説教

 「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」(1節)今日の箇所は、そのように始まります。「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」。そこには、すぐに気を落として、祈ることを止めてしまう弟子たちの姿がありました。それは今の私たちも同じでありましょう。私たちは日々、どれだけ気を落としながら過ごしていることかと思います。落胆するような出来事に出くわします。その中で、祈り続けることは、とても難しいことです。
 
 「祈り」というのは、一方では、私たちにとって大きな力であり、支えです。そのことに間違いはない。けれどももう一方で、その祈りが、時に、私たちを悩ませ、疲れさせ、苦しめることがあるのもまた事実です。祈っても祈っても、何も変わらないということがあります。「この祈りは聞かれているのだろうか」「祈っても仕方がないんじゃないか」。私たちは何度そういう思いをして来たことでしょうか。祈れば祈るほど虚しくなる。惨めになる。祈りのせいで、一生懸命祈ったがために、信仰そのものが萎えるような経験をします。
 
 そのような私たちの現実を、今日の所でイエス様は「裁判官」にすがる一人の「やもめ」になぞらえ、語ります。「やもめ」というのは、先に夫を亡くした女性のことです。頼りにしていた夫が側にはいない。一人取り残される。当時は、男性中心の社会です。経済的にも、社会的にも、最も弱い立場に置かれていた人、それが「やもめ」でした。そんな彼女が「相手を裁いて、わたしを守ってください」(3節)と裁判官に訴え出たと話は始まります。
 
 何が原因で、具体的にどういうトラブルに遭っていたのか。その中身までは、ここからは分かりません。しかし、夫も、お金も、社会的な立場もないこのやもめが、最後に頼ったのが、この「裁判官」でした。もうそこしかないのです。法が、彼女にとっての最後の砦だった。ところが、この裁判官は、ただの裁判官ではなかった。「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」(2節)だった、とあります。そんな奴が裁判官していていいのか、とツッコみたくなりますが、これはあくまでもたとえ話です。で、この裁判官はというと、やもめの訴えを聞きながら「しばらくの間は取り合おうとしなかった」(4節)というのです。建前では、法の下では皆、平等です。やもめにだって訴え出る権利がある。しかしそれはあくまでも建前です。実際は、その立場でもって、重んじられたり、軽んじられたり。そういうことが当たり前だった。しかしそれが、私たちが住む社会の現実なのではないでしょうか。
 
 「神を畏れず、人を人とも思わない」力が支配している世界。そこでは、人は見た目や肩書で、あるいは能力で判断されます。コネや賄賂が物を言います。やもめのように何も持っていない人は、そもそも相手にすらされないのです。取り合う価値なしと見なされ、不当な扱いを受け続ける。そのような状況下で、気落ちするなという方が無理でしょう。「もう訴えても無駄だ」「どうせ相手にしてもらえない」と諦めてしまっても不思議ではありません。
 
 ところが、この「やもめ」はというと止めないのです。めげずに、来る日も来る日も、裁判官のもとに来ては「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言い続ける。これには、さすがの裁判官も参ります。「しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」(45節)。あまりのしつこさに、裁判官が折れたというのです。
 
 イエス様は、この譬えを通して、何をおっしゃりたいのでしょうか。このやもめのように、あなたがたも「しつこく」祈り続けなさい。そしたら、いつか神様の方も折れて、その祈りを聞いてくださるに違いない。重い腰を上げて、要求通りにしてくださる。そういうことを言いたいのでしょうか。私たちがめげないこと、粘り強くあることが、この話の中心なのか。「そうではない」と思うのです。もしそれがまかり通るのであれば、もうそれは祈りでも何でもないでしょう。ただの駄々っ子による「根競べ」、もっと言えば「脅し」です。神様に「参った」と言わせるまで譲らないのが、信仰などではない。私たちはしばしば「祈り」を、何か自分たちの要求を実現するための手段であるかのように考えます。祈りに関する信仰書なんかを読みますと、やれ粘り強くあれ、もっと祈れ、祈りが足りない。
 
 まぁ確かにそういう面がないこともない。ハッパをかけるために、なまくらな私たちの信仰をしゃんとさせるために、そういうことを言っているのでしょう。あるいは人の証しなんかで、「これだけ祈った」「祈り続けた」「神様は聞いてくださった」そいうことを聞くと、純粋に「凄いな」「もっと自分も祈らなな」と思う反面「自分の場合は違う」「自分にはそこまでできない」と怖気づいてしまう、自分が責められているような感覚、逆に気を落としてしまう経験。そういうことをしたことが、皆さんもあるのではないでしょうか。ここでもそうですね。もしも「しつこくある」ということ、諦めない意思の強さ、それがこの話の中心で、それがなければ、神様は振り向いてくれないのならば、ほとんどの人にとって神様は、自分とは関係のない存在でありましょう。よくこの譬えはやもめの「しつこさ」が、その姿勢が取り沙汰され、「私たちもそうあろう」と強調されますが、そうじゃない。
 
 改めて、この話が、どういう文脈の中に置かれているのか。そのことに目を向ける時、この話の中心が見えてきます。聖書では便宜上、章と節で区切られています。今日の所も18章ですから、また新しい話が始まったと、勝手に分けて読んでしまいがちですが、ギリシア語の原文、その文法なんかを見ますと、明らかに前の章と繋がっているのです。具体的には、先週読んだ17章20節以下「神の国」についての話の続きで、この譬えが語られている。やがて、全き仕方で「神の国」が、神様の御支配が成る時が来る。神様がその正しさでもって、世を裁き、治める時がやって来る。その日を信じ、待ち望むからこそ、私たちは気を落とさずに祈ることができるのです。
 
 やもめは裁判官に言いました。「相手を裁いて、わたしを守ってください」(3節)。彼女が求めたのは、あくまでも「正しい裁きが行われること」です。自分の願望や要求「あぁしてくれ」「こうしてくれ」、それを思いのままに述べたのではない。正しい裁きが行われること。地位や権力、お金があるなしに関係なく、自分のような弱い者貧しい者を含む、すべての者の権利と生活が守られるように。そのために、ちゃんとした裁きが行われるように。彼女が譲らなかったのは、拘ったのは、その一点です。「神を畏れず人を人とも思わない」力が支配する世にあって、正しい裁きが行われること。そこに「神を畏れ、人を人として大切にする」正しい裁き、正しい支配が成ることを、このやもめは、しつこく求めたのです。
 
 つまり、これまでの話の流れを踏まえて、「神の国」というテーマの下で読むと、その中心は、「終末」を切に求めて生きる、そこにあることが見えてきます。キリストが再び来られる日、正しい裁きが執行されるその日を念頭に、それを待ち望み、生きるということです。これは、自分のお願い、要求を押し通すがめつさ、何が何でも曲げない意志の強さ、しつこさの話なんかではない。御国を求めて生きる時、もうすでに始まっている神様の支配に目を向け、やがて訪れる完成の日を待ち望む時、私たちは気を落としてなんかはいられない。そのことの勧め、励ます譬えなのです。
 
 この譬えを語られた後、イエス様は次のようにおっしゃいました。6節「それから、主は言われた。『この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、速やかに裁いてくださる。』」。
 
 イエス様はここで、私たちの祈りを聞いて下さる神様を、「不正な裁判官」と重ね合わせておられます。そこで語ろうとしておられるのは、「神様は、私たちの祈りに応えて、確かに裁きを行って下さる、つまり神の国を完成して下さる」ということです。6節以下のみ言葉が語っているのは、正にそのことです。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」、そんなことはない「神は速やかに裁いてくださる」のだ。神様の裁きと御支配が、つまり神の国が完成される。だからそれを信じて、気を落とさずに、絶えず祈り続けなさい。そのことをイエス様は、この譬えを通して語ろうとしておられるのです。

 そして最後にこう付け加えられる「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)。この言葉は、先週読んだ17章37節の言葉と、繋がっているように思います。37節で弟子たちは「主よ、それはどこで起こるのですか」と尋ねました。この問いは、直訳すると「主よ、どこで?」となります。この問いは神の国の到来、完成のしるしをどこに見ることができるのか、ということでしょう。
 
 それに対してイエス様は「死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ」とおっしゃいました。これは当時の諺で、条件が整えば結果は自ずと現れる、ということです。だから「どこで」などと問うのはふさわしくない。そう弟子たちに答えられました。しかし、そうは言いながらも、イエス様は、今日の所で、その答えを言っているのではないか。それがこの譬えなのではないか、とも思うのです。「死体のある所には、はげ鷹が集まる」。それは、はげ鷹が集まっているのを見れば、そこに死体があることが分かる、という意味です。
 
 つまり「神の国の到来、完成のしるしをどこに見ればよいのですか」という弟子たちの問いに対して、イエス様は「こういうことが起っている所に、そのしるしがある」「こういうことにこそ、神の国の完成が現れている」とおっしゃったのです。その「こういうこと」を示しているのが、今日の箇所の「やもめと裁判官のたとえ」です。つまり私たちが、このやもめのように、神の国の完成、神様による正しい裁きの実現を信じて、「神を恐れず人を人とも思わない」力が支配しているこの世の現実の中で、気を落とさずに絶えず祈り続けて行く。そういう信仰のある所にこそ、神の国の完成を示すしるしがある。このような祈りと信仰こそが、厳しいこの世の現実の中で神の国、神様のご支配を現し、証ししているのだ、と語られているのではないでしょうか。
 
 そのことを見つめる時、今日の箇所のたとえ話は、単にあきらめずに祈り続けよという教えであると言うよりも、イエス様によって到来した神の国を信じ、そのイエス様がもう一度来て下さることによって、それが完成することを待ち望みつつ祈る信仰を教えていることが分かってきます。そして、私たちがこの世の現実の中で、神の国を、つまり神様の御支配を垣間見ることができるのは、気を落とさずに絶えず祈ることにおいてなのだ、ということをも示される。私たちは、イエス様が来られた時、そのような信仰に、そのような祈りに生きている者として見いだしていただけるでしょうか。今日、イエス様はそれを、私たちに問うておられるように思います。