彼らは自分の罪について弁解の余地がない。(ヨハネによる福音書15章22節)
 
 「警察24時」(テレビ番組)なんかを見ていると、逮捕される人たちの、何と言い訳の多いことか。「そもそも、違反してるから捕まっとるんやないか。それなのに抵抗するって、アホかいな」と思う。そんなことしても何にもならない。駄目なものは駄目なのだから。こういうのって、他人事だと思っていた。でも高速を走っていた時、そんな僕の背後からどこかで聞いたことのある、あの音が…。
 「ウ~!そこの車止まりなさい」。「…マジかよ」。スピードメーターを見ると、うん、確実にスピード違反。がっかりしたけど、どうしようもない。自分が悪いんだから。路肩につけ、パトカーに乗せられる。はっきり言って、僕より飛ばしていた車なんか、ごまんといる。「なんで俺やねん」と言いたくなる気持ちも、ないと言えば嘘になる。でも、他がどうこうじゃない。そう、これは自分が犯した違反なのだ。
 聖書は、他人がどうこう、周りと比べてどうこうの話をしているのではない。「あなた」に向けて語る。あなた自身のことを。聖書を前に、評論家のような態度は通用しない。「あなた自身はどうなのだ!?」そう迫って来る。皆、本当は分かっているはずなのだ、自分がどれだけ罪深いか。弁明の余地がないことを。自分は誤魔化せても、神様はお見通しだ。
 パトカーの中で「大変ですね~。ご苦労様です。」なんて雑談をしながら、僕は職業欄に、そっと「牧師」と書いた…。
 

ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ…(マタイによる福音書1章6節)
 
 誰にでもある黒歴史(恥ずかしい過去、できれば葬り去りたい出来事)。僕にもたくさんある。残念なことに、それらはどうあがいても、なかったことにはならない。しかしあろうことか、聖書はそれを公表する。しかも世界に向けて。これ書かれた人からしたら、たまったもんじゃない。週刊誌もびっくりな聖書砲。
 「イエス・キリストの系図」が、新約聖書を開いた1頁目に出てくる。その中の一節に「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とある。…待てよ。「ウリヤの妻によって」って、他人(ウリヤ)の奥さんじゃないか。そう、ダビデ、略奪したのだ。人の妻を。情欲に駆られて。王様だからって、何やったっていいわけじゃない。いや、王様だからこそ、その辺はちゃんとやらなければ示しがつかない。でも、ダビデは自分の欲望を抑えることができずに、大きな過ちを犯してしまった。取り返しのつかない過ちを。
 ダビデにとっては、これ以上ない黒歴史。しかし、その黒歴史の中から「メシア(キリスト)と呼ばれるイエスがお生まれになった」と系図の最後には記されている。自分たちでは決着をつけることができない黒歴史を、きっちり清算するために。神様の前で断罪は免れ得ない者を、無罪に、「雪よりも白く」(詩編51:9)するために、キリストは誕生したのだ。
 私たちの黒歴史、それ自体はノーカウントにはならない。でもキリストが、そんな黒く塗りつぶされた人生のすべてを引き受けてくださったのだ。自分のものとして。キリストの圧倒的白さは、どんな黒をも白にしてしまう。白くならないものなどはない。だから自信を持って聖書は公表するのだ。キリストの十字架の力による贖い、それの及ばぬ罪などあなたたちは犯すことはできないのだ!と。
 
 

あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。(使徒言行録17章23節)
 
 タイトルを見て「スケベ祭り」に見えたあなたは、相当疲れていますね。残念ながら「ケベス祭り」です。なんでもこれ、大分県国東市で毎年10月に行われる火をまき散らす祭りらしいのですが、その起源も由来も不明だそう。誰も知らない。それなのにやっている。もうそれだけで最高。そう、意味なんか考えちゃいけないのかもしれない。そういうことって、私たちの身近にもたくさんある。わけもわからずに、とりあえずやっていることが。
 2000年前、アテネは大都市だった。たくさんの人がいた。そしてたくさんの文化が混ざり合っていた。そんな中、わけのわからん風習というか、習慣みたいなのも、たくさんあったのだと思う。実際、伝道者パウロが道を歩いている途中、『知られざる神に』と刻まれた祭壇を見つけることに。なんか、ようわからんけど、とりあえず神様らしきものに向かって拝む。そういう習慣があったようだ。
 全部が全部、白黒はっきりさせれば良いというものではない。世の中のほとんどのものはグレーだ。その中を私たちは生きている。そうやって含みを持たせておいた方が、何かと融通が利くし、都合がいい。しかし、はっきりさせなくてはならない事柄というものも、あるのではないだろうか。その最たるものが、自分の命の問題であろう。それはつまり自分の命を造った神様の問題でもある。神様が一体どういう御方か。何をお考えになっているのか。そこを曖昧にすることは、自分の命を曖昧にすることだ。
 パウロは言う。「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」。一見「なに上からモノ言ってんねん」と思う。でも違う。パウロは感動していたのだ。アテネの人たちの信仰心に。わけもわからんのに、信じているんだから。これ考えてみれば、結構すごいことだ。わけもわからんのに、理由もないのに、信じ続ける。何かをやり続ける。並大抵のことじゃない。そう考えると、私たちも相当な土壌がある、と言える。
 「信仰」という言葉を使うと、一気に毛嫌いしてしまう私たち。でも案外、皆信仰者だ。「神様なんかいない!」と言う人だって、ほら「神様いない」ということを信じている。聖書は言う「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1章27節)。神様の姿に似せて造られた人間。そう本来、人は神様に頼って生きるように造られているのだ。ただ忘れていたり、気づかないふりをしたり、強がっていたりしているだけで。
 アテネの人たちは、パウロが話を進めようとすると、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言ってはぐらかした。グレーのままにして立ち去った。大きな宿題を残したままに。いつかは、はっきりさせないといけない命の問題。取り組むなら早い方がいいい。夏休みの宿題を、8月31日に泣きながらやるのは、僕はもうごめんだ。
 

安息日を心に留め、これを聖別せよ。(出エジプト記20章8節)
 
 毎週、火曜の午後4時、コープ・生協の宅配がやって来る。僕が意識ある頃にはもう来ていたので、かれこれ長い付き合いだ。その時間になると、近所のおばあちゃんたちが教会の玄関に集まって来る。それぞれが注文した商品をチェックしながら受け取り、終了。のはずだが、それで終わらない。そこから長い井戸端会議が始まるのだ。おばあちゃんたちにとって、生協は単なる食料品を受け取る場ではない。心の糧を養う場になっていた。そんな生協も、あのおばあちゃんが亡くなり、あの人がもう来れなくなり、今では寂しい。しかし、それでもうちの親は生協を続けている。というか、生協を中心に生きている。引くくらいに。
 ある時、家族旅行の計画を立てた。すると「火曜までには帰りたい」と親から注文。どうしてかと聞くと、「生協が来るから」とのこと。この時だけではない。どれだけ遠出をしていても、また別の用事があったとしても、新たな予定を入れようとしても、火曜の夕方だけは絶対に譲らないのだ。這いつくばってでも火曜4時に帰ろうとする。他をキャンセルしてでも、生協が最優先なのだ。ここまで来ると、もはや宗教だ。コープ教。生協を軸に人生を考えている。
 聖書に「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という言葉が出てくる。これは神様がモーセを通してイスラエルの人々に与えた「十戒」の中に出てくる戒めの一つだ。神様は世界を創造された時に最後、お休みになった。そこから人間も一週間の内、一日はちゃんと休むようにとなるのだが、そこには神様の深い配慮があった。黙っていたら、私たち、いつまででも、どこまででも働き続けてしまう。だから無理にでも「聖別」(これは「分ける」という意味の言葉)する必要がある、そのように神様はお考えになったのだろう。この日は、手を止めて、普段の慌ただしさを離れて積極的に休む。ただ休むのではなくて、この世界を、自分を造った神様に思いを向ける。本来、人はそうやって生きるように造られているのだ。しかしほとんどの人が、そのことを忘れてあくせく生きている。
 そんな中、クリスチャンは、日曜日の礼拝(午前中)を聖別しながら生きている。この日、この時間だけは、どうしても譲れないのだ。これが人生の軸であり、ここを起点に生きている。軸をすぐに見失ってしまう私たち。あなたには、そのような聖別している時間、場所がおありだろうか?試しに、日曜日の午前中、聖別する生活を始めてみてはいかがでしょうか。お待ちしております。
 

主〔神様〕は、ノアの後ろで戸を閉ざされた。(創世記7章16節) 
 
 神様から「木の箱舟を造りなさい」と命じられたノア。真面目なノアは、言われた通りコツコツと造り始める。そんな彼を、周りはさぞ笑ったことだろう。「馬鹿なことやってる」と。神様の言葉に従って生きることは、時に世的に見れば、馬鹿馬鹿しく思えることがある。僕も、ふとそんな思いに捉われることがある。「信じたって、どうしようもないんじゃないか」「何の得があるんだろうか」「神様を信じなくても、十分に、しかも自由に生きれるじゃないか」。
 きっとノアだって、箱舟造りながら、そんなこと思ったに違いない。「こんなもの造って何になるのか…」「時間の無駄じゃないか…」「人生を棒に振っているかも…」。でもその悩み(迷い)って、「神様を信じよう」「神様の言葉に従おう」としているからこそ、持つものだと思う。信じていない人は、そんなこと悩みすらしない。不信仰に陥るのにも、信仰がいるのだ。
 ノアにも、やりたいことがあったに違いない。何が楽しくて、人から馬鹿にされることを、一見無駄に見えることを、何の社会の役にも立たなそうなことを延々とやらなければならないのか。自分の人生、「あれがやりたい」と思えば、いつでも戻ってやり直せる道を、自由に行ったり来たりできる可能性(戸)を、残しておきたかったはずだ。
 しかし聖書は語る。「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」。もう引き返すことはできない。前に進むしかない。ある人は言う。「この閉じ込めは、神の好意である。神の愛である」と。もし神様がノアのために、後ろの戸を閉じなかったら、おそらく箱舟の中から彼は出ただろう、と言うのである。せっかく恵みの中に、守りの中にあるのに、自らその外に転落してしまっていたに違いない、と。
 後ろ(過去)がよく見える。そんなことばかりだ。後ろばかりを気にしている時、僕たちは呟く。「もう引き返せない」「前にしか進めない」「あの時は良かった」と。でも、そうじゃない。もう引き返さなくていいのだ。前に進めるのだ。ノアは退屈な箱舟の中に、長いこと閉じ込められ生活することになった。しんどかったと思う。でも実は、神様の守りの中にあったということ、彼は後で知ることになる。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3章1314節)。
 ちなみにゴキブリは、前にしか進めないらしい。奴ら人間に向かって来ているんじゃない。びっくりして、ひたすら前に進み続けているだけなのだ。ゴキブリの生き様の方が、どれだけ信仰的かと思う。ま、結局はやられちゃうんだけどね、スリッパに。
 
 

 学びすぎれば体が疲れる。すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。(コヘレトの言葉12章12-13節)
 
 「考え過ぎはよくない」。考え過ぎてしまう人に、そんなこと言っても無駄だ。これほど響かない言葉はない。
 考えること、それ自体は何も悪いことではない。むしろ考えることによって、これまで人は豊かな文化を築き上げて来た。とても創造的な作業と言える。しかし反面、それが過ぎてしまうと、病んでしまう。「考え過ぎ」によって、どれだけ多くの人が自滅してしまっていることか…。
 昔、イスラエルにソロモンという人がいた。「ソロモンの栄華」と言われるくらいに、国を栄えさせた偉大な王様だ。かっこいい顔、明晰な頭脳、優れたリーダーシップ、王様だからお金も、権力も、名声ある。奇麗な奥さんだっている。言うことがない。正に出木杉君だ。
 そんな世にあるすべてのものを手に入れたソロモンが一言。「すべては空しい」。色んなことをしたところで、成したところで、「結局何になるねん」と言うのだ。そこからソロモンは、考え過ぎの扉を開いて、そこに入って行く。出口のない、考え過ぎのループに。「そうだ、先人たちに聞こう!こういう時は、どうしたらいいか」。その発想自体が賢い人だ。僕なら、とりあえず漫画読んで寝る。でも、ソロモンは真面目だ。難しい本を何冊も読み、思索を深めていく。勉強しまくったのだ。考え過ぎてしまうのであれば、もうその道を突っ切ってしまえ、ということだろうか。
 で、彼がそこで出した結論。「学びすぎれば体が疲れる」。うん、それは僕もよく知っているよ…。そんなこと僕でも言える。でも、その先の言葉が、怠け者の僕からは絶対に出てこない言葉だ。「神を畏れ、その戒めを守れ」。考え過ぎてしまうそのベクトルを変えればいい、と言うのだ。自分の内側にではなく神様の方に。「何が主(神様)に喜ばれるかを吟味しなさい」(エフェソ5:10)。考え過ぎることができるのは、立派な能力だと思う。せっかくですから、その力、神様のために使ってみませんか。どうせ疲れるんですから、神様のこと考えて疲れましょう。そうすれば同じ「疲れる」でも、人生の見方が少し変わって来るはずです。
 
 

群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。(ルカによる福音書6章19節)
イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。(マルコによる福音書5章27節)
 
 長野には戸隠神社という立派な神社がある。ごっつい樹がずらりと並んでいる参道は圧巻だ。こないだ行った時、ある一人の女性が、一際でかい樹に手をかざして祈っている姿を見かけた。普段、疲れることが多いのか、たぶん樹からパワーをもらっていたのだと思う。その気持ち、なんだかよく分かる。
 僕たちは時々、何かに触れたくなることがある。いたたまれない時、疲れ切った時、助けが必要な時、自分ではどうしようもない時、触れずにはおれないのだ。特に根拠はないけど、パワースポットにある石や樹に、はたまた凄いと言われる人に触れたら、何か良いことがある。その力にあやかれる。「そんなわけあるかい!」と思いながら、それでも触れるのだ。
 小学生の頃、軽トラの黒いナンバーに触れると良いことがある、というのが流行って、ひたすら軽トラを追いかけたのを思い出す。これに触れさえすれば・・・。願いを込めて触れるけど、まぁ何も起こらない。そうしながら学ぶのだ。「触れたからって、どうってことない」と。
 聖書の中に、長年出血が止まらない女性が出てくる。当時、そういった得体の知れない病気、特に女性の出血を伴う病気は「汚れている」とされていた。誰も相手をしないし、近づかない。色んなお医者さんに診てもらったと思う。怪しい呪い師や、祈祷師なんかにもすがったと思う。でも、どこに行っても駄目だった。
 そんな彼女が最後に行きついたのが、イエス様だった。でも、この時のイエス様の周りには人がたくさんいた。とても引き留めて話を聞いてもらうなんて状況じゃなかった。そんな中、もみくちゃになりながら、勇気を振り絞り手を伸ばす。ようやく服に触れることができた。身体ならまだしも、服の、しかも端っこ。普通の人なら気づかない。でもイエス様は気づいた。そして立ち止まってくれた。
 病気が治る、治らないも大切なことだ。でも、僕たちが一体どんな思いで触れているのか。それも大切だろう。イエス様はそのことを知ってくれている。もうそれだけで、半分以上救われているような気がする。僕たちの必死な思いを、イエス様は見逃さないし、ましてや放っておくことはなさらない。そういう意味で、イエス様の体と言われている教会は、最大のパワースポットだと思う。
 
 
 

世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとってわたしは外国人であり、わたしにとってその話し手も外国人であることになります。(コリントの信徒への手紙一14章10-11節)
 
 会議での一コマ。ある人が言う「アジェンダをご覧ください」。僕は心の中で思う「・・・なんじゃい『あじぇんだ』って?」。教養のない僕にはわけが分からん。でも、周りを見渡すと、なんか皆、分かった感を出している。結局、そのまま「アジェンダ」はスルーされて話は進んでいった。
 聖書に、わけ分からん言葉を話す人は、たとえ同じ民族であっても外国人だ、と言っている箇所がある。本当にその通りだと思う。あの日、司会をしていたあの人は、僕にとっては外国人だった。言葉は、相手に伝わってナンボ。その意味で同じ日本語でも、伝わらない言葉が、どれだけ多いことかと思う。
 そういや、僕の知り合いに「位置について」の号令、「on your mark(オン・ユア・マーク)」を、「おいやん(関西弁で『おじさん』の意味)マーク」と聞き間違えた爺ちゃんがいた。この爺ちゃん、何が起きるのか、とソワソワしたらしい。「わし、マークされるんやないか・・・」と。
 そう考えるとイエス様って、分かる言葉話したんだよな。学校なんか行ってないような人たちにも。下世話なこと、スラングなんかも、多用していたと思う。なんか嬉しい。聖書の言葉って身近だ。神様が、僕が使うような汚い言葉にも精通してくれているなんて。
 それなのに、その聖書を語る牧師は、外国人になりやすい。早速、僕自身が「スラング(隠語・俗語)」なんて言葉使ってしまっている辺りが、良い例だ。すみません。わかるように話せるよう頑張りますけど、外国人になってたらごめんなさい。アジェンダ事件は、自分への戒めです。
 
 
 

一人の女がアビメレクの頭を目がけて、挽き臼の上石を放ち、頭蓋骨を砕いた。(士師記9章53節)
 
 僕の人生の中で、一番喧嘩をしたのは後にも先にも親友の「稲垣」だろう。小さな口喧嘩から殴り合いの大喧嘩まで、数えるとキリがない。中学生の頃、ちょっとしたことから殴り合いの喧嘩になった。と言っても、僕が一方的に殴ったのだが…。しかしその時の稲垣のガードは鉄壁だった。身を屈め、小さく腕を畳む徹底したガードスタイル。隙がない。僕はかまわず力任せに、そのガードの上からパンチをし続けた。
 世紀の一戦を終え、興奮しながら帰宅。僕は、そこで初めて気づくことになる。自分の左こぶしが二倍に膨れ上がっていたことに。「まぁ大したことないやろ」。その日は、そのまま寝た。次の日、何とそのこぶしが三倍に。ズキズキと痛い。病院に行き、骨折していたことが判明。当然、身に覚えがある。あの稲垣との一戦だ。医者からは、散々「なぜこうなったのか?」と聞かれたのだが、僕は「喧嘩してこうなった」と言うのが恥ずかしかったので「転びました」の一点張り。でも診断結果は嘘をつかない。通称「ボクサー骨折」。
 男は見栄っ張りだ。どうも自分を大きく見せたがる。カッコつけなのだ。あの日、僕は「喧嘩してこぶしを骨折したなんてダサい」と思った。だから嘘をついた。「コケてこうなったんだ」と(今思い返すと、転んで骨折の方がダサい…)。いずれにせよケガよりも自尊心を優先したのである。今でもそういう所がある。男性諸君なら分かってくれるだろう。今まで付き合った彼女の数を水増ししたり、忙しい(寝てない)アピールして「俺、必要とされている感」を演出してみたり、盛りまくった武勇伝を語ってみたり…。何かとカッコつける。
 聖書の中にアビメレクという男が出てくる(士師記9章)。こいつは王様にまで上りつめた、なかなかの奴だったが、最後があっけなかった。ある町を攻めた時のことである。この日もアビメレクが率いる軍は順調に攻め、もう勝利が目の前に来ていた。攻められる町の人たちも、必死で抵抗したことであろう。そんな中で、ある一人の女が、駄目元でアビメレクの頭を目がけて挽き臼の上石を投げた。するとそれが見事に命中。これぞラッキーパンチ。聖書にはその際「頭蓋骨を砕いた」と記されている。
 瀕死のアビメレク。従者たちが寄ってくる「王様!しっかり!王様!」。そんな従者にアビメレクは遺言を残すのかと思いきや、彼はこう言った。「剣を抜いてわたしにとどめを刺せ。女に殺されたと言われないために」。死を前にしてもカッコつけてる。「女に殺されるのはダサい。こんな屈辱はない」と思ったのであろう。「ヒューヒュー」言いながらも自尊心を優先。ウケる。でもなぜか他人事には思えない。そう、僕もアビメレクのように、どこまで行っても「ええかっこしい(A(C))」なのだ。何が恥ずかしいかって、そうやって従者に「とどめ刺せ」と言ったにもかかわらず、ちゃっかり事の顛末(てんまつ)が聖書に残っているということである。これは恥ずかしい。アビメレク、残念!
 聖書は言う。「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」(Ⅰコリント45)。どんだけカッコつけても、カッコ悪い姿を神様はお見通しだ。でもそれは決して恥ずかしいことなんかではない。カッコ悪い姿ごと、神様は「受け入れる」と約束してくださっているのだから。そんな死ぬまでA(C)する必要なんかない。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マルコ8:36)。私たちが本当にしがみつくべきは、自分のカッコよさ(見栄、プライド)ではなく、ダサい自分をも受け入れてくださる主の手の方だろう。
 
 
 

わたしの隣人とは誰ですか。(ルカによる福音書10章29節)
 
 僕は小さな時から落ち着きがなかった。どういうわけか、じっと座っていられない。体を動かさないと、ムズムズする。学校では常に貧乏ゆすり。だからよく先生に怒られた。「じっとしなさい!」と。でも、どうしようもない。動いちゃうんだから。そんな僕にとって救いだったのは、野球をしたり、バスケットをしたりすることだった。スポーツをすれば、体を動かして怒られることはない。むしろ褒められる。大人になってもそうだ。牧師の会議なんか、もう最悪。そわそわしっぱなし。「早くジム行って体動かしたい」そんなことばっかり考えている。
 ある日、ジムに行くと、そこで教会の青年と会った。「せっかくだから」ということで、飯を一緒に食いに行くことに。といってもイトーヨーカ堂のフードコートだけど…。ヨーカ堂につくと、彼は自転車だったので自転車を駐輪場に、僕は腹が減っていたので、待たずにスタスタと入り口の方に。振り向くと彼が来ない。「どんくさいやっちゃな(怒)」と思いながら、見回すと、倒れた自転車をなおしている。どうやら自転車と自転車が絡まって抜けなくなったお母さんの手伝いをしているらしい。「まぁすぐ取れるやろ」と入り口で僕は見ていた。でも一向に抜けない。お母さんとその彼が必死で引っ張り合っている。さすがに僕も、それを見てなお無視し、一人食べに行くほどの人でなしではない(まぁすぐに駆け付けない辺りが、十分に人でなしとも言えるが…)。そこに僕も加わり、三人で「あーでもない」「こーでもない」と言いながら、絡まった自転車をようやく離すことができた。
 ある時、聖書をめっちゃ勉強している「律法の専門家」という人が、イエス様にたずねた。「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるか」と。彼は自分に自信があったのだ。律法(神様の掟)に記されていることは、全部守っている。「どや!さすがのイエス様も、文句のつけようがないやろ。私こそ永遠の命を受け継ぐに相応しい」そんな思いだったに違いない。しかしイエス様は、反対にたずねる。「律法に何と書いてあるか」。彼は胸を張って答える。「『神である主を愛し、また、隣人を自分のよう愛しなさい』とあります」と。
 そこでイエス様は、こんなたとえ話をされた。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」(ルカによる福音書10章30~34節)。
 「祭司」や「レビ人」というのは、神殿に仕える、いわば聖職者(今でいう神父や牧師のこと)だ。立派なことをいつも語っている。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章18節)なんて立派な説法をかましていたのだと思う。でもその二人、神殿では良いこと言っているけど、実際の生活ではどうだったか。困っている人がいても見て見ぬふり。ボコられた人は、同じイスラエルの人であるにもかかわらずだ。
 一方で「サマリア人」。当時、イスラエルとサマリアは仲が悪かった。敵対する民族の人だ。でも、その憎むべき敵サマリア人が、真っ先に駆け寄って介抱したというのである。価値観も、生活も、伝統も、宗教も何もかも違うサマリア人。そこに理屈なんかない。「その人を見て憐れに思い」突き動かされるようにして助けたのだ。
 僕たちは、何かをする時、「これをしたら得かな」とか「よく思われるだろうな」とか、変に頭が働く。自分の立場や、これからのこと。やるリスクとやらないリスク。そういったことを天秤にかけ、一瞬にして計算ができるようになる。ズルくなるのだ。ある意味で、そういう人が「生き方上手」なのかもしれない。リスクを避け、自分にとって益となる最善の道だけを常に選び取って行く。誰だって、そういう所がある。僕なんか、その塊だ。
 でもイエス様は、たとえの最後にこう言われる。「『さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。』律法の専門家は言った。『その人を助けた人です。』そこで、イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」(同10章36~37節)と。
 律法の知識も大切だろう。良い話をする聖職者なんて、沢山いる。でもその言葉を生きていないと意味がない。糞の役にも立たない。イエス様は、そのことを指摘したかったのだと思う。「隣人」は、遠くにいる顔の見えない誰か、ではない。近くにいる「憎たらしいあの野郎」であり、蔑んでいる「あいつ」であり、絶対に分かり合えない、生理的に無理な「あの人」なのだ。
 「行って、あなたも同じようにしなさい」。イエス様も、なかなかめちゃくちゃなことを言う。でも、そうなんだと思う。「行って、同じようにする」。四の五の言う必要はない。結局どんだけ立派なこと言ってもね…。自転車をなおしている青年の姿と「サマリア人」が、ふと重なり合った。と同時に、自分と「祭司」「レビ人」がバチンと重なり合った。
 
※「小話」のつもりが、今回は長くなってしまった。これだとタイトルに偽りありですね。以後、気を付けます。牧師の悪い癖です。話が長い。そして話しがつまらない。
 
 
 

(イエスは)通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。(マルコによる福音書2章14節)
 
 スーパーで買い物をする。「ピッ、ピッ、ピッ…」商品が読み取られる中、こっちもただボケッと突っ立っているわけではない。いかに財布の中の小銭を減らし、なおかつ受けとる量を少なくするか、そのことを考えている。「合計で1,787円になります」。そう聞いて、自分の財布の中に入っている小銭を眺める。一人暮らしが長いせいか、こういう時は、もう瞬時に計算できる。僕が用意したのは「2,292円」。レジのおばちゃんが戸惑う。疑いの目でこちらを見るのである。そして受けとったお金を確認しながら、「…2千、2百、92円…で、よろしかったでしょうか?」。そもそも「よろしかったでしょうか」という日本語がおかしいが、まぁそこはいい。僕は「はい、それで」と一言。でもこの一言には(そんな疑いの目で見るなよ、おばちゃん。大丈夫だから、俺を信頼して、それを機械に突っ込んでみてくれよ。そしたら分かるから)という長い括弧が込められている。疑いながら機械にお金を入れるおばちゃん。ジー、ジャラジャラジャラ…。機械がお金を読み取って行く。するとレジ画面に「お釣り505円」の文字が。心の中で「ほら、言ったでしょ」と思う。おばちゃんも、疑って申し訳なかったという顔でお釣りを差し出す。
 「わたしに従いなさい」。イエス様も弟子たちをスカウトする際、「わたしに従いなさい」としか言わなかった。「俺の弟子になったら、こんな特典があるよ。金持ちになれるぞ。良い暮らしができるぞ。美人と結婚できるぞ。出世を約束しよう。病気が治る!」そんなことは言わなかった。ただ「わたしに従いなさい」と一言。その言葉を聞いた弟子も、最初は戸惑ったと思う。「本当に大丈夫か?」と。でも、イエス様は分かっているのである。大丈夫だということを。「わたしに従いなさい」その一言には、(そんな疑いの目で見るなよ、君。大丈夫だから、俺を信頼して、ついて来てみろよ。そしたら分かるから)という長い括弧があったにちがいない。声をかける方も、適当に声をかけているわけではない。ちゃんと分かった上で声かけているのである。
 教会に行こうとする時、神様のことを信じて生きようとする時、「大丈夫か?」という疑いが、どうしても出てくる。そりゃそうだと思う。なんてったって僕たちには、先の事が分からない。でも先の事が分かっている御方が、見えている御方が言うのである。「わたしに従いなさい」「わたしのこと信じてほしい」「大丈夫だから」と。機械の中に2,292円を投入しなければ、おばちゃんは気づかなかった。僕が間違いではないということに。信じてみないと分からないことがある。信じた者だからこそ、見ることができる景色というものがある。
 
 
 

 主の使いは彼(ギデオン)に現れて言った。「勇者よ、主はあなたと共におられます」。(士師記6章12節)
 
 親は子どもに「思い」と「願い」を込めて名前を付ける。そして、ある程度大きくなると、子どもはその名前の由来を聞かされることに。僕の名前は「耕平」。「平和を耕す人になってほしい」そんな思いからつけられた。明らかに名前負けしている。でもそれは僕だけではあるまい。多くの人がそうだと思う。子どもとしては、あまり名前でハードルを上げられても困る。
 聖書にも名前負けしている人が出て来る。その名は「ギデオン」。「勇者」という意味らしい。日本だと「英雄」と書いて「ヒデオ」と読むみたいな感じだろうか。相当大きく出た名前だ。でもこいつ、実際はというとかなりの臆病者。彼が住んでいた地域、そのお隣にはミディアン人というかなり強い民族がいたらしい。ミディアン人がいつ襲ってくるか。そんな中で、彼はビビりながら「酒ぶねの中で小麦を打っていた」とある。要は、隠れて仕事をしていた。その光景を見たら、親もガッカリしただろうに。きっと「ミディアン人が襲って来ても、勇敢に立ち向かう人になってほしい」そんな思いで「ギデオン(勇者)」とつけたんだと思う。が、彼はその反対の人間に育っていた。
 しかしそんな彼が、イスラエルの人々を導くリーダーへと変えられて行く。名前の通り「勇者」となるのである。でもギデオンは、最初から勇者だったわけではない。神様を信じて生きる中で、勇者にされて行ったのである。
 僕たちにも名前がある。親がつけたのか、祖父母がつけたのか、住職がつけたのか、占い師がつけたのか。更には、画数がどうとか、響きがどうとか、季節がどうとか、何番目の子とか、まぁ色々とあるだろう。でも大本を辿れば、神様がつけたのだ。人を通して。だから、迷う時、自分がよく分からなくなった時、生きる意味、使命を見失った時、名前に込められた思いに立ち帰ることは、実は大切なことなのだと思う。そこに自分のルーツを知るヒントが隠されている。
 ギデオンは、終始臆病だった。しかし、そんな彼がどのようにして勇者となったのか。彼は、ひたすら自分の名前に込められた「神様の思い」に向き合い続けたのだ。名前の通り、生きていない自分がいるかもしれない。でも、少なくとも神様は、僕たちに名前をつけてくださった。僕たちは、最初は皆、名前負けだ。でも名付けてくれた神様に祈り、尋ねて生きる中で、名前が分相応になり、やがて名前勝ちする存在に成って行くのだと思う。神様がそう造って、名付けてくれたのだから、そうならなはずがない。
 
 

無知な者も黙っていれば知恵があると思われ、唇を閉じれば聡明だと思われる。(箴言17章28節)
 
 僕は人見知りだ。牧師のくせに、人と話すことが苦手(これ本当)。でも生きている限り、話さないわけにはいかない。そういう場面は必ず訪れる。その際、相手がシャイだと、もう地獄。たぶんお互いに、必死で頭の中で考えているのだ。この時間をどうやり過ごそうか。何を話そうか。でも、そういう時って、うかつに話し出すと、えらい目に遭う。なので「お題」が重要だ。その選択をミスると、話は単発で終わり、更に気まずい空気が流れてしまう。で、その空気に耐えかねて、またしょうもない「お題」をフッて自滅。別れた後に、一人反省会。本当に、つくづく自分が嫌になる。かといって、一方的に話しかけられても困る。そう、人見知りはめんどくさいのだ。
 そんな僕にとって、おそらく生涯の課題。それは美容院問題だ。どこ行っても、話しかけて来る。ほんとに嫌だ。初めて行ったところだと、決まってアンケートを書かされるが、もうそこに「会話NG」というチェック項目があってもいいと思う。皆が皆、話したいわけではない。雑誌を読むフリをしたり、目をつぶったり、色々試すが、それでも話しかけてくる。しかも「その話題掘っても、大したもん出てこんぞ。話は広がらんぞ」と思うような所ばかりを攻めて来る。「はー…」と思う。
 聖書に「婦人たちは、教会では黙っていなさい」(コリントの信徒への手紙1434節)とある。これを書いたパウロ先生も結構過激だ。今こんなこと言ったら大問題だろう。でもこれには一応、理由が。コリント教会に集っていた婦人方。ぺちゃくちゃと、おしゃべり好きが多かった。それ自体は悪い事ではない。ここでパウロは何と言っているか。「教会では」と言っている。恐らく、おしゃべりが止まらず、教会の中でも、礼拝中でも、周りが迷惑になるくらい話をしていたのだろう。しかも、そういうおしゃべりって、どんどんエスカレートするものだ。噂とか、悪口とか、批判とか。皆が評論家になって、好き放題に話す。それによって教会の輪が乱れたり、信頼が失われたりと、悪い影響が及んでいたのだ。だからパウロは、あえて極端なことを言ったのだと思う。
 また別の聖書箇所に「舌は疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(ヤコブの手紙38節)とある。「口は災いの元」という諺があるが、本当にそうだ。僕自身も心当たりがあり過ぎる。どれだけ不用意な発言で人を傷つけてきたことか。だから美容師さんのこと、とやかく言う権利はないのかもしれない。良かれと思ってやってくれているのも分かる。向こうだって好きで話していない。仕事だからやっている、十分に分かっている。それでも言わせてくれ。「美容院は教会じゃないが、せめて、せめて髪を切る時くらいは、頼むから静かにしてくれ」と。「わしゃ貝になりたいんじゃ」
 
 

野原をさまよっていると、一人の人に出会った。(創世記37章15節)
 
 僕は小学生の頃、暇さえあればグローブとボールを持ち、家の前の壁で一人、よく壁当てをした。「おお、ボク、野球やるんか!」。(ビクッ!!)振り向くと、そこには熊みたいにデカい、パンチパーマのおっさんが。後に、少年野球で「パンチ宮原」と命名されることになる、愛すべき野球大好きオヤジである。宮原のおっちゃんは、とにかく野球が好きだ。家のすぐ近くの乾物屋の倉庫で働いており、軽トラでいつも忙しそうに荷物を運んでいた。でも、僕が外で壁当てをしていると、決まって声をかけてきた。仕事中にも関わらず、キャッチボールにつきあってくれたこともある。そしていつも、軽トラの後ろに積んでいるジュースとかお菓子(お店に卸すであろう商品)をくれた。
 そんなおっちゃんは、とにかく豪快だ。声がやたらとデカい(しかもガラガラ)。そしていつも「カー!ペッ!!」と痰(たん)を吐いていた。ウチのかあちゃんは、それを嫌がっていた。「宮原のおっちゃん、痰さえ吐かなければ良い人なのに」と。妹もおっちゃんの圧にビビっていた。でも、僕はそんなおっちゃんが好きだった。天然自然、正に男の鏡である。そんなリアルジャイアンのようなおっちゃん。見かけによらず、以外と優しい。そしてハートウォーミングである。すぐ泣く。いまだに野球が好きなのは、そんな人間味溢れるおっちゃんと出会ったおかげなのかもしれない。
 聖書にヨセフという人が出て来る。彼は兄たちの所に行く際、道に迷ってしまった。一人で野腹をウロウロ。そんな時「一人の人に出会った」(創世記3715節)。その人は言う。「何を探しているのかね」。ヨセフは答える。「兄たちを探しているのです」。するとその人が、兄たちの居場所を教えてくれたというのである。その名もなき人に出会わなければ、ヨセフは兄たちの所に辿り着くことはできなかったに違いない。
 あの時、あの人と。それは必ずしも、パンチ宮原との出会いのように、良い出会いばかりではない。「あんな奴、二度と会いたくない」という人だっているだろう(現に、僕にもいる)。でも、そういった人たちを、神様が時々に応じて備えてくださったのだと思うと、気の持ちようも少し変わる。ヨセフは、そういった出会いを通して、行くべき道へと導かれて行った。変なルートだけど、遠回りに思えるけど、それが必要だったのだ。
 
 
 

もし、頭部の毛が落ちて、後頭部がはげても、その人は清い。もし、前頭部の毛が落ちて、そこがはげても、その人は清い。(レビ記13章40-41節)
 
 小学生でチン毛がボーボーだと、それはそれで恥ずかしい。修学旅行の際、風呂でボーボーの友達をひたすらイジったのを覚えている。ところが中学に入ると、その立場がたちまち逆転する。今度は生えていない方がイジられるのだ。僕は後者だった。体毛が薄く、いつまで経っても生えてこない。すると恐れていたことが。とうとう生えぬまま、中学3年になってしまったのだ。あの日が迫ってくる。そう修学旅行の日が。「やばい…このままだと風呂に入った時、皆にバレる…」。かといって、こればかりは努力のしようがない。右往左往する僕の目に、あるものが飛び込んできた。洗面所にあった親父の育毛剤だ。「これだ!」と思い、それをおもむろに股間に塗り込む。その努力が実った?のか、しばらくするとチョロチョロと生え始めた。僕はそれを大切に育てなきゃと思い、風呂に入る度にシャンプー、リンスをした。でもリンスは余計だった(サラサラになりだしたので、途中で止めた)。何とか、馬鹿にされない程度に育ち、いざ修学旅行へ。行ってみて気づいたこと。ホテルは二人一組の部屋で、風呂は大浴場ではなく、部屋にあるユニットバス。育てた甲斐なし!まぁでも親父の頭に感謝。はげは清い。はげは世界を(少なくとも悩める中学生を)救う。
 
 

旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。(ヘブライ人への手紙13章2節)
 
 学生時代、よく夜行バスを利用した。安くて狭い4列シートから、広々とした3列シートまで、結構色んな種類のバスに乗った。ある日のことである。秋田の友人の所に行き、東京に夜行バスで帰っていた。乗車してしばらくするとバスは高速に乗り、消灯の時間となった。それに合わせ、多くの人たちが席を倒し、眠りにつく。この時のバスは3列シートで広く、“当たり”だった。幸いイビキをする人もなく、僕も安心して眠りについた。
 「………」。それからどれくらい経っただろうか。耳元で何か聞こえる。「すいませんけど…」。無視して眠る僕。「すいませんけど…」。「ん…?(俺か?)」。バスの中は薄暗い。光は、微かにカーテンの隙間からチラチラと射す高速の外灯のみ。そんな中、「すいませんけど…」と声のする方を見る僕。何とそこに、正座をして、ちょこんと座る小さなばあちゃんが。「うお!出た!」。内心、僕はビビった。でもよく見ると、リアルばあちゃんだ。幽霊じゃない。僕の座席の後ろに、友人が座っていたが、彼も起きて、僕とばあちゃんのやり取りを見ていたから間違いない。
 「すいませんけど…」。どうもばあちゃん、消灯をし、皆が座席を倒す中、倒し方が分からなかったようだ。そうとは知らずに、横で豪快に倒し、気持ちよさそうに寝ている若者が羨ましかったのだろう。「ワタシモソレシタイ…」。そこで意を決して、声をかけてきたのだ。「すいませんけど…」。今思えば、僕以外にもたくさん声かけれる人はいたはずだ。しかしどういう訳か、僕に声をかけてきたばあちゃん。「こいつなら文句言わずに教えてくれそうだ」と思ったのだろうか。寝ている所を起こされたので、若干イラッとしたが、そこはばあちゃん。こっちも丁寧にお教えした。「ここを押すと倒れるんですよ」と。それでもうまくできないばあちゃん。レバーを押しながら、背中で押さないと座席は倒れない。座席を押すパワー不足なのだ。そこで僕が身を乗り出し、手で押して座席を倒す。ようやく、ばあちゃんは満足して、眠りについた。だがおかげでこっちは、すっかり目が覚めてしまった・・・。
 聖書の中で、預言者エリヤに神様が語りかけるシーンがある。その時、様々な自然現象が起きるのだが、そういった派手な出来事に、エリヤは「今か今か」とドキドキしながら待ち構える。「主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中には主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。…『エリヤよ、ここで何をしているのか』」(列王記上191113)。
 どうも神様の声は、ウィスパーボイスらしい。あのばあちゃんのように。油断すると聞きもらしてしまうくらいに小さい。それを聞くことは、騒がしさの中に身を置く私たちにとって、ある意味で最も難しい注文なのかもしれない。携帯にイヤホン、簡単に自分だけの世界を作れる時代。無視しようと思えば、簡単に無視できてしまう。神様も、もっとデカい声で、皆が分かるように語ってくれたらいいのに、と思う。でも、神様はあえてそうはしない。
 私たちは、手を止めることを極端に恐がる。何かをしていないと気がすまない。静かでいることに耐えられないのである。なぜか。動く中でしか自分の存在を感じられないから。何かをしている自分に価値があって、何もしていない自分には価値がないと刷り込まれているから。静まると、それを突き付けられるようで恐ろしいのだ。でも、そこでこそ、私たちは神様と出会うのだと思う。何もしない自分、いや何もできない自分。そこで神様は言うのだ。「そのあんたに価値がある」と。
 「すいませんけど」ばあちゃんは、東京駅に着くと、ペコリと一礼をして去って行った。あの夜、僕は強制的に静けさの中に置かれた。でも、そこでばあちゃんの声を聞くことができた。クリスチャンがなぜ日曜日の朝に教会に来るのか、何だか分かるような気がする。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩46:10)。静かにならないと聞けない言葉というものがある。それを聞かないというのは、実にもったいない。

 
 

あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。(マタイによる福音書6章21節)
 
 アメリカでは、子どもたちが自分専用のブランケット(ひざ掛け?のような布orタオル生地のもの。以後「ブランケ」)を持っているらしい。女の子が好きそうな可愛らしい柄から、男の子が好きそうな自動車なんかがプリントされたものまで、その種類も多い。どういうわけか、上山家でもブランケの文化が採用されていた。きっとアメリカかぶれの母の影響だろう。二人の姉と、僕、それぞれのマイブランケがあった。
 ブランケは肌身離さず、常に持ち歩くものだから、当然、汚れたりもする。でも、決して洗ってほしくはない。なぜなら自分のニオイが染みついているから。母は「汚い」と言って洗おうとする。必死で抵抗する僕。そんな攻防が繰り広げられる中、気づけば姉たちは、早々にブランケを卒業していた。それでも僕は、ブランケに夢中だった。ブランケを介してじゃないと呼吸できないんじゃないかというくらい、常にブランケが鼻と口の前にあった。もう好き過ぎて、普段のブランケだと大きいので、それを小さく切って携帯用のブランケを母に作ってもらう始末。ブランケのフィルターを通して呼吸をしていた。周りの大人たちは奇妙がる。そりゃそうだ。周りから見れば、ただの汚いボロ布だ。でも、僕にとっては最高のニオイのする唯一無二の相棒。 
 ある時、ばあちゃんが、そんなブランケ中毒な僕を見かねて、ブランケ卒業計画を立てた。孫が人目を気にせず、狂ったようにブランケをしゃぶる姿を見て、さすがにヤバいと思ったのだろう。ばあちゃんの作戦はこうだ。当時、僕が大好きだったファイブマンの合体ロボを買う。その代わりに、ブランケをばあちゃんに差し出す。何とも卑劣な交換条件である。まったく痛い所をついてくる。今考えれば、ばあちゃん、なかなかの策士だ。僕は苦渋の決断を強いられることとなる。小学校に入る前の少年には、何とも酷な話だ。結果は、ばあちゃんの勝ち。僕は合体ロボを前に、屈してしまった。ブランケを売ってしまったのだ…。ブランケ、ごめん…。
 イエス様は言う。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」(マタイ6:21)。僕がどれだけ「ブランケが大切だ」と言っても、結局その程度だ。物(合体ロボ)になびいてしまう。資本の力には勝てない。イエス様も、よく言ったものだ。どんな綺麗ごとを言っても、「富(お金)」を前に、私たちは、その本性が暴かれてしまう。そう言えば、弟子たちも売ったんだよな、イエス様を。銀貨で。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」。どれだけ格好つけても、それっぽい理由を並べても、結果を見れば明らかだ。その人が、何を第一にしているか、何に重きをおいているかが。

 
 

すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。(マルコによる福音書7章18-19節)
 
 子どもは「うんこ」というワードが大好きだ。僕は一応、大人だが、未だに「うんこ」というワードを聞くとニヤリとする。子どもではないが、現役バリバリで好きなままだ。僕が小学生の頃に「うんこ漢字ドリル」(文響社)があったら、さぞ勉強が楽しくなっていただろうに。今の子どもたちが羨ましい。
 聖書は、一見すると難しい。取っつきにくい所がある。なかなか普通に読んでいて「面白い」とはならない。だから教会に来ている青年たちと読む時は、彼らの関心のある事柄をひたすら引きまくる。「聖書にこんなことも書いているんだ!」という驚きと、興味を持ってもらう為に、こっちも必死だ。
 とある正統?を自負する人から「聖書は神の言葉なのだから、軽々しく扱ってはいけない。もっと畏れを持つように」そう指摘を受けたことがある。別にこっちだってふざけているわけではない。そもそも「神の言葉」として祭り上げることを、聖書自体が望んでいるのだろうか…。これは深くて、格調高く、そして有り難い言葉なのだから、無条件で畏れをもって跪くべきだ、そのことを読む人に求めているのだろうか…。僕はそうは思わない。それは結果としてそうなるのであって、入りは何だって良いと思う。何よりも神の言葉はわざわざ降ってきたのだ、私たちの日常に。お高くとまったものじゃない。
 僕は最初、ひたすら面白いワード、関心のあるテーマを探す読み方をした。じゃないと飽き性の僕はすぐに飽きてしまうから。でもそれが案外、血となり肉となり、身につくのだ。その点、今回の聖書の言葉なんかは最高だ。イエス様が僕の大好きな「うんこ」の話をしている。そんなお下品な話が聖書に出てくるのか?びっくりする方がおられるかもしれないが、事実出てくるのだ。
 昔、ユダヤの人たちの間では「人は食べ物によって汚れる」と信じられていた。だから「汚れている」とされる動物、例えば豚なんかは食べなかった。食べると、その汚れが自分に移ってしまうと考えていたから。だから食べ物を口にする時、細心の注意を払っていた。でもイエス様は言う。「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される」。要はこうだ。「何食おうが、全部一緒だ。それらはうんこになって出て行く。別にそれで汚れるなんてことはない」。「そんな食べ物を気にする前に、お前の心の方をまず心配しろ。そっちの方が汚れの方が、よっぽど酷いじゃないか」。
 おっしゃる通り。自分の汚さを、食べ物のせいに、周りのせいにする私たち。「いやいや、それ以前に、お前自身が汚い。根っから汚れている」ズバリと指摘するイエス様。しかし、そんな汚れた私たちを、忌み嫌わず退けないのがイエス様の器のデカいところ。この御方は、私たちを汚れ(罪)込みで受け入れてくださる。「後は任せとけ!」そう言って、十字架に向かってくださったのだ。親分感がハンパじゃない。そこまで面倒を見てくれるのだから、こっちも安心して、その後について行ける。
 
 
 
 
 

エリシャはそこからベテルに上った。彼が道を上って行くと、町から小さい子供たちが出て来て彼を嘲り、「はげ頭、上って行け。はげ頭、上って行け」と言った。(列王記上2章23節)
 
 誰にでも「そこはイジってくれるな」という所がある。例えばエリシャは、頭を気にしていた。どうも毛がなかったらしい。しかし子どもたちは容赦がない。これでもかというくらいにイジリ倒す。「や~い、はげ頭!」(列王記上223節)。エリシャはエリシャで、よほど気にしていたのだろう。子どもたちに対して、大人げなく本気でキレる。でも分かるような気がする。本当に気にしている部分は、冗談でも触れてほしくないものだ。パウロもまた伝説によると「小柄で頭がはげ、足はまがっていた」(新約聖書外典『パウロ行伝』)らしい。だからだろうか。人々からは「手紙では重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(Ⅱコリント1010節)。そんな陰口を叩かれていた。
 自分ではどうしようもない部分というものがある。身体のこと、また生まれや育ちのこと、本当にどうしようもない。パウロも必死で祈った。「このトゲ(コンプレックス)を取り去ってください」(Ⅱコリント128節)と。そのトゲが具体的に何を指していたのか、よく分からない。しかしブスリとトゲが刺さっていて、それが抜けなかったらしい。「お願いだから抜いてほしい…」。でも神様の答えは「NO」だった。彼はそれでも諦めきれずに「三度」願ったというのだから、よほど痛かった(嫌だった)のだと思う。神様からの「NO」を受け入れるのに時間がかかったのは容易に想像がつく。
 しかしパウロは、ある時「ハッ」と気がついた。自分はコンプレックスによって生かされていたということに。劣っていると思う部分、人には隠しておきたい部分、実はそれが自分を根底から支えている。自分を形作っている。そのことに目が開かれたのである。彼は「トゲ」を通して、謙遜を、忍耐を、感謝を学んだ。以降、パウロが人々の前に立って話をする時、自虐ネタ(ハゲネタ)を解禁したのか、それは定かではない。しかしエリシャのように子どもにイジられて、本気でキレることはなかったと思う。
 「トゲ」さえなければ、もっと自信を持てるのに。世界が変わるのに。あと少し鼻が、背が高ければ。目が大きければ。頭が良ければ…。そんな際限のない私たちに向かって神様は言う「わたしの恵みはあなたに十分である」。ないもの数え上げるのは得意な私たち。しかし神様は「あるものを数え上げてみなさい。ほら、以外と良い物あるでしょ。お前もまだまだ捨てたもんじゃないよ」そう語りかける。

 

ペトロは外に出てついていったが、天使のしていることが現実のこととは思わなかった。幻を見ているのだと思った。(使徒言行録12章9節)
 
 夢の中の夢の話。昔、寝小便をよくした。今だから言うが、小5くらいまでしていた。というか起きていても、よく漏らした。学校最後の「帰りの会」で「起立、礼」でもう終わるその時に、起立して漏らしたことや、運動会で準備体操の時に漏らしたこともある(その時は、グランドの砂をかけて誤魔化した)。いずれにしても漏らしの常習犯だった僕は、いつも保健室にパンツを借りに行っていた。夜なんかひどいものだ。「今日こそは」そう決心して眠る。しかし気がつけば、いつも布団には見事な世界地図が描かれていた。おかしい…。夜、ちゃんと起きてトイレに行っているのだ。しかし、それがすでに夢の中なのである。僕はそれを「夢の罠」と呼ぶ。あくまでも夢の中でトイレに行っていただけなのだ。そんなことを何回も繰り返していると、こっちも学習しだす。夜、トイレに行っている自分を疑うのである。顔を何度もひっぱたき、トイレの便座に触れ、ちゃんと確認をして、「よし!今度こそは現実だ。本当だ」そうやって安心して小便をする。が、それすらも罠なのだ。夢の中で寝たり起きたり、更に夢を見たり。夢が何層にもなっている。「インセプション」という映画があるが、正にそれ状態。「夢であってくれ」と思うことが現実で、「現実であってくれ」と思うことが夢で。もうここまで来ると、訳が分からなくなる。色んな意味で夢破れ、そっと布団を裏返し、濡れていない側で眠ることが、どれだけあったことか・・・。
 聖書にペトロという人が出て来る。彼が牢屋に捕まっていた時、天使が助けに来るということがあった。最初、彼は夢の中の出来事だと思っていた。「まさか、さすがにこの状況で助け出されるなんてあり得ない。いくら神様が凄いといっても、これは現実的ではない。無理だ」と。こいつも散々「夢の罠」に惑わされながら、期待をしては裏切られ、ということを繰り返しながら生きて来たのだろう。似た臭い(アンモニア臭)がする。しかし、いつもと違っていたのは、それは夢ではなく本当の事だったということ。聖書が言う「救い」というのは、頭の中だけ話(夢物語)なんかではない。実際に深く根差したものである。それは「まさか」と疑ってしまうくらいに驚くべき仕方で、夢のようなタイミングで起きる。私にも、あなたにも。
「たとえ、遅くなっても、待っておれ、それは必ず来る」(ハバクク書2章3節)
 
 

二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。(申命記19章15節)
 
 病院にお見舞いに行った時の話。先輩牧師二人と、とある病院に行った。8階だったか、9階だったか。見舞いが終わり、エレベーターを待つ。ところがエレベーターがもうすでにいっぱいだった。また待つのもあれなので、少し無理をして入った。しかし定員オーバーのブザーも鳴らなかったので、そのまま1階までエレベーターは降りていく。「チーン」。1階に着き、ドアが開く。するとその時、エレベーターのアナウンスがこう言った。「乗り過ぎでした」。
 
 「えっ!?」。乗っていた多くの人が顔を見合す。僕も、聞き間違いかなと思い、先輩牧師に確認をする。「今、こいつ『乗り過ぎでした』って言いませんでした?」。すると「確かにそう言った」と言うのである。もうツッコみ所が多過ぎて、どこから攻めていけばいいのか…。そもそも、乗り過ぎなら最初に言えや。その前に、ブザー鳴れや。1階まで無理して頑張ったんかい。事後報告って…。賢いんかアホなんかよう分からんエレベーター。この話、教会の若者たちにすると信じてもらえない。「またまた」とあしらわれる。でも、その時一緒にいた先輩牧師の名前を出すと、「本当の話なんですね」とちゃんと聞いてくれる。僕の話は一体…。 

群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。(マルコによる福音書10章1節)
 
 いつも誕生日になると、両親が電話をかけてくる。いつも電話に出ると「ハッピーバースディー」と歌が始まる。いつも「ハッピーバースディトゥー」「ユー」(母)「ユー」(父)とハモって終わる。いつも恥ずかしい思いをする。そんな誕生日の電話。最初は嫌だったが、こうも毎年続くと、いつもの恒例行事と化してきて、それがないと何だかしっくりこない。恥ずかしいのに、嫌なはずなのに、どこかで待っている自分がいる。 
 私たちはマンネリ化を嫌う。何でもすぐに飽きる。目新しいものに流れていく。商品のライフサイクルはどんどんと短くなる一方だ。でもそんな時代だからこそ、いつもの定番があると安心する。「そうそうこれこれ」「この味」「この色・形」「この安定のダサさ」。時代に迎合することなく、己の道をゆく、そういった高倉健並みの不器用なものに惹かれるのだ。
 聖書の一節に「群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた」とある。「また」ということは、以前にも集まっていた人たちが、懲りずにやって来たということだろう。その人たちを前に、イエス様はいつもの話をする。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。群衆はそれを聞きに「また」やって来る。おかしな光景だ。でも、そのいつもの話を聞いて安心したんだと思う。なぜなら普段、それとは逆のことを、人々は刷り込まれるように聞かされていたからである。「お前は神様から見捨てられている」「お前の人生は終わりだ」「お前みたいな人間は、神様はお呼びではないし、神の国の一員にふさわしくない」。
 でもイエス様は言う。「いや、お前こそ神の国に招かれているんだ。お前を招くために私は来たんだ。お前は終わってなんかいないし、神様も見捨てていない」と。少々乱暴で、強引な言い方だが、人々の心にはそれが染み入ったことだろう。「神様はあなたを愛している」こんなベタな話、こんないつもの話が端へ追いやられ、掻き消されるような中、教会はそれを約2000年間、語り続けてきた。いつものやつ、ご用意しております。
 
 
 

わたしは福音を恥としない。(ローマの信徒への手紙1章16節)
 
 私の父親は牧師だ。小さな頃はそれが嫌で嫌で、子どもながらに恥ずかしかった。変な目で見られるんじゃないか、そんな引け目のような思いがあった。そんな中、学校の授業で親の仕事を発表する時間があった。周りの友達は、まぁ私が憧れるような仕事を次々と言っていく。そんな中、皆の前で「牧師です」と言うのは気が引ける。かといって嘘をつくわけにもいかない。「どうしよう」。当時、家は教会から頂く謝儀(一般的には給料)だけでは食っていけなかった。そこで父親は新聞配達のアルバイトをしていた。だからといって「新聞配達です」というのも恥ずかしい。本当に困ったのを覚えている。追い詰められたその時、私は閃いた。スクッと立ち上がり、堂々と胸を張って言う。「僕の親父はメディア関係の仕事です!」と。「メディア関係」。何と洗練された、カッコいい響きの言葉なのだろう。牧師を伏せつつ、嘘も言っていない。新聞配達という正にメディアの最前線。完璧だ。
 イエス・キリストのことを宣べ伝える働きをしていた使徒パウロは言う。「わたしは福音を恥としない」。きっと周りにたくさんいたのだろう。自分がクリスチャンであることを、信仰を持っていることを恥ずかしがる人たちが。隠す人たちが。私が父親の職業を恥ずかしく思ったように。言いにくい空気が覆っていたのだと思う。でもパウロは、そんな空気などおかまいなしだ。空気をあえて読まない。「わたしは福音を恥としない。何か文句あっか!」と言わんばかりのストロングスタイルだ。でも彼は、最初からそうだったわけではない。パウロは結構、気にしいだ。「噂されているんじゃないか」とビクビクしている様子が、聖書にはちゃんと残っている。そんな彼が、どうしてこうもはっきり、そして堂々と皆の前で言い切れるようになったか。空気の重圧に勝てたのか。神様の前で弱さを認めたからだ。神様の前で格好つけるのを止めたからだ。変なプライドを捨てたからだ。不思議なもので、色んなものを捨てれば、人は無敵モードになる。信仰一本、神様一本に絞ったパウロは、この時、無敵モードになった。
 「財宝を多く持って恐怖のうちにあるよりは、乏しくても主を畏れる方がよい」(箴言15:16)
 
 

小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。(マタイによる福音書18章4節)
 
 ついに我が家にルンバがやって来た。出かける時にボタンを押す。「タラ~ララ~♪」「ヴィーーーン」。勢いよくゴミ吸いの旅に出かけるルンバ。「後は頼むぞ!」とドアを閉める主人。うちのルンバはなかなか優秀だ。掃除が終わると、ちゃんと自分で充電器まで戻って来る。しかしある時、私は見てしまった。充電器の手前で力尽きている奴の姿を。目の前のゴミを吸い込むのに必死になる余り、帰りの分の余力まで使ってしまったのか。あるいは遠出し過ぎて訳が分からなくなり、帰れなくなったのか。いずれにせよゴール(充電器)の目の前で止まっている姿は、何とも切ない。「ペース配分考えろや。機械のくせにアホやな・・・」。主人は呟く。その後も、ある時は電気コードを吸うだけ吸って絡まり止まっていたり、ソファーの下で力尽きていたりと、凡ミスを連発。最初に「優秀」と言ったが訂正。こいつは結構抜けている。その都度、仕方なしに主人が持ち上げて、充電器まで戻す。「やれやれ…」と思いながら。
 聖書の中に、 99匹の羊を残して、迷子になった 1匹を探しに行く飼い主の話が出てくる。ちゃんと戻るべき所に戻り、主人の手を煩わせない優秀な 99匹の羊。ところが、その中で 1匹やんちゃな奴がいる。自分勝手に動き回っていたのだろう。気づいた時には、自分では帰れなくなっている。そんな面倒な奴、私が主人なら早々に諦めて見捨てる。「まぁ 99匹いるからいいか」「(迷い出た)あいつは、いつも言うこと聞かんからもう知らん」と言って。普通ならそうする。がしかし、この主人は普通じゃない。 99匹を残して、 1匹を探しに行くのだ。ルンバを「やれやれ」と言って戻す主人(私)とは違い、迷子の羊を見つけたら喜んで元の場所に連れ帰る主人。そして嬉しさのあまりパーティをおっ始める。本当に大袈裟だ。しかしこれが聖書の言う神様の姿だ。神様は普通じゃない。普通じゃない位に、私たちのことを大切に思っている。
 

各自で、自分の行いを吟味してみなさい。(ガラテヤの信徒への手紙6章4節)
 
 レジで並ぶ。レジ係の人がせっせと商品をバーコードにかけていく。その間、僕はお金を払う準備をする。すると後ろのおばちゃんが詰め寄ってくる。「早う行け」と言わんばかりのプレッシャーをかけてくるのである。でもこっちだっておつりを待っているのである。僕がどうこうの問題ではない。レジ係の人の、もっと言えばおつりを計算する機械待ちなのだ。だからおばちゃんがいくら詰めたところで、僕にプレッシャーをかけたところで、それはまったく意味がない。精算が済まない限り、おばちゃんの番は来ないのだから。そんな時、僕はがんとして動かない。「おばちゃんよ、あんたが急いたところで、俺がおつり受け取らん限り、前へは進めないでっせ。そしてそのおつりは俺の頑張りでは早くならんぞ。プレッシャーかけるならレジ係の人、店の機械でっせ・・・」。
 
 「忍耐によって英知は加わる。短気な者はますます無知になる」(箴言14:29) 
 

今や、わたしたちはキリストの血によって義とされているのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。(ローマの信徒への手紙5章9節)
 
 僕が小学一年生の時の担任と、母親が街でばったり会った時の話。「上山君のこと覚えてますよ」と母に声をかけてきた先生。こんなことが授業であったそうだ。「人間の中で一番汚い所はどこか」ということを皆で考える時間、先生が一人ひとりに聞いていく。「鼻の穴」「お尻」「チコ」等々。まぁ小学一年生が言う事だ。先生も想定内。先生は「足の裏(ばい菌が多いから)」という答えを用意していたそうだ。しかし答えがなかなか出ない。そこでさらに質問する先生。「じゃあ上山君はどこが一番汚いと思う?」。しばらく考えた少年上山はボソリと答える。「心」。まったく予想外の回答。その出来事を、先生は十何年経っても覚えていたのだ。当の本人は、すっかり忘れてしまっている。しかし今、改めてその回答が、大人になった今の私に響く。「心」。
 聖書は言う。「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」(創世記8:21)。ちょっとでもマシだと思っていた自分が恥ずかしい。「あぁ確かに悪いわな」。自分がそれを一番分かっているはずなのに、どこかで言い訳をしたり、隠したり、気づかないふりをしたりと悪あがき。でも神様は見抜いている。そしてズバリ、お前は「白く塗った墓だ」(使徒言行録23:3)と。外側は小奇麗にしているけど、中身は死臭で満ちている。それが私だ。
 聖書は、やたらと「罪、罪、罪」と攻め立ててくる。そればっかり拾い上げていくと、読んでいて苦しくなる。裁かれているような、「だからお前は駄目なんだ」と言われているように思えて、どうも気分が重くなる。読む気が失せる。でもそれと同じくらいに、いやそれ以上に、たくさんの恵み、喜び、祝福が書かれている。まるで罪を打ち消すかのように、それらの言葉が出て来る。聖書は、イエス・キリストの十字架によって罪が赦されたことを告げる。その出来事を「福音」と呼ぶ。だから本来、徹底して明るい書物なのだ。「あなたの罪は赦される!」この前提でもって書かれている。汚い心も何もかも、イエス・キリストが十字架の血でもって洗ってくれたのだ。だからもうただの汚い心なんかではない。神様の前では既に洗浄済みなのだ。どんなに汚くても、十字架の血で落ちない汚れはない。
 
 
 

夕べがあり、朝があった。(創世記1章5節)
 
 「初めに、神は天地を創造された」(1節)。聖書は、この言葉から始まる。主語は「神」。他の誰でもない神が、何もないところから、その御力によって天地を創られた。理由は分からない。ただ言えることは、神がそう望まれたということと、それらは「良かった」ということ。すべての始まり、すべての根拠は神にある。聖書はそう言って始まる。
 この創世記第1章が書き記されたのは、ユダ王国が滅亡して国土が失われた時代であったと言われている。信仰の拠り所であった神殿は破壊され、国の主だった人々は皆バビロンに連れ去られた、そんな暗い時代。住む場所を失い、家族を失い、生きる望みを失った状態。正に「地は混沌であって、闇が深淵の面に」(2節)あるような世界が、そこには横たわっていた。しかし、そんな中にあって「神の霊が水の面を動いていた」(2節)という。
 そして神は言われる「光あれ」(3節)。これによって初めて、光と闇とが分けられることに。「神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた」(45節)。ここで「分ける」、それに「名前をつけて呼ぶ」というのは、「支配する」「秩序を与える」ということらしい。それまでは、ただ「闇」しかなかった。しかしそこに「光」が登場する。それによって闇が絶対ではなくなるのである。闇もまた秩序の中に入れられる。
 ここで興味深いことは「夕べがあり、朝があった」(5節)という記述。「夕べがあり、朝があった」。私たちは普通、逆だ。朝があって夕べがある。そのように一日を考える。そしてそれが、そのまま自分の人生にも当てはまる、と。私たちは日が暮れるように死んでいく。それで人生は終わりだ。誰もがそう考える。しかし神が創られたこの世界は違う。「夕べがあり、朝があった」なのだ。夕べから夜を貫いて、朝へと向かって行く。
 私たちの住む世界。見渡しますと、そこは混沌が支配しているかのような、秩序のない世界。しかしそれでも「夕べがあり、朝が」ある。そのことを神は、物分りの悪い私たちのために、イエス・キリストの復活という仕方でもって、はっきりとお示しになられた。十字架につけられ死にて葬られたのが、ちょうど夕。しかし朝があった。イエス・キリストは復活されたのだ。それと同じ命を、キリスト者はもう既に生き始めている。このままで終わりのはずがない。