遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。(ローマの信徒への手紙10章15節)
 
 初めて教会に行く人にとって、その一歩は相当な覚悟がいる。いつも行っていると、それがどれだけ勇気がいることか、麻痺して分からなくなる。教会は「敷居が高い」と言われることが多いが、その通りなんだと思う。どれだけ「敷居低いですよ~」と言っても、それは中にいる人の感覚であって、外から見たらやっぱり敷居は高い。
 
 ある街ぶら番組で、アイルトン・セナ(レーシングドライバー)の言葉を入口に掲げた寺が紹介されていた。入口の言葉を見て、思わずレポーター立ち止まり、そして入って行く。「寺なのに何でセナの言葉?」と聞くために。
 
 出てきた坊さんがこう言ったのが印象的だった。「僕は入口坊主なんで」と。寺に来てもらう。何はともあれ入ってもらう。興味を持ってもらう。それが自分の役割なんだと。すべてを自分で完結させようとする時、無難になる。そつなくなる。そうすれば批判はされない。しかしその代償は大きい。良さが、個性がそこから消える。この坊さんは、それを分かった上で、振り切っているんだと思う。
 
 教会でも最近、キャッチーなタイトルつける牧師がいる。そういうことをすると決まって、やれ「軽い」だとか、「寺(教会)の品格を落としている」とか、「世の中に媚び打ってる」「迎合主義だ」とか、言いたくてたまらない人たちが現れる(内部に)。分かる。僕の中にもある。そういう奇をてらうのを嫌い、蔑む気持ちが。
 
 何でも目新しいことが良いとは思わないし、僕にはそんな発想があまりないのでやろうとも思わないが、でも「入口」を何とか広げよう、入って来てもらえるように努力する、その心意気には共感する。
 
 ヨハネという人がいた。「悔い改めよ」と人々に呼びかけ、ヨルダン川でそのための洗礼をしていた。彼はキリストを指して言う。「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる」(マタイ3:11)「自分ではなく、この方を見よ」と。あくまでも自分はその出会いのきっかけに、道備えに過ぎないんだと。こいつは入口預言者に徹した。
 
 入口坊主。良い言葉だ。はて、自分は入口牧師になれているだろうか・・・。
 
 

わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。(イザヤ書46章4節)
 
 息子が「きかんしゃトーマス」にハマっている。おかげで僕も一緒に観るようになった。尺も短く、ストーリーもシンプルで、それでいて心温まる話が多い。こりゃ人気なわけだわ、と思う。いくつか観ているうちに、あるパターンがあることに気がついた。それは問題やコンプレックスを抱えた列車(大体は「小さい」とか「ボロい」とか「のろま」とか)が、他の列車(大体は「デカい」とか「最新式」とか「速い」とか)にマウントを取られ、イジられ、凹むところから始まる。「お前は役に立たない」とか結構辛辣なことを言われてしょぼくれるのだが、その後にそれを見返すような出来事がある。小さくても、ボロくても「役に立つ」、活躍できるフィールドがある。逆にデカいやつや、最新式ではできないことがある。それを証明してみせるのだ。そして最後にトーマスが出て来て「大切なのは見た目じゃないんだ。中身なんだ」とかます。
 トーマスにケチつけるのもどうかと思うが、僕は観ていて違和感を持った。それは「役に立つかどうか」がテーマになっていたからだ。小さくても、ボロくても、役に立つことを証明する。そうやって見た目じゃなくて、中身なんだと言う。じゃあ逆に「役に立つ」ことを証明できなかったら…。それを人に置き換えるとゾッとする。「大切なのは中身」と言いつつも、その中身はというと、結局は「役に立つかどうか」が基準なのだ。
 トーマスの言葉の背後に、この時代の価値観がモロに反映されている。もちろんトーマスは「役に立たない機関車は駄目だ」なんて言ってない。むしろ「どの機関車にだって良い所がある」そういうことを言いたいのだろう。でもな、トーマスよ、言葉には裏ってものがあるんだぞ。それは暗に「役に立たない機関車は駄目」って言っているようなものなんだぞ。
 役に立つことを証明してナンボの世界。成果を上げて、そこでようやく価値が出る世界。僕たちはその中を生きている。でもイエス・キリストが宣べ伝えた「神の国」では、その理屈は通用しない。まったく別の基準で動いている。「わたしの目にあなたは値高く、貴い」(イザヤ43:4)と神様が言うから、人には価値がある。役に立つかどうかベースではないのだ。神様がどう見ているかベース。
 トーマスの理屈だと、役に立たなくなった機関車はお払い箱だ。それを証明できなきゃ価値なし。でも神の国では、たとえ役に立たなくとも、老いて、ヨボヨボになって、何もできなくなっても、「背負って行こう」と神様がおっしゃられる。そんなことであなたの価値はなくならない、と。そう言われると、何かホッとする。助かる。安心して、胸を張って、役に立たないままでもいれる。
 ちなみに僕はトーマスの中では断然「トビー」推しです。
 
 
 
 
 

城門の入り口に重い皮膚病を患う者が四人いた…、夕暮れに、彼らはアラムの陣営に行こうと立ち上がった(列王記下7章3、5節) 
 
 今更ながら、アニメ「進撃の巨人」を観ている。以前、漫画で少し読んでいたのだが、途中で挫折してそのままだった。人を食う巨人と、それを防ぐための高い壁の中で暮らす人間との戦いを描いたものだ。 
 人類を守る壁は、外側、真ん中、内側と三つある。当然のことだが内に行くほど巨人からは遠ざかる。誰だって安全な内側の壁の中に行きたい。
 壁を守る兵士たちは厳しい訓練を経て、それぞれの任地に遣わされるのだが、その際、エリートだけが内地、つまり王のいる一番奥の壁の中に「憲兵団」として配属される権利を与えられる。しかしここに大きな矛盾がある。ある者がそれを口にする。「憲兵団に入って内地に行く権利をもらえるのは、成績上位10名だけ。…なぜかこの世界では、巨人に対抗する力を高めた者(成績優秀者・実力者)ほど、巨人から離れられる。どうしてこんな茶番になると思う。それは人の本質だからだ。…巨人から離れるために、巨人殺しの技術を高めてやがる」。 
 外側の壁ほど危険だ。それだけ巨人と遭遇する機会が増え、それなりの力が求められる。しかしその力のある者は内地へ、逆に力のない者が前線へと送られる。成績上位者が、わざわざ前線を選ぶことはまずない。なぜなら彼らには「王に仕える」という大義名分と、内地という安全が用意されているからだ。その権利を得るために訓練兵たちは必死になって頑張る。だが何かがおかしい…。 
 でもこれは、どの世界、どの社会、どの業界でもそうなんだと思う。無論、牧師も例外ではない。多くの人が中央へ、安全な場所へと流れていく。「優秀」と評価される人ほど。いや、そのために優秀であろうとしているのかもしれない。
 「安全な内地に行きたい」という本音は「自分は王のために憲兵団に入るんだ」という崇高な志と非常に相性がいい。動機は違えど目指すべきゴールが一緒だから。何よりも本音を隠すのには最適だ。「王のため」を前面に掲げれば、誰も文句を言えないし、自分だって納得できる。これが「人の本質…」。他人事ではない。自分自身、どれだけ巧妙に言い訳を重ね、本音を隠しては内地を目指してきたことか。 
 安全な内へ内へと向かう人間。しかし聖書の神は、それとは逆行する。外へ外へと行かれるのだ。そこにこそ本当に助けを必要としている人がいるから。そして人は、そこで神と出会う。
 その昔、アラム軍による兵糧攻めで、飢饉となったサマリアに、さらに底辺でもがいていた皮膚病の4人が「城門の入り口」にいた。城門の入り口。戦争になれば真っ先に狙われ、被害を受ける最前線、危険な場所、一番外側だ。偉い人、賢い人、強い人たちは高い壁で覆われた安全で、敵から遠い中央にいる。しかし彼らみたいに立場の弱い人は、有無を言わさず過酷な場所に置かれる。 
 食糧難で追い詰められた彼らには、城門の外に出て敵(アラム軍)に投降するしか選択肢はなかった。しかしそんな彼らが神様の救い(御業)を真っ先に見ることになる。実はこの時、取り囲んでいたアラム軍を神様は混乱に陥れ、退散させていたのだ。 その意味で城門の入り口、世の安全からは程遠い、優秀な奴らが行きたがらない、外れくじのような場所こそが、神の国に最も近い場所なのかもしれない。
 
 
 
 
 
 

あなたの未来には希望がある、と主は言われる。(エレミヤ書31章17節)
 
 僕の青春は、90年代のスニーカーブームと共にあった。その象徴でもあるエアマックス95の登場が、当時大きな社会現象となった。特に通称:イエローグラデと呼ばれているカラーに関しては異常な人気で、価格は車が買える程にまで跳ね上がり、アメリカでは殺人事件まで起こり、日本でも「エアマックス狩り」なるものが問題になった。それだけ人々を熱狂させたお化け商品だ。
 それから25年。復刻版が出る度に即完売するというお化けっぷりは健在で、むしろあの時代に買えなかった世代が、大人になって買えるようになり、年々その熱量が高まっているように思う。
 そして今回(20201217日)、7度目の復刻が決定した。前々からチェックしていた僕は、この日のために色々と我慢をし備えていた。前日は楽しみ過ぎてなかなか寝付けず、朝も午前3時に目が覚めた。
 午前9時からスタートする抽選を前に、携帯片手に今か今かとその時を待つ。9時になり指先を震わせながらも、何とかエントリーを済ませた。わずか10分間で受付を終了するというNIKE側の強気っぷり。それから8分後、一通のメールが届いた。祈るように開けると、そこには「落選のお知らせ」との文字が…。
 あの時代、スニーカーに心奪われていた人なら、僕の気持ち分かってくれるだろう。しばらく放心状態となり、何も手をつけられない中、やっとの思いで日課である聖書を開いた。すると、ちょうどその日に読むことになっていた聖書の言葉が僕の目に飛び込んできた。「あなたの未来には希望がある、と主は言われる」。
 
 「やかましいわ!!!!」
 
 神様、失礼を承知で、もう一度言わせてもらう。
 
 「やかましいわ!!!!」
 
 いくら神の言葉と言えど、何でもかんでもすんなり受け入れられるわけではない。
 

助言が多すぎて、お前は弱ってしまった。(イザヤ書47章13節)
 
 牧師同士で勉強会をすることがある。日曜日に礼拝で語った聖書のお話し(説教)について、誰かがしたものを題材に「あーだ、こーだ」好き勝手言う。そんなことやっていると、たまに収拾がつかなくなる。そらそうだ。どんなに偉そうなこと言っても、細かく分析してみせても、切れ味するどい評論かましてみても、本当の所は正解なんて誰にも分からないのだから。だからといって勉強会は止めない。どうしてか。人の意見を通して神様は語り、気づかせ、教えてくれるから。
 でも人の意見ばかり聞き過ぎると、訳が分からなくなる。だって、正反対のこと言う人がいるから。右の意見、左の意見、首を右に左に忙しい。昔、イスラエルの人たちがそうだった。ある強い国の意見を聞いてはヘコヘコし、また別の強い国の意見を聞いてはそっちに引っ張られ。だから神様は、時々に応じて預言者を遣わした。「これに聞くように」と。
 僕たちの日常も、そんなことばっかりだ。ある人の意見を聞いては「なるほど!」と感心し、また別の人の話を聞いては「確かに!」と思う。ただアドバイスが多ければ多いほど迷う。いつの時代であっても人はそうなのだ。だから神様は決定版を遣わされた。「これ〔イエス・キリスト〕に聞け」(マルコ9:7)と。
 イエス様は、右の意見、左の意見を聞いて歩かれた。それだけではない。下の意見(小さな声)もちゃんと聞かれた。そして上(神様)の意見に聞き従った。ここを軸に、首を左右に動かす。僕たちが何で疲れるかって、首を痛めるかって、軸がしっかりしていないからなのかもしれない。
 
 

わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。(マタイによる福音書16章19節)
 
 小学生の時、鍵のついたヒモを首からぶら下げている同級生がいた。いわゆる「鍵っ子」というやつだ。僕の家は、帰れば誰かが必ずいた(そもそもいなくても鍵をかけない)ので、鍵をぶら下げて下校する姿がカッコよく映った。何か任されている感が、大切なものを託されている感が出ているから、そう見えたんだろうか。
 聖書は言う。「お前ら全員、鍵っ子なんだ」と。ペトロはイエス様から確かに預かった。天の国の鍵を。それを複製しては渡し、複製しては渡し、2000年繰り返してきたのが教会だ。
 神様によって形作られ、この世へと送られた私たち。その途中、鍵をなくす奴がいたり、壊す奴がいたり、ぶら下げているのにそのことを忘れる奴がいたり…。最初に預けられたペトロ自身がそうだった。よくもまぁそんな奴に鍵を任せたものだと思う。でも、どれだけ頼りなくても、信じて任せるのが神様だ。僕たちが神様を信じる以上に、神様の方が僕たちのことを信じてくれている。
 
 

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。(エレミヤ書29章11節)
 
 「前を向いて生きよう」「過去を振り返っても仕方ない」。そうやって人を励ますことが、また励まされることがある。でも内心で思う。前ばかり向いていられないのが人間だ。どうしたって過去が気になる。しかし聖書は「無理に前を向け」「ポジティブに生きろ」そんなことは言わない。過去を振り返ってしまう、そんな人間の姿を否定しない。むしろそれを積極的に捉え直して生きるようにと勧める。
 聖書(旧約)で「将来」「未来」と訳されている言葉、それは原語(ヘブライ語)では「アハリート」といって、「背中」「背後」を意味する言葉らしい。さらに「後ろ」と訳されている言葉「ケデム」は、本来は「前」を意味する言葉らしい。つまり人生、バックしながら進んでいるということだろうか。僕らの感覚とは逆。これが聖書(信仰)の世界観だ。
 7カ月の息子がずりばいをするようになった。が、一向に前に進めない。本人は、前に進む気満々なのだが、手足を動かせば動かすほど、後ろに進んで行く。信仰を持って生きるというのは、正に赤ちゃんのずりばいと同じだ。前に進みたくても思うように前に進めない。そんな現実に、僕らはため息をつく。何も前に進んでいない。むしろ悪くなっている。後退している。そう嘆く。でもたとえ人の目には後ろに進んでいるように見えても、神様の目には将来(神の国)に向かって、ちゃんと進んでいるのだ。後ろ向きに神の国に向かう僕らを、迎え入れる神様は「バックオーライ、バックオーライ」と言いながら待ってくれている。
 
 
 
 

安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。(マルコによる福音書2章27節)
 
 僕の大好きな芸人の〝なかやまきんに君″(以下「きんに君」)が、以前こんなことを言っていた。「健康のためなら死んでもいい!」。筋トレを愛し、身体に良いことを追い求め、超健康志向のきんに君が行き着いた先にあったボケ「健康のためなら死んでもいい!」。当然、周りはツッコむ。「いやいや、死なへんための健康やん」と。この「健康」と「死」を巡る大いなる矛盾。本末転倒な所が面白いのだが、案外それと似たようなことを、自分たちも大真面目にしてしまっている。この場合、笑えない。
 その昔、ユダヤ教の中にファリサイ派と呼ばれる一派がいた。彼らは、聖書(律法)に書かれていることを、一字一句違えずに生きるこが人生のすべてだと考えていた。だから聖書の中にある安息日の規定、これも「休まなあかんって書いてるんやから、何が何でも休まなあかんのや」ってな感じで理解していた。
 ある安息日に、イエス様が麦畑を通って行っていると、その後に続く弟子たちが歩きながら麦の穂を摘み始めた。それを発見したファリサイ派の人たちがイエス様にこう言った。「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」(マルコ2:24)。イエス様は答える。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」。「安息日のためなら、死んでもいい」そう言うファリサイ派の人たちに、「いやいや、死なないための安息日やん」と諭す。
 そもそも聖書は、何のために、誰のために記されたのか。とても本質的なことが、その精神(心)が言われているように思う。人のために神様が定めてくださったルールがあるのに、いつの間にかルールのために人がいる。ルールが人よりも優先される。確かに「決まりだから」と言っておけば、少なくとも自分に対する責任は回避できる。考えなくて済む。面倒は避けられる。でも本当にそれでいいんだろうか…。最近、考えさせられる。
 
 
 
 
 

人を義としてくださるのは神なのです。(ローマの信徒への手紙8章33節)
 
 息子が4カ月になる。手足をバタバタさせながら「ア~」「ウ~」と声を出す。そんな中、最近の流行りは「ギ~」。朝起きて「ギ~」、昼下がりに「ギ~」、風呂上りに「ギ~」、おっぱいの合間に「ギ~」。「ギ~、ギ~、ギ~、ギ~」叫んでいる。イカれてるんじゃないかと思うくらい繰り返すので、これは一体「何のことかと考え込んだ」(ルカ1:29)。すると、ある聖書の言葉が浮かんできた。「人を義としてくださるのは神なのです」。
 聖書の中に「義」という言葉が何度も出て来る。これは「正しい」とも訳せる言葉だ。その際、興味深いのは、大抵は「義とされる」などと受け身で語られている、ということだ。人は自分の力で義(正しい者)となるのではない。神様によって義(正しい者)とされる。そのことを聖書は一貫して語っている。「正しい者はいない。一人もいない」(ロマ3:10)、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(同3:24)。
 誰しもが、自分は「正しい」と思い込んでいる所がある。少なくとも「あいつよりはマシだ」と。しかし神の目は誤魔化せない。そのジャッジは厳しい。イエス様はおっしゃられた。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5:2728)。「心の中」での出来事、「思った」だけでアウトなのだから、たまったもんじゃない。
 人の奥底には罪が潜んでいる。どれだけ上手に隠しても、抑えつけても、ふとした瞬間、色んな形で出て来る。罪がある限り、誰も「正しい」などとは言えない。しかし聖書は語る。その罪をイエス・キリストがすべて請け負い、ご自分の命でもって清算を、償いをしてくださった、と。キリストによって義とされている。本来、正しくない者が、神の前に裁かれ、滅ぼされても仕方ない者が、キリストの顔(命)に免じて赦されている。義とされ、神の国に迎えられている。
 「ギ~」と叫ぶ息子。聞いているうちに、段々「義~」に聞こえてくる。「俺は義~。義とされている」。こいつは素直に、神様によって与えられた義を喜んでいる。そしてそれを口にしている。のかもしれない・・・。
 
 
 
 

ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。(コリントの信徒への手紙一3章4節)
 
 宮本武蔵の生涯を描いた『バガボンド』という漫画がある。そこに伊藤一刀斎という滅茶苦茶強い男が出て来る。一刀斎は、後に武蔵のライバルとなる小次郎の師匠にあたる人で、最強の名をほしいままにしていた。時は戦国。刀一つで成り上がろうと、皆がその「最強の座」「一刀斎の首」を狙っていた。
 ある時、腕に自信のある5人の剣客が修行の旅を共にしていた。そんな彼らが、幸か不幸か一刀斎と出会うことに。一刀斎のただならぬ雰囲気にたじろぐ5人。そんな中、吉岡伝七郎という男が名乗りを上げる。この男は京都の名門「吉岡流道場」の出身で、父親はその創立者、有名な剣豪だった。一刀斎を前に、伝七郎は反射的に「吉岡」の名を口にする。今までそうやって戦ってきたのだろう。自分がどれだけ名門の出か、まずそれを相手に突き付けるのだ。
 しかしそれに対して一刀斎は言い放つ。「その名を出しゃあ、お前が何割増しかに見えるんだろうが、ところでおい、いいのか?先刻から儂の間合いに入っている訳だが」(第16巻『狂宴』)。
 一刀斎は、目の前の相手を見ている。一人の人間、伝七郎と対峙しているのだ。それ以上でも以下でもない。しかし伝七郎はというと、そのステージにすら立てていない。肩書やら、周りのことやら、色んなものを引っ張り出して、強い自分を演出するのに必死なのだ。この時点で勝負にならない。個として立つ一刀斎に対して、周りとの関係を持ち出さないと自分ではいられない伝七郎。
 こういうことって、よくある。聞いてもいないのに自分から「〇〇さんと知り合い」とアピールしてくる人が、あなたの周りにもいると思う。「凄いと言われる人と繋がっている私って凄いでしょ」と言わんばかりに。そういうのって結構ダルい。教会の中でもある。牧師でもいる。「〇〇先生の下で学んだ」とか「△△教会で洗礼を受けた」と自慢げに話す人が。それが名の通った?人や教会であればあるほど、聞かされる方は白けてしまう。
 その昔、教会の中にパウロ派、アポロ派なるものがあった。どっちに属しているか。どっちがイケてるか。人々はそんなことばかり気にしていた。結局、神様を信じているのではない。〇〇派に属している自分に安心しているだけで、そうなるとただのミーハーだ。「その名を出しゃあ、お前が何割増しかに見えるんだろうが…」。
 イエス・キリストは問う。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタイ16:16)。「周りがどうこうじゃない。あなたがたは、否あなたは、あなた自身はどうなのか? いちいち人の名前を持ち出すな。周りに隠れるな。誤魔化すな」。ある意味で厳しい問いかけだ。しかしそれだけ真剣に向き合ってほしいということだろう。神様は他人がどうこう、そんなことを聞きたいんじゃない。面と向かったあなたそのものとの関係を求めておられるのだ。それだけ私たちを、一人の人間、存在として認めてくれている。どんなに小さくても、弱くても、みっともなくても、自分のままに神様と向かい合う姿を、神様は決して笑わない。
 
 
 
 

力を捨てよ、知れ、わたしは神。(詩編46編11節)
 
 最近、生まれて間もない息子を風呂に入れるのが僕の日課だ。風呂に入れると、決まって息子は自分の手をギューッと握りしめる。こっちが手の平を洗おうとしても、一向に開こうとしない。仕方がないので、無理にこじ開けるように洗う。そんなもんだから、手に限っていえば、いつもちゃんと洗えた気がしない。
 ある日、おっぱいを飲み終わり満足したのか、手の平を開いた状態で寝ていた。すると妻が、手の平のシワの間から糸くず(埃)のようなものを発見した。恐る恐るニオイを嗅いでみる。「くせぇ!!」。そらそうだ、風呂に入ろうが何しようが、奴はずっと埃を握りしめていたのだから。それをシワの中に隠していたのだから。臭うはずだ。以来、シワの隙間は特に注意して洗うようになった。
 赤ちゃんは反射で手を握る。誰に習うでもない、そういうふうにできているのだ。風呂に入る時、不安だから、怖いから、緊張して握るのかもしれない。大人も色んなものを握っている。プライド(誇り)を握っている人、お金を握っている人、権利を握っている人、人脈を握っている人、信仰を握っている人、皆必死で何かを握っている。裏を返せば、それだけ怖いのかもしれない。自分の手の中に、握りしめることができる確かなものを入れておかないと不安なのかもしれない。でも、握りしめれば握りしめるほど、それは臭い出す。
 神様は言う。「力を捨てよ」「持っているものを握りしめるな」と。そして続ける「知れ、わたしは神」。誰でも、何かを手放すのは怖い。それが大切なもの、価値があるものであればあるほど手放せない。捨てられない。でもそれは私たちを最終的には救わない。やがて臭い出す、腐り果てて行く。そうなる前に「知れ、わたしは神」と神様はおっしゃられる。何かを手放したとしても、力を捨てたとしても「わたしはあなたの神」それを知っておいてほしい、と。どれだけ祈ったから、どれだけ熱心だったから、どれだけ寄付したから、その見返りとして「わたしはあなたの神」「あなたの味方」と言っているのではない。たとえ一文無しになっても「わたしはあなたの神」そう言ってくださっているのだ。 
 
 
 

人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。(創世記2章25節)
 
誰もが持っている
英語で言うなら shame
日本語で言うなら羞恥心
それを棚にあげましょう
自分自身誰もあなたを笑いませ
そうゆう人ならいません
ここはまるで敵がいない国
絶対無理 なんて言わないあなたが
大好き

(KREVA「敵がいない国」より一部抜粋)

  
 その昔、人(アダムとエバ)は素っ裸だった。元々そのように神様が創られたのだ。だからそのことを「恥ずかしがりはしなかった」と聖書にはある。だってそれが当たり前だから。そういうものだから。
 KREVA(ラッパー)の曲に「敵がいない国」というものがある。そのミュージックビデオを観ると、可愛いイラストで、裸の人が楽しそうにダンスしている。それを観ながら僕の中で、創世記に登場する人(アダム)の姿と重なった。裸であることを、まるで気にも留めていない。そう、神様に人が創られた時の姿が、そこにはあった。敵がいないのだ。裸であることを責め立てるような。
 ところがどうだろう。今の自分はというと、当然、服を着ているし、服だけではない、色んなものをその身にまとっている。虚勢を張り、肩書やら、プライドやらの衣をまとい、厚着していると言ってもいい。馬鹿にされないために。敵から自分を守るために。そうしながら、自分が「敵がいない国」の出身者であることを忘れてしまう。そのままで神様に受け入れられている存在であることを。
 それを思い出させるために、「敵がいない国」に僕たちを連れ戻すために、キリストはやって来られた。裸で、赤ちゃんの姿で。KREVAの歌詞にあるように「誰もあなたを笑いません」。神様は、僕たちの不細工な裸の姿を笑わない。だって、そのように創ったのだから。笑っているのは、勝手に「敵がいる国」を作って、そこに住み着いているのは、自分自身なのかもしれない。
 そう考えると、キリストが十字架につけられた時「裸」であったということと、墓から出られた時、亜麻布を残して出て行かれたというのは、偶然ではないように思う。敵がいない国の住人であるがゆえに、着るものなんて必要ないのだ。
 「絶対無理、なんて言わないあなたが、大好き」との歌詞。これは、どこまでも、どんな姿でも受け入れる神様(「敵がいない国」の主)に対する、信仰の告白にも聞こえる。
 
 
 
 

わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても、主こそわが光。(ミカ書7章8節)
 
 高校生の時、ボクシング漫画の「はじめの一歩」にハマっていた。そこで学んだこと。相手に最もダメージを与えるもの。それは強力なパンチでも、鮮やかなコンビネーションでも、素早いフットワークでもない。倒れても起き上がること。相手からしたら「これで決まりだ」そう思って放った一発。見事にダウンを奪う。「もう立てないだろう」そう確信してコーナーに。しかし振り返ると、それを裏切るように立ってくる。「まだまだやるぞ」とファイティングポーズを取る。目が死んでいない。これが相手にとって最もダメージ(ショック)を与えること。実際に、肉体的なことを言えば、倒された方がボロボロなのに決まっている。でもボクシングは心を折らないと勝てない。逆を言うと、心が折られない限り負けない。
 生きていると「わたし」に敵対する人が、わたしの心を折ろうと、色々なことを仕掛けてくることがある。あることないこと言われたり、嫌がらせをしてきたり。それにまんまとやられてしまうことがある。ダウンすることが。それを見て相手は、してやったりと喜ぶだろう。でも聖書は言う。そんな相手への最大の逆襲。それは「し返す」ことではない。「たとえ倒れても、起き上がる」ことだ、と。
 起き上がったからといって、何ができるわけでもない。また倒されるかもしれない。でもキリスト者は、そうやって苦しい時代を生き抜いてきた。どうしてかって、自分たちが信じるキリストが、神の力によって死(絶望)の中から起き上がらされたから。キリスト者は自分の内に光(可能性)を見ない。自分の外に、神の中にそれを見る。もしかしたら、そういう奴が一番厄介なのかもしれない。キリスト者に喧嘩を売るのは止めた方がいい。ゾンビのように無限に立ってくるから。
 
「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ4031節)
 
 
 

 〔イエスは〕通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。(マルコによる福音書2章14節)
 
 「ビックハット」に「エムウエーブ」。長野には冬季オリンピックの時に活躍した大きな箱物がある。そのためアーティスト(音楽)たちが全国ツアーなんかをする際、そこが会場として使われる。一度に1~2万の人が集結するのだから長野駅は大混雑だ。ジャニーズなんかが来たら辺り一面、女子、女子、女子、おばさん、女子で埋め尽くされる。熱狂的なファンの人たちは、どこまでも追っかける。
 しかし「イエス・キリストを信じる」というのは、そのような「追っかけ」とは違う。追っかけは、どこまで行っても自分次第。極端な話、勝手に好きになって、勝手について行っているだけだ。だから何か問題があるとサッーと離れてく。
 その意味で、キリストの追っかけと、キリストの弟子は違う。キリストの追っかけは、たくさんいたし、今もいる。キリストの教えに感銘を受け、キリストに憧れ、キリストのことをよく勉強している。キリストのことなら、何でも知っている、そんな人だっている。でも「知っている」ことと「ついて行く」ことは、まったく違うことなのだ。
 キリストは「よく勉強して、わたしのこと知ってくれ」「わたしのファンでいてくれ」そう言ったのか。そうじゃない。「分からんでも従え」「ごちゃごちゃぬかしてねーで、ついて来るのか、来ないのか、どっちなんだ。ほら、神の国に行くぞ」そうおっしゃったのだ。
 そう考えると違いは明白だ。ついていく主体(根拠)が「自分」の場合はファン。「キリスト」の場合は弟子。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」(ヨハネによる福音書5章39-40節)。
 

 わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今と異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。(コリントの信徒への手紙一15章51-52節)
 
 将棋のルールをご存知だろうか。将棋には「成金」というシステムがある。自分の駒が敵陣に進んでいく際、敵陣の三段目以降に侵入することに成功すると駒がひっくり返され、駒が一気にグレードアップするというシステムだ。例えば、それまで一コマずつ前にしか進めなかった「歩」が、敵陣の三段目に入るや否や、裏っ返されていきなり「金」になり、それ以降「金」のパワーを持つようになる。「飛」「角」に至っては、その能力(上下左右への自由移動)を維持しつつ、「金」の機能も加えられるので、ある種、無敵モードになる。まぁその意味で「飛」「角」の場合、それほどお得感はないけど。が、「歩」に至っては、最高に気持ちいい。お得感がすごい。だってそれまで前にしか、しかも一コマずつしか進めなかったのだから。それが横にも、斜めにも、後ろにも進めるようになる。そのような大変革、成り上がりを「成金」と言う。
 聖書は語る。私たちにもそれが起きる、と。まるで「歩」がひっくり返されて「金」になるように、「わたしたちは皆、今と異なる状態に変えられます。…たちまち、一瞬のうちに…、わたしたちは変えられます」と。自分の人生、まるで「歩」のようだ。パッとしない。地味で、一体何の意味があるのだろうか。存在価値などあるのだろうか。そう思うことがあるだろう。でも、だからこそ知ってほしい。それがやがて「変えられる」ということを。そうであるならば「歩」も捨てたもんじゃない。「歩」みたいな命だからこそ、変えられた時の喜びも一段と大きいように思う。その意味で将棋界のスター「飛」「角」をあまり羨む必要はない。奴らは「金」に変えられることを、そんなに喜べないだろうから。
 
 
 
 

そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。(マルコによる福音書15章21節)
 
 車でとある道を走っていた時のことだ。歩道を自転車で爆走していた小学生に目を奪われた。背中に「USA」とでっかくプリントされたTシャツを着ていたので思わず二度見。あまりにもUSAが目立つものだから、何かおかしくなってきた。「こいつは、こんな田舎道でUSA(アメリカ)を背負って生きているのか…」と。色々と想像が膨らむ。多分、お母さんが適当に買って来たのか、それとも貰い物なのか。まぁ見たところ低学年なので、自分から「これ欲しい!着る」なんてことはなかろう。お母さんセレクトでまず間違いない。母親に決められた服を着る。子どもに選択権などない。となるとUSAを着ているのは本人の意思ではない。しかし彼は図らずともUSAを背負うことに。
 生きていると自分の意思とは関係なく、自分の望みとは違うことをやらされることがある。イエス様が十字架にかけられる時、その道中で十字架を代わりに背負うことになった人がいた。その時、たまたま田舎から出て来て通りかかったシモンという男だ。「兵士たちは〔彼に〕イエスの十字架を無理に担がせた」とある。シモンからすればいい迷惑だ。自分で背負いたいなどと名乗り上げたわけではない。まったくの不本意。シモンも、ブツブツ文句を言いながら十字架を背負ったことだろう。しかし図らずとも彼は、かつてイエス様が人々に「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とおっしゃられた、そのことを正に文字通り実践する男となった。そして彼はこの出来事を通して、十字架の本当の意味を、神の愛を知ることになる。自分が意図しない所にこそ、神の意図が現れているのかもしれない。
 
 
 

そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。(マルコによる福音書15章29節) 
 
 最近のトイレはすごい。入ると勝手に電気がつき、自動で便器が開く。すべてがセンサーで管理されているのだ。でも便利すぎるがゆえの欠点もある。その日、出先のトイレで僕は大を出すのに苦労していた。身を屈め、じっと踏ん張りながら固まる僕。すると突然、電気が消えた。「何事か!?」と思って頭を上げると「パッ」再び電気がついた。そう、僕があまりにも動かないものだから、センサーが勝手に「不在」と判断して、電気を消したのだ。仕方ない。僕は、頭を振りながら大をすることに。機械に「ここに僕、いますよ~」アピールするように頭を振り続ける。しかし、そんなんじゃ大に集中できない。踏ん張れない。本当に迷惑な話だ。
 イエス様が十字架にかかったあの日、「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらののしった」と聖書にはある。「頭を振る」というのは、相手を馬鹿にする際のユダヤ文化特有のジェスチャーらしい。日本では、そんな文化はない。でも相手を馬鹿にすること、批判すること、悪口を言うことが多いのは万国共通。そんな時って、妙に生き生きする。
 ここに人間の悲しさがあるように思う。僕たちは、誰かを否定せずにはいられない。そうやってでしか、自分を肯定できないのだ。頭を振りながらののしる人々。ののしっている時だけは、自分の存在を確かに感じることができる。あの日、彼らはののしりながら、その魂の奥底では「ここに僕、いますよ~」そうアピールしていたのかもしれない。自分を認めてほしい。知ってほしい。受け入れてほしい。ののしりの背後に、満たされない承認欲求から来る叫びが隠れているように思う。聖書はそんな人たちの動きを敏感にキャッチし、「パッ」と照らして白日の下に晒す。
 
 
 
 

わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。(ガラテヤの信徒への手紙6章17節)
 
 小さい頃、住んでいた家には風呂が無かった。なので2日にいっぺん、歩いて1分の銭湯に行っていた。銭湯に行くと、決まって龍やら虎やら鯉やらと賑やかなペインティングを背中に施したおっちゃんらがいた。入れ墨だ。
 使徒パウロは言う。「俺、墨入ってるぜ(わたしは、イエスの焼き印を身に受けている)」と。別に相手を威嚇してそう言っているのではない。「消えない印が自分にはある」と言っているのだ。
 昔は、家畜だけではない、奴隷なんかにも「焼き印」が押されていた。それでもって、誰の所有であるか、はっきりさせていたのだ。パウロがここで言う「焼き印(墨)」。それは洗礼を受けた時につく。人の目には見えないが、神様の目にははっきり見える印。所有者はイエス・キリスト。これはなかなか厄介で、一度つけられると消えない。
 たまに教会で「(教会員)籍を抜いてください」と言ってくる人がいる。キリスト信仰に失望したのか、教会が嫌になったのか、他のものを信じるようになったのか。理由はまちまちだが、正直返答に困る。書類上、その人の教会籍が記された紙をシュレッターにかければすむかというと、そうではない。いくら燃やしても、データを消去しても、神様の方では消えないのだ。正に入れ墨と一緒。いつまでも残る。
 裏を返せば、どれだけ僕らが神様から離れようが、捨てようが、裏切ろうが、そんなことで神様は縁を切ってはくれない。実はそれだけ強い絆で結ばれている。
 
 
 
 
 
 
 

その夜、主は、彼ら〔イスラエルの民〕をエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。(創世記12章42節)
 
 午前2時、計らずとも目が覚めてしまった。起きて何かをするには、さすがに早すぎる。かといって一度完全に目覚めたので、なかなか寝付けない。布団の上でどうしようかと迷う僕。隣では気持ちよさそうに妻が眠っている。暇だ。暇過ぎる。そんな時だ。急に尿意ならぬ屁意が。「そうだ、こいつ(屁)をこいつ(妻)に食らわしてやろう!」。今考えれば小学生の発想だが、思いついたら最後、もう止まらない。屁をその手で握って、妻の顔付近で解き放つ。「うーーーーん!?」。幸せそうな顔から一変、苦悶の表情の妻。「シシシシ」笑いを堪えるのに必死な僕。屁を食らった本人は、気づかずに眠り続ける、そんな夜中の一幕。
 イスラエルの民は、奴隷であったエジプトから逃げ出す際、野宿をした。当然、それは危険を伴うこと。エジプト軍は連れ戻そうと追いかけて来るし、盗賊や野獣だっていただろう。しかし夜寝ている間、神様が「寝ずの番をされた」と聖書にはある。そういったものが近づかないように、安心して眠れるように、何かしらの手立てを講じてくださっていたのだ。しかしイスラエルの民は、それに気づかない。だって本人たちは眠っているから。当然のように眠り、当然のように朝起きていたことだと思う。でもその背後には、神様の人知れぬ働きがあった。神様は眠らない。眠らずに、僕らの眠りを見守ってくれている。だから安心して眠ったらいい。神様は、決していたずらなんかはしないから。
 
「主は愛する者に眠りをお与えになる」(詩編1272節)
 
 
 
 
 
 

イエスはその一人一人に手を置いていやされた。(ルカによる福音書4章40節)
 
 聖書で「癒す」と訳されている言葉は、ギリシア語で「セラピュオー」という。ご存知の「セラピー」という言葉は、ここから来ている。「セラピュオー」には、もともと「仕える」という意味があった。人が人に仕える中で、状態が良くなっていく。回復していく。そこから派生して、この言葉は「癒す」という意味を持つようになった。そう考えると「癒し」と一言でいっても、それは医学的な面に限った話ではないことが分かる。
 イエス様は確かに、人々の病を癒された。医学的な意味で。でもそれ以上に、イエス様は「仕えて」くださったのだ。「人の子〔イエス・キリスト〕は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコによる福音書1045節)との言葉通りに。
 その際、「〔病人〕その一人一人に手を置いて」と聖書にはある。イエス様は、病のさらに奥にある孤独に、悲しみに、憎しみに、不安に触れて、そういう行き場のない者たちと関係を築いてくださった。そこには「あなたも大切な存在、神の子だ」とのメッセージがあったのだと思う。それによって人々は、ただ病が治っただけではない、人としての尊厳を取り戻したのだ。そして自分にも天の故郷が用意されていることを知った。神との関係の中に生き、神との関係の中にあって死んで行く時、初めて人は健やかになる。
 皆が皆、医者のような処置ができるわけではない。痛みや苦しみを前に、何もできずに立ち尽くすことがあるだろう。けれども手を置くことはできるはずだ。それによって「あなたは一人ではない」と伝えることが。キリストの手は今も伸びている。そう、あなたの手を通して。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ書68節)。
 
 
 
 
 
 

園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。(創世記2章17節) 
 
 ダチョウ俱楽部(お笑いトリオ)の鉄板芸、「押すなよ」。熱湯風呂を前に、竜ちゃんが「絶対に押すなよ」と言う時、それはすなわち「押せ」ということ。芸人にとってNONOにあらず。YESの合図でしかない。
 神様はアダムに言う。「決して食べてはならない」。「決して」強い否定の言葉が入る。「絶対に」となんか響きが似てる。「食うなよ、絶対に食うなよ」。
 もしや神様、おフリですかな!?いや、完全にフッてますやん。アダムに芸人の素養があったなら、そう勘ぐったに違いない。「これは食べろ・・・でいいんですね?」と。真相は分からない。結局、アダムは食べることに。
 残念ながら、これは前フリでも何でもなかった。神様は大真面目。本当に駄目なパターンだった。神様の言葉に、余計な詮索は不要。そのまま素直に聞くべし。でもそんなふうに、別のニュアンスで聞くのが人間なんだと思う。 
 
「ひとつのことを神は語り、ふたつのことをわたしは聞いた」(詩編6212節)
 
 
 
 
 
 
 
 

アブラハムは目を凝らして見回した。(創世記22章13節)
 
 ナビはいつも肝心な所で見捨てる。「目的地周辺です。音声案内を終了します」。知らない場所に行くからナビ設定しているのに、「もうここまで来たら大丈夫でしょ?」と言わんばかりに、一方的に放り投げる。いけずだ。そんな時は仕方ない。自分で必死になって目を凝らし、探すしかない。
 神様はその昔、イスラエルの民をエジプトから連れ出す際、「昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた」(出エジプト記1321節)。それを頼りに、彼らは行進することができた。また博士たちがイエス様に会いに来た時も、「東方で見た星が先立って進み」(マタイによる福音書2章9節)とある。星を目印にやって来た。神様は、そういった私たちの身の回りのものを用いて案内する。神の国(安住の地)に。でもたまに見捨てることがある。いや、正確には見捨ててはいないのだが、「音声案内を終了」する時がある。「まさか」と思うような所で。
 神様が「行け」と言うから、息子(イサク)と二人、礼拝をするため山に登ったアブラハム。ところが山の上で突然、神様からの音声案内は終了し、放置されることに。肝心の、礼拝をするための献げ物(小羊)が見当たらない。神様も、何でそんないけずをするのだろう、と思う。しかしその時「アブラハムは目を凝らして見回した」とある。仕方ない。自分で探すアブラハム。
 今まで自分を導いてくれた声が聞こえなくなる時がある。頼りとしていた人生の目的や目標を見失う時がある。しかしそこでようやく、私たちは目を凝らすようになるのだ。必死になって祈るし、本気になって求める。もしかしたら神様は、それを待っているのかもしれない。
 
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主が懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブライ人への手紙1256節)
 
 

後ろを振り返ってはいけない。(創世記19章17節) 
 
 「後悔」という言葉、読んで字のごとく「後ろ(過去)」を「悔いる」。誰もがあるだろう。「あの時、何でこうしなかったのか」そういう思いが。それが深ければ深いほど、僕たちはそこから動けなくなる。過去が足を引っ張るのだ。
 「ソドム」と「ゴモラ」という町があった。いずれも豊かな町だった。でも、そこに住んでいる人たちの心は貧しかった。町の人たちは、悪行に悪行を重ね、神様も「どうしたものか」と常々頭を悩ましていた。「仕方ないけど、滅ぼすしかない…」。それが、神様が下した決断だった。
 そこへ「待った」をかけるアブラハム。彼は必死に願う。「滅ぼすのだけは勘弁して」と。ソドムの町には、大切な甥っ子ロトがいたから。そこで条件を出す。「正しい人(神様を信じる人)が50人いたら見逃して」と。神様はその条件を飲む。が、不安になりもう一度提案する「40人いたら…」。神様はそれでもいいと言う。ここから値引き交渉が始まる。結局10人いたら勘弁したろう、という所で決着。
 しかしアブラハムの交渉も空しく、ソドムには10人もいなかった。そこで神様も滅ぼすことに。でも神様は、ロトとその家族、救おうとお考えになった。御使い(天使)を送ってすぐ町から出るように言う。その時、「後ろを振り返ってはいけない」と。
 着の身着のまま町から逃げるロトとその家族。後ろでは「ゴー」「ドカーン」「バーン」今まで聞いたことのない恐ろしい音が聞こえていたと思う。その中には「キャー」「うわー」「助けてー」ソドムとゴモラの人たちの叫び声も。後ろが気になって気になって仕方ない。「自分の家はどうなったんだろう?お気に入りの服は、食べ物は、お金は・・・」。我慢しきれなくなって、ロトの奥さん、振り返ってしまう。その瞬間、奥さんは「塩の柱になった」と聖書には記されている。
 ロトの奥さんは家に残してきたモノが気になった。「勿体ない」「何か残ってないだろうか」「逃げる時、こうしておけば」と思ったのだ。後悔して振り返る時、人は動けなくなる。ロトの奥さんのように、塩の柱になってしまう。神様は言う。「後ろを振り返ってはいけない」「色んな音、声が後ろから聞こえてくるだろうが、心配するな。最善の道を、あなたに用意している。わたしの言葉が聞こえる方を向け」と。
 
 
 
 
 
 
 

互いに重荷を担いなさい。(ガラテヤの信徒への手紙6章2節) 
 
 一方だけが重荷を担う時、どうしても「してやっている」という思いが芽生える。上下が生まれ、そして重荷を担われる側は申し訳なさを、引け目をどこかで感じることになる。短期的に見れば、できる人ができない人の分を全部やってしまう方が効率的だ。できる人が、いちいちできない人を教える手間も、時間も、ストレスも省けるから。「どうせ、あんたはできないんだから」そう言って最初から何も期待せず、何も任せず、何でもかんでもその人から取り上げる。しかしそうしながら、できる人はできない人に対して、暗に宣告しているのだ。「お前は不要だ」「存在価値はない」と。
 聖書は言う。「互いに重荷を担いなさい」。これが平和に生きて行く秘訣だ、と。その際、もちろんウエイト(比重)に偏りが出てくると思う。できる人がよりたくさん担うことになるだろう。文句の一つや二つも言いたくなると思うが、できる人はよくよく考えるべきだ。できない人が、どれだけ気まずい思いの中にいるか、いたたまれないかを。反対に、できない人は「できないこと」に開き直るべきではない。担うべきものがあるはずだ。
 キリストは、何から何までおできになる。手伝ってもらう必要なんてない。十字架だって自分一人で担える。しかし僕たちが担う分をあえて残す。「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコによる福音書834節)。決して対等な重さではない。キリストが担っている重さに比べれば、僕たちの分なんてほんの気持ち程度だ。それでもキリストは担ってほしいと願う。そうやって僕たちに、神の国での居場所を作ってくれているのだ。一方的に担うとそうはいかない。相手の居場所まで奪うことになるから。
 
 
 
 
 

ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。(ルカによる福音書15章8節)
 
 自動販売機を見ると、小学生の頃、下校途中に必ずやっていたことを思い出す。それは自動販売機のつり銭返却口に、手を突っ込みながら帰るということ。忘れもしないとある日、自動販売機で友達が大量のつり銭を見つけるということがあった。そいつは他の人に取られないために、とっさにつり銭目がけて唾を吐いた。「汚ねぇ!」(二つの意味で)。もう手出しは出来ない。そいつのものだ。
 それ以降、自動販売機を通りがかる度に、つり銭返却口をチェックすることが日課に。それだけでは飽き足らず、時に自動販売機の下にも落ちていないか、這いつくばって確認することも。自動販売機の下には案外落ちているもので、木の枝や定規を使って取ったのを覚えている。その際、ホコリやらゴミやら、虫やらがもれなくついてくる。汚れてはいるが、しかしお金はお金だ。価値は変わらない。今でも、いい感じに下に隙間がある自動販売機を見ると、覗きたくなる。覗かないけど。 
 でも、ふと思う。そうやって忘れ去られたお金、自動販売機の下に入り込んでしまったお金は、誰かが這いつくばって見つけなければ、ずっとそのままだ。本当は、価値のあるものなのに、その価値に気づかれないまま、その価値を発揮しないまま忘れ去られてしまう。「まさにそれは自分自身のことだ。自分は一生、日の目を見ることはない」。そう諦め、暗闇に伏している人が、どれだけ多いことか。自分もそのような思いに囚われる時がある。
 しかし聖書は語る。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピの信徒への手紙267節)と。神様の這いつくばった姿、それがイエス・キリストだ。自動販売機の下に隠れているあなたを見逃すまいと、今も神様は這いつくばいながら捜している。
 
 
 
 
 
 

マルタは、いろいろのもてなしのためにせわしく立ち働いていた(ルカによる福音書10章40節)
  
 何も手につかない日がある。そんな日は振り返って、何も生み出さなかったこと、何も生み出せなかったことを悔いる。依頼されている原稿を書き上げたわけでもない。本を読んだわけでもない。聖書の話の準備をしたわけでも、事務作業をしたわけでも、教会員宅を訪問したわけでもない。かといって家のことをしたわけでもない。当然、世のため、人のため役に立った、何かを成し遂げた、などという手ごたえもない。それなのになぜだろう。徒労感だけは、いつも以上にある。
 「生産性」が求められる世の中。何をしたか。何ができるか。どれだけ付加価値の高いものを提供できたか。それによって人の価値が決まる。その波は、教会の中にも入り込む。そう、僕自身の頭の中をも席巻し、支配するのだ。教会では「そのままでいい」と語りながらも、僕自身がカリカリし、「何かしなければ」と焦っている。その姿が、周りに何かをしなければいけない空気を作り出しているのだ。もし教会に、何かをしていないと居づらい雰囲気があるならば、それは僕(牧師)の責任なのかもしれない。
 昔「アメトーク」(テレビ番組)で、「人見知り芸人」の回があった。楽屋で人見知り芸人とスタッフ、二人きりの状況を隠し撮りする。ある芸人は、その間が持たない微妙な空気に耐えかねて、ひたすら手元にある缶コーヒーのラベルを読むということを始めた。その芸人は、隠し撮りされたVTRを観ながら、なぜそのような行動をしたかを語る。「自分はスタッフと愛想よく、気の利いた世間話をすることはできない。かといって、ただ黙って、何もしていない人になるのも怖い。それならラベルを読む人になればいい」と。なるほど、と思う。何もしない、していないということを、僕たちは異常なくらいに嫌う。何もしていない裸の状態が耐えられないのだ。
 「ヒマの過ごし方」(スチャダラパー)という歌の中の一節にこうある。「みんなヒマは嫌いなのか?ヒマはダメか?悪いのか?そんなに嫌か?ヒマが。…今の人がヒマを受け入れる事が出来なくなりつつあるなら、それは能力の減退だ。減退はいかん、食い止めるのだ、ヒマ人どもよ立ち上がる時だ」。
 何かをしていないといけない。その刷り込みが、どこかにある。だから何もしないことに疲れるし、そうならないために必死になって役割を見つけようとする。何かをしている人になろうとする。マルタはあの日、忙しく働いていた。「もてなしをする人」になっていた。もちろん、誰かがしなきゃいけない仕事だ。でも内心ホッとしていたのではないか。自分は何もしない人(価値のない人)ではない。「もてなしをする人」なんだ。その役割を果たす限りにおいて、自分は存在していい。価値がある、と。
 しかし「何もしない」というのにも勇気がいる。もしかしたら、そっちの方が人一倍、強靭な覚悟と力がいるのかもしれない。動き回るマルタとは対照的に、この時マリアは何もしていなかった。いや厳密に言うと、「何もしない」ことを「していた」のだ。神様は語る。まず「やめよ」(詩編46:11〔岩波訳〕)と。何もするな、と。そう神様は、何もしない裸の私たちに語りたいのだ。「何かをしているから価値があるのではなくて、たとえ何もしていなくとも、あなたには価値がある」と。だから何もしない人、できない人、あんまり卑下し過ぎないように。そして何かしている人、できる人は、遠慮せず神様のためにどんどんしよう。
 
 
 
 
 
 
 

キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、…愛の動機から、他方は、自分の利益を求めて、…不純な動機から…。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。(フィリピの信徒への手紙1章15~18節)
 
 学生時代、毎日自炊をしていた。その際、調味料を安く済ませるために、「本みりん」ではなく「みりん風調味料」を買っていた。大抵スーパーに行けば、隣同士に並んでいる。が、値段が全然違う。当然、安い「みりん風調味料」の方に手が伸びる。その後、本みりんが買えるようになって気づいたのだが、これまったくの別物。あくまでも「~風」なのだ。本家には敵わない。だからこだわる人はこだわる。絶対「本みりん」じゃなきゃダメだと。でもそんな贅沢しなくても「みりん風調味料」でも事足りるのだ。僕にはそれで十分。
 キリスト教には、色んな教派がある。僕が属している日本基督教団の中でも、各教会によって伝統が違う。まぁ外から見ればカトリックもプロテスタントも、キリスト教系新興宗教も一緒だろうけど、中にいる人たちはそうは思わない。ほとんどが自分たちの教会・教派・伝統にこだわりを持っている。そして自分たちこそ「正統(王道)だ」と、どこかで思っている。そうすると何が起きるか。周りを認められなくなるのだ。「あいつらは中途半端だ」「間違っている」と。「それに比べて自分たちは!」と誇りだす。所詮は罪人の集まり、各教会には一長一短があるのは分かり切っているはずなのに、どういうわけか自分たちには、その前提は適用されない。
 ふと、そういうことを自分もしまっていると思わされる。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(マタイ7:3)。イエス様もうまいこと言う。「人の小さな目糞には敏感に気づくくせに、お前、自分のデカい目糞には気づいてないやんけ」。「あ~恥ずかしい」。でも、そういうことなのだ。恥ずかしいことを、真面目な顔してやっているのだ。
 本来聖書は、読めば読むほど自由になるはずの書物だ。イエス様も言っている。「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)と。なのに実際は、どういうわけか聖書を読んでいるはずのクリスチャンが不自由になっている。どうしてかと自分自身に問うてみると、そこには線を引くことにやっきになっている自分がいた。本物と偽物を、正統と異端とを区別し、線を引く。正に聖書の中に出て来るファリサイ派(何でもかんでも分ける派)がやっていたことだ。でもその際、周りを否定しないと成り立たない正統って、どうなのよ、と思う。たまに教会に新興宗教の方が来るが、その人たちは、いかにあなたたちの教会の教えが間違っているかを力説する。そしてそれに対して自分たちが正統かを。それを聞いていて毎回思う。「そんな必死になって、相手の駄目な所をあげつらわなくても、自分たちが正しいと思うなら、それをストレートに語ればいいのに・・・」と。
 「本みりん」がいいか、「みりん風調味料」がいいか。そら本みりんに越したことはない。でも本みりんは高い。手が出ない人だっている。でもそこはそれほど重要じゃない。本物か偽物(~風)か。そんなことは食う側が決めることだ。作る側がどれだけこだわろうが、食う側は知ったこっちゃない。食う側が「うまい」と思ったら、その料理に真心を感じ取ったならば、それが真実だ。異論の余地はない。パウロも言う。内輪の理屈、どっちが正しいとか、間違っているとか「それがなんであろう」と。要は受け手がどう取るか。それこそが重要なのだ。
 とある神父さんの言葉に納得。「正しいことを語っているなら、他の意見をむきになって否定する必要はありません。ただ、自分の意見をはっきり、力強く語ればいいのです。どちらが正しいかは、聞いた人たちが判断するでしょう」(片柳宏史『こころの深呼吸』教文館,94頁)。
 
 
 
 

 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。・・・婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。(マタイによる福音書28章8節、11節)
 
 運動会。何と言っても目玉は徒競走だ。全体のバランスを取るために、最初はそれほどかけっこが得意じゃない子たちから始まり、段々と走るのが速い猛者たちが登場するよう組まれる。中途半端に足の速かった僕は、後ろの方の組に入れられることが多かった。でもそれはそれで嫌なものだ。なぜかって。周りは皆速いから。勝つのも容易じゃない。しかもあれ実力が均衡すると、インコース取ったもの勝ちみたいなところがある。緊張に弱い僕は、いつも一番になることはなかった。
 イエス様が復活した日から、世界中を巻き込んだ大運動会が始まった。スタートの場所は空になったお墓。天使の「あの方〔イエス様〕は復活なさって、ここにはおられない」とのお告げを合図に、よーいドン。最初に飛び出したのは婦人たちだった。けれどもそれをグングンと追いかけ、そして追い抜いていく番兵たち。先に都にゴールしたのは番兵たちだった。そこで彼らは賞金(賄賂)をもらって、「復活なんてしていない」と嘘の報告を言いふらすように命じられる。嘘を携え、再び走り出す番兵たち。遅れて婦人たちも、ようやく都に到着。しかしその時には、もう番兵たちが嘘の報告を携え再スタートした後だった。「こりゃまずい。でも私たちの足じゃ追いつけない・・・」。そこで今度は真実の報告を男の弟子たちにバトンタッチして、嘘の報告を追いかけてもらうことに。その後、嘘と真実の壮絶なデットヒートが繰り広げられ、それは今も続いている。あなたの耳にはどちらの報告が届いているだろうか。復活は嘘?それとも本当?
 
 
 

今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。(コリントの信徒への手紙二3章15-16節)
 
 長野に来てからサングラスを買った。車を運転する時、冬場なんかは雪の照り返しが強いので役に立っている。ある日、夕日がまぶしかったので、いつものようにサングラスをかけて運転していた。家に着く頃には、もうすでに辺りは暗くなっていた。
 「ただいま~」と家に帰る。リビングの電気をつけ、荷物を置く。「・・・?」。いつものリビングなのに、何かがおかしい。多少の違和感を覚えながら、台所に行って台所の電気をつける。何か変だ。それでも気にせず廊下の電気もつける。が、やっぱり何かが違う。
 そう、暗いのだ。部屋中の電気を全開でつけても、圧倒的にいつもより暗い。「なんでや、なんでや、どーなってんねん」。犬が自分の尻尾を追いかけるように、その場でウロウロする僕。妻が指さす。「あっ・・・」。僕はサングラスのままだった。そら暗いはずだ。
 サングラスをしようがしまいが、目にしているものは同じだ。だが暗いか明るいか。色彩が異なると、同じものでも印象がまったく違ってくる。それは聖書を読む際にも言えることだと思う。同じ箇所を読んでいても、それが「裁き」に聞こえる人もいれば、「祝福」に聞こえる人もいる。大抵の場合、前者だ。「聖書の中には、恐ろしい出来事や記述がたくさんある。『ああしろ、こうしろ』色々と指図しきてうるさい。厳しくて、無理難題ばかり言っている。不条理で、意味不明」。そうやって敬遠される。でも、それって覆いが掛かった状態で読んでいるからそうなのだ。
 「主〔イエス・キリスト〕の方に向き直れば、覆いは取り去られます」。聖書を読む際のコツはこれにつきる。イエス様が何をなさったのか。イエス様を中心に聖書を読む時、同じ箇所でも、ガラリと見え方は変わって来る。
 
 
 

受けるよりは与える方が幸いである。(使徒言行録20章35節)
 
 ある日、妻から「生活の端々に貧乏性が垣間見える」と言われた。自分でも分かっている。ケチなことくらい。でも抜けないのだ、昔からの習慣は。バイキングに行けば、ここぞとばかりに吐くまで食べ、デパートの試食コーナーではしれっと何往復もし、美容院に行けばシャンプーは省き、雑誌は基本立ち読みで、総菜を買う場合は閉店間際の半額シールを狙い、ドン・キホーテとラムーに足しげく通う。家のトイレでは尻を拭く際の紙も最小限。せっかくの外食も、すぐに丸亀製麺に行こうとする。そしてクーポンを使う。「得した」と満面の笑みでいると、いつも妻から冷めた目で見られる。
 小さい頃から僕は、何でも周りからいかにたくさん貰うか、自分が得をするようにもっていくか、そのことばかりを考えて生きて来た。「受ける」ことばかりにアンテナを張り、それに集中していた。その原因の一つには、両親がひたすらに「与える」人たちだったというのがあると思う。もう損得勘定のリミッター壊れているんじゃないかと思うほど、何でもかんでも周りにあげていた。自分の分が、家族の分がなくなっても与えてしまう。
 こういうことがあった。たまに教会(家)を訪ねてくる爺ちゃんがいた。今思えば家も金もない爺ちゃんだった。その爺ちゃんは飯時を狙ってくる。両親は当然のことのように一番おいしい所を先にこの爺ちゃんに差し出す。しかも大盛りで。「ジジイ、お前が先に食うんかい!その分、俺のが減るやないか」とムカついたのを覚えている。そんな両親の姿を近くで見ながら「何てこの人たちは損な人生なんだ。俺はそうならないぞ!」と決心した。
 今になって、ようやく少しは分かるような気がする。ここに幸いな人生のヒントがある、と。イエス様は言った。「受けるよりは与える方が幸いである」と。今のご時世、余裕(含み・遊び)がないせいか、誰でも受ける(得る)ことに必死だ。そして受けたならば、それをいかに手放さないか。「これは自分のものだ」といって握りしめる。でもそうすればするほど、なぜか貧しくなるのだ。心が。
 ある人は言うだろう。「じゃあ手放してしまったら、与えてしまったら、その後、どうするんだ。それに代わる何か保証があるのか」。でも、その時点でもう「ギブ&テイク」の発想だ。見返りがあるから、その計算をして手放すのではない。イエス様は、そんな人にとりあえず「与えてみろ」と勧める。「そうすれば分かるから、やってみ」と。神様は与えたいのだ。しかし私たちが手放さない限り、神様もそれ以上与えようがない。握ったままの手ではそれをちゃんと受け取れないのだ。
 与えることで、手放すことで、私たちは自由になる。そしてもっと別の恵みを受けることになる。どういうわけか教会でも、経済的に貧しい人ほど与える傾向がある。こっちが心配になるくらい与える人が。しかし、その人たちは、与える幸いを知っているのだ。すべては神様から頂いたもの。たとえ自分が手放しても、また神様が必要を満たしてくださる。その人は、神様が本当にまた与えてくださることを、特等席で見ることになる。
 
 

あなたがたは皆わたしにつまずく。(マルコによる福音書14章27節)
 
 教会の専門用語の中に「つまずく」というものがある。「〇〇牧師につまずいた」とか、「△△教会でつまずいた」とか。要は、信仰が挫けた、ということだ。それまでのように信じれなくなった。順調だった信仰生活が壊された。大抵、その言葉を使う時は、つまずく原因となった相手がいる。それに対しての恨み節のように使われる。「あの人のせいで・・・」そのようなネガティブなイメージが付きまとう言葉だ。
 僕個人としては、ちょっと便利過ぎる言葉のように、安易に使われ過ぎな言葉のように思う。どうしてかというと、そうやって信仰が挫けた原因を、自分以外のせいにする傾向があるからだ。さも自分は悪くない。悪いのは相手だ!と言わんばかりに。責任を全部相手側に押し付けるのに持って来いの言葉なのだ。
 例えば、牧師が酒を飲むことを毛嫌いする人がいたとしよう。「牧師のくせに、信じられない。だからあの教会は駄目だ」と。しかし、それとその人の信仰がつまずくことと、はたしてどう関係があるのだろうか。それはあくまでもその人が思い描く牧師像と違っていただけではないか。そうしながら、いつの間にか自分が裁く側の席に座るのだ。本来、そこに座るのは神様だけなのに、勝手に。そうなると、その人自身の罪はどうなのかと問いたくなる。
 僕が尊敬するある牧師は厳しい人で「つまずく、つまずく言うな!その程度の信仰なら最初から捨ててしまえ!」と一喝していた。さすがに僕はそこまで言えない。でも言わんとすることは何か分かる。そもそもイエス様が、弟子たちにおっしゃっているのだ。「あなたがたは皆わたしにつまずく」と。イメージが崩れたくらいで、思っていたのと違うくらいで、いちいち騒ぎ立てるな。そんなの当たり前だ、と。問題はつまずいた後どうするか。イエス様は、そのことをお語りになっている。つまずく前提で。
 聖書の中に「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません」(ペトロの手紙一4章12節)という言葉がある。僕たちは、さも「聞いてないよ!」と言わんばかりに被害者ぶる所がある。でも聖書は、はっきり言っているのだ。試みが、火のような試練が「ある」と。それなのに「ある」と聞いているのに「思いがけないことが生じたかのよう」なリアクションをとる。俳優にでもなったかのように。でも、どんな名演技でも神様にはバレバレなのだ。それでもって神様に、あるいは人に責任転嫁をしようとすいる見え透いた魂胆が。
 
 
 

今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。(ローマの信徒への手紙5章9節)
これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。(同9章16節) 
 
 礼拝はタダだ。お金がなくったって、誰でも参加できる。でもこれって当たり前のようで、実はとても凄いことだ。考えたことがあるだろうか。どうして、こんな立派な建物やオルガンがあって、床暖やクーラーがあって、極めつけは(信州教会では)礼拝後お茶まで出て、何でタダなんだろう?と。普通、建物を建てるには、たくさんのお金がいる。オルガンだって維持管理にはお金がかかり、床を暖かくするにも電気代がかかる。お茶も買ってこなければいけない。人に何かしてもらうにもお金がかかる。でも、礼拝はタダなのだ。どうしてか? その裏で、実に多くの人たちが献金・献品をし、また時間と労力を神様のために、教会のために献げているからだ。そうやってタダが成り立っているのだ。
 最近、僕はある本を読んでいて、ハッとさせられた。「牧師は人を赦し、受け入れて当然。誰でも受け入れるのが教会だ。しかし、そこには、多くの犠牲が伴うことを忘れてはいけないのではないか」(藤藪庸一『あなたを諦めない―自殺救済の現場から』(いのちのことば社),35頁)。自分たちが当然と思っていること。クリスチャンだったら人を赦したり、苦手な人を受け入れたりするのは当然だ。でも、それって当然じゃないのだ。クリスチャンでも人を赦すのは難しい。そこにはたくさんの時間と苦しみ、闘い、犠牲がある。
 そうやって考えると、神様が自分のことを、どこまでも赦し愛してくれていることも、決して当たり前のことなんかじゃない。その裏で、実はたくさんの犠牲があるのだ。僕たちはタダで罪が赦されて、タダで神様の子とされ、天国に行ける。なんか教会にいると、それが当たり前のことのように錯覚してしまう。もちろんタダなのに変わりはない。僕たちが良い人間だろうが悪い人間だろうが、神様は受け入れてくださる。でもその裏で、神様は御自分の独り子、イエス様を十字架にかけるという、これ以上ない犠牲を払って、僕たちの罪を赦し、神の国の一員として迎えてくださっているのだ。
 十字架にかけられる直前、イエス様と弟子たちは祈るためにゲツセマネの園へとやって来た。ところが弟子たちはというと、グーグーと寝てしまう。その裏で、イエス様は「苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(ルカ22:44)と聖書には記されている。この時、弟子たちは何もしていない。寝ていただけ。代わりにイエス様が、たくさんの犠牲を払っていたのだ。僕たちの命は、その上で成り立っている。本当なら、もう背負いきれないほどの罪という名の重荷を、イエス様が代わりに背負ってくださったのだ。僕たちが、タダで天国に行ける理由はここにある。
 その事実を知る時、僕たちの内に神様への感謝と、それに応えて生きようとする思いが芽生えだす。「こうしなければ救われない」が先に来るのではない。僕たちが「する」「しない」に関わらず、救いはもうすでに用意されているのだ。目の前に、しかもタダで。そんなみみっちい人間の側の条件をクリアして、ようやく神様に認められ、救われるのではない。どこまで行っても赦しは神の業であり、僕たちにできることはただただ「ありがとうございます!」と受け取るだけだ。
 
 
 
 

宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。(使徒言行録8章31節)
 
 牧師をしていると、色んな質問をされる。真剣な求めからの切羽詰まった実存的な問いかけから、評論家のような冷やかし半分の悪意ある問いかけまで。 僕も頑張って答えようとするのだが限界がある。正直、牧師であっても分からないことだらけなのだ。もちろん教理問答集なんかを開けば、いわゆる「答え」とされているものが、いくつも載っている。教会もこの2千年の歴史の間、のほほんと過ごしてきたわけではない。内外に生じる荒波の中を、もまれにもまれ生き残ってきたのだ。問いという問いなんて、もう一通り出きっている。どんな質問であっても、過去を探せば誰かがしていて、それに対する練りに練られた答えもあるのだ。
 だからと言って、模範解答をポンと出して済むかというと、そうではない。そこには私たちの思いや感情があり、なかなか割り切れない葛藤があるからだ。つまるところ借りてきただけの答えじゃ、何の意味も力もないのだ。実際に自分の足で確かめ、見出していくしかない。もっともそれが信仰に生きるということだろう。僕も反省しなければいけないことだが、牧師は簡単に答えを出したがる。しかし大切なことは、答えを明快に示すよりも、一緒になって問い、答えを探すことなんじゃないか、と思う。
 あるエチオピアの高官が馬車に乗りながら聖書(旧約)を読んでいた。きっと彼の中に、神(真理)への問いのようなものがあったんだと思う。そこに人生の答えを求めて必死で読むのだが、一向に分からない。そんな彼に、神様は十二使徒の一人フィリポを遣わした。フィリポの「読んでいることがお分かりになりますか?」という問いかけに、高官は「馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ」(使徒8:31)とある。「そばに」という言葉には、「一緒に」とか「同行する」そんな意味がある。きっと馬車の中で、同じ進行方向を向きながら、横並びで聖書を読んだんだと思う。そうしながらエチオピアの高官は、神を信じる者へ、洗礼へと導かれることになる。
 教会の礼拝に出れば分かるが、そこには必ずそばに座る人がいる。一緒の方向を向きながら、聖書を読み、祈り求める人が。そうやって共に神様に問いかけるのだ。「分からないから答えを教えてください」と。だから分からない人、大歓迎。本来、分からない人たちの集まりなのだ、教会って。
 
 
 
 

空の鳥をよく見なさい。・・・野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。(マタイによる福音書6章26節、27節)
 
 最近さぼり気味だが、以前は朝ラジオ体操をしていた。体操指導の人が、意識すべき点、注意すべきことなどを毎回丁寧に解説してくれる。ある日、第一が終わり、第二に入るまでの間、首を回すという時間があった。その時、指導の人が「目をつぶらないように」と言っていた。理由は、立ちくらみが起きるから。ちゃんと目を開けたままで首を回す。上下に動かす。そうやって首はストレッチしてください、と。なるほど。僕はいつも目をつぶって「あ~」と馬鹿面で口を開けて、気持ちよさに浸っていたが、それは危険とのこと。目を開けて首を回す。動かす。首のコリはそれでオッケー。
 イエス様はある時、話の中で人々にこんなことをおっしゃった。「空の鳥をよく見なさい」。きっと皆、顔を上げたと思う。飛んでいる鳥を目で追う。そうしているとイエス様、今度はこうおっしゃる。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」。そう言われて下を向く人々。ジーっと地面に生えている花を見る。上見て、下見て。あれ、これって首のストレッチと同じ動きだ・・・。
 実はイエス様、2000年前にもう実践していた。ただこの体操は、首のコリに効かせるというよりも、思考のコリをほぐすものだった。一生懸命に生きれば生きるほど、目の前のことしか見えなくなる。真面目な人ほど「こうあらねば」が強くなる。そうしながら、いつしか心が凝り固まってしまう。しんどくなる。特に悲しい時は、目を閉じたくなる。どうして自分だけが、こんなにもしんどい思いをしなければいけないのか・・・。不幸に浸ることがある。そこから動けなくなってしまうことがある。
 そんな時、イエス様はおっしゃる。「上見ろ」「下見ろ」と。狭くなった視野、固くなった心を、まるでストレッチさせるように。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。・・・野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいない。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」
 
 
 

父(神)は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる(マタイによる福音書5章45節)
 
 昔、フェリーに乗って舞鶴(京都)から小樽(北海道)まで家族で旅行したことがある。その前にもフェリーには乗ったことがあり、フェリーでの旅には良い思い出があった。だからその時も、楽しみにしていた。ところが、ちょうど台風と重なってしまった。海は大荒れ。舞鶴でしばらく待たされ、それでもフェリーは大揺れの中「ガリガリ」と音をたてながら無理矢理着岸。僕たち一家は乗り込んだ。これから地獄の二泊三日が始まるとは知らずに…。
 案の定というか、なぜそんな大荒れの中、出航したのかと怒りを覚えるほどに、揺れまくる船内。しかし乗ってしまったが最後、どうしようもない。家族全員が船酔いでダウンした。いつもなら頼りのなる親父まで弱っている。僕は「うー、うー」唸(うな)りながら、「もう勘弁してくれ」と心の中で思う。でも勘弁してくれない。ますます揺れはひどくなる。乗ってたら慣れるのかと思いきや、まったく慣れない。ひたすらに耐えるしかないのだ。
 あまりにも酔ったためか、頭がおかしくなったのか、僕は一つのことを閃くことになる。それはこういうものだ。「僕たちが貧乏で、安い部屋だから揺れるんだ。そうだ、なら金持ちがいる客室まで行こう。そこなら揺れていないはずだ!」。一筋の光が差し込んだようだった。僕はその望みを頼りに、這いつくばりながらフェリーの底から上の方へ、高級そうな絨毯が張られたフロア(約束の地)まで辿り着いた。が、そこで僕は絶望することになる。「むしろ上やから、更に揺れてるやん…。金持ちも貧乏も関係ないやん…」。その後の記憶がない。ただ絨毯(じゅうたん)が赤かったこと、階段の手すりが木だったこと、そのフロアに顔をうずめていたことだけは覚えている。神様は貧乏人にも金持ちにも、そういう意味では公平だった。
 
 

イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、是非あなたの家に泊まりたい。」(ルカによる福音書19章5節)
 
 本の帯程、目を引くものはない。映画の予告編が結局一番面白いように、帯を見るだけである種の満足感がある。何か読んだ気になる。ある時、最高にキャッチ-な本の帯に出会った。「人生、死んでしまいたいときには、下を見ろ!おれがいる。」もう、これだけで読んでみたい。
 「下を見ろ!」凄い言葉だ。周りを見渡せば、その反対、「上を見ろ」的な、ポジティブな自己啓発本が並ぶ中、「下を見ろ!おれがいる」。ワードセンスが光りに光っている。「下を見ろ!おれがいる」。聖書には、そんな言葉、直接的には出てこない。でもイエス様も似たようなこと言ったんじゃないかと僕は思っている。いや、存在そのものがそう語っている。
 ある所に、ザアカイという金持ちの小男がいた。ある日、その彼が住む町に、イエス様がやって来た。「イエス様の話を聞きたい」「病気を治して欲しい」「悩みを聞いてほしい」瞬く間に人だかりが。ザアカイもイエス様のことが前々から気になっていた。しかし「背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった」と聖書には記されている。
 聖書は、彼が見ることができなかったのは「背が低かった」からだ、と言う。でもよく読むと、その前に「遮られて」とある。どうも、ただ単に、彼がチビだったから見れなかった、という訳ではなさそうだ。チビでも、人との間に入って行けば、近づくことだってできる。しかしそれが出来ない。遮られる。要は、人々から嫌われていたのだ。
 その理由は、ザアカイの仕事にあった。彼の仕事は税金集め。昔も今も、喜んで税金を納める人なんかいない。しかも当時の状況は複雑で、ユダヤの人たちは、自分たちを支配しているローマ帝国に税金を納めなければならなかった。自分たちのお金が、敵国を潤すことになる。我慢ならなかったと思う。
 そこはローマ帝国もよく分かっていた。だから、その不満がローマ帝国に向かないように、集金の際ある工夫をした。それは、直接ローマの人が集金するのではなく、ユダヤ人にさせるというものであった。ローマの手先として生きる徴税人。同じ民族であるはずのユダヤ人から、さぞ嫌われていたことだと思う。その仕事の頭だったザアカイ。バックには国家権力。それを利用して、彼は必要以上に取り立てて、自分のポケットに入れていた。ただでさえ嫌われる職種なのに、そう考えると遮られて当然だ。
 誰もザアカイに協力はしない。むしろ遮るように立つ人々。金はある。力もある。でも彼は独りだった。そんな自分のことが、ザアカイ自身も嫌だったと思う。だからこそ、何としてもイエス様に会いたかった。「この方に会えば、自分も変われるんじゃないか」微かな期待があった。
 そこで彼は、イエス様が通るであろう道を予測し、先回りをし、木に登って待つことにした。だんだん近づいてくるイエス様。「もうすぐ見える」ドキドキしながら待っていたと思う。「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた」。面白い光景だ。普段、見上げてばかりのチビのザアカイが、今、下を見ている。「下を見ろ!おれがいる」といわんばかりの光景。
 イエス様は、嫌われ者のザアカイの下に立ってくださった。ここに「お前が人々の中の一番下。嫌われ者のどん底なんかじゃない」とのメッセージがあるように思う。「下を見ろ!おれがいる」。イエス様は、すべての人の下に立ってくださった。上に立って、権力を振るって支配する王ではない。下に立って、共に生きてくださる王として来られたのだ。
 
 
 

わたしの目にあなたは値高く、貴く…。(イザヤ書43章4節)
 
 我が家にはモノが多い…。特に本が多い。読まれないまま、ただ積まれている本の数々。もはや飾る用だ。お客さんが来た時に「へ~、こんなにも本を読んでいるんですね」って知的に思われたいがための、見栄を張るための。はたまた自信のなさの表れか。参考書をたくさん読まないと、聖書のことが分からないんじゃないかという。
 ある時、一大決心をして、大処分をすることに。「キリスト教・宗教・哲学関連」と、「その他」に分けて、「その他」のものはブックオフへ。買取の計算をしている間、店の中で待つことになった。
 そのお店には、トレーディングカードも売っていた。レアなものは、ちゃんとガラスケースに入っており、厳重に管理されていた。中を覗くと、一枚のカードで、何千円もするものまである。カードで遊ばない僕からしたら、ただのカードにしか見えない。
 そんなカードコーナーに、一人の男の子がやって来た(小学3~4年くらいだろうか)。おばあちゃんという名の巨大スポンサーを引き連れて、迷うことなくガラスケースの前に。恐らく、前々から狙っていたカードがあったのだろう。満を持しての登場といったところか。
 この子は、おばあちゃん(スポンサー)に熱弁をする。このカードがいかに素晴らしいか。そして自分に欠かせないものかを。しかし渋い顔をするおばあちゃん。そらそうだ。ばあちゃんからしたら、ただの紙切れとは言わないまでも、絵の描いたキラキラ光るカードに過ぎない。隣にある数十円のものと何が違うのか、という顔をしている。男の子の必死のプレゼンも空しく、買うことは却下された模様。
 男の子にとって、あのカードは価値があった。他の誰が何と言おうとも、おばあちゃんに分かってもらえなくとも価値があったのだ。聖書は語る。君たちの存在もそれと同じだ、と。周りから、どれだけ「価値なし」と判断されても、自分でさえ自身の価値を見いだせなくとも、「わたしの目にあなたは値高い」と神様が言ってくれている。この世界を造った御方が言うのだから、間違いない。ガラスケースに反射する自分の姿を見て、こんなんに価値を見出すって、神様もよっぽど甘々な評価基準なんだな、と思った。
 
 
 

暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。(ルカによる福音書2章9節)
 
 以前、ある方が木下サーカスに僕を連れて行ってくれた。大きなテントの中に、1200~300人くらいはいただろうか。僕は正面、中段の比較的良い席に座っていた。サーカス自体初めてで、「おー!」と興奮しっぱなし。
 ショーとショーの合間も、ピエロが出て来て楽しませてくれる。すると突然、ピエロが観客席の方にやって来くるのである。どうやら、前で一緒に芸をする人を探しているらしい。嫌な予感がした。さっきまでにこやかな顔で鑑賞していたが、僕はすぐさま、眉間にしわを寄せ、腕を組み、最上級のメンチを切り、全力で「こっち来るなオーラ」を出した。心の中で「来るな」と祈り続ける。変な汗まで出て来た。ニコニコしながら近づいてくるピエロ。「まさか…」。ピエロが僕の方を指をさし、一言「YOU!」。不安的中。僕は最後のあがきで、自分の後ろを振り向く。後ろの人に擦り付けるために。するとピエロは「NO!NO!YOU!」追い打ちをかけてきやがった。もう一度言おう。テントの中には、1200~300人はいるのだ。「なぜわしじゃ?」
 こうなったら、もうどうしようもない。周りの客もいい加減なもんだ。自分が選ばれなかった安堵からだろうか、適当に「おー!」とか言って、拍手をして僕を送り出そうとする。あいつら許さねぇ…。結局、光に照らされ、まぶしい中、ピエロと共にわけのわからない芸をやり切った。最後に、ピエロは僕だけに聞こえる小声で「Thank You!」と言って、飴ちゃんをくれた。
 神様は時に強引だ。無理矢理、出て行かないといけない状況を作る。こっちの都合などお構いなしに。しかしそうでもしないと僕たちは出て行かないのだ。人に背中を押されないと、仕事で行き詰まったり、病気になって追い込まれでもしないと。でもそれらを通して、連れ出そうとしてくださっているのだ。暗闇に居座る僕たちのことを、光の方へ。御自身のもとへ。「YOU!」あの日、僕は出て行かざるを得なかった。ピエロに手を引かれ。神様は使えるものは、何でも使う。しつこいし、誤魔化せないし、逃げられない。それくらい、僕たちに今も関心を持ってくれている。
 
 
 

人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。(創世記8章21節)
 
 実家に、上にやかんを乗っけるタイプの古い石油ストーブがある。餅にウインナー、昔は何でもそこに乗っけて焼いた。油がしみ込み、最高の焼き加減になる。そのストーブも何代目かになったが、今でも健在だ。
 正月、姉の子どもたちも実家に帰って来ていた。奴ら、まだ小さいからだろうか、ストーブの怖さが分かっていない。散々、姉が注意したにも関わらず、姪っ子がそこに手をついてしまった。僕は隣の部屋で寝ていた。朝からあがる異常な泣き声。どうやら人差し指と中指、この二本の先っぽの方を火傷したらしい。
 起きて来て見ると、タオルで包んだドライアイスに、その二本の指を乗っけながら泣いている姪。その光景は、さながら将棋を指しているようだ。皆が心配そうに見つめる中、僕には将棋を指しているようにしか見えず、心配よりも面白さが勝ってしまい、思わず笑ってしまった。「将棋指しながら泣くな」そう言って笑う僕。ここまでの話だと、僕だけが人でなしだが、もう一人、うちの家に人でなしがいた。それは姪っ子のお兄ちゃん、僕からしたら甥っ子だ。こいつは正月期間中、妹に相当ストレスが溜まっていたらしい。だから火傷した時に「ざまあみろ」という顔をしていた。そして僕の将棋発言に便乗して、「将棋」が何かも分かっていないくせに、僕と一緒に笑っていた。甥っ子の父親(姉の夫)は、そこに罪の片りんを見たらしい。「子供でも罪深い」と。
 人間、小さいから、無垢で、罪がないかというと、そうじゃない。聖書ははっきり語る。「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」。そう考えると、罪とは無縁の人間などいない。将棋を指しながら、実家を後にした姪っ子を見て、改めて思った。
 
 
 

彼らは自分の罪について弁解の余地がない。(ヨハネによる福音書15章22節)
 
 「警察24時」(テレビ番組)なんかを見ていると、逮捕される人たちの、何と言い訳の多いことか。「そもそも、違反してるから捕まっとるんやないか。それなのに抵抗するって、アホかいな」と思う。そんなことしても何にもならない。駄目なものは駄目なのだから。こういうのって、他人事だと思っていた。でも高速を走っていた時、そんな僕の背後からどこかで聞いたことのある、あの音が…。
 「ウ~!そこの車止まりなさい」。「…マジかよ」。スピードメーターを見ると、うん、確実にスピード違反。がっかりしたけど、どうしようもない。自分が悪いんだから。路肩につけ、パトカーに乗せられる。はっきり言って、僕より飛ばしていた車なんか、ごまんといる。「なんで俺やねん」と言いたくなる気持ちも、ないと言えば嘘になる。でも、他がどうこうじゃない。そう、これは自分が犯した違反なのだ。
 聖書は、他人がどうこう、周りと比べてどうこうの話をしているのではない。「あなた」に向けて語る。あなた自身のことを。聖書を前に、評論家のような態度は通用しない。「あなた自身はどうなのだ!?」そう迫って来る。皆、本当は分かっているはずなのだ、自分がどれだけ罪深いか。弁明の余地がないことを。自分は誤魔化せても、神様はお見通しだ。
 パトカーの中で「大変ですね~。ご苦労様です。」なんて雑談をしながら、僕は職業欄に、そっと「牧師」と書いた…。
 

ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ…(マタイによる福音書1章6節)
 
 誰にでもある黒歴史(恥ずかしい過去、できれば葬り去りたい出来事)。僕にもたくさんある。残念なことに、それらはどうあがいても、なかったことにはならない。しかしあろうことか、聖書はそれを公表する。しかも世界に向けて。これ書かれた人からしたら、たまったもんじゃない。週刊誌もびっくりな聖書砲。
 「イエス・キリストの系図」が、新約聖書を開いた1頁目に出てくる。その中の一節に「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とある。…待てよ。「ウリヤの妻によって」って、他人(ウリヤ)の奥さんじゃないか。そう、ダビデ、略奪したのだ。人の妻を。情欲に駆られて。王様だからって、何やったっていいわけじゃない。いや、王様だからこそ、その辺はちゃんとやらなければ示しがつかない。でも、ダビデは自分の欲望を抑えることができずに、大きな過ちを犯してしまった。取り返しのつかない過ちを。
 ダビデにとっては、これ以上ない黒歴史。しかし、その黒歴史の中から「メシア(キリスト)と呼ばれるイエスがお生まれになった」と系図の最後には記されている。自分たちでは決着をつけることができない黒歴史を、きっちり清算するために。神様の前で断罪は免れ得ない者を、無罪に、「雪よりも白く」(詩編51:9)するために、キリストは誕生したのだ。
 私たちの黒歴史、それ自体はノーカウントにはならない。でもキリストが、そんな黒く塗りつぶされた人生のすべてを引き受けてくださったのだ。自分のものとして。キリストの圧倒的白さは、どんな黒をも白にしてしまう。白くならないものなどはない。だから自信を持って聖書は公表するのだ。キリストの十字架の力による贖い、それの及ばぬ罪などあなたたちは犯すことはできないのだ!と。
 
 

あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。(使徒言行録17章23節)
 
 タイトルを見て「スケベ祭り」に見えたあなたは、相当疲れていますね。残念ながら「ケベス祭り」です。なんでもこれ、大分県国東市で毎年10月に行われる火をまき散らす祭りらしいのですが、その起源も由来も不明だそう。誰も知らない。それなのにやっている。もうそれだけで最高。そう、意味なんか考えちゃいけないのかもしれない。そういうことって、私たちの身近にもたくさんある。わけもわからずに、とりあえずやっていることが。
 2000年前、アテネは大都市だった。たくさんの人がいた。そしてたくさんの文化が混ざり合っていた。そんな中、わけのわからん風習というか、習慣みたいなのも、たくさんあったのだと思う。実際、伝道者パウロが道を歩いている途中、『知られざる神に』と刻まれた祭壇を見つけることに。なんか、ようわからんけど、とりあえず神様らしきものに向かって拝む。そういう習慣があったようだ。
 全部が全部、白黒はっきりさせれば良いというものではない。世の中のほとんどのものはグレーだ。その中を私たちは生きている。そうやって含みを持たせておいた方が、何かと融通が利くし、都合がいい。しかし、はっきりさせなくてはならない事柄というものも、あるのではないだろうか。その最たるものが、自分の命の問題であろう。それはつまり自分の命を造った神様の問題でもある。神様が一体どういう御方か。何をお考えになっているのか。そこを曖昧にすることは、自分の命を曖昧にすることだ。
 パウロは言う。「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」。一見「なに上からモノ言ってんねん」と思う。でも違う。パウロは感動していたのだ。アテネの人たちの信仰心に。わけもわからんのに、信じているんだから。これ考えてみれば、結構すごいことだ。わけもわからんのに、理由もないのに、信じ続ける。何かをやり続ける。並大抵のことじゃない。そう考えると、私たちも相当な土壌がある、と言える。
 「信仰」という言葉を使うと、一気に毛嫌いしてしまう私たち。でも案外、皆信仰者だ。「神様なんかいない!」と言う人だって、ほら「神様いない」ということを信じている。聖書は言う「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1章27節)。神様の姿に似せて造られた人間。そう本来、人は神様に頼って生きるように造られているのだ。ただ忘れていたり、気づかないふりをしたり、強がっていたりしているだけで。
 アテネの人たちは、パウロが話を進めようとすると、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言ってはぐらかした。グレーのままにして立ち去った。大きな宿題を残したままに。いつかは、はっきりさせないといけない命の問題。取り組むなら早い方がいいい。夏休みの宿題を、8月31日に泣きながらやるのは、僕はもうごめんだ。
 

安息日を心に留め、これを聖別せよ。(出エジプト記20章8節)
 
 毎週、火曜の午後4時、コープ・生協の宅配がやって来る。僕が意識ある頃にはもう来ていたので、かれこれ長い付き合いだ。その時間になると、近所のおばあちゃんたちが教会の玄関に集まって来る。それぞれが注文した商品をチェックしながら受け取り、終了。のはずだが、それで終わらない。そこから長い井戸端会議が始まるのだ。おばあちゃんたちにとって、生協は単なる食料品を受け取る場ではない。心の糧を養う場になっていた。そんな生協も、あのおばあちゃんが亡くなり、あの人がもう来れなくなり、今では寂しい。しかし、それでもうちの親は生協を続けている。というか、生協を中心に生きている。引くくらいに。
 ある時、家族旅行の計画を立てた。すると「火曜までには帰りたい」と親から注文。どうしてかと聞くと、「生協が来るから」とのこと。この時だけではない。どれだけ遠出をしていても、また別の用事があったとしても、新たな予定を入れようとしても、火曜の夕方だけは絶対に譲らないのだ。這いつくばってでも火曜4時に帰ろうとする。他をキャンセルしてでも、生協が最優先なのだ。ここまで来ると、もはや宗教だ。コープ教。生協を軸に人生を考えている。
 聖書に「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という言葉が出てくる。これは神様がモーセを通してイスラエルの人々に与えた「十戒」の中に出てくる戒めの一つだ。神様は世界を創造された時に最後、お休みになった。そこから人間も一週間の内、一日はちゃんと休むようにとなるのだが、そこには神様の深い配慮があった。黙っていたら、私たち、いつまででも、どこまででも働き続けてしまう。だから無理にでも「聖別」(これは「分ける」という意味の言葉)する必要がある、そのように神様はお考えになったのだろう。この日は、手を止めて、普段の慌ただしさを離れて積極的に休む。ただ休むのではなくて、この世界を、自分を造った神様に思いを向ける。本来、人はそうやって生きるように造られているのだ。しかしほとんどの人が、そのことを忘れてあくせく生きている。
 そんな中、クリスチャンは、日曜日の礼拝(午前中)を聖別しながら生きている。この日、この時間だけは、どうしても譲れないのだ。これが人生の軸であり、ここを起点に生きている。軸をすぐに見失ってしまう私たち。あなたには、そのような聖別している時間、場所がおありだろうか?試しに、日曜日の午前中、聖別する生活を始めてみてはいかがでしょうか。お待ちしております。
 

主〔神様〕は、ノアの後ろで戸を閉ざされた。(創世記7章16節) 
 
 神様から「木の箱舟を造りなさい」と命じられたノア。真面目なノアは、言われた通りコツコツと造り始める。そんな彼を、周りはさぞ笑ったことだろう。「馬鹿なことやってる」と。神様の言葉に従って生きることは、時に世的に見れば、馬鹿馬鹿しく思えることがある。僕も、ふとそんな思いに捉われることがある。「信じたって、どうしようもないんじゃないか」「何の得があるんだろうか」「神様を信じなくても、十分に、しかも自由に生きれるじゃないか」。
 きっとノアだって、箱舟造りながら、そんなこと思ったに違いない。「こんなもの造って何になるのか…」「時間の無駄じゃないか…」「人生を棒に振っているかも…」。でもその悩み(迷い)って、「神様を信じよう」「神様の言葉に従おう」としているからこそ、持つものだと思う。信じていない人は、そんなこと悩みすらしない。不信仰に陥るのにも、信仰がいるのだ。
 ノアにも、やりたいことがあったに違いない。何が楽しくて、人から馬鹿にされることを、一見無駄に見えることを、何の社会の役にも立たなそうなことを延々とやらなければならないのか。自分の人生、「あれがやりたい」と思えば、いつでも戻ってやり直せる道を、自由に行ったり来たりできる可能性(戸)を、残しておきたかったはずだ。
 しかし聖書は語る。「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」。もう引き返すことはできない。前に進むしかない。ある人は言う。「この閉じ込めは、神の好意である。神の愛である」と。もし神様がノアのために、後ろの戸を閉じなかったら、おそらく箱舟の中から彼は出ただろう、と言うのである。せっかく恵みの中に、守りの中にあるのに、自らその外に転落してしまっていたに違いない、と。
 後ろ(過去)がよく見える。そんなことばかりだ。後ろばかりを気にしている時、僕たちは呟く。「もう引き返せない」「前にしか進めない」「あの時は良かった」と。でも、そうじゃない。もう引き返さなくていいのだ。前に進めるのだ。ノアは退屈な箱舟の中に、長いこと閉じ込められ生活することになった。しんどかったと思う。でも実は、神様の守りの中にあったということ、彼は後で知ることになる。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3章1314節)。
 ちなみにゴキブリは、前にしか進めないらしい。奴ら人間に向かって来ているんじゃない。びっくりして、ひたすら前に進み続けているだけなのだ。ゴキブリの生き様の方が、どれだけ信仰的かと思う。ま、結局はやられちゃうんだけどね、スリッパに。
 
 

 学びすぎれば体が疲れる。すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。(コヘレトの言葉12章12-13節)
 
 「考え過ぎはよくない」。考え過ぎてしまう人に、そんなこと言っても無駄だ。これほど響かない言葉はない。
 考えること、それ自体は何も悪いことではない。むしろ考えることによって、これまで人は豊かな文化を築き上げて来た。とても創造的な作業と言える。しかし反面、それが過ぎてしまうと、病んでしまう。「考え過ぎ」によって、どれだけ多くの人が自滅してしまっていることか…。
 昔、イスラエルにソロモンという人がいた。「ソロモンの栄華」と言われるくらいに、国を栄えさせた偉大な王様だ。かっこいい顔、明晰な頭脳、優れたリーダーシップ、王様だからお金も、権力も、名声ある。奇麗な奥さんだっている。言うことがない。正に出木杉君だ。
 そんな世にあるすべてのものを手に入れたソロモンが一言。「すべては空しい」。色んなことをしたところで、成したところで、「結局何になるねん」と言うのだ。そこからソロモンは、考え過ぎの扉を開いて、そこに入って行く。出口のない、考え過ぎのループに。「そうだ、先人たちに聞こう!こういう時は、どうしたらいいか」。その発想自体が賢い人だ。僕なら、とりあえず漫画読んで寝る。でも、ソロモンは真面目だ。難しい本を何冊も読み、思索を深めていく。勉強しまくったのだ。考え過ぎてしまうのであれば、もうその道を突っ切ってしまえ、ということだろうか。
 で、彼がそこで出した結論。「学びすぎれば体が疲れる」。うん、それは僕もよく知っているよ…。そんなこと僕でも言える。でも、その先の言葉が、怠け者の僕からは絶対に出てこない言葉だ。「神を畏れ、その戒めを守れ」。考え過ぎてしまうそのベクトルを変えればいい、と言うのだ。自分の内側にではなく神様の方に。「何が主(神様)に喜ばれるかを吟味しなさい」(エフェソ5:10)。考え過ぎることができるのは、立派な能力だと思う。せっかくですから、その力、神様のために使ってみませんか。どうせ疲れるんですから、神様のこと考えて疲れましょう。そうすれば同じ「疲れる」でも、人生の見方が少し変わって来るはずです。
 
 

群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。(ルカによる福音書6章19節)
イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。(マルコによる福音書5章27節)
 
 長野には戸隠神社という立派な神社がある。ごっつい樹がずらりと並んでいる参道は圧巻だ。こないだ行った時、ある一人の女性が、一際でかい樹に手をかざして祈っている姿を見かけた。普段、疲れることが多いのか、たぶん樹からパワーをもらっていたのだと思う。その気持ち、なんだかよく分かる。
 僕たちは時々、何かに触れたくなることがある。いたたまれない時、疲れ切った時、助けが必要な時、自分ではどうしようもない時、触れずにはおれないのだ。特に根拠はないけど、パワースポットにある石や樹に、はたまた凄いと言われる人に触れたら、何か良いことがある。その力にあやかれる。「そんなわけあるかい!」と思いながら、それでも触れるのだ。
 小学生の頃、軽トラの黒いナンバーに触れると良いことがある、というのが流行って、ひたすら軽トラを追いかけたのを思い出す。これに触れさえすれば・・・。願いを込めて触れるけど、まぁ何も起こらない。そうしながら学ぶのだ。「触れたからって、どうってことない」と。
 聖書の中に、長年出血が止まらない女性が出てくる。当時、そういった得体の知れない病気、特に女性の出血を伴う病気は「汚れている」とされていた。誰も相手をしないし、近づかない。色んなお医者さんに診てもらったと思う。怪しい呪い師や、祈祷師なんかにもすがったと思う。でも、どこに行っても駄目だった。
 そんな彼女が最後に行きついたのが、イエス様だった。でも、この時のイエス様の周りには人がたくさんいた。とても引き留めて話を聞いてもらうなんて状況じゃなかった。そんな中、もみくちゃになりながら、勇気を振り絞り手を伸ばす。ようやく服に触れることができた。身体ならまだしも、服の、しかも端っこ。普通の人なら気づかない。でもイエス様は気づいた。そして立ち止まってくれた。
 病気が治る、治らないも大切なことだ。でも、僕たちが一体どんな思いで触れているのか。それも大切だろう。イエス様はそのことを知ってくれている。もうそれだけで、半分以上救われているような気がする。僕たちの必死な思いを、イエス様は見逃さないし、ましてや放っておくことはなさらない。そういう意味で、イエス様の体と言われている教会は、最大のパワースポットだと思う。
 
 
 

世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとってわたしは外国人であり、わたしにとってその話し手も外国人であることになります。(コリントの信徒への手紙一14章10-11節)
 
 会議での一コマ。ある人が言う「アジェンダをご覧ください」。僕は心の中で思う「・・・なんじゃい『あじぇんだ』って?」。教養のない僕にはわけが分からん。でも、周りを見渡すと、なんか皆、分かった感を出している。結局、そのまま「アジェンダ」はスルーされて話は進んでいった。
 聖書に、わけ分からん言葉を話す人は、たとえ同じ民族であっても外国人だ、と言っている箇所がある。本当にその通りだと思う。あの日、司会をしていたあの人は、僕にとっては外国人だった。言葉は、相手に伝わってナンボ。その意味で同じ日本語でも、伝わらない言葉が、どれだけ多いことかと思う。
 そういや、僕の知り合いに「位置について」の号令、「on your mark(オン・ユア・マーク)」を、「おいやん(関西弁で『おじさん』の意味)マーク」と聞き間違えた爺ちゃんがいた。この爺ちゃん、何が起きるのか、とソワソワしたらしい。「わし、マークされるんやないか・・・」と。
 そう考えるとイエス様って、分かる言葉話したんだよな。学校なんか行ってないような人たちにも。下世話なこと、スラングなんかも、多用していたと思う。なんか嬉しい。聖書の言葉って身近だ。神様が、僕が使うような汚い言葉にも精通してくれているなんて。
 それなのに、その聖書を語る牧師は、外国人になりやすい。早速、僕自身が「スラング(隠語・俗語)」なんて言葉使ってしまっている辺りが、良い例だ。すみません。わかるように話せるよう頑張りますけど、外国人になってたらごめんなさい。アジェンダ事件は、自分への戒めです。
 
 
 

一人の女がアビメレクの頭を目がけて、挽き臼の上石を放ち、頭蓋骨を砕いた。(士師記9章53節)
 
 僕の人生の中で、一番喧嘩をしたのは後にも先にも親友の「稲垣」だろう。小さな口喧嘩から殴り合いの大喧嘩まで、数えるとキリがない。中学生の頃、ちょっとしたことから殴り合いの喧嘩になった。と言っても、僕が一方的に殴ったのだが…。しかしその時の稲垣のガードは鉄壁だった。身を屈め、小さく腕を畳む徹底したガードスタイル。隙がない。僕はかまわず力任せに、そのガードの上からパンチをし続けた。
 世紀の一戦を終え、興奮しながら帰宅。僕は、そこで初めて気づくことになる。自分の左こぶしが二倍に膨れ上がっていたことに。「まぁ大したことないやろ」。その日は、そのまま寝た。次の日、何とそのこぶしが三倍に。ズキズキと痛い。病院に行き、骨折していたことが判明。当然、身に覚えがある。あの稲垣との一戦だ。医者からは、散々「なぜこうなったのか?」と聞かれたのだが、僕は「喧嘩してこうなった」と言うのが恥ずかしかったので「転びました」の一点張り。でも診断結果は嘘をつかない。通称「ボクサー骨折」。
 男は見栄っ張りだ。どうも自分を大きく見せたがる。カッコつけなのだ。あの日、僕は「喧嘩してこぶしを骨折したなんてダサい」と思った。だから嘘をついた。「コケてこうなったんだ」と(今思い返すと、転んで骨折の方がダサい…)。いずれにせよケガよりも自尊心を優先したのである。今でもそういう所がある。男性諸君なら分かってくれるだろう。今まで付き合った彼女の数を水増ししたり、忙しい(寝てない)アピールして「俺、必要とされている感」を演出してみたり、盛りまくった武勇伝を語ってみたり…。何かとカッコつける。
 聖書の中にアビメレクという男が出てくる(士師記9章)。こいつは王様にまで上りつめた、なかなかの奴だったが、最後があっけなかった。ある町を攻めた時のことである。この日もアビメレクが率いる軍は順調に攻め、もう勝利が目の前に来ていた。攻められる町の人たちも、必死で抵抗したことであろう。そんな中で、ある一人の女が、駄目元でアビメレクの頭を目がけて挽き臼の上石を投げた。するとそれが見事に命中。これぞラッキーパンチ。聖書にはその際「頭蓋骨を砕いた」と記されている。
 瀕死のアビメレク。従者たちが寄ってくる「王様!しっかり!王様!」。そんな従者にアビメレクは遺言を残すのかと思いきや、彼はこう言った。「剣を抜いてわたしにとどめを刺せ。女に殺されたと言われないために」。死を前にしてもカッコつけてる。「女に殺されるのはダサい。こんな屈辱はない」と思ったのであろう。「ヒューヒュー」言いながらも自尊心を優先。ウケる。でもなぜか他人事には思えない。そう、僕もアビメレクのように、どこまで行っても「ええかっこしい(A(C))」なのだ。何が恥ずかしいかって、そうやって従者に「とどめ刺せ」と言ったにもかかわらず、ちゃっかり事の顛末(てんまつ)が聖書に残っているということである。これは恥ずかしい。アビメレク、残念!
 聖書は言う。「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」(Ⅰコリント45)。どんだけカッコつけても、カッコ悪い姿を神様はお見通しだ。でもそれは決して恥ずかしいことなんかではない。カッコ悪い姿ごと、神様は「受け入れる」と約束してくださっているのだから。そんな死ぬまでA(C)する必要なんかない。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マルコ8:36)。私たちが本当にしがみつくべきは、自分のカッコよさ(見栄、プライド)ではなく、ダサい自分をも受け入れてくださる主の手の方だろう。
 
 
 

わたしの隣人とは誰ですか。(ルカによる福音書10章29節)
 
 僕は小さな時から落ち着きがなかった。どういうわけか、じっと座っていられない。体を動かさないと、ムズムズする。学校では常に貧乏ゆすり。だからよく先生に怒られた。「じっとしなさい!」と。でも、どうしようもない。動いちゃうんだから。そんな僕にとって救いだったのは、野球をしたり、バスケットをしたりすることだった。スポーツをすれば、体を動かして怒られることはない。むしろ褒められる。大人になってもそうだ。牧師の会議なんか、もう最悪。そわそわしっぱなし。「早くジム行って体動かしたい」そんなことばっかり考えている。
 ある日、ジムに行くと、そこで教会の青年と会った。「せっかくだから」ということで、飯を一緒に食いに行くことに。といってもイトーヨーカ堂のフードコートだけど…。ヨーカ堂につくと、彼は自転車だったので自転車を駐輪場に、僕は腹が減っていたので、待たずにスタスタと入り口の方に。振り向くと彼が来ない。「どんくさいやっちゃな(怒)」と思いながら、見回すと、倒れた自転車をなおしている。どうやら自転車と自転車が絡まって抜けなくなったお母さんの手伝いをしているらしい。「まぁすぐ取れるやろ」と入り口で僕は見ていた。でも一向に抜けない。お母さんとその彼が必死で引っ張り合っている。さすがに僕も、それを見てなお無視し、一人食べに行くほどの人でなしではない(まぁすぐに駆け付けない辺りが、十分に人でなしとも言えるが…)。そこに僕も加わり、三人で「あーでもない」「こーでもない」と言いながら、絡まった自転車をようやく離すことができた。
 ある時、聖書をめっちゃ勉強している「律法の専門家」という人が、イエス様にたずねた。「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるか」と。彼は自分に自信があったのだ。律法(神様の掟)に記されていることは、全部守っている。「どや!さすがのイエス様も、文句のつけようがないやろ。私こそ永遠の命を受け継ぐに相応しい」そんな思いだったに違いない。しかしイエス様は、反対にたずねる。「律法に何と書いてあるか」。彼は胸を張って答える。「『神である主を愛し、また、隣人を自分のよう愛しなさい』とあります」と。
 そこでイエス様は、こんなたとえ話をされた。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」(ルカによる福音書10章30~34節)。
 「祭司」や「レビ人」というのは、神殿に仕える、いわば聖職者(今でいう神父や牧師のこと)だ。立派なことをいつも語っている。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章18節)なんて立派な説法をかましていたのだと思う。でもその二人、神殿では良いこと言っているけど、実際の生活ではどうだったか。困っている人がいても見て見ぬふり。ボコられた人は、同じイスラエルの人であるにもかかわらずだ。
 一方で「サマリア人」。当時、イスラエルとサマリアは仲が悪かった。敵対する民族の人だ。でも、その憎むべき敵サマリア人が、真っ先に駆け寄って介抱したというのである。価値観も、生活も、伝統も、宗教も何もかも違うサマリア人。そこに理屈なんかない。「その人を見て憐れに思い」突き動かされるようにして助けたのだ。
 僕たちは、何かをする時、「これをしたら得かな」とか「よく思われるだろうな」とか、変に頭が働く。自分の立場や、これからのこと。やるリスクとやらないリスク。そういったことを天秤にかけ、一瞬にして計算ができるようになる。ズルくなるのだ。ある意味で、そういう人が「生き方上手」なのかもしれない。リスクを避け、自分にとって益となる最善の道だけを常に選び取って行く。誰だって、そういう所がある。僕なんか、その塊だ。
 でもイエス様は、たとえの最後にこう言われる。「『さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。』律法の専門家は言った。『その人を助けた人です。』そこで、イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」(同10章36~37節)と。
 律法の知識も大切だろう。良い話をする聖職者なんて、沢山いる。でもその言葉を生きていないと意味がない。糞の役にも立たない。イエス様は、そのことを指摘したかったのだと思う。「隣人」は、遠くにいる顔の見えない誰か、ではない。近くにいる「憎たらしいあの野郎」であり、蔑んでいる「あいつ」であり、絶対に分かり合えない、生理的に無理な「あの人」なのだ。
 「行って、あなたも同じようにしなさい」。イエス様も、なかなかめちゃくちゃなことを言う。でも、そうなんだと思う。「行って、同じようにする」。四の五の言う必要はない。結局どんだけ立派なこと言ってもね…。自転車をなおしている青年の姿と「サマリア人」が、ふと重なり合った。と同時に、自分と「祭司」「レビ人」がバチンと重なり合った。
 
※「小話」のつもりが、今回は長くなってしまった。これだとタイトルに偽りありですね。以後、気を付けます。牧師の悪い癖です。話が長い。そして話しがつまらない。
 
 
 

(イエスは)通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。(マルコによる福音書2章14節)
 
 スーパーで買い物をする。「ピッ、ピッ、ピッ…」商品が読み取られる中、こっちもただボケッと突っ立っているわけではない。いかに財布の中の小銭を減らし、なおかつ受けとる量を少なくするか、そのことを考えている。「合計で1,787円になります」。そう聞いて、自分の財布の中に入っている小銭を眺める。一人暮らしが長いせいか、こういう時は、もう瞬時に計算できる。僕が用意したのは「2,292円」。レジのおばちゃんが戸惑う。疑いの目でこちらを見るのである。そして受けとったお金を確認しながら、「…2千、2百、92円…で、よろしかったでしょうか?」。そもそも「よろしかったでしょうか」という日本語がおかしいが、まぁそこはいい。僕は「はい、それで」と一言。でもこの一言には(そんな疑いの目で見るなよ、おばちゃん。大丈夫だから、俺を信頼して、それを機械に突っ込んでみてくれよ。そしたら分かるから)という長い括弧が込められている。疑いながら機械にお金を入れるおばちゃん。ジー、ジャラジャラジャラ…。機械がお金を読み取って行く。するとレジ画面に「お釣り505円」の文字が。心の中で「ほら、言ったでしょ」と思う。おばちゃんも、疑って申し訳なかったという顔でお釣りを差し出す。
 「わたしに従いなさい」。イエス様も弟子たちをスカウトする際、「わたしに従いなさい」としか言わなかった。「俺の弟子になったら、こんな特典があるよ。金持ちになれるぞ。良い暮らしができるぞ。美人と結婚できるぞ。出世を約束しよう。病気が治る!」そんなことは言わなかった。ただ「わたしに従いなさい」と一言。その言葉を聞いた弟子も、最初は戸惑ったと思う。「本当に大丈夫か?」と。でも、イエス様は分かっているのである。大丈夫だということを。「わたしに従いなさい」その一言には、(そんな疑いの目で見るなよ、君。大丈夫だから、俺を信頼して、ついて来てみろよ。そしたら分かるから)という長い括弧があったにちがいない。声をかける方も、適当に声をかけているわけではない。ちゃんと分かった上で声かけているのである。
 教会に行こうとする時、神様のことを信じて生きようとする時、「大丈夫か?」という疑いが、どうしても出てくる。そりゃそうだと思う。なんてったって僕たちには、先の事が分からない。でも先の事が分かっている御方が、見えている御方が言うのである。「わたしに従いなさい」「わたしのこと信じてほしい」「大丈夫だから」と。機械の中に2,292円を投入しなければ、おばちゃんは気づかなかった。僕が間違いではないということに。信じてみないと分からないことがある。信じた者だからこそ、見ることができる景色というものがある。
 
 
 

 主の使いは彼(ギデオン)に現れて言った。「勇者よ、主はあなたと共におられます」。(士師記6章12節)
 
 親は子どもに「思い」と「願い」を込めて名前を付ける。そして、ある程度大きくなると、子どもはその名前の由来を聞かされることに。僕の名前は「耕平」。「平和を耕す人になってほしい」そんな思いからつけられた。明らかに名前負けしている。でもそれは僕だけではあるまい。多くの人がそうだと思う。子どもとしては、あまり名前でハードルを上げられても困る。
 聖書にも名前負けしている人が出て来る。その名は「ギデオン」。「勇者」という意味らしい。日本だと「英雄」と書いて「ヒデオ」と読むみたいな感じだろうか。相当大きく出た名前だ。でもこいつ、実際はというとかなりの臆病者。彼が住んでいた地域、そのお隣にはミディアン人というかなり強い民族がいたらしい。ミディアン人がいつ襲ってくるか。そんな中で、彼はビビりながら「酒ぶねの中で小麦を打っていた」とある。要は、隠れて仕事をしていた。その光景を見たら、親もガッカリしただろうに。きっと「ミディアン人が襲って来ても、勇敢に立ち向かう人になってほしい」そんな思いで「ギデオン(勇者)」とつけたんだと思う。が、彼はその反対の人間に育っていた。
 しかしそんな彼が、イスラエルの人々を導くリーダーへと変えられて行く。名前の通り「勇者」となるのである。でもギデオンは、最初から勇者だったわけではない。神様を信じて生きる中で、勇者にされて行ったのである。
 僕たちにも名前がある。親がつけたのか、祖父母がつけたのか、住職がつけたのか、占い師がつけたのか。更には、画数がどうとか、響きがどうとか、季節がどうとか、何番目の子とか、まぁ色々とあるだろう。でも大本を辿れば、神様がつけたのだ。人を通して。だから、迷う時、自分がよく分からなくなった時、生きる意味、使命を見失った時、名前に込められた思いに立ち帰ることは、実は大切なことなのだと思う。そこに自分のルーツを知るヒントが隠されている。
 ギデオンは、終始臆病だった。しかし、そんな彼がどのようにして勇者となったのか。彼は、ひたすら自分の名前に込められた「神様の思い」に向き合い続けたのだ。名前の通り、生きていない自分がいるかもしれない。でも、少なくとも神様は、僕たちに名前をつけてくださった。僕たちは、最初は皆、名前負けだ。でも名付けてくれた神様に祈り、尋ねて生きる中で、名前が分相応になり、やがて名前勝ちする存在に成って行くのだと思う。神様がそう造って、名付けてくれたのだから、そうならなはずがない。
 
 

無知な者も黙っていれば知恵があると思われ、唇を閉じれば聡明だと思われる。(箴言17章28節)
 
 僕は人見知りだ。牧師のくせに、人と話すことが苦手(これ本当)。でも生きている限り、話さないわけにはいかない。そういう場面は必ず訪れる。その際、相手がシャイだと、もう地獄。たぶんお互いに、必死で頭の中で考えているのだ。この時間をどうやり過ごそうか。何を話そうか。でも、そういう時って、うかつに話し出すと、えらい目に遭う。なので「お題」が重要だ。その選択をミスると、話は単発で終わり、更に気まずい空気が流れてしまう。で、その空気に耐えかねて、またしょうもない「お題」をフッて自滅。別れた後に、一人反省会。本当に、つくづく自分が嫌になる。かといって、一方的に話しかけられても困る。そう、人見知りはめんどくさいのだ。
 そんな僕にとって、おそらく生涯の課題。それは美容院問題だ。どこ行っても、話しかけて来る。ほんとに嫌だ。初めて行ったところだと、決まってアンケートを書かされるが、もうそこに「会話NG」というチェック項目があってもいいと思う。皆が皆、話したいわけではない。雑誌を読むフリをしたり、目をつぶったり、色々試すが、それでも話しかけてくる。しかも「その話題掘っても、大したもん出てこんぞ。話は広がらんぞ」と思うような所ばかりを攻めて来る。「はー…」と思う。
 聖書に「婦人たちは、教会では黙っていなさい」(コリントの信徒への手紙1434節)とある。これを書いたパウロ先生も結構過激だ。今こんなこと言ったら大問題だろう。でもこれには一応、理由が。コリント教会に集っていた婦人方。ぺちゃくちゃと、おしゃべり好きが多かった。それ自体は悪い事ではない。ここでパウロは何と言っているか。「教会では」と言っている。恐らく、おしゃべりが止まらず、教会の中でも、礼拝中でも、周りが迷惑になるくらい話をしていたのだろう。しかも、そういうおしゃべりって、どんどんエスカレートするものだ。噂とか、悪口とか、批判とか。皆が評論家になって、好き放題に話す。それによって教会の輪が乱れたり、信頼が失われたりと、悪い影響が及んでいたのだ。だからパウロは、あえて極端なことを言ったのだと思う。
 また別の聖書箇所に「舌は疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(ヤコブの手紙38節)とある。「口は災いの元」という諺があるが、本当にそうだ。僕自身も心当たりがあり過ぎる。どれだけ不用意な発言で人を傷つけてきたことか。だから美容師さんのこと、とやかく言う権利はないのかもしれない。良かれと思ってやってくれているのも分かる。向こうだって好きで話していない。仕事だからやっている、十分に分かっている。それでも言わせてくれ。「美容院は教会じゃないが、せめて、せめて髪を切る時くらいは、頼むから静かにしてくれ」と。「わしゃ貝になりたいんじゃ」
 
 

野原をさまよっていると、一人の人に出会った。(創世記37章15節)
 
 僕は小学生の頃、暇さえあればグローブとボールを持ち、家の前の壁で一人、よく壁当てをした。「おお、ボク、野球やるんか!」。(ビクッ!!)振り向くと、そこには熊みたいにデカい、パンチパーマのおっさんが。後に、少年野球で「パンチ宮原」と命名されることになる、愛すべき野球大好きオヤジである。宮原のおっちゃんは、とにかく野球が好きだ。家のすぐ近くの乾物屋の倉庫で働いており、軽トラでいつも忙しそうに荷物を運んでいた。でも、僕が外で壁当てをしていると、決まって声をかけてきた。仕事中にも関わらず、キャッチボールにつきあってくれたこともある。そしていつも、軽トラの後ろに積んでいるジュースとかお菓子(お店に卸すであろう商品)をくれた。
 そんなおっちゃんは、とにかく豪快だ。声がやたらとデカい(しかもガラガラ)。そしていつも「カー!ペッ!!」と痰(たん)を吐いていた。ウチのかあちゃんは、それを嫌がっていた。「宮原のおっちゃん、痰さえ吐かなければ良い人なのに」と。妹もおっちゃんの圧にビビっていた。でも、僕はそんなおっちゃんが好きだった。天然自然、正に男の鏡である。そんなリアルジャイアンのようなおっちゃん。見かけによらず、以外と優しい。そしてハートウォーミングである。すぐ泣く。いまだに野球が好きなのは、そんな人間味溢れるおっちゃんと出会ったおかげなのかもしれない。
 聖書にヨセフという人が出て来る。彼は兄たちの所に行く際、道に迷ってしまった。一人で野原をウロウロ。そんな時「一人の人に出会った」(創世記3715節)。その人は言う。「何を探しているのかね」。ヨセフは答える。「兄たちを探しているのです」。するとその人が、兄たちの居場所を教えてくれたというのである。その名もなき人に出会わなければ、ヨセフは兄たちの所に辿り着くことはできなかったに違いない。
 あの時、あの人と。それは必ずしも、パンチ宮原との出会いのように、良い出会いばかりではない。「あんな奴、二度と会いたくない」という人だっているだろう(現に、僕にもいる)。でも、そういった人たちを、神様が時々に応じて備えてくださったのだと思うと、気の持ちようも少し変わる。ヨセフは、そういった出会いを通して、行くべき道へと導かれて行った。変なルートだけど、遠回りに思えるけど、それが必要だったのだ。
 
 
 

もし、頭部の毛が落ちて、後頭部がはげても、その人は清い。もし、前頭部の毛が落ちて、そこがはげても、その人は清い。(レビ記13章40-41節)
 
 小学生でチン毛がボーボーだと、それはそれで恥ずかしい。修学旅行の際、風呂でボーボーの友達をひたすらイジったのを覚えている。ところが中学に入ると、その立場がたちまち逆転する。今度は生えていない方がイジられるのだ。僕は後者だった。体毛が薄く、いつまで経っても生えてこない。すると恐れていたことが。とうとう生えぬまま、中学3年になってしまったのだ。あの日が迫ってくる。そう修学旅行の日が。「やばい…このままだと風呂に入った時、皆にバレる…」。かといって、こればかりは努力のしようがない。右往左往する僕の目に、あるものが飛び込んできた。洗面所にあった親父の育毛剤だ。「これだ!」と思い、それをおもむろに股間に塗り込む。その努力が実った?のか、しばらくするとチョロチョロと生え始めた。僕はそれを大切に育てなきゃと思い、風呂に入る度にシャンプー、リンスをした。でもリンスは余計だった(サラサラになりだしたので、途中で止めた)。何とか、馬鹿にされない程度に育ち、いざ修学旅行へ。行ってみて気づいたこと。ホテルは二人一組の部屋で、風呂は大浴場ではなく、部屋にあるユニットバス。育てた甲斐なし!まぁでも親父の頭に感謝。はげは清い。はげは世界を(少なくとも悩める中学生を)救う。
 
 

旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。(ヘブライ人への手紙13章2節)
 
 学生時代、よく夜行バスを利用した。安くて狭い4列シートから、広々とした3列シートまで、結構色んな種類のバスに乗った。ある日のことである。秋田の友人の所に行き、東京に夜行バスで帰っていた。乗車してしばらくするとバスは高速に乗り、消灯の時間となった。それに合わせ、多くの人たちが席を倒し、眠りにつく。この時のバスは3列シートで広く、“当たり”だった。幸いイビキをする人もなく、僕も安心して眠りについた。
 「………」。それからどれくらい経っただろうか。耳元で何か聞こえる。「すいませんけど…」。無視して眠る僕。「すいませんけど…」。「ん…?(俺か?)」。バスの中は薄暗い。光は、微かにカーテンの隙間からチラチラと射す高速の外灯のみ。そんな中、「すいませんけど…」と声のする方を見る僕。何とそこに、正座をして、ちょこんと座る小さなばあちゃんが。「うお!出た!」。内心、僕はビビった。でもよく見ると、リアルばあちゃんだ。幽霊じゃない。僕の座席の後ろに、友人が座っていたが、彼も起きて、僕とばあちゃんのやり取りを見ていたから間違いない。
 「すいませんけど…」。どうもばあちゃん、消灯をし、皆が座席を倒す中、倒し方が分からなかったようだ。そうとは知らずに、横で豪快に倒し、気持ちよさそうに寝ている若者が羨ましかったのだろう。「ワタシモソレシタイ…」。そこで意を決して、声をかけてきたのだ。「すいませんけど…」。今思えば、僕以外にもたくさん声かけれる人はいたはずだ。しかしどういう訳か、僕に声をかけてきたばあちゃん。「こいつなら文句言わずに教えてくれそうだ」と思ったのだろうか。寝ている所を起こされたので、若干イラッとしたが、そこはばあちゃん。こっちも丁寧にお教えした。「ここを押すと倒れるんですよ」と。それでもうまくできないばあちゃん。レバーを押しながら、背中で押さないと座席は倒れない。座席を押すパワー不足なのだ。そこで僕が身を乗り出し、手で押して座席を倒す。ようやく、ばあちゃんは満足して、眠りについた。だがおかげでこっちは、すっかり目が覚めてしまった・・・。
 聖書の中で、預言者エリヤに神様が語りかけるシーンがある。その時、様々な自然現象が起きるのだが、そういった派手な出来事に、エリヤは「今か今か」とドキドキしながら待ち構える。「主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中には主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。…『エリヤよ、ここで何をしているのか』」(列王記上191113)。
 どうも神様の声は、ウィスパーボイスらしい。あのばあちゃんのように。油断すると聞きもらしてしまうくらいに小さい。それを聞くことは、騒がしさの中に身を置く私たちにとって、ある意味で最も難しい注文なのかもしれない。携帯にイヤホン、簡単に自分だけの世界を作れる時代。無視しようと思えば、簡単に無視できてしまう。神様も、もっとデカい声で、皆が分かるように語ってくれたらいいのに、と思う。でも、神様はあえてそうはしない。
 私たちは、手を止めることを極端に恐がる。何かをしていないと気がすまない。静かでいることに耐えられないのである。なぜか。動く中でしか自分の存在を感じられないから。何かをしている自分に価値があって、何もしていない自分には価値がないと刷り込まれているから。静まると、それを突き付けられるようで恐ろしいのだ。でも、そこでこそ、私たちは神様と出会うのだと思う。何もしない自分、いや何もできない自分。そこで神様は言うのだ。「そのあんたに価値がある」と。
 「すいませんけど」ばあちゃんは、東京駅に着くと、ペコリと一礼をして去って行った。あの夜、僕は強制的に静けさの中に置かれた。でも、そこでばあちゃんの声を聞くことができた。クリスチャンがなぜ日曜日の朝に教会に来るのか、何だか分かるような気がする。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩46:10)。静かにならないと聞けない言葉というものがある。それを聞かないというのは、実にもったいない。

 
 

あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。(マタイによる福音書6章21節)
 
 アメリカでは、子どもたちが自分専用のブランケット(ひざ掛け?のような布orタオル生地のもの。以後「ブランケ」)を持っているらしい。女の子が好きそうな可愛らしい柄から、男の子が好きそうな自動車なんかがプリントされたものまで、その種類も多い。どういうわけか、上山家でもブランケの文化が採用されていた。きっとアメリカかぶれの母の影響だろう。二人の姉と、僕、それぞれのマイブランケがあった。
 ブランケは肌身離さず、常に持ち歩くものだから、当然、汚れたりもする。でも、決して洗ってほしくはない。なぜなら自分のニオイが染みついているから。母は「汚い」と言って洗おうとする。必死で抵抗する僕。そんな攻防が繰り広げられる中、気づけば姉たちは、早々にブランケを卒業していた。それでも僕は、ブランケに夢中だった。ブランケを介してじゃないと呼吸できないんじゃないかというくらい、常にブランケが鼻と口の前にあった。もう好き過ぎて、普段のブランケだと大きいので、それを小さく切って携帯用のブランケを母に作ってもらう始末。ブランケのフィルターを通して呼吸をしていた。周りの大人たちは奇妙がる。そりゃそうだ。周りから見れば、ただの汚いボロ布だ。でも、僕にとっては最高のニオイのする唯一無二の相棒。 
 ある時、ばあちゃんが、そんなブランケ中毒な僕を見かねて、ブランケ卒業計画を立てた。孫が人目を気にせず、狂ったようにブランケをしゃぶる姿を見て、さすがにヤバいと思ったのだろう。ばあちゃんの作戦はこうだ。当時、僕が大好きだったファイブマンの合体ロボを買う。その代わりに、ブランケをばあちゃんに差し出す。何とも卑劣な交換条件である。まったく痛い所をついてくる。今考えれば、ばあちゃん、なかなかの策士だ。僕は苦渋の決断を強いられることとなる。小学校に入る前の少年には、何とも酷な話だ。結果は、ばあちゃんの勝ち。僕は合体ロボを前に、屈してしまった。ブランケを売ってしまったのだ…。ブランケ、ごめん…。
 イエス様は言う。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」(マタイ6:21)。僕がどれだけ「ブランケが大切だ」と言っても、結局その程度だ。物(合体ロボ)になびいてしまう。資本の力には勝てない。イエス様も、よく言ったものだ。どんな綺麗ごとを言っても、「富(お金)」を前に、私たちは、その本性が暴かれてしまう。そう言えば、弟子たちも売ったんだよな、イエス様を。銀貨で。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」。どれだけ格好つけても、それっぽい理由を並べても、結果を見れば明らかだ。その人が、何を第一にしているか、何に重きをおいているかが。

 
 

すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。(マルコによる福音書7章18-19節)
 
 子どもは「うんこ」というワードが大好きだ。僕は一応、大人だが、未だに「うんこ」というワードを聞くとニヤリとする。子どもではないが、現役バリバリで好きなままだ。僕が小学生の頃に「うんこ漢字ドリル」(文響社)があったら、さぞ勉強が楽しくなっていただろうに。今の子どもたちが羨ましい。
 聖書は、一見すると難しい。取っつきにくい所がある。なかなか普通に読んでいて「面白い」とはならない。だから教会に来ている青年たちと読む時は、彼らの関心のある事柄をひたすら引きまくる。「聖書にこんなことも書いているんだ!」という驚きと、興味を持ってもらう為に、こっちも必死だ。
 とある正統?を自負する人から「聖書は神の言葉なのだから、軽々しく扱ってはいけない。もっと畏れを持つように」そう指摘を受けたことがある。別にこっちだってふざけているわけではない。そもそも「神の言葉」として祭り上げることを、聖書自体が望んでいるのだろうか…。これは深くて、格調高く、そして有り難い言葉なのだから、無条件で畏れをもって跪くべきだ、そのことを読む人に求めているのだろうか…。僕はそうは思わない。それは結果としてそうなるのであって、入りは何だって良いと思う。何よりも神の言葉はわざわざ降ってきたのだ、私たちの日常に。お高くとまったものじゃない。
 僕は最初、ひたすら面白いワード、関心のあるテーマを探す読み方をした。じゃないと飽き性の僕はすぐに飽きてしまうから。でもそれが案外、血となり肉となり、身につくのだ。その点、今回の聖書の言葉なんかは最高だ。イエス様が僕の大好きな「うんこ」の話をしている。そんなお下品な話が聖書に出てくるのか?びっくりする方がおられるかもしれないが、事実出てくるのだ。
 昔、ユダヤの人たちの間では「人は食べ物によって汚れる」と信じられていた。だから「汚れている」とされる動物、例えば豚なんかは食べなかった。食べると、その汚れが自分に移ってしまうと考えていたから。だから食べ物を口にする時、細心の注意を払っていた。でもイエス様は言う。「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される」。要はこうだ。「何食おうが、全部一緒だ。それらはうんこになって出て行く。別にそれで汚れるなんてことはない」。「そんな食べ物を気にする前に、お前の心の方をまず心配しろ。そっちの方が汚れの方が、よっぽど酷いじゃないか」。
 おっしゃる通り。自分の汚さを、食べ物のせいに、周りのせいにする私たち。「いやいや、それ以前に、お前自身が汚い。根っから汚れている」ズバリと指摘するイエス様。しかし、そんな汚れた私たちを、忌み嫌わず退けないのがイエス様の器のデカいところ。この御方は、私たちを汚れ(罪)込みで受け入れてくださる。「後は任せとけ!」そう言って、十字架に向かってくださったのだ。親分感がハンパじゃない。そこまで面倒を見てくれるのだから、こっちも安心して、その後について行ける。
 
 
 
 
 

エリシャはそこからベテルに上った。彼が道を上って行くと、町から小さい子供たちが出て来て彼を嘲り、「はげ頭、上って行け。はげ頭、上って行け」と言った。(列王記上2章23節)
 
 誰にでも「そこはイジってくれるな」という所がある。例えばエリシャは、頭を気にしていた。どうも毛がなかったらしい。しかし子どもたちは容赦がない。これでもかというくらいにイジリ倒す。「や~い、はげ頭!」(列王記上223節)。エリシャはエリシャで、よほど気にしていたのだろう。子どもたちに対して、大人げなく本気でキレる。でも分かるような気がする。本当に気にしている部分は、冗談でも触れてほしくないものだ。パウロもまた伝説によると「小柄で頭がはげ、足はまがっていた」(新約聖書外典『パウロ行伝』)らしい。だからだろうか。人々からは「手紙では重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(Ⅱコリント1010節)。そんな陰口を叩かれていた。
 自分ではどうしようもない部分というものがある。身体のこと、また生まれや育ちのこと、本当にどうしようもない。パウロも必死で祈った。「このトゲ(コンプレックス)を取り去ってください」(Ⅱコリント128節)と。そのトゲが具体的に何を指していたのか、よく分からない。しかしブスリとトゲが刺さっていて、それが抜けなかったらしい。「お願いだから抜いてほしい…」。でも神様の答えは「NO」だった。彼はそれでも諦めきれずに「三度」願ったというのだから、よほど痛かった(嫌だった)のだと思う。神様からの「NO」を受け入れるのに時間がかかったのは容易に想像がつく。
 しかしパウロは、ある時「ハッ」と気がついた。自分はコンプレックスによって生かされていたということに。劣っていると思う部分、人には隠しておきたい部分、実はそれが自分を根底から支えている。自分を形作っている。そのことに目が開かれたのである。彼は「トゲ」を通して、謙遜を、忍耐を、感謝を学んだ。以降、パウロが人々の前に立って話をする時、自虐ネタ(ハゲネタ)を解禁したのか、それは定かではない。しかしエリシャのように子どもにイジられて、本気でキレることはなかったと思う。
 「トゲ」さえなければ、もっと自信を持てるのに。世界が変わるのに。あと少し鼻が、背が高ければ。目が大きければ。頭が良ければ…。そんな際限のない私たちに向かって神様は言う「わたしの恵みはあなたに十分である」。ないもの数え上げるのは得意な私たち。しかし神様は「あるものを数え上げてみなさい。ほら、以外と良い物あるでしょ。お前もまだまだ捨てたもんじゃないよ」そう語りかける。

 
 
 

ペトロは外に出てついていったが、天使のしていることが現実のこととは思わなかった。幻を見ているのだと思った。(使徒言行録12章9節)
 
 夢の中の夢の話。昔、寝小便をよくした。今だから言うが、小5くらいまでしていた。というか起きていても、よく漏らした。学校最後の「帰りの会」で「起立、礼」でもう終わるその時に、起立して漏らしたことや、運動会で準備体操の時に漏らしたこともある(その時は、グランドの砂をかけて誤魔化した)。いずれにしても漏らしの常習犯だった僕は、いつも保健室にパンツを借りに行っていた。夜なんかひどいものだ。「今日こそは」そう決心して眠る。しかし気がつけば、いつも布団には見事な世界地図が描かれていた。おかしい…。夜、ちゃんと起きてトイレに行っているのだ。しかし、それがすでに夢の中なのである。僕はそれを「夢の罠」と呼ぶ。あくまでも夢の中でトイレに行っていただけなのだ。そんなことを何回も繰り返していると、こっちも学習しだす。夜、トイレに行っている自分を疑うのである。顔を何度もひっぱたき、トイレの便座に触れ、ちゃんと確認をして、「よし!今度こそは現実だ。本当だ」そうやって安心して小便をする。が、それすらも罠なのだ。夢の中で寝たり起きたり、更に夢を見たり。夢が何層にもなっている。「インセプション」という映画があるが、正にそれ状態。「夢であってくれ」と思うことが現実で、「現実であってくれ」と思うことが夢で。もうここまで来ると、訳が分からなくなる。色んな意味で夢破れ、そっと布団を裏返し、濡れていない側で眠ることが、どれだけあったことか・・・。
 聖書にペトロという人が出て来る。彼が牢屋に捕まっていた時、天使が助けに来るということがあった。最初、彼は夢の中の出来事だと思っていた。「まさか、さすがにこの状況で助け出されるなんてあり得ない。いくら神様が凄いといっても、これは現実的ではない。無理だ」と。こいつも散々「夢の罠」に惑わされながら、期待をしては裏切られ、ということを繰り返しながら生きて来たのだろう。似た臭い(アンモニア臭)がする。しかし、いつもと違っていたのは、それは夢ではなく本当の事だったということ。聖書が言う「救い」というのは、頭の中だけ話(夢物語)なんかではない。実際に深く根差したものである。それは「まさか」と疑ってしまうくらいに驚くべき仕方で、夢のようなタイミングで起きる。私にも、あなたにも。
「たとえ、遅くなっても、待っておれ、それは必ず来る」(ハバクク書2章3節)
 
 

二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。(申命記19章15節)
 
 病院にお見舞いに行った時の話。先輩牧師二人と、とある病院に行った。8階だったか、9階だったか。見舞いが終わり、エレベーターを待つ。ところがエレベーターがもうすでにいっぱいだった。また待つのもあれなので、少し無理をして入った。しかし定員オーバーのブザーも鳴らなかったので、そのまま1階までエレベーターは降りていく。「チーン」。1階に着き、ドアが開く。するとその時、エレベーターのアナウンスがこう言った。「乗り過ぎでした」。
 
 「えっ!?」。乗っていた多くの人が顔を見合す。僕も、聞き間違いかなと思い、先輩牧師に確認をする。「今、こいつ『乗り過ぎでした』って言いませんでした?」。すると「確かにそう言った」と言うのである。もうツッコみ所が多過ぎて、どこから攻めていけばいいのか…。そもそも、乗り過ぎなら最初に言えや。その前に、ブザー鳴れや。1階まで無理して頑張ったんかい。事後報告って…。賢いんかアホなんかよう分からんエレベーター。この話、教会の若者たちにすると信じてもらえない。「またまた」とあしらわれる。でも、その時一緒にいた先輩牧師の名前を出すと、「本当の話なんですね」とちゃんと聞いてくれる。僕の話は一体…。 

群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。(マルコによる福音書10章1節)
 
 いつも誕生日になると、両親が電話をかけてくる。いつも電話に出ると「ハッピーバースディー」と歌が始まる。いつも「ハッピーバースディトゥー」「ユー」(母)「ユー」(父)とハモって終わる。いつも恥ずかしい思いをする。そんな誕生日の電話。最初は嫌だったが、こうも毎年続くと、いつもの恒例行事と化してきて、それがないと何だかしっくりこない。恥ずかしいのに、嫌なはずなのに、どこかで待っている自分がいる。 
 私たちはマンネリ化を嫌う。何でもすぐに飽きる。目新しいものに流れていく。商品のライフサイクルはどんどんと短くなる一方だ。でもそんな時代だからこそ、いつもの定番があると安心する。「そうそうこれこれ」「この味」「この色・形」「この安定のダサさ」。時代に迎合することなく、己の道をゆく、そういった高倉健並みの不器用なものに惹かれるのだ。
 聖書の一節に「群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた」とある。「また」ということは、以前にも集まっていた人たちが、懲りずにやって来たということだろう。その人たちを前に、イエス様はいつもの話をする。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。群衆はそれを聞きに「また」やって来る。おかしな光景だ。でも、そのいつもの話を聞いて安心したんだと思う。なぜなら普段、それとは逆のことを、人々は刷り込まれるように聞かされていたからである。「お前は神様から見捨てられている」「お前の人生は終わりだ」「お前みたいな人間は、神様はお呼びではないし、神の国の一員にふさわしくない」。
 でもイエス様は言う。「いや、お前こそ神の国に招かれているんだ。お前を招くために私は来たんだ。お前は終わってなんかいないし、神様も見捨てていない」と。少々乱暴で、強引な言い方だが、人々の心にはそれが染み入ったことだろう。「神様はあなたを愛している」こんなベタな話、こんないつもの話が端へ追いやられ、掻き消されるような中、教会はそれを約2000年間、語り続けてきた。いつものやつ、ご用意しております。
 
 
 

わたしは福音を恥としない。(ローマの信徒への手紙1章16節)
 
 私の父親は牧師だ。小さな頃はそれが嫌で嫌で、子どもながらに恥ずかしかった。変な目で見られるんじゃないか、そんな引け目のような思いがあった。そんな中、学校の授業で親の仕事を発表する時間があった。周りの友達は、まぁ私が憧れるような仕事を次々と言っていく。そんな中、皆の前で「牧師です」と言うのは気が引ける。かといって嘘をつくわけにもいかない。「どうしよう」。当時、家は教会から頂く謝儀(一般的には給料)だけでは食っていけなかった。そこで父親は新聞配達のアルバイトをしていた。だからといって「新聞配達です」というのも恥ずかしい。本当に困ったのを覚えている。追い詰められたその時、私は閃いた。スクッと立ち上がり、堂々と胸を張って言う。「僕の親父はメディア関係の仕事です!」と。「メディア関係」。何と洗練された、カッコいい響きの言葉なのだろう。牧師を伏せつつ、嘘も言っていない。新聞配達という正にメディアの最前線。完璧だ。
 イエス・キリストのことを宣べ伝える働きをしていた使徒パウロは言う。「わたしは福音を恥としない」。きっと周りにたくさんいたのだろう。自分がクリスチャンであることを、信仰を持っていることを恥ずかしがる人たちが。隠す人たちが。私が父親の職業を恥ずかしく思ったように。言いにくい空気が覆っていたのだと思う。でもパウロは、そんな空気などおかまいなしだ。空気をあえて読まない。「わたしは福音を恥としない。何か文句あっか!」と言わんばかりのストロングスタイルだ。でも彼は、最初からそうだったわけではない。パウロは結構、気にしいだ。「噂されているんじゃないか」とビクビクしている様子が、聖書にはちゃんと残っている。そんな彼が、どうしてこうもはっきり、そして堂々と皆の前で言い切れるようになったか。空気の重圧に勝てたのか。神様の前で弱さを認めたからだ。神様の前で格好つけるのを止めたからだ。変なプライドを捨てたからだ。不思議なもので、色んなものを捨てれば、人は無敵モードになる。信仰一本、神様一本に絞ったパウロは、この時、無敵モードになった。
 「財宝を多く持って恐怖のうちにあるよりは、乏しくても主を畏れる方がよい」(箴言15:16)
 
 

小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。(マタイによる福音書18章14節)
 
 ついに我が家にルンバがやって来た。出かける時にボタンを押す。「タラ~ララ~♪」「ヴィーーーン」。勢いよくゴミ吸いの旅に出かけるルンバ。「後は頼むぞ!」とドアを閉める主人。うちのルンバはなかなか優秀だ。掃除が終わると、ちゃんと自分で充電器まで戻って来る。しかしある時、私は見てしまった。充電器の手前で力尽きている奴の姿を。目の前のゴミを吸い込むのに必死になる余り、帰りの分の余力まで使ってしまったのか。あるいは遠出し過ぎて訳が分からなくなり、帰れなくなったのか。いずれにせよゴール(充電器)の目の前で止まっている姿は、何とも切ない。「ペース配分考えろや。機械のくせにアホやな・・・」。主人は呟く。その後も、ある時は電気コードを吸うだけ吸って絡まり止まっていたり、ソファーの下で力尽きていたりと、凡ミスを連発。最初に「優秀」と言ったが訂正。こいつは結構抜けている。その都度、仕方なしに主人が持ち上げて、充電器まで戻す。「やれやれ…」と思いながら。
 聖書の中に、 99匹の羊を残して、迷子になった 1匹を探しに行く飼い主の話が出てくる。ちゃんと戻るべき所に戻り、主人の手を煩わせない優秀な 99匹の羊。ところが、その中で 1匹やんちゃな奴がいる。自分勝手に動き回っていたのだろう。気づいた時には、自分では帰れなくなっている。そんな面倒な奴、私が主人なら早々に諦めて見捨てる。「まぁ 99匹いるからいいか」「(迷い出た)あいつは、いつも言うこと聞かんからもう知らん」と言って。普通ならそうする。がしかし、この主人は普通じゃない。 99匹を残して、 1匹を探しに行くのだ。ルンバを「やれやれ」と言って戻す主人(私)とは違い、迷子の羊を見つけたら喜んで元の場所に連れ帰る主人。そして嬉しさのあまりパーティをおっ始める。本当に大袈裟だ。しかしこれが聖書の言う神様の姿だ。神様は普通じゃない。普通じゃない位に、私たちのことを大切に思っている。
 

各自で、自分の行いを吟味してみなさい。(ガラテヤの信徒への手紙6章4節)
 
 レジで並ぶ。レジ係の人がせっせと商品をバーコードにかけていく。その間、僕はお金を払う準備をする。すると後ろのおばちゃんが詰め寄ってくる。「早う行け」と言わんばかりのプレッシャーをかけてくるのである。でもこっちだっておつりを待っているのである。僕がどうこうの問題ではない。レジ係の人の、もっと言えばおつりを計算する機械待ちなのだ。だからおばちゃんがいくら詰めたところで、僕にプレッシャーをかけたところで、それはまったく意味がない。精算が済まない限り、おばちゃんの番は来ないのだから。そんな時、僕はがんとして動かない。「おばちゃんよ、あんたが急いたところで、俺がおつり受け取らん限り、前へは進めないでっせ。そしてそのおつりは俺の頑張りでは早くならんぞ。プレッシャーかけるならレジ係の人、店の機械でっせ・・・」。
 
 「忍耐によって英知は加わる。短気な者はますます無知になる」(箴言14:29) 
 

今や、わたしたちはキリストの血によって義とされているのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。(ローマの信徒への手紙5章9節)
 
 僕が小学一年生の時の担任と、母親が街でばったり会った時の話。「上山君のこと覚えてますよ」と母に声をかけてきた先生。こんなことが授業であったそうだ。「人間の中で一番汚い所はどこか」ということを皆で考える時間、先生が一人ひとりに聞いていく。「鼻の穴」「お尻」「チコ」等々。まぁ小学一年生が言う事だ。先生も想定内。先生は「足の裏(ばい菌が多いから)」という答えを用意していたそうだ。しかし答えがなかなか出ない。そこでさらに質問する先生。「じゃあ上山君はどこが一番汚いと思う?」。しばらく考えた少年上山はボソリと答える。「心」。まったく予想外の回答。その出来事を、先生は十何年経っても覚えていたのだ。当の本人は、すっかり忘れてしまっている。しかし今、改めてその回答が、大人になった今の私に響く。「心」。
 聖書は言う。「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」(創世記8:21)。ちょっとでもマシだと思っていた自分が恥ずかしい。「あぁ確かに悪いわな」。自分がそれを一番分かっているはずなのに、どこかで言い訳をしたり、隠したり、気づかないふりをしたりと悪あがき。でも神様は見抜いている。そしてズバリ、お前は「白く塗った墓だ」(使徒言行録23:3)と。外側は小奇麗にしているけど、中身は死臭で満ちている。それが私だ。
 聖書は、やたらと「罪、罪、罪」と攻め立ててくる。そればっかり拾い上げていくと、読んでいて苦しくなる。裁かれているような、「だからお前は駄目なんだ」と言われているように思えて、どうも気分が重くなる。読む気が失せる。でもそれと同じくらいに、いやそれ以上に、たくさんの恵み、喜び、祝福が書かれている。まるで罪を打ち消すかのように、それらの言葉が出て来る。聖書は、イエス・キリストの十字架によって罪が赦されたことを告げる。その出来事を「福音」と呼ぶ。だから本来、徹底して明るい書物なのだ。「あなたの罪は赦される!」この前提でもって書かれている。汚い心も何もかも、イエス・キリストが十字架の血でもって洗ってくれたのだ。だからもうただの汚い心なんかではない。神様の前では既に洗浄済みなのだ。どんなに汚くても、十字架の血で落ちない汚れはない。
 
 
 

夕べがあり、朝があった。(創世記1章5節)
 
 「初めに、神は天地を創造された」(1節)。聖書は、この言葉から始まる。主語は「神」。他の誰でもない神が、何もないところから、その御力によって天地を創られた。理由は分からない。ただ言えることは、神がそう望まれたということと、それらは「良かった」ということ。すべての始まり、すべての根拠は神にある。聖書はそう言って始まる。
 この創世記第1章が書き記されたのは、ユダ王国が滅亡して国土が失われた時代であったと言われている。信仰の拠り所であった神殿は破壊され、国の主だった人々は皆バビロンに連れ去られた、そんな暗い時代。住む場所を失い、家族を失い、生きる望みを失った状態。正に「地は混沌であって、闇が深淵の面に」(2節)あるような世界が、そこには横たわっていた。しかし、そんな中にあって「神の霊が水の面を動いていた」(2節)という。
 そして神は言われる「光あれ」(3節)。これによって初めて、光と闇とが分けられることに。「神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた」(45節)。ここで「分ける」、それに「名前をつけて呼ぶ」というのは、「支配する」「秩序を与える」ということらしい。それまでは、ただ「闇」しかなかった。しかしそこに「光」が登場する。それによって闇が絶対ではなくなるのである。闇もまた秩序の中に入れられる。
 ここで興味深いことは「夕べがあり、朝があった」(5節)という記述。「夕べがあり、朝があった」。私たちは普通、逆だ。朝があって夕べがある。そのように一日を考える。そしてそれが、そのまま自分の人生にも当てはまる、と。私たちは日が暮れるように死んでいく。それで人生は終わりだ。誰もがそう考える。しかし神が創られたこの世界は違う。「夕べがあり、朝があった」なのだ。夕べから夜を貫いて、朝へと向かって行く。
 私たちの住む世界。見渡しますと、そこは混沌が支配しているかのような、秩序のない世界。しかしそれでも「夕べがあり、朝が」ある。そのことを神は、物分りの悪い私たちのために、イエス・キリストの復活という仕方でもって、はっきりとお示しになられた。十字架につけられ死にて葬られたのが、ちょうど夕。しかし朝があった。イエス・キリストは復活されたのだ。それと同じ命を、キリスト者はもう既に生き始めている。このままで終わりのはずがない。