定の領土を持つ一国家のことではありません。ここで言われている「国」とは「支配」を意味する言葉です。神様の支配。それが隅々にまで及ぶこと。聖書の約束に従えば、「もはや悲しみも嘆きも労苦もない」一切の重荷から解き放たれ、すべてが満たされた状態のことでしょうか。それが近づいている。
 
 面白いのは「神の国」に、私たちが行くのではありません。向こうから来るというのです。良い事したら神の国に入れる。そういう条件みたいなものがあってですね、私たちがそれを満たせるかどうか。神の国は、それにかかっているんじゃない。私たちが善人だろうが、悪人だろうが、言い方はあれですが、勝手に向こうからやって来る。それをあなたは信じるか。迎え入れる用意はあるか。そのことをイエス様は問うのです。そして向こうからやって来る神の国を、どのように見分けるのかについて、「いちじくの木」の譬えを持ち出します。
 
 ここで言われていること、木に葉っぱがつきはじめると、「あぁもうすぐ夏だな」これ、多くの人が知る所でした。実はイエス様、これ以前にも12章54節で、天気のこと、雲の位置でもって明日雨になるかどうか分かる。そういうことも語っておられます。生活の知恵と言いますか、自然相手の仕事、畑なんかをしている人には、イエス様の譬え、非常に分かり易かったと思います。そうじゃなくても季節を予感させるもの。天気とか、野菜とか、果物とか。それを知らせてくれるものが、私たちの身の回りには沢山あります。それらを見れば「おのずと〔次が〕分かる」こと。
 
 で、「それと同じように、あなたがたはこれらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」(31節)そのように言われています。「これらのこと」とは何か。その直前で言われていた、エルサレム神殿の崩壊に始まり、戦争や暴動、地震や飢饉、疫病に異常気象、つまりは世の中を混乱させ、私たちの生活を破壊するような、恐ろしい出来事や、事象のことです。
 
 私たちが「これだけは確かだ」と思っているものが崩れ去る。「終わり」を意識せざるを得ないことが次々と起こる。その時、人々は、なすすべなく、不安の虜となり、「もう駄目だ」と諦めに入るだろう。そのように言われています。けれども、キリスト者はそこで、空の雲や木々の変化を見て、天気や季節を察するように、「神の国」が近づいていることを悟りなさい、というのです。「これらのこと」は、あくまでも徴に過ぎず、その次に何が控えているか。迫っているかが重要であり、そちらにこそ目を向けるように。そのためにも身を起こして頭を上げるように、と。
 
 私たちは今、戦争や暴動、地震に飢餓、疫病、異常気象、これら地球規模で起きていることに、何を見て取るでしょうか。あるいは、人間関係のトラブル、家庭崩壊、経済的困窮、愛する者との死別、余命宣告、これらの身近にある危機に、何を見て取るか。恐らく「破滅」なのではないでしょうか。「終わり」なのではないか。しかし「だとしたら見当違いだ」とイエス様はおっしゃられる。「勝手に終わらせてもらっては困る」と。むしろ「神の国が近づいていると悟りなさい」。
 
 私たちは、しばしば「終わっている」と口にします。特に「なんで」ということが重なる時、「神様おかしいでしょ」もう何も望めない時に、「この世界は終わっている」「私の人生は終わっている」そう口にします。しかしイエス様は言うのです。「すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない〔終わらない〕」と。「この時代」とは、「この世」のことです。そう訳し変えた方が分かり易いかもしれません。
 
 ここで言われている「すべてのこと」とは何か。これまで語られてきた諸々の恐るべき出来事、事象の後に、イエス・キリストが再び地上に来る所までのことでしょう。あなたがどれだけ「終わりだ」と思っても、終わりにしようとしても、キリストが再び来るまで、救いが完成するその日まで、この世は、そしてあなたは終わらない。いや、終わらせない。ここは、その宣言の言葉でもある。
 
 そしてそれを保証するように「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(33節)との言葉が続きます。「天地は滅びるが」と言われています。これ一見すると、直前の言葉「この時代〔世〕は決して滅びない」と矛盾しているかのように聞こえます。滅びるとしたら、「この世」の方が順番的に先なんじゃないか。天地という土台(フィールド)があっての「この世」なわけですから。
 
 しかしここで言う「天地」は、どっちが先かとか、そういう意味ではなくて、ユダヤ独特の表現といいますか、「天地」という私たちにとって不動のもの。最後の最後まで一番確かと思われるもの。それにも勝って「わたしの言葉」「イエス・キリストの言葉」は確かなんだ。そのことを言いたいんですね。この世で最も頼りになるもの、不変不動なもの。それは「わたしの言葉」である、と。
 
 その「わたしの言葉」でもって、何が言われているか。「わたしは、あなたを贖う」ということです。「あなたの身も、心も、過去も、現在も、未来も、すべて丸々、引き受ける」そのことが約束されている。やがて神の下にあって、一切の思い煩いから解き放たれる日が来ます。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」。そのことが、決して滅びない、キリストの言葉によって約束されている。だから危機は危機にあらず。どれだけ悲惨な状況であっても、それは私たちにとって、破滅の知らせではない。それらを経て、神様がすべてを良しとしてくださる。
 
 「いちじくの木」その「葉の出始めに」夏を見て取るように、この世界の混迷、混乱の中に、私たちの人生の危機の只中に、神の国が近づいている、神の全き支配が成ろうとしている、その初穂を見て取る。それらは私たちへの破滅の知らせなどではない。「解放の時が近い」喜びの知らせなのです。