ルカによる福音書19章11-27節

 福音書は、イエス・キリストの生涯について語ります。それは、エルサレムの十字架を目指す歩みだった、と伝えます。人々が本来、負うべき罪の責め、神の裁きを、自身の身に一手に引き受け、十字架上で死ぬ。その目的地であるエルサレムへまで、もう後わずかと迫った時のことです。
 
 イエス様には、気がかりなことがありました。それは、ご自分が十字架にかかった後のことです。この、どこまでも不信仰で、神を受け入れようとしない世界。むしろそれを憎み、否定する世にあって、残された弟子たちが、どう神への信頼を失わずに生きて行くことができるか。
 
 けれどもそんな心配をよそに、弟子たちを含め、人々は思っていました。イエス様は、天下を取るために、エルサレムへと向かわれるんだ、と。ローマ帝国による支配ではない、神の民である自分たちの国、神の国が「すぐにも現れる」(11節)。そしてそれを、この御方は実現しようとしている。
 
 しかしそれは、大きな誤りでした。勝手に膨らむ期待。そこでイエス様は、ある譬えをお語りになる。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠くの国へ旅立つことになった」(12節)。この王位を受けるために旅立つ人が、イエス様本人のことですね。
 
 確かに、自分は「王」であることには違いない。しかし王になるために旅立つ。しばらく不在にする、というのです。これ一体、何のことかと思います。王であるんだったら、わざわざ、遠くの国に旅立つ必要なんてないんじゃないか。自分の国で「自分は王様だ」そう宣言すれば、済む話のように思います。
 
 これには、ある事件が関係しています。イエス様の時代、ユダヤの地域というは、ローマ帝国の支配下にありました。ですから「ユダヤの王だ」と言っても、それは独立国家の王ではなくて、いわゆる雇われ、ローマ帝国からの委託を受け治める、というものでした。なので、王になるにも、いちいちローマ帝国の認可が必要だった。
 
 で、イエス様がこの話をなさる前、その王の交代を巡って、すったもんだがあったのです。それまで長くユダヤを治めていたヘロデ大王が死に、その後継争いが起きた。その際、大王の長男であるアルケラオが「自分が長男なんだから、当然、次にユダヤの王になるのも自分だ」と、それを認めてもらうためにローマへと赴くわけです。
 
 ところが、それに反対をする弟一派が、使節団を送って、ローマ皇帝に陳情する。「アルケラオを王にしてほしくない」と。で、それを受けて、皇帝はその両方の言い分の間を取る形で、アルケラオに王として、いきなりユダヤ全領土を治めさせるのではなく、まず半分の地域を、「領主」として治めてみろ。それが上手くいったら、王に格上げして、すべてを任せることにする。そういう条件付きで認めることになる。
 
 これに腹を立てたアルケラオは、ユダヤに帰るなり、陳情した者たちを片っ端から粛正します。で、そういう政治をする男ですので、当然その後、うまくいくはずがありません。ローマ皇帝は「こいつは駄目だ」と早速に見切りをつけ、アルケラオを追放します。そしてその代わりに、ローマから直々に「総督」が送られ、総督がユダヤを治めるという形になる。それが、あの有名なポンテオ・ピラトです。
 
 で、このような当時の社会状況、政治的混乱、ユダヤの人なら誰もが知っているアルケラオの事件を、イエス様はここで持ち出し、語るのです。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」。しかしそれを拒絶する者たちがいる。明らかにこれ、アルケラオと御自分を重ねておられます。
 
 ここでの共通点は、主人が、王の位を受けるために、しばらく不在にする、ということです。実際この後イエス様は、弟子たちの前から去って行きます。そのような状態が、今なお続いているわけです。本来、王として君臨するはずのイエス様が不在の状態ですね。私たちはその帰りを待っている。で、その間、弟子たち含め私たちが、どのように生きたらよいのか。そのことをイエス様は、譬えの中でお語りになります。
 
 譬えの中で主人は、旅立つ前「十人の僕を呼んで十ムナのお金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った」(13節)とあります。「ムナ」というのはギリシアの貨幣の単位で、およそ100日分の給与に相当するとされています。で、そのムナが10人の僕たちに、一律で、1ムナずつ渡される。「わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言われて。
 
 要は、これで、その1ムナを使って、生きていけ、ということでしょう。じゃあ、その渡されたムナとは何か。具体的に何であるかは、ハッキリしていません。ですから、この前後の文脈、またはルカ福音書全体から推測するしかない。その際、重要になるのは、このムナが10人一律に渡されているということです。そこに差はない。
 
 伝統的な教会の解釈では、ここでの「ムナ」は、私たちに与えられている「神の言葉(御言葉)」である、そう考えられて来ました。なるほど確かに、こうして教会に来ている者、キリストの僕に対しては、これ一律で与えられているものです。誰々さんだけが、神の言葉を多く与えられて、誰々さんだけが少ない、なんてことはないですね。等しく、この所で、神の言葉は与えられている。
 
 譬えの中で主人は言いました。「わたしが帰って来るまで、これで商売しなさい」と。つまり、これを私たちに置き換えて言うと「御言葉で生きていけ」「それを頼りに、支えにやっていけ」ということでしょう。
 
 そう考えると10ムナ儲けた、5ムナ儲けたというのも分かるような気がします。神様の言葉、御言葉というのは、飾り物ではありません。受け取るだけで、フムフムそういうことかと、学んだ気になっているだけでは意味がない。それを信じて生きてこそ、ようやく力を発揮するものです。ただ受けるだけ受けて、後は布に包んでしまっておくようなものではない。
 
 「これで商売しなさい」。私たちには、御言葉を頼りとして生きることが、求められている。私たちキリストの僕は、ここで、礼拝を通して、一律に御言葉を与えられます。パウロはそれを「神の武具」(エフェ6:13)と表現しました。私たちはそれを身にまとって世に出て生きるのだ、と。けれども、その神の武具を、早々に脱ぎ捨ててはいないか。教会は教会。他は他。そうしながら、布に包んでしまっているのではないか。
 
 神の言葉に生きる。それを頼りにする時に、私たちはいかにそれが間違いないか、正しいかを知ることになります。それだけではありません。御言葉を頼りとし、生きることが、どれだけ祝福に満ちたことか。ただの言葉に止まらない。それが何倍にもなって返って来る。大きな実りをもたらす。「ああ、神様の言う通りだった」私たちも、そういうことを経験することがあるでしょう。
 
 で、この経験は、神の言葉に信頼をして生きた者にしか分からないことです。それが10ムナ、5ムナ儲かったということでしょう。一方で、布に包んで隠した者にはそれがありません。当然です。
 
 譬えの中で、主人が問題にしているのは、どれだけ儲けたか。そこではありません。儲けたから褒めた。儲けなかったから駄目だ、悪い、と言っているのではない。ポイントは、それで商売をしたかどうか、です。つまり、神の言葉に信頼をし、生きたかどうか。それもしないで、ただ「あなたは厳しく、恐い御方だから、しまっておいた」と発言するその心根に、主人は怒ったのです。そういう者は「持っているものまでも取り上げられる」(26節)と。
 
 不思議な話です。しかも最後は、恐ろしい結末で締め括られている。聞いていてもその主旨が、いまいちハッキリしないような気がします。けれども、その中にあって確かなことは、私たちの手元には、1ムナがあるということ。神の言葉が、等しく与えられている。これで商売をするように。これを元手に、頼りに、生きて行くようにと。

 一度に10ムナ儲ける、とはならないかもしれない。しかしここで10ムナもうけた人も、いきなり10ムナを手に入れたわけではないでしょう。こつこつと1ムナずつを儲けていったのです。あるときは失敗して、手元のムナを減らしてしまったこともあったかもしれません。5ムナの人も同じだと思います。
 
 この譬え話で、結果を取り上げられている僕は3人だけですが、他にも7人いたわけです。7人それぞれの結果があったことでしょう。もしかしたら、ある人は商売に失敗して、1ムナをすっかり無くしてしまったかもしれません。また、別の人は儲けるどころではない、マイナスになったかもしれない。
 
 しかし主人を本当に信頼して、結果的にそうなってしまったのならば、この主人は咎めることはしなかったと思います。だからそういう人たちの結果は、特別、取り上げなかった。その必要がなかった。そう考えると他の7人については説明がつきます。それよりも注目すべきは、1ムナを布に包んでしまっておいた人です。この人は、主人を信頼していなかったゆえに、裁かれることになる。

 まとめに入ります。この譬え話に出てくる主人は、イエス様ご自身のことです。やがて主人は、「王の位を受けて帰って」来ます。その時、僕たちは裁かれる。そう、アルケラオが、ユダヤに帰って来た時、自分に従わなかった者たちを粛正したように。けれどもイエス様は、アルケラオとは違う。イエス様は、人々に裁きを語りながら御自身が裁きを受ける場所へ、十字架へと向かわれるのです。つまりこれ、どういうことかというと、「裁く」と言いながら、実際に、その裁きを受けたのは、神の言葉に従わなかった者ではなくて、イエス様だった。イエス様が、本来裁きを受ける者に代わって、裁きを受けてくださった。
 
 だから福音、良い知らせ、なのです。私たちは、もう裁かれることがない。確かに聖書には裁きの言葉が散りばめられています。今日の所でもそうです。そういうのを目にすると不安になります。自分は該当するんじゃないか、と。しかし注目すべきはそこじゃない。その裁きを、キリストが受けてくださった。もう既に、裁きが為されたのです。私たちの裁きは終わった。あの十字架で。
 
 私たちのケツは、キリストが拭いてくださる。だから「わたしが帰って来るまで、これで商売しなさい」。私たちは、思い切って商売をすることができる。誰だって、与えられた1ムナ、無駄にしようとして使うわけではないんです。でも結果として、すってしまうことが、マイナスになってしまうことが、あるでしょう。
 
 私たちは失敗をします。後悔をします。挫けます。成功とは程遠い、惨めな歩みかもしれない。しかしそれが、神様を信頼して、神の言葉に生きようとした結果であるならば、どこに問題があるのでしょう。人は言いますよ。世の中は判断しますよ。それが「駄目だ」とか、「終わっている」とか。自分でも、そう思えてならないかもしれない。しかし、私たちの主人は、神様は、そのようには思ってはおられない。むしろ「よくやった」褒めていただける。
 
 「これで商売しなさい」。どちらかというと、キリスト者は、神の僕は、商売ベタな人が多いように思います。神を憎み、受け入れない世にあって、騙され、傷つき、ボロボロになる。世を生き抜くには、あまりにも不器用な人が多いです。しかしそれでも「これで商売」をする。神の言葉に、信頼をしてやって行くんです。そのための1ムナが今日も手元にある。やがて主人が帰って来ます。それまで、この1ムナで何とかやり繰りしていきましょう。
 

ルカによる福音書19章1-10節

 親は子供に、色んな期待を込めて名前をつけます。こういうふうに育ってほしい。こういう人間になってほしい。しかしながら、その名前通りに行くかというと、なかなかそうは行かないことが多いですね。「名前負け」という言葉があるように、立派過ぎる名前は、ただただ本人にとってはプレッシャーでしかなく、実際の姿とのギャップを際立たせます。
 
 今日の箇所に「ザアカイ」という一人の男が出てきます。「ザアカイ」。この名前には「純粋」とか「清い」そういう意味がありました。きっと両親が「純粋に育ってほしい」「清く正しい人間になってほしい」そんな思いでつけたのでしょう。日本で言えば、「純一」とか「清志」とか、そういう名前になるでしょうか。
 
 ところが彼は、その名前の通りに生きたかというと、その正反対の生き方をするようになる。「この人は徴税人の頭で、金持ちであった」(2節)そのように聖書は伝えています。当時の徴税人の仕事というのは、人々からとても評判が悪いものでした。ローマ帝国の権力をバックに、闇金顔負けの、血も涙もないような違法な取り立てをしていたからです。不正を犯すこと、人を騙すことが、黙認され、当たり前の世界。むしろそれができる奴が、有能とされていました。
 
 ザアカイは、その「徴税人の頭」だったとありますから、ありとあらゆる不正に手を染めていたことは、容易に想像ができます。お金のために非情に徹する。恐らくそうでなければ、この仕事は務まらないでしょうし、「金持ちであった」と言われるくらい、財を成すこともなかったでしょう。いずれにせよ親がつけた「ザアカイ(純粋・清い)」その名前からは、程遠い歩みを、彼はしていた。
 
 そんな彼が住んでいたエリコの町に、イエス様がやって来るということがあった。この時、イエス様の噂というのは、あちこちに広まっていました。何でもイエスは、5つのパンと2匹の魚で5千人以上の人たちを腹いっぱいにする奇跡を起こした。医者もお手上げの病人を癒した。悪霊に取りつかれた人を解放した。偉い学者を論破した。ザアカイの耳にも、そのことが伝わっていたのでしょう。
 
 「イエスがどんな人か見ようとし」て近づきます。ところ「が、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった」(3節)とある。ただ、背が低かったから見られない、というのではありません。「群衆に遮られて見ることができ」ないのです。ここに、彼が人々から、どのような扱いを受けていたのかが、現れているように思います。群衆に遮られる。要は、人々からつまはじきにされていた、ということです。前に行きたくても行けない。自分の場所を空けてもらえない。理由は先ほど言った通り、彼の「徴税人」という仕事にあった。
 
 わざと遮るように立つ人々。ユダヤ人でありながら、その同胞からは、ユダヤ人でない扱いを受ける。これ、ザアカイだけの問題か、と思います。確かにザアカイは、人々から嫌われて当然のことをして来たんでしょう。しかしザアカイが全て悪いのかというと、そうじゃないと思う。ここに出て来る群衆もまた、冷たかったんです。ザアカイだけに、純粋さが、清さが、愛がないのではない。群衆もまた同じだったのです。
 
 「それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである」(4節)。子供ならまだしも、大の大人であるザアカイが、いちじく桑の木に登るというのは、想像しただけでも異様です。普通だったら、そこまでしません。けれども、この時、彼は「そうまでして見たい」と思った。
 
イエスという男が、他の徴税人や罪人たちと一緒に、飲んだり食べたりしていた、ということを聞いていたからです。「もしかしたら、この人だけは、自分を職業で差別せず、そして身長が小さいことを馬鹿にせず、受け入れてくれるんじゃないか」それをこの目で確かめたかった。「本気で自分たちのような社会のはみ出し者を、大事に思ってくれているのか。ただのジェスチャーなのか。もしそれが本当であるならば、どうしても見てみたい。会ってみたい」。
 
 そうしながら木の上で待っていると、「イエスは…上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』」(5節)。彼にとって、それは驚きでしかありませんでした。まずイエス様が、自分の名前を知っていたこと。もちろん初対面です。しかしイエス様の方は、ザアカイのことを知っていた。そして「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」そのように言われたこと。
 
 ただ「話をしよう、食事をしよう」じゃない。イエス様は、泊まることを望んでおられる。しかもここ直訳するとい「あなたの家に泊まらねばならない」そういう強い表現が使われているんですね。熱烈なラブコールです。これを聞いた「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。』」(67節)と。
 
 ザアカイが、イエス様の前に走り寄って、これまでの過ち、不正を認め、人々に謝罪をし、それ相応の償いをして、徴税人の仕事からも足を洗ったから、イエス様は「あなたの家に泊まりたい」と言ったのではありません。ザアカイの出方を見て「泊まる」ではないのです。ポイントは、彼がそれをする前に、まだ何も起こっていない、生き方が変わってもいない状態で、「私はあなたの家に、今日、泊まらねばならない」とイエス様が言われたことです。彼が善人になったから、私はあなたを認める。愛すじゃない。それに先立つ神様の愛が、受容がある。
 
 この時、ザアカイはザアカイのままです。徴税の仕事を辞めているわけでもない。これを受けて「ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』」(8節)。こんなこと、これまでの彼からしたら、全く考えられないことです。自分のためにお金を使うということはあっても、人に施すなんてことは、したことがなかったでしょう。そして「騙される方が悪い」そう思い、不正を正当化していた彼が、それが悪いことであるのを認め、四倍にして返す、と言う。いずれも、律法で定められている(出22:8、民5:7、レビ6:5)以上の行為です。
 
 一体、何が起こったのかと思います。まるで別人です。ここに、今までの生き方とは全く違う、ザアカイの姿があります。イエス様が、徴税人のままの自分を、こんな罪深い自分を、大切な存在として、一人の人間として、尊重し、受け入れてくださった。その事実が、彼を新しく作り変えたのです。人がこうしなさい、ああしなさい、では、決して起きないことです。また自分の決意では、どうしようもないことです。しかし、それが現に起きている。
 
 このエリコに入る直前で、金持ちの議員に対してイエス様がおっしゃった言葉が、ここでも響いてきます。「人間にはできないことも、神にはできる」(18:27)。今そのありえないことが、ラクダが針の穴を通り始めたわけです。不可能とも思えることが今日ここで起きている。きっかけは、ザアカイがイエス様に見出されたことでした。
 
 その際、ザアカイとイエス様の位置関係を見ると、とっても面白い。木の上から見下ろすザアカイ。その下から見上げるイエス様。そう、この時、イエス様は「上を見上げて言われた」とあります。この「上を見上げる」という言葉は、先週読んだ箇所にも出てきました。盲人が言った「見えるようになりたい(アナブレポー)」と同じ言葉です。ただ表面的に見るんじゃない。その奥にあるもの。ザアカイという一人の人間、存在に、イエス様は目を向けるのです。
 
 それまで彼は、見下げられることばかりの人生でした。背が低いということ。それは、人々から物理的に見下げられるということです。それだけではありません。徴税人であること。人々から、心の中でも見下げられていたのです。軽蔑され、汚いものでも見るかのように見られていた。そのことは、本人が一番分かっていたのです。自分が人々から見下げられていることを。この世界で底辺にいる人間だということを。身体的にも、精神的にも、自分が最も低い位置にいる。価値のない存在である。
 
 しかし、そんな彼の目の前に、いや、目の下に、イエス・キリストがおられるではありませんか。自分が一番下だと思っていたザアカイ。そんな彼よりも、なお下に立っているお方がいる。「下を見ろ、俺がいる」そう言っているかのようです。キリストは、人の上に立つためにではなく、下に立つためにやって来られました。私たちの世界の根底に溜まっているもの、罪を全部引き受けて、十字架で神の裁きを受けて、罪を取り除く方として来られたのです。
 
 財産を半分施す。騙した人には四倍にして返す。その言葉を聞いて、イエス様はおっしゃられる。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(910節)。「今日」ということが強調されています。神様の救いは、昔のことでも、これから先のことでもなくって「今日」なんです。私たちがイエス様と出会う日が「今日」になる。私たちがイエス様に声をかけられる日が、私たちが新しくなる「今日」なのです。
 
 その際言われた「アブラハムの子」というのは、「神様の祝福を受ける大事な者」「尊い存在」を指すユダヤ特有の表現です。元々は、文字通りアブラハムの血筋を引く同胞(ユダヤ人)を意味していましたが、ザアカイのような人がいる。それを疎ましく思う人たちから「こんな奴らが『アブラハムの子』であるはずがはい」。そこから、これは単なる血筋のことではなくて、信仰的純潔さを指す言葉として用いられるようになりました。
 
 だからザアカイは、そこから漏れている人間、アブラハムの血筋でありながら、アブラハムの子ではない。そこから落第した者。つまり救いから漏れた者。そういうふうに見られていたわけです。しかしイエス様はおっしゃられる。いいや「この人もアブラハムの子なのだ」「むしろこの人こそアブラハムの子」「神様の祝福を目いっぱいに受けるべき大切な存在だ」と。
 
 ザアカイのその後については、色んな伝説が残っています。すべてを捨ててイエス様に従ったんじゃないか。あるいはエリコに留まって、エリコ教会を形作り、最初の牧師になったんじゃないか。または、パウロのような伝道者になって、あちこち渡り歩いたんじゃないか。私たちは、何かそういう美談というか、ドラマチックな展開を求めがちですけど、聖書は彼のその後については沈黙します。私は思う。劇的な回心を経験したザアカイ。けれども、彼のその後は、非常に素朴というか、地味だったんじゃないかと。そんな私たちが「こうあってほしい」と思うような人生ではなかったんじゃないか。そう、私たちの人生がそうであるように。
 
 皆が皆、イエス様と出会ったからと言って、弟子たちのように、仕事を捨てて従うわけじゃない。もちろん仕事を変えるという人はいたでしょう。けれども、大半は、そのままの生活を続けたと思うのです。徴税人のザアカイも、さすがに以前のような取り立てはしなかったでしょうが、細々と徴税人の仕事をしたんだと思います。元の徴税人のまま、ある種の矛盾を抱えながら生きたんだと思う。
 
 しかしそこでも、私たちは変われるのです。変えられる。これまでと同じ仕事をしながらも、その中身がまったく違ってくるということは、起こり得る。ザアカイがザアカイのままで、徴税人のままでイエス様に見出されたように。それほどまでに私のことを思ってくれている。肩書、職歴云々ではなく、また過去がどうだったかでもなく「今日」の私を、受け入れ、愛してくださっているお方がいる。その時に私たちは見た目は変わらないかもしれない。徴税人のままかもしれない。けれどもイエス・キリストに従う徴税人として、新たにされるのです。
 
 

ルカによる福音書18章35—43節

 「何をしてほしいのか」「主よ、見えるようになりたいのです」。イエス様がエルサレムへ向かう途中、エリコという町に立ち寄った際のことです。「ある盲人が道端に座って物乞いをしていた」(35節)今日の話はそのように始まります。この人が生まれながらの盲目だったのか。それとも最初は見えていて、途中から見えなくなったのか。詳しい事は分かりません。ただ聖書は「ある盲人」とだけ告げています。
 
 そんな彼がいた場所は、エリコの町の中ではなく、外でした。「イエスがエリコに近づかれたとき」(35節)そのようにあります。「近づかれたとき」ですから、まだエリコには入ってはいないわけです。つまり彼はエリコの外にいた。町の中に、彼の居場所はなかったのからです。今のように福祉が整っているわけではありません。生活を保障するような制度も「人権」などという考えもありません。ですから、身体に不自由を抱えている人が生きて行くには、物乞いをするしかなかった。それが当時を生きていた人たちの現実でした。
 
 町の外へ。この人だって、最初は町の中にいたはずなのです。両親の下、町の中で生まれた。しかし目が見えないということで、次第に外へと追いやられて行く。自分の場所がエリコの町の中にはない。どうしてか。役に立たないからです。何も生み出さないからです。
 
 これは、今私たちが住んでいる世界も、同じなのではないでしょうか。以前、東京渋谷の一等地に、児童相談所やDV被害者などを一時保護する施設を、新たに建てるという計画がニュースになりました。それに対して地元住民が猛反対をしていると。主な理由は「なぜ青山の一等地にそんな施設をつくらなきゃならないのか」「青山という土地の、価値を下げる」「治安が悪くなるんじゃないか」ということでした。要は、ここには相応しくない。必要ない。やるなら他でやってくれ。自分たちは関係ありません、ということでしょう。自分たちの役に立つか立たないか、メリットが、資産価値があるかないか。それを高めてくれる分には歓迎だが、それを下げるようなものは、自分たちの周りにはいらない。
 
 で、こういうことって、渋谷の青山だから起きる特殊なことじゃなくて、その根底にある思い、問題というのは、私たちも変わらないんじゃないかと思うのです。たまにそれが顔を出しますね。面倒なこと、都合の悪いこと、邪魔な人は、できるだけ遠くに行ってもらいたい。それよりも自分の気が合う者同士で集まって、仲良くやっていたい。私たち、気に入らない人を、不利益なことを、このようにあからさまに外へ追いやるということは、ないかもしれません。しかし人の価値を、持っている資産で生産性、能力で計っては、心の中で、外へ追いやることが、どれだけ多いか。
 
 この盲人は、町の外にいました。町の中にいると、臭うから。みっともないから。それこそ、町の資産価値が下がるから、人々によって外に追いやられていたのです。そうやって人を、いないかのように扱う。亡き者とする。聖書はそれを「殺人」と呼びます。私たちは普段「罪とは関係ない」という顔をして生きていますが、神様から言わせれば、正真正銘、立派な罪人なのです。「ある盲人が道端に座って物乞いをしていた」。この何気ない記述に、私たちが持っている罪の結果が、見える形で、凝縮して現れているように思います。罪ある者が「神の国を受け継ぐことはできません」(Ⅰコリ15:50、ガラ5:21、エフェ5:5)。しかし、正にその罪の問題を解決するために、キリストがエリコを通ってエルサレムへと、十字架へと向かうのです。
 
 この盲人は「群衆が通って行くのを耳にして、『これは、いったい何事ですか』と尋ね」(36節)ます。いつもと、明らかに様子が違っている。目は見えなくとも、そのことを敏感に、肌で感じ取っていたのだと思います。「『ナザレのイエスのお通りだ』と知らせると、彼は、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と叫んだ」(3738節)そのようにある。
 
 よくよく考えると、これとっても不思議です。彼が、通り行く人から聞いた言葉は「ナザレのイエスのお通りだ」です。しかしこの盲人は「ナザレのイエスよ、わたしを憐れんでください」ではなく、ここでは「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んでいる。「ダビデの子」というのは、ユダヤ人からしたら「救い主(メシア)」を表す言葉です。その代名詞と言ってもいい。この盲人は、ただのナザレ出身の先生(ラビ)として、イエス様の名前を叫んだのではありません。自分たちが待っている救い主、メシアとして「イエスよ、わたしを憐れんでください」と言ったのです。
 
 このことを、福音書を記したルカは、より際立たせるように、弟子たちの無理解の後に、この話を持って来ます。弟子たちは、この盲人と違って目が見えていました。近くで、イエス様が行う数々の奇跡、しるしを見て来たのです。しかし彼らは、イエス様が何者であるのか。何から自分たちを救おうとされているのか。それが全く見えていませんでした。けれども、この盲人は違います。この方こそ、神様が約束していた「ダビデの子」。救い主。そう理解していた。目が見えないのに、です。
 
 なぜでしょうか。なぜ分かったのか。この盲人が特別だったのでしょうか。確かに目が見えない人の感覚というのは、目が見える者よりも、遥かに敏感で、発達しています。しかし重要なのは、そこではない。彼は聞いたんです。通り行く人々の口を通して。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」(イザヤ35:56)この預言が、ことごとく実現していることを。聖書で約束されていたことが、正にこの方を通して、今起きている。それを耳で聞いて、悟ったのです。使徒パウロも言います。「実に、信仰は聞くことにより…始まる」(ロマ10:17)のだ、と。
 
 「見る」ということ。私たちは、どれだけそれを頼りに、生きていることかと思います。けれども、もしかしたら、それが、神様を信じる上での足かせになっている所があるのかもしれません。私たちは目で見えるがゆえに、周りの人たちの表情、反応そういったことにばかり目が行きます。伺いを立てながら生きている。その意味で、物理的に見えるということが、いかに神様を真っ直ぐに見ることの妨げとなっていることか。どうしても、目で見たもの、見えるものに、私たちは引っ張られますし、そこに確かさを求めてしまいます。
 
 しかし信仰において大切なのは、見るにも勝って、聞くことです。ここに神の業が現れている。イエス・キリストを通して、それがことごとく成っている。その事実を聞き分け、受け入れる耳を、この盲人は持っていた。だから彼は叫びます。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。それに対して人々は「叱りつけて黙らせようと」(39節)します。神ではない、人ばかりを見ているからです。けれども、盲人はお構いなしに、更に「叫び続けた」。「イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。『何をしてほしいのか。』盲人は、『主よ、目が見えるようになりたいのです』と言った。」(4041節)。
 
 短いやり取りです。多くの言葉を交わしたわけではありません。自分を求めて叫ぶ盲人にイエス様は一言、「何をしてほしいのか」と聞かれる。それに盲人が「主よ、目が見えるようになりたいのです」と答える。しかしここで注意すべきは、この時、彼はただ「目が見えるようになりたい」そう言ったのではありません。この訳文ですと物理的に目が見えるように視力が回復するように、そのようにしか読めませんけど、聖書が書かれたギリシア語を見ると「アナブレポー」という言葉が使われているんですね。これは「上へ」を意味する「アナ」と、「見る」を意味する「ブレポー」が合わさってできた言葉です。
 
 つまり何が言いたいかというと、この時盲人は、ただ「目が見えるようになりたい」そう言ったのではない。その目でもって、上を見たい。あなたを見たい。つまり神様を仰ぎたい。そうしながら、自分が生まれて来たことを、存在していることを喜びたい、そう願ったのです。それにイエス様が応えられる。「『見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。』盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った」(4243節)。
 
 「見えるようになれ」ただそれだけです。その一言で、すべてがガラリと変わりました。この盲人が、何かをして、その見返りに、見えるようにしてもらった、ではないのです。彼は叫びました。「ダビデの子イエスが、ひと言おっしゃってくれれば、そう望んでくれさえすれば、そのようになる」その思いがあったから必死になって、人々の制止を振り切って、叫び続けたのです。そしてそのことを、イエス様は「信仰」と呼び、その「信仰があなたを救った」そのように言って、応えられる。
 
 間違ってはならないのは、信仰心の強さが、あるいは深さが、救いをもたらすのではないということです。つまり、彼の信仰が強かったから、熱心だったから、それでもって目が見えるようになったのではない。どこまで行っても、救うのは神様です。そのことを聖書は繰り返し語ります(ロマ3:28、エフェ2:8)。
 
 で、ここでは、目が見えるようになること、視力が回復することを、「治った」とか「癒した」とは言わずに、わざわざ「救った」そのように言われています。目が見えるようになることは、神様の救いの、ほんの一部に過ぎない。しかし私たちは、それを「すべて」であるかのように考えます。この受験に通れば、この病さえ治れば、この問題さえ解決すれば。そしてそれが実際に起こった時「救われた」と思うわけです。
 
 しかし神様が、私たちに与えようとしている救いは、そのような目先のことだけに止まらない。この盲人の、目だけじゃない。その他の部分も、身体丸ごと、心もすべて。そればかりか自分が消し去りたい過去も、苦しい現在も、不安な未来も、それらをひっくるめた、あなたのすべてを、余すことなく神様が受け入れる。それを「救い」と言うのです。
 
 その自分のすべてを救い得る神様に信頼をすること。それがあって初めて、今日読んだ出来事も成っているということに、私たちは注目すべきです。救うのは神様の仕事です。だからと言って「後はお任せ、自分は何もしません」じゃない。一人の盲人の姿を通して、聖書は語りかけます。その神様の方を向いて、あなたは叫んでいるか。「何をしてもらいたいか」という真っ直ぐな問いに、「こうなりたい」真っ直ぐに答えているか。これ、案外簡単なようで、難しいことですよ。本当に信頼してなければ、できないことです。
 
 「見えるようになりたい」。上を見たい。神様を仰ぎ、賛美しながら、この人生を、命を喜びたい。彼はそう願いました。「ダビデの子イエス」には、それがおできになる。そう思い近づきました。そして、そのようになりました。これは、単なる視力回復の話ではありません。見えなかった者が見えるようになる。そして見えるようになって、何を見たか。その「ダビデの子イエス」が十字架にかかり、殺されるのを見たのです。
 
 ここに聖書が約束した救いがある。盲人にとって視力の回復は、そのための序章に過ぎません。彼はその先にあるものを「ダビデの子イエス」が十字架にかかる姿を見たのです。つまり、私たちが本当に見るべきは、キリストの十字架だ、ということです。目だけじゃない。その他すべてを、罪ある姿をも、受け入れ、愛そうとされる神様の意志が、ここに現れている。
 
 私たち、身体で治らない部分があるでしょう。そして、抱えている問題は、解決しないままです。しかし身体が治ることだけが、救いなのではない。治らなくても、なお救われているということがあるのです。問題が解決しなくとも、それでも救われているということが。キリストが、私たちのために、十字架で死んでくださった。それにより罪ある者が、神の国へと無条件に受け入れられる者となったのです。この命が、人生が、神様の手の中に置かれている。十字架が、それが確かであることのしるしです。
 
 

ルカによる福音書18章31-34節

 私たちの罪をその身に背負い、キリストは十字架にかかって死んでくださった。しかしそのキリストを、神はよみがえらせ、私たちの望みとしてくださった。とどのつまるところ、教会が大切にしてきた福音は、この2つに集約されます。「十字架」と「復活」。
 
 幼い頃から教会に通っていた私には、これが不思議でなりませんでした。どこの教会に行っても、どの牧師であっても、そこで聞くのはキリストの十字架と復活の話なのです。その日読んだ聖書箇所に、十字架の「じゅ」の字も、復活の「ふ」の字も、なくってもです。何でいつも、同じことを言うんだろうか。
 
 私にはそれが、まるで水戸黄門の印籠のように、思えてなりませんでした。説教の終盤になると、必ずと言っていいくらいに、十字架と復活が出て来る。その度に「またその話か。結局はそれか」。正直、そう思っていました。
 
 しかしこのことは、裏を返せば「十字架」と「復活」こそが福音の中心、私たちの人生に欠かせないことである、ということ。この2つがちゃんと伝わらないのであれば、どんなに良い話をしても意味がない、ということでしょう。
 
 けれどもそれは、必ずしも、万人にウケる話ではない。そのことを、伝道者パウロは次のように語っています。「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものです」(Ⅰコリ1:23)。
 
 「それは人を躓かせるものなんだ。むしろ神様を信じる『妨げ』となるんだ」。そのことをパウロ自身が認めているのです。私も色んな牧師の説教を聞きながら、何度思ったことでしょう。あの訳の分からない「十字架」と「復活」の話さえなければ、どれだけ良いか。勿体ない。もっと皆が分かる話に、終始したらいいのに。あの訳の分からない話が、逆に人を遠ざけている。
 
 実際にパウロは、福音を語る際、身近なことに譬えてみたり、時事ネタを取り入れたり、笑わせたりと、興味を持ってもらうために、あの手この手を使ったのです。その成果もあって、最初は皆、食いつくのです。しかし話の核心部分「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』」(使17:32)そう言って去って行ったというのです。
 
 多くの人にとって、キリストの十字架と復活の話は、躓きであり、愚かに思えることだった。ウケなかった。なぜか。分からないからです。それが、どう私と関係しているのか。私にとって、何のメリットがあるのか。理解できない。それは、まずもってイエス様の弟子たちがそうでした。今日の箇所で、イエス様は、御自分のこれからについて、お語りになる。しかも、これが三度目だ、というのです。
 
 聖書の中で「三度」というのは、特別な意味を持っています。「繰り返し」とか「何度も」ということです。それだけしつこく、念を押してイエス様は御自分の十字架のこと、復活のことを語られた。このことが重要だからでしょう。いくら言っても言い過ぎることはない。けれども、弟子たちは「理解できなかった」とあります。
 
 言葉が分からなかったわけではありません。イエス様が迫害を受けて殺される。しかし三日目に復活する。知識としては、情報としては、弟子たちの頭の中にも、きちんと入っていたのです。そう、私たちが説教を通して、毎回それを耳にするように。しかし肝心なことは、それを我が事として受け止めているかどうかです。
 
 ここで用いられている「理解」という言葉には、「気づく」とか「認める」そういう意味があります。つまり情報として、知識として「知っている」じゃない。それが自分のことであることに気づくこと、認めることが重要なのであって、その意味で弟子たちは「理解できなかった」と聖書は語ります。三度同じことを聞かされてもピンと来ない。せいぜい何かの比喩程度にしか考えていなかったのでしょう。
 
 ここで面白いのは、「じゃあ理解できない弟子たちが悪いのか」というと、そうは言っていないのです。彼らが理解できなかったのは、「彼らにはこの言葉の意味が隠されて」(34節)いたからだ、と聖書は語ります。まるで神様が、わざと隠して、分からないように目隠しでもしておられるかのように、イエス様が何度語っても、肝心の所が十二人の心には届かない。
 
 しかしそれが、この時点での神様の御意志であったと。神様の側で、あえて、そうしている、そうしたというのです。やがて、弟子たちは気づくことになります。その目隠しが取れて、イエス様の死の意味に目が開かれたのは、いつかというと、復活したイエス様に出会った時でした。
 
 で、このこと、「十字架」と「復活」という福音の肝が、時が来るまで隠されていてそれまで全然分からないというのは、現代においても同じなのです。キリストの十字架と復活以外のことは、大体の人には通じるのです。例えば「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)その精神に感銘を受ける人は沢山います。あるいは「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(ルカ6:31)これは人生の教訓として使えます。また「明日のことまで思い悩むな。…その日の苦労はその日だけで十分である」(マタイ6:34)との言葉には、どれだけ励まされることでしょう。
 
 しかし「キリストは、あなたの罪を引き受け、十字架につけられ死んだ。そこで流された血でもって、あなたの罪は、きれいさっぱり洗い流された」これに関してはどうでしょうか。多くの場合、「あぁそうか」とはなりません。いっきに通じなくなる。そして「死ぬしかないあなたを生かそうと、神様は私たちの初穂として、キリストを死者の中から復活させられた」これは聞く人によっては、愚かな妄想に聞こえるでしょう。そこに私と、何の関りがあるのか。
 
 キリストの十字架と復活の意味は、今も隠されているのです。時が来るまでは、ここでの弟子たちと同じように「理解できない」のです。じゃあその時は、いつ来るのか。それは、私たちが自分の罪と死に、真剣に向かい合う時です。それまで神様は待っておられる。隠すのです。
 
 イエス様は言われました。「人の子について預言者が書いたことはみな実現する」(31節)と。「人の子」とは、イエス様御自身を指しての言葉です。「預言者が書いたこと」つまり「旧約聖書」全般のことです。そこに何が書かれているのか。ひと言でいえば、祝福の約束です。
 
 アダムとイブ以来、その罪のゆえに人は、命の源である神様から離れて歩むようになりました。神なき世界。神なき人生。それは一見、何のしがらみもなく、自由なように思えますが、それがもたらした結果は、その逆で、まことに悲惨なものでした。確かなもの、自分の命の根拠、足場を失っていることから来るのでしょうか。私たちは常に何かに怯え、その都度、偶像により頼んでは、その場を凌ぐということを繰り返してきました。無意味と虚無に苛まれながら、あてもなく生き、ただ死んで行くしかない。これを「呪われた人生」と言わずして、何と言うのでしょうか。
 
 そこでは、私たち命は「偶然の産物」で、死ねば、すべて無に帰す。滅びて終わりなんです。そこに何の意味も、望みもない。しかし聖書の神様は、そんなことのために、私たち人間を造ったのではない。神を賛美するために、与えられた命を喜び、帰るべき場所へと帰って行くために、私たちのこの命はある。
 
 その呪いで覆われた命を、祝福されたものに変えるために、神様は「計画」(エレミヤ29:11)を立ててくださった。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」(エゼキエル33:11)これが神様の本心です。
 
 そのためにキリストをお送りくださった。けれどもそこには、大きな犠牲があったということを忘れてはいけません。呪いを祝福に。それは「タダで」起こったわけではないのです。「人の子は異邦人に引き渡され、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す」(32節)。これが神様の呪いを祝福に変える計画です。そこには、キリストの十字架による贖いが必要だった。
 
 しかもここで「異邦人に引き渡され」とあります。神様が呪いを祝福に変える。その約束をなさったのは、最初ユダヤ人に対してでありました。ここでの「異邦人」とは、そのユダヤ人以外、つまり神様との約束には関係のない人たちのことです。しかしその「異邦人に引き渡され」る。これは神様が、祝福の約束とは無関係だった人たちとも、その約束を結ぼうとしておられる、ということです。
 
 祝福の約束は、一部の人たちだけではない。罪の悲惨と死の現実、それに直面するすべての人にまで及んでいる。そのためにイエス・キリストが「異邦人に引き渡され」その命と引き換えに、神様の前で、祝福の約束を取り付けてくださいました。もう既に、私たちには、祝福が約束されている。呪いは十字架に張り付けられました。祝福は復活という仕方で現れました。その福音を、これから舌で味わいたいと思います。